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1999年の大みそか

今日は12月31日、静かな、寒い一日をすごしている。
日中は、小学1年生の児童がきていた。二人してマドレーヌを作るためだ。
もう何度かマドレーヌ作りは経験し、母親から別のお菓子作りは教わっているので、手慣れたものだ、といいたいが、こちらは人と働くことがないので、共同作業で神経をつかう。

その子をお迎えにきた母親からは、一人用のおせちが差し入れされた。
今日は特別に、このおせちでいっぱいやるか、と思いながら、1999年、つまり2000年になろうとする大みそかを思い出した。

その時は、つれあいとともにアフリカの某国にいた。
2000年問題といって、数字が一挙に変わるため、コンピューターが誤作動するかもしれない、ということが全世界で言われ、またここはアフリカ、何がおきるかわからない。コンピュータが動かくなって、全国的に停電し、そのときを狙って、国中で暴動がおきる、とか反政府軍がもう配置についている、などといった、いわば流言飛語であるが、実にアフリカでは起こりそうなことが言われていた。

そういう不安というか、不確定材料があるから、この年末・年始は休暇をとらず、任地に残る、というつれあいの意思に基づき、年越しの準備をした。

しかし、12月31日は任地国の某大臣の私邸で、外交団も含めた年越しパーティが行われる、という招待をいただいた。
行っていいものか、いけないものなのか、夫人仲間で情報を仕入れると、クリスマスから年末年始にかけて、この地に残っている外交団のほとんどが参加するのだという。
ご招待だけれど、各自、自国の料理をご持参いただければ、ということで、私は太巻きを作った。
日本からのコックさんはとうにやめて、その地のコックさんがいたけれど、日本料理はできない。
私もほとんどできないのだが、太巻きならどうにか、というので、キッチンにある一番大きい炊飯器一杯にご飯をたいた。

何本巻いただろう。もう覚えていないが、一人であれだけのすし飯をまいたのは最初で最後だ。

パーティの始まりはおそい。9時かそれより遅いか、そんなものだった。
つれあいは、12時の瞬間には事務所にいく、という。

持ち寄りが半分というので、お料理は多種多彩、100名ほどのパーティだ。
私が持参した太巻き、一人2つあてとしても20人がそこそこだ。
アメリカの友人は、プライベートコックを連れているので、その人に作らせたのか、数品、多量に持ち込んでいる。この地でこんなに材料がそろうのか、とその力に驚いた。

2000年という飾り物をつけて、その瞬間を待ったけれど、つれあいは席を外している中で、なにか不安で落ち着かなかった。
ちょっとした騒音が聞こえると、いざ暴動かも、と心配そうにあたりをみまわすのは私だけではない。

電気もきえず、暴動も起きた様子はなく、つれあいもすぐに戻ってきた。
大丈夫、2000年問題は起きなかった、ということが皆につたわり、それから、リラックスしてのパーティになった。

2022年から23年へ。ウクライナ国民の不安はいかばかりだろう。戦乱の予想ではなく、現実に戦乱のなかにある。
アフリカでときたま砲撃、あるいは銃撃戦、それだけでも恐ろしかったのに、それが日常なのだ。

今日も寒い、日中はどうにかプラスの気温だったが、4時をすぎると、もうマイナスだ。
節電、節油、と心がけてはいるけれど、この寒さには耐えるのもむずかしい。

この地ではあの、つかみどころのない不安感、逃げ場のない絶望感、それがない。静かでお菓子づくりを楽しめる平和な大みそかだ。

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「土を喰らう十二ヵ月」を見る[

昨日、友人に誘われて映画をみた。
映画館で映画を見る、もしかしたら、今年初めてで最後ではないだろうか。
自慢ではないが、わが村には映画館なるものはない。これはお隣の軽井沢だっておんなじだ。

だいたい、佐久のシネコンへ行く。群馬県の前橋や高崎ではないのがちょっといびつなのだが。
邦画であることは承知したが、あとの情報、タイトル、主演俳優、あらすじ、はないままだ。

10時半上映、となると、ちょっと早出(9時では遅いかも)しなければならない。いろんな条件もからんで、普段は7時起きを6時に起きる。昔、映画は夜みるものだったけど、早朝起きというのも時代の変化?と自問する。

映画を見る前に得た情報は、主演が沢田研二であること、だけだった。
ほとんど白紙の状態でみることになる。
映画の初め、昔懐かしの松竹や東宝映画の華々しいイントレはない。独立系の映画らしい。
それで主演が沢田研二か、と納得いくようないかないような。

この納得いかない感じは最後まで続いた。
エンドロールをみて、初めてこの映画のストーリー原作は水上勉であることを知った。
そうなのか、主演の沢田が、幼いとき、お坊さん修行に出され、とか精進料理ばかり作ること、悟りきったような表情なこと、納得がいく。
タイトルの土を喰らう12か月というのは、どうも、水上勉の作品名らしい。
水上勉、なつかしい名前だ。この10年以上、彼の作品を読んでいない。松本清張はこの頃またブームになっているようだが。
長野県にある、水上勉の息子が経営している「無言官」には数回、足を運んだけれど、父親の著作を読みかえすことは、この10年以上していない。

このタイトルになんの記憶も呼び戻されないけれど、彼が体験した、田舎暮らしを書いたものなのだろうか。
長野の山村で暮らす日々を、淡々と描いている。毎日、精進料理だ。山野であれば、イノシシ、シカ、ウサギ、なにかしら野生の動物の肉が届くけれど、彼は自宅の菜園から得られる野菜を主に、山菜やキノコなど、自然の恵みで暮らしている。
それらの野菜やお米を調理する前の準備など、コメをとぐ場面、野菜を水洗いする場面が、水道からの水とそれを洗う手だけで、丹念に描かれる。

とても写実的な画面であるが、ときどき、おや、っと思わせる、映画だから仕方ないか、と思う場面もある。
大根を一度に5-6本抜いたり、山のキノコがえらくつやつやしていたり、おやおやだ。
ごはんはおかまで、おくどさんで炊くけれど、野菜などはおそらくプロパンであろう、丸いガス台で調理する。
暖房はどうなっているのか、囲炉裏があるけれど、それ以外はどうなっているのだろう。
そして、いくら素朴な生活とはいえ、仕事の原稿書きをランプでしている。ランプの明るさがどのくらいあるものか、ものの存在は確かめられても、細かいところまで見えないだろうに、それで原稿用紙に文字を書いていけるのか?

主演の沢田研二、とても淡々と演じているけれd、いかんせん、太りすぎだ。映画のなかでのような菜食であれば、あんなにしもぶくれした顔、そして下半身がずっくりむっくりとはならない。
彼がいかに演技しようと、あの風采は都会でならあり得るけれど、長野の山奥では無理だ。

彼の亡妻の母親が亡くなり、義弟夫婦から頼まれて、彼の家で葬儀が行われる。
村の衆があつまって、村のしきたりらしい通夜が営まれるのだが、とてもシンプルな生活をしているはずなのに、出るわ、出るわ、立派な漆の器が集まった人数分、どんどん出てくる。

田舎暮らしの12か月に、変化をつけるためか、京都で修行したお寺のお坊さん、彼がとても尊敬しているらしい、の娘さん(檀ふみが演じている)が訪ねてきた。
彼女に対してはお嬢さんと言っていたようだが、亡くなったその父親の奥さん、つまりは母親だが、その消息を聞く。その名前を呼ぶのだ。それはあり得ないでしょう、と思わずつぶやく。
その奥さんとなんらかの特別の関係でもあったの?
ふつう、お寺をあずかる僧侶の奥さんは、大黒さんと呼ばれるはずだ。

なんでそうなの?と思うようなポイントがたくさんあった。
しっかりチェックをしているだろうに、どうしてそんなにはしょっていくの?時代考察もあるし、衣装もそうだし、なかなか、完全にチェックされた映画とはならないのだろう。

映画館、シネコンというらしいが、を出て、友人に、水上勉の原作、読んでみなければ、というと、その人知らない、という。
水上勉を知っていて、沢田研二が主演で、長野の田園生活が見られて、というような要素で誘ってくれたのかと思えば、なんとはなしにスマホをいじっていて出てきた映画だという。

水上勉を知らない、これは時代、年代の差か、学校教育の差か、文学への興味の差か、などと思いながら、ランチへと席をうつした。
映画で、とても丁寧にたかれたごはんがおいしそうだったが、そのレストランでのごはんもおいしかった。私も少し丁寧にご飯をたくことにしよう。
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記憶に残るクリスマス

昨夜来、雪が降り続いている。細雪というのだろうか、ボタン雪などとは違って、糸のように細い雪が、切れ間なく、風の動きに従って、右から左へ、下から上へと舞っている。
今日は12月24日、クリスマス前夜だ。
雪が積もっているからホワイトクリスマス、でも一人きりですごすからロンリークリスマス、気持ちはあまり盛り上がらないからブルークリスマス、しかし、とても静かだからサイレントクリスマス、と形容詞を考える。

さて、過去にすごしたクリスマス、いくつか思い出すものがある。
第一は、南仏に住んでいた時のクリスマスだ。
4月だったろうか、復活祭のとき、カトリックの洗礼を受けた。そして、最初のクリスマスイヴ、私自身の洗礼名にゆかりのある、洞窟でのミサに出ることにした。
つれあいは信者ではないし、深夜、寒い中、そんなところまでいかないという。友人夫妻が同行してくれる。
洞窟は、山のてっぺん近くにある。駐車場からそこまでは歩く。登山道には小さなろうそくがともされ、足元は危険はない。
とてもセレモニアルな生誕祭を期待していた。
ところが、あっさりしたものだ。ただ、真ん中に生誕の場、つまり馬小屋のしつらいがあり、そこに、ミサの行進時に赤ちゃんのキリスト像を運んでくる、というだけだ。
もちろん、ろうそくの数は普段より多いだろうし、神父様のお声も朗々として、洞窟の中に響き、荘厳さはあるけれど、苦労してきた割にはあっさり、さっぱりしていた。
ただ、ごミサのあと、そばにある司教館でのお茶に与ることができた。
南仏、マルセイユ周辺では、クリスマスの13のデザートというのが有名だ。
しかし、これもドライフルーツが主で、こってりした、手の込んだケーキが食べられると期待していたけれど、なんということはなかった。
ただ、聖体拝受は洗礼を受けたものでしかあずかれないし、洗礼名ゆかりの教会でのこと、とても感激だった。

次に印象深い生誕祭ミサは、アフリカでのことである。
12月24日、南緯6度にあるその都市は、夏まっさかりである。
アフリカに行って、初めてのクリスマス、毎日曜日のごミサは、近くにある修道院のチャペルに通っていたが、クリスマスは教会で、と決めていた。
徒歩20分くらいのところに大きな教会がある。教会の名前は忘れてしまった。
往路は歩いて、帰りはつれあいに車で迎えにきてもらうことにした。
一人ではとてもいけない。修道院にいらした日本人シスターが同行してくださる。

生誕祭だから夜、何時から始まるというのだったか、記憶にないが、6時か7時だったろう。
時間前に到着したが、あまり人は多くない。適当に席を得て、シスターと座って待つ。
真っ白のドレスに真っ白の手袋をつけた小学生高学年か中学生くらいの年頃の女の子が、ダンスを始める。
ごミサの前にアトラクション?と不思議で仕方ない。
それにしてもまだ始まらないの?とシスターに聞くと、もうすぐでしょう、といわれるが、席はまだたくさんある。
7時がすぎ、8時も過ぎた。時間厳守になれた私にとって、もうイライラだ・
シスターたちが、ここはアフリカだから、とおっしゃる。

結局、9時くらいに、人ががやがや、あっという間に広い教堂は満杯になる。人いきれがすごい。
神父様たちの行列が入場して、ごミサは始まる。
何か違う。アフリカのごミサは何か違うのだ。
どこがどう違ったか、もう記憶に残っていないのだが、違っていた。

帰りが大変だった。大教会にあふれんばかり、実際あふれていた人たちが一斉に帰るのだ。
まだスマホなどない時代、その当時は無線の電話があった。つれあいは自宅で電話を待ち、われわれを迎えにきてくれるはずだった。
迎えを待つ人はほかにも大勢で、車がきたり、あるいは徒歩で買えるひとたちの群れがあふれているし、街灯はなく、人の姿もはっきりしない。なにかがうごめいている、という感じなのだ。
運転が上手ではないつれあいが、どうにか来てくれたけれど、なかなか車までたどりつけない。
車に乗り込むまでも小一時間はかかった。つれあいは機嫌が悪かったけれど、シスターたちの前では我慢だった。
シスターたちを修道院へお送りし、自宅へ戻った。もう12時を過ぎていた。
もういい、来年はいかない、と宣言した。
その翌年、内乱がおきて、その国を離れた。最初で最後の体験だった。

救い主のご生誕を祝い、世界の平和を祈ることもう2000回は過ぎているのに、なぜ、平和にはならないのだろう。
もちろん、救い主と思うのは、クリスチャンだけだが、それでも一度くらい、キリストのおかげです、と全世界が、地球だけでいいです、平和を実感したい。
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同窓会に出席しました

先日、ある会合に出席した。
この会合、忘年会?クリスマス会?
時期から言えば、その両方にあたるし、その昔の会合の由来からいえばクリスマス会だったはずだ。
しかし、いまや、クリスマスを祝う会としての要素はなくなり、忘年会のほうがしっくりきそうだ。
しかし、私にとっては、同窓会、という言葉がふさわしい。

この会合、接点が一つ、それは各参加者が、これまで50年近くの間に、どこかで、いつか、知り合ったということだ。
古い人で50年の知り合い、新しい人でももう20年になる。

今回は15名が集まった。
コロナ下、よく集まるものである。
年齢層はもう老年、そこに初期であろうと、後期であろうと、もうしっかり老人たちだ。

さて、この会合メンバーの共通点は?と考えると、その昔、右肩あがりの時代を体験した、ということ、あるいは、時代の波にうまくのっていた、ということがある。
そしてみんな、真面目である。真面目というのは、四角四面というのではない。なかなかに面白い性格の人もいるのだが、人生を真面目に生きてきているひとたちなのだ。
そして、職業も多種である。
友人として必須といわれる、医者に弁護士がいる(彼らは現役)。ここからは元ということになるが、大学教授、マスコミ、官僚、航空、語学教師、土木、著述と職業は多様だ。
また過激思想の持主がいないこともきっと続いたのかもしれない。まあ、結局、過激思想の持主は過去にいたとして、あまりのぬるさに抜けていったのだろう。

思い出せば、これらのメンバー、華の時代、ギラギラしていた。自分で主張しなくても、雰囲気があった。ギラギラではないかもしれないが、適度の華やぎだ。
いまや、爺さん、ばあさんの集まりになったけれど、お互いは昔の記憶が残っている。

以前に異業種間の会合というのが流行して、出席者と名刺交換、100枚ゲットした、などというようなエピソードを耳にしていたけれど、そういう会で知り合った人たちは、まだ続いているのだろうか。

同窓というのは、同じ学校または同じ先生に学んだこと、という。
我々は年齢も違うし、出身地もばらばら、職業をともにしてもいない(2人だけ同職場がいる)、窓を同じにしてはいない。
この会合、コロナ下でも続いた。さあ、どこまで続くのやら。。。。。
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ワン ヘルス One Health

この頃、新しい言葉に接することが多い。
毎年、年末の恒例行事の新語も知らないものばかりだが、先日、あるドキュメンタリー番組での新語が気になった。

それはワン ヘルスという語で、ワンはもちろん一つ、ヘルスは健康だ。一つの健康、つまり、人間、動物、そして植物をも含めた環境、これらが一体になって一つの健康を構築するのだ。

この3者がすべて健康でなければ、本当の健康は得られない、ということらしい。
それには、このところのコロナなどのパンデミックのこともあるし、あるいは人獣共通感染症という語もあったが、人間だけではなく、獣と共通したウイルスなどでの疫病もありうるというわけだ。

完全に自然の中というわけでもなく、水道、電気のライフラインは通じており、Wi-Fiもいれて、文化的な生活も可能ながら、高度1000メートルの環境にいると、自然との折り合いというものをつけていかないと生活はできない。
じゃあ、自給自足が可能かといえば、それは無理だ。

しかし、周辺には、夏場だけであるが、野菜を作っている人は多い。人によっては、市販の肥料を使わず、自分でたい肥を作る人もいる。市販ではないから、自然というわけではなく、動物の農場からの堆肥肥料などは、抗生物質がはいったものもある。
晩秋になると、道端の枯れ葉を集め、軽トラで運ぶ人もいる。
こういう光景をみると、自然の循環をうまく利用しての生活を感じる。
これこそ、理想だ、求める自然回帰の生活だ、と言いたいけれど、自分自身で労を惜しまないならともかく、自然の恵みだけで再生産をするというのは、規模が限られていて、とても他人にまで恩恵は施せない。

我が家も最初は無公害、自然農法、などと称して、小さな畑を作っていたが、雑草に負けた。虫にも負けた。結局、除草剤も防虫剤も使わないでいたが、収穫はみじめなものだった。
労力の成果が得られない、とつれあいはギヴアップ、つれあいの手助けなしではできない。
借地が使えなくなるのと同時に家庭菜園は終わった。

最初に借りていた土地の持主は、高齢の女性であったが、隣接する土地に野菜を植えながら、ここいらはイノシシがよく出るから、と言っていた。
電柵という、接触すると電気が通る柵をつける人が多かったけれど、この女性は、出たら出たとき、と言って、無策であった。彼女は、昔はこの土地はイノシシのもの、そこに入り込んだ自分たちが遠慮するべきだ、という考えだった。

人間と動物、イノシシ、シカ、猿、野生の動物を悪者扱いにするけれど、このワンヘルスでは、環境も含めて、一体として考え、共存あるいは、共通して防衛していくべきだ、という。

カーボンニュートラルなどというのもまっこと正しいけれど、これだけ人間が増え、その人間様は、生活の便利さを要求するのに、何を犠牲にしてニュートラルにできるのだろう。

石炭を使い始めたときは、それが産業革命と救世主であり、石油になれば、それがもっと便利なエネルギー源、あるいは化学製品の材料となり、ウラニウムにおいてもしかり、便利なものの裏部分にようやく気付き始めたのだ。
それならば再エネと、この頃、我が家の周辺は太陽光パネルであふれつつある。
これもその裏をかえしたとき、このパネル、耐用年数は?環境に負担なく処理できるのか?パネルを設置するために自然を壊した部分の負荷はどうなっているのか?

ワンヘルスを聞いて、大変結構だし、同調したい気持ちでいっぱいだが、どこまで可能なのか?
現実はつねに厳しい。
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名前の付け方

先日、2022年生まれの名前ランキングが発表された。
これは明治安田生命保険が実施しているもので、「生まれ年別の名前調査」といい、同社では1989年以降、毎年実子しており、今年で34回目、今年は男子8952人、女子8561人を対象に調査したという。

読めない。
読める字もあるが、読み方が私の知識と異なるものもある。
一時期、きらきらネームという表現もされたが、このトップテンをみていると、きらきら、というより、漢字の感覚を使ったものが多いような気がする。

以前は、瞳でアイ、空でスカイ、など、漢字の読みではなく、外国語の意味を使うという例も多かった。

男子のトップテンは、蒼(あお)、凪(なぎ)、蓮(れん)、陽翔(はると)、湊(みなと)、颯真(そうま)、碧(あおい)、樹(いつき)、大和(やまと)、悠真(ゆうま)、暖(はると)
女子のトップテンは、陽葵(ひまり)、凛(りん)、詩(うた)、陽菜(はな)、杏(あん)、澪(みお)、結愛(ゆあ)、芽依(めい)莉子(りこ)、さくら、咲茉(えま)
なのだそうだ。

これだけの名前をインプットするのに、どんなに時間がかかったか。特に最後の”えま”の”茉”は、苦労した。
結局、年の功というのか、昔の女優の岡田茉莉子の”ま”と同じであることに気づいて、その名前からとることができた。

若い親たちの熱意たるや、どんなものがあったろう。
使われた漢字から、その気持ちは察せられる。また感じと読み、この雰囲気が子供に対する期待、愛情、とても素晴らしい。
けれども、子供が成長して、名前を言う場合、使われている漢字をどう説明するのだろう。
役所にはそれなりの人名辞典なり、ノウハウがあるだろうが、これはなかなかに難しそうな気がする。

名前は体を表す、となれば、わが名など軽量そのものだ。
しかし、僕の名前は漢書からとