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ヒマワリの花の運命

我が家の庭に、今、ヒマワリが咲いている。
種をまいて咲かせたわけではない。野鳥への餌として、ヒマワリの種を置いているのだが、冬から春へと、たくさんの野鳥がきて(主として雀(カラ)類だが)、一粒ずつ加えて去る。
カラを割って、中の実を食べるのだが、必ずしも成功せず、下に落ちてしまうことが多いようだ。
どうも贅沢な育ちをしているのか、下に落ちるともう食べない(ようだ)。

そして春から夏にむかうと、そのこぼれ種が芽を出す(必ずではない)
家のまわりのいろんな場所に芽がでてくる。多いのはガレージの下だが、ここは草刈のとき、刈られてしまった。
ここにも、あっちにも、と双芽が出ると、それがヒマワリであることはすぐにわかる。

草刈の人が刈り取ってしまうこともあるが、私自身は雑草扱いはしない。ただ成長を見守っていく。
しかし、種が落ちた、落とされたというべきか、その場所によって、ヒマワリの運命は決まってしまう。
渡辺和子さんの言われた「置かれた場所で咲きなさい」ではないが、だんだん成長するにしたがって、その種、つまりはヒマワリの運命が見えている。

双葉あたりまではあまり差はできないが、そのあとだ。
花が咲き始めて、その格差がはっきりした。
一番の好位置なのは、バラの根本に出たヒマワリだ。バラには特別肥沃な土を与えている。その恩恵に浴して、伸びる、伸びる、2メーターほどになった。
次に恵まれているのは、花壇として土にも一応気を使っている場所に落ちた種である。

最悪な種は、芽もだせなかっただろう。芽を出しても、双葉で終わることもあるし、伸びてもひょろひょろ、途中で挫折する芽もある。
道路から玄関への12段の階段は、石を組み立てたものだが、その隙間から出た芽もあった。いじらしくて、上り下りをするたびに、頑張ってね、と声をかける。
花は可憐なものだったが、咲いた。横に倒れたまま、花は上を向いている。

「置かれた場所で咲きなさい」、それはそうだが、なんだかかわいそうになる。
渡辺和子氏は、人間のことを言っているのだが、それをヒマワリにあてて考える。
鳥に食べられず、土の上に落ちたのは、生き残りのチャンスを与えられたと考えられるけれど、硬い土の上では芽吹かない。それかといって種に土を選ぶことはできない。

ああ、人間もそうなんだ。置かれた場所とはいうけれど、必ず避ける場所にいるとはかぎらないのですが、と渡辺氏に言いたい気分だ。

ヒマワリは昔から好きだった。小さいとき、庭にヒマワリが咲いていた。丈は私より高く、花は私の顔より大きかった。ヒマワリの花と私自身を比べたような写真を、家族がとってくれて、それが長く残っていた。

先日はウクライナのヒマワリ畑が写っていた。一面のヒマワリ、これは偶然の産物ではなく、種をまかれ、農産物として利用されるためのヒマワリだ。
ソフィア・ローレンが主演した映画「ひまわり」、背の高かった彼女より、もっと高いひまわりの中を愛する人に裏切られた悲しみの中で、ひたすら歩く彼女。

太陽を象徴するような明るい花のはずだが、この映画ではそうではなかった。

ヒマワリも花の盛りはきれいだが、枯れると醜い。
南仏で、ヒマワリ畑をみたときがそうであった。南仏、ひまわり、とくればゴッホと答えが返ってきそうだが、そんな風景を期待してアルル近くをドライブしていたが、もうすでに枯れていた。
ヒマワリ油をとるために、花のさかりで刈り取ることはない。ヒマワリの気持ちに反するかもしれないが、とことん枯れるまで残されているのだろう。

我が家はそうしない。好位置に咲いたヒマワリであろうと、枯れ始めたらきっと切ってしまう。
油の取り方を知っていて、その油を利用できるのなら、頑張ってやってみるのだが。

刈り取られて、そこでヒマワリは平等になる。
来年はみんないい場所で出られるといいわね、と思うが、それは鳥次第だ。
夏場、鳥はこない。鳥がきはじめるとそれは秋の到来だ。

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サル痘

なんという単純な名づけ方だろう。
でもさるをサルとカタカナにし、痘という感じを出さなければならない。
誰がこんな名前を付けたのか。それはWHO(OMS)なのだろうが・

たとえば、昔はやった伝染病を「スペイン風邪」と名付け、いまでもその名づけ方が本来はアメリカ風邪とつけるべきだったのに、といわれることで、やたらと国名をつけたり、人名をつけるとよくない、と思った結果なのだろう。
でも、サルはきっと、猿とつけられたことに文句をいいたかろう。

フランス語であればvariole du singe、英語ならばMonkeypox、実に見事にサル痘とつけたものだ。
2022年5月、コンゴ民主共和国で初見されたのだとか。コンゴ痘とつけられなくてよかった。

日本では7月26日に最初の発生が確認されたという。
厚労省の発表では、ヒトからヒトへの感染は容易に起きない。感染した人や動物の皮膚の病変、体液や血液との接触が中心で、患者と長時間、近距離で対面することで飛沫感染もある、という感染ルートが示された。

どこの発表かで、その体液は血液との接触が感染の原因となりうる、という説明に付け加えて、同性愛者の接触などのケースが挙げられていた。
なんだ、これは?と既知感がでてくる。まるでエイズの時の説明と一緒じゃないか、と。
あの時も、こんな説明で、まるで同性愛者が病原であるみたいな誤解が生じたではないか、と思う。
ところが、これは日本で言い出したのではなく、WHOのテドロス・アダノム事務局長が口にしていた。彼はタオルを使いまわさない、というような注意もしていたけれど。

過激な反応が見られないので一安心したけれど、何か不安な感じもする。

なんでこういった病気が発生するのはアフリカだろう。
もういやというほどの病気発生をみているのに。エイズもそうだし、エボラ熱、マルブルグ熱、眠り病、アフリカの自然がそうさせるのだろうか?

インフルエンザは寒い季節の流行病なので、アフリカが発生源ではないはずだ。
コロナはおそらくアフリカではないようだが、この変型株などは、南アフリカやインドなどで出現している。

サルはサルでも、わが村のサルはまだ農作物以外は無害な存在であってほしい。

サル痘はすでに治療薬はあるようだが、あのエイズの騒ぎのようなことになってはならない。



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心臓CTを受けて(続)

昨日、心臓CTを受けた。
夕方に帰宅、昼を抜いたので、ちょっとその補充というので、菓子パン1個を牛乳で食べる。食べなくてもすむ程度だったし、すぐに夕食タイムになってしまった。
夕食を食べるかどうか、迷うところだ。空腹感はない。しかし、夜遅く空腹感にさいなまれるのもいやだ。
友人が手作りのケーキ(パウンドケーキ風)とひじきの煮物を差し入れてくださった。
夕食は、冷凍していたお茶碗1杯分のごはん、ポテトサラダ、友人手作りひじき(具がいろいろ)、それに最後は昆布のブブ漬けか、梅干しだ。
大変、満足のいく夕食であった。

そして今日だ。
なんだかふらつく。
軽井沢へ買い物に出かけることも考えていたが、大事をとって、コンビニに新聞を買いにいくだけにとどめる。

家の中ではやるべき家事がたまっているけれど、帰宅して気持ちが緩んだとたん、もう立っていたくない。
すぐにソファーに横になる。買ってきた新聞を読む。朝から新聞が読めるなんて、年に2,3回だ。

ところがその状態が結局はまだ続いている。
そして体のいたるところのかゆみ、今年は虫にさされることも少ないのに、と虫さされの箇所を探すが、それはすでに処置すみのものしかない。
これまでの疲れがまとめて出たのか、とぐーたらを続ける。
そして間抜けな自分に気づいた。昨日の心臓CTを受けたとき、ヨード造影剤について、という注意書きをいただいていた。
副作用の項目があったのだ。

副作用例
1)軽い副作用:吐き気、動悸、頭痛、かゆみ、発心などで、基本的に治療を必要としないものです。
        このような副作用の起こる確率は100人に5人以下つまり5%以下です。
2)思い副作用:呼吸困難、急激な血圧低下、意識消失などです。このような副作用は治療を必要とす
        るもので、入院や手術が必要となることもあります。このような副作用の起こる確率
        は約1000人に1人、つまり役0,1%です。
3)死亡:非常にまれですが、病状や体質により約10万人~20万人に一人の割合(0.0005%~0.001%で死亡する場合もあります。
4)遅発性副作用:多くは頭痛や悪心、発心、かゆみなどで一般的に治療は必要としないものです。
とある。

つまり私の場合は4例目の遅発性副作用なのだ。
治療は必要としない、ということは、時間をおけば消えていくというのだろう。
しかし、そうしてみると、肌のほとんどに、赤い発心が出ている。そしてかゆい。

昨日の現象も副作用だったのだろうか。
入浴後、いつまでたっても汗がひかない。綿のパジャマに着替えていたけれど、吸収してくれるより、汗の量が多すぎて、中にバスタオルを押し込むけれど、間に合わない。
あの発刊もそうだったのだ。

ヨード造影剤がどんなものか、化学者でも薬剤師でもないので、まったくの知識がないのだが、昨日の注射時、こんな注意もあった。
体が熱くなることがありますが、造影剤による直接の刺激による正常な反応です、という注意だ。
まさしく、熱湯につけられているように、体がかっと熱くなっていった。特に下半身だ。
あ、しまった、おもらししてしまった、と思った。トイレには検査にはいる直前にすませていたはずなのに。年齢からおもらしもあるのかもしれない、お医者さま、あるいは検査技師にしても医療従事者だから、恥とは思わず、正直に言おう、とそのことを告げる。
上は病院からの服だが、下は自分の服だ。外にも見えるかな?と心配になった・
いえいえ、それはないですよ。体が温かくなったから、そんな感じがしただけです、大丈夫です。

無事だった。

そんなことも思い出しながら、検査結果はいかに?と気になっている。
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心臓CT(冠動脈CT)を受ける

今日の午後、心臓CTを受けた。初めてのことだ。
そんなにたびたび受ける検査ではない。
これまでにも検査をいくつか受けたことはある。MRTとか、レントゲン、エコーなど、だが、今回の検査は進行の説明や、していいこと、してはならないこと(昼食をとらない)などの説明もある。

丁寧な説明もうけ、注意書きもいただき、再読もした。それでも頭のなかにはあまりはいっていない。

血圧をはかる。いらずのことを言う。「今朝、はかったときはこれこれの数字でした」、看護師はやさしい。いい数値ですね、現在値をとりますからね、と至極ごもっともなことだ。

点滴、初めてだ。採血などはしょっちゅうだが、点滴といのはしたことがない。緊張して待っていると、いつもテレビなどでみる大きなボトルではなく、小さな袋にはいった液袋の点滴だ。ちょっと予想とは違う。

いくつかの手順を終え、検査室に移る。
いやー、大きな装置だ。半円形のトンネルに入るようだ。
そのしたの細長いベッドに横たわる。
両手をバンザイスタイルであげる。器具に括りつけられたような、フリーのままのような。

スプレー薬を舌下に入れて、造影剤を使ってCTを撮ります。というスプレー薬が造影剤なのだろう。
刺激的な薬だ。

息止めの練習もある。息をとめるのに、思いきって深く息を吸ってというのではなく、普通に呼吸をしているその時に”はい、息をとめて”と声がかかる。”はい、楽にしてください”と言われるまで止めておく。
はい、ちょっと長く止めていただきます。だいたい20秒くらいです、という。
20秒というのはどのくらいの長さだっただろう。
一度、スパイ映画を見ていた時、満水のところを潜って逃げるとき、ヒーローがヒロインにいう。2分の辛抱だから、と。ヒロインはためらうが、僕が一緒だから、というヒーローに励まされて、無事に2分の無呼吸を成し遂げるのだ。
その映画を見たとき、2分なんてたいしたことはないのだ、と思った。
しかし、今、そんなヒーローはそばにいない。一人で20秒、2分の6分の1だ。できるだろう。

はい、とめて、とあっさり言われて止めたはいいが、最初から苦しい。秒を数えそこなった。機械が振動しているが、秒速より遅いのかな?なかなか10までも到達しない。息をしたい、声を出すなら息をしてしまう。どこまで我慢すればいいのよ、ああ、私の心臓は爆破寸前、呼吸ができなくて死ぬのなら、検査なんて受けるんじゃなかった!
 はい、楽にして、と言われ、ハーハー、もう呼吸ではない、なんというか、心臓は破裂寸前、収まらない。どのくらいハーハーが続いただろう。

 はい、これから本番の検査です。もう一度、長い呼吸止めがありますが、さきほどの長さほどではないから大丈夫ですね、大丈夫じゃない!と叫びたいが、俎上の鯉状態にある。検査機器にとらわれの身、神妙にうなずくだけだ。

はい、終わりました。終わりはあっさりしている。準備室に戻って、血圧を測り、点滴を抜いて、お着換えして、それで検査終了となります。

まだ呼吸困難の余韻のなかにあるのに、検査室を追い出される。
MRIでの脳の検査よりも、ガンガンの音が少なかったし、楽だったような気がするけれど、昼ご飯を抜いたこともあるのだろうか、疲労度がはんぱではない。

検査だけだから、本日は終わりだ。会計をすませれば無罪(?)放免。
有罪か無罪か、軽い執行猶予か、病気にそんな言葉はつかえないけれど、次の週に担当医の診察で、検査結果の診断が告げられるはずだ。とすれば執行猶予か。

この頃、時代小説を読んでいるが、江戸時代であれば、心の病、と言われるのだろう。

飲酒禁止のお達しもなかったが、とても飲む気分にはなれない。
昼を抜いたのに、緊張から空腹も覚えない。
迎えに来てあげるといってくれた友人に、大丈夫だからと電話をかけて、そろそろと運転して帰る。

周囲の反応は、半分は、歳だからね、みたいなものだ。そうなのだ、歳なのだ。

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小さな郷愁(1)洗濯

いつ降り出してもおかしくない、湿度77%もある日だけれど、2日おきの洗濯をする。
今日のメインはシーツだ。
私の洗濯は洗濯だけ。余計なことはしない、脱水はするけれど。
洗ったあとはベランダに干す。風がなければ、雨が降っても濡れることはないけれど、やっぱり室内に干しなおす。

普通だと、夕方乾いたあとに、洗濯済みのシーツを敷くまで、ベッドは乱れたままだ。枕カバーを外した枕、読書中の本、うちわ、いろんなものがベッドに散乱しているが、今日は、夕方までに乾く保証はなく、代わりのシーツ、枕カバーを使う。
そのシーツにはアイロンがかかっていた。というのも、やはり曇りの日に干して、すっきり乾かなかったので、アイロンをかけていたのだ。

パリッとしたシーツといいたいが、そんなにパリッとはしていない。糊をつけていないからだ。
いつからシーツに糊付けしなくなっただろう、とふと思った。
アイロンをかけ始めたのは、外国から帰って以来、これは外国で木綿類には必ずアイロンをかけることが習慣になっていたからだ。でも糊付けはしていなかった。

その昔、とつい年齢がいくと、昔を思い出す。
洗濯機もなく、アイロンもスチームアイロンではなかった時代、母は大人数の家族のシーツを何日おきに洗濯していたのだろう。記憶にあるのは、糊付けされ、天日に干され、ぱりぱりになったシーツを敷くときの気持ちよさだ。
残りごはんを数日ためてあり、それを木綿(さらし)のこし袋にいれ、少しの水にしぼりこむ。しっかり押さえて、のりの成分を絞り出す。

洗濯を今では労働とはしないようだ。亡くなったつれあいは、洗濯機がするだろう、と軽く言っていた。
とんでもない。洗濯はやっぱり労働だ。洗濯機にかけ、終わったものを、大きいもの、小物、形が複雑なもの、そうではないもの、いろいろ干すにも工夫がいる。
乾いたものを取り込んで、たたんでしまうのも一仕事だ。

そういえば、この頃は干すことをあまりしないようだ。
乾燥機能が洗濯機についていて、機械が止まれば乾燥まですんでいる、というようなのが普通になっているような電機メーカーのコマーシャルがテレビで見える。

パリに住む親族たちは、だいたい家事室に洗濯機が2台くらいある。そして、あわせてアイロン台がついている。
洗濯機がとまると、乾燥済となって、あとはアイロンをかけるもの、かけないものと分類し、たたんでしまう。
アイロンかけはだいたい、週に何回かくるお手伝いさんが担当する。
木綿ものはアイロンかけはマストだ。シーツといっても、あちらは上下のシーツがある。それにタオル類、下着類、その量たるや相当だ。

数年前に亡くなったフランスの両親の家は、昔風だった。ドライの機能のついてない洗濯機で、洗濯がすむと、台所にある干し装置に干す。それでも場所が足りないと、バスルームに干す。

外に干すというのは、地中海沿岸などはアパートメント住まいでも、堂々とそとに干し紐を張り巡らして洗濯ものがたなびいている、という風景が見られるけれど、もう都市部ではそれがない。

今回のウクライナ戦争から、ロシアの石油やガスの供給が得られれなくなり、石油、ガスを倹約する、という。冬場の需要増を考えて、今から対策を練っているというが、一般の人たちも、洗濯ものを干す、ということを考えているのだそうだ。
つまり、現在は干しで乾かすのではなく、乾燥機で乾かしている。

さあ、どこまで時代をさかのぼることになるのだろう。
庭やベランダに洗濯ものを干す、これは日本ではまだ当たり前の光景だ。

日本の天気予報では、お洗濯もの情報も言ってくれることがある。この情報、自分で判断できるわよ、と余計なものに考えていた。日本以外でみたことがない。
でもこれから、便利な情報のひとつになるのかもしれない。

今、この寒冷地でできる節電、節エネルギーを考えているが、日本の知恵をヨーロッパにも、と思いながら、エネルギーの消費がかくも増えてしまったことの罰なのか、と思ったありだ。
でも、母の時代には戻れない。
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なつかしや、若山牧水

7月21日のことである。朝日新聞の群馬版に「牧水、妻に宛てた旅先の心情」という横みだしで、水上町(みなかみ町まちづくり協議会)が最近出した「千日堂から牧水が眺めた・みなかみ」の紹介がされている記事があった・

「水上紀行」でもよく知られているように、牧水は群馬県の川や温泉を歩き廻っている。
群馬県にすみついて20年にもなろう、という私は、以前、牧水の創設した「創作」という歌の結社に属していたこともあった。
牧水は若くして亡くなったので、直接にあったことはないけれど、創作に入社したとき、牧水夫人の喜志子氏はまだご存命、歌会にも出席していらした。

まだ20代の新人というので、喜志子先生から声をかけられることもあったし、いろいろなことを教えていただいた。

また「みなかみ紀行」には、群馬の地名がいやというほど出てくるし、地誌学を学ぶような気持ちで読んだものだ。

みなかみ町牧水会が冊子を出版した、という記事、読みたい、と思った。
会の連絡先は記事にはない。朝日新聞の群馬支局に電話し、この記事を書いた記者に話す。
それならば、会の主催者の連絡先を、了解をとったうえでお教えしましょう、ということで、会の方とコンタクトをとることができた。

「みなかみ町牧水会」が発足したのは15年7月とのこと。この冊子は、町民や図書館などに無料配布されて、一般向けに販売することはない、ということだった。

しかし、「創作」にも在籍し、牧水の歌を学んだということに免じて、特別に送っていただいた。

このみなかみ紀行にみる牧水は、今の感覚からいえば、江戸時代を思わせるような姿である。実にみすぼらしい。そして酒飲みだ。
歌のすがすがしさと、彼の姿はどうも一致しないけれど、この頃、その素朴さに再び惹かれるのだ。
みなかみ紀行にある歌の一首一首が、この上州の風景と人情、気候を表現している。

「創作」へと導いてくれた歌の先輩が大阪にいる。彼女とは、歌を離れた現在も、歌について語り合う。そして、牧水ゆかりの温泉を再訪することも秋以降のプログラムだ。
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16年の介護生活

友人の一人が、つい先月、母親を亡くした。
2年ほど前に父親を亡くしていたので、一人娘の彼女は天涯孤独の身となった。

聞いてびっくり、父・母の介護生活は、16年に及んだのだそうだ。
母親が少し(あとではとても希少な難病とわかったけれど)難しい病気になったので、働くことをやめる、といったとき、彼女は中年であった。
いまや、立派な高齢者となっている。

介護生活がスタートしたときは、まだ父親は健在で、年齢はいっていても、介護は二人であたったようである。しかし、徐々に高齢化の印も現れ、結局、彼女一人の肩にかかった。
もちろん、途中からは公的な介護支援もうけたようだが、母親はがんとして長期の入院および、専属の看護師を雇うというようなことを拒否し、ただただ彼女を頼った、とか。

私にはできない。
たとえ1年でも。
まだ働き盛りで仕事を離れ、つまりは収入も断たれ、看護・介護に徹する、これは無理だ。
でも彼女はそれをした。そしてそれについて後悔はしていない、という。
幸い、彼女は一人娘(それが幸いだったのか、介護を他と分けあうことができないという点で、不幸だったのかはわからない)、相続に問題はなく、また彼女が一人、人生を全うするだけのものは、残っているらしい。

それだけは幸いだったが、16年、介護に明け暮れ、社会との接点が最小限であったがゆえに、この解放されたあとの生活が、まるで新入生、新入社員のように、目新しいのだそうだ。
地下鉄やJR,バスなどに、スイカやパスモができたこともしらず、街の景色も変わっている、道に迷うなどと言っている。

えらい、と思うけれど、こういう生き方を選べる人はごくごくまれであることを言いたい。
彼女は自己犠牲であった気はない、というけれど、これは犠牲そのもの、だ、強制されていなくても。

私ならどうする?だ。
我が家は割り切りがいいのか、父は早くになくなり、母は89歳まで生きたが、ある年齢のとき、さっさと介護付きの施設を自分で探して(医者をしている親族のたすけもあったが)、移り住んだ。
施設は途中で変わったけれど、最後は施設で亡くなり、その間、さしたる不平不満は聞かなかった。
九州と東京、離れていたので、年に2,3回帰省して、その間、見舞いに2,3時間行くというだけで、しっかり親孝行の気分でいた。

もし、母親が自宅での介護を望んだら、東京から戻って面倒をみただろうか? それはない。
この点では、家族にも全員、共通の考えであったのだろう、だれが引き取る、ということも言い出さないし、それを冷たいとも思わなかった。母自身も、住み慣れた町から移るというのは考えていなかっただろうし、また施設では、いろんな友人・知人がひっきりなしに訪問し、寂しいことはなかったようだ。

連れ合いについても、入院後4か月で亡くなったけれど、当初、病気が悪化するつもりがなく、でも、退院後は自宅は無理だ、介護設備のついた施設に入りたい、と本人も言っていたし、それで当然なのだろう、と思っていた。
冷たかったのかな?自宅で療養したかったのかな?

16年は別格だが、6年間、親を看病・介護した、という友人もいる。
もう介護しなければならない、義務を負う人はおらず、これから、こちらが介護されそうな環境にあるが、私を看る義務のある人はだれもいない。
ヤングケアラーの問題もあるけれど、介護離職や介護離婚、介護にまつわる問題は多い。

自分に言い聞かせる。美談はケースが少ないから美談なのだと。
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セルフレジの落とし穴

この頃、たまにスーパーのセルフレジを経験している。
いつも、レジの端っこに待機している店のスタッフに、SOSを発して、お助けしていただくのだが、この頃、買い物が数量・種類が少ないときに限って、一人でできるようになった。

先日のことである。普通のレジも混んではいないのだが、セルフレジに行った。
その日の買い物、食料品少々、台所用品、それにビールであった。
まずは重いビールからバーコードを読ませる。
6本セットのもの。ちょっと気張ってスーパーの言葉がついている。

サーっとバーコードが読まれる、が、なんと1本の値段だ。どこを読ませればいいのか、どこを読んでくれたのか、私にはわからない。いったん読んだあとは、もう知らんというように、反応してくれない。
仕方なく、残りの商品を読ませていく。終了、合計金額、支払方法、順序でいくけれど、なんとも気持ちが悪い。

ビールを読ませたとき、年齢確認が必要です、という案内と、係員が参ります、という案内が続いてあった。
係員が来てくれるのを待ったが、全然きてくれない。
仕方なく、こちらがレシートと買い物袋にいれた商品をもって、係員のところに行く。

あ、これはパッケージではなく、ビール1本のバーコードを読んでしまったのですね、とおっしゃる。
パッケージのバーコード、見るとちゃんとあるけれど、機械が勝手に缶のコードを読んでしまったのだ。

どうすりゃいいのさ、と聞くと、ここでレシートの訂正はできないので、お客様カウンターへどうぞ、という。

結局、そのカウンターで、先の支払い(カード払い)をキャンセルし、新しく打ち込んだレシートを発行された。その時、カードを渡さなければならず、あまりいい気持ちではなかった。

良心的に係員のところで申告しなければ、6本のビール代金を1本分だけですんだのだろうか?

こちらとしては、くすねたビールがおいしくもないだろうし、年齢がどうのこうの、と言われることもないから、正直に申告したけれど、ただ面倒だというだけで、申告しない人もいるのかもしれない。

いつもバーコードがうまく読ませられず、スタッフの人を呼んでしまうのだが、こういう穴もあるのだ。
便利なものにはどこか抜け穴があるのだろう。

まだ無人のコンビニ、あるいはお金もカードもいらない顔認証の店もある、などと、メディアで報道されるけれど、フランスの免許証ではないが、顔認証も年齢でダメになったりしないのだろうか。
これから、どれだけAIが発達するのかわからないが、そこに正直度の項目も加わるのかもしれない。
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邦楽お楽しみ会(2)

前回の訂正と追加です。

今朝、昨日の演奏者の一人(友人)から、来場のお礼の電話がありました。
無料で、かつ休憩時間にボトルのお茶とお茶菓子が配られたという、なにか「聞いてあげてる」ような演奏会になりました。
そして来場お礼の電話です。
朝の用事が一段落したら、お礼の電話をいただき、恐縮のみぎりでした。

そのついでに感想を述べ、かつ、学校教育の場で、邦楽についての知識を与えるべきだと話しました。
それはもう実施されているということ。
学校で、音楽の時間にお琴などの演奏を聞かせたり、児童・生徒に楽器を触らせ、実際に演奏させているとのこと。
ただ、時間数は絶対的に少なくて、ほんのお試しで終わるということ。
それに、教育現場が乗り気でなければ、その時間も設けられないという。

実際に学校には琴が常備されていて、その面数もけっこうあるのだそうです。
課外活動で、実際に演奏の時間をもつために、(おそらく)無料での教授を申し出ているけれど、実施にはいたらない、ということ。
学校サイドにはその立場での理由があってのことだろうが、なんだかもったいない話だな、と思いました。

それでも、若い人たちが、邦楽に触れる機会がゼロではないことを知って、ほっとしたのでした。

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邦楽お楽しみ会

昨日、村の広報を配ってくださる方が、「邦楽お楽しみ会」というチラシを持って見えた。
邦楽?この村にきて、初めてのことだ、さていつあるのか?と日付をみると、翌日つまり今日である。
今日、明日というような催し事とは?と驚いた。

時々、ピアノの演奏会なり、なにかの催しがあるときは、だいたい、前月の村の広報にはいっている。
今月の広報紙はつい先週配られたところなのに、入れそこなったのだろうか。

いや、配ってくださいと頼まれて、と担当者の彼もよく事情がわからないらしい。

邦楽、とはなかなか縁がない。いつも洋楽なら行っている。ピアノ、バイオリン、小さなアンサンブル、そんなコンサートには足をはこんで、生の音楽を楽しむ。

邦楽で生演奏というのは珍しい。邦楽はNHKのEテレでみるものと思っていた。
尺八、琴、三絃での演奏らしい。
曲目は、三段の調べ、ひぐらし、都の春、独奏曲、六段の調べ、千鳥の曲、夕顔、とある。
どれもなじみがない。曲が浮かばない。それほど、邦楽とは縁がない。

演奏者の一人が知人であった。お琴を長くたしなんでいるという話は聞いていた。
どういう趣向のお楽しみ会なのか、とても楽しみになる。
前日の広報にもかかわらず、知人、友人たちであろうか、けっこう、聴衆が集まった。

演奏された曲目、そして演奏者の技術について、あれこれ言うほどの邦楽愛好者でもないので、これについてはパスするが、聞きながら、邦楽というものを聞く機会のなさに気が付いた。

まず、学校教育で、邦楽を聞くことはあるかもしれないが、邦楽器にふれる機会はあるのだろうか。琴、三味線、鼓、笛、これには尺八、横笛、縦笛、そんなものだろうか。
わが学校生活において、一度としてなかった。

それに反して、洋楽の楽器、たとえば、ピアノ、オルガン、は音楽室にあったし、だれかがヴァイオリンは習っていたような気がするし、そのうち、中学生になればブラスバンドで管楽器や小太鼓などに触れる機会はあった。

当時、邦楽を習うというのは、きっとお嬢様だったように思う、旧家と呼ばれていた従姉妹の家に行ったとき、琴が立てかけてあった。
彼女たちはピアノも習っていたが、琴もやっていたのだ。

洋楽器を弾く人は、この界隈でもざらにいるが、なかなか邦楽をやっている、という人には巡り合わない。
こうして、邦楽の演奏会をする人たちがいる、というだけで、この村の価値がぐっと上がった気がする。
次の機会はきっと月見の時だろうか。
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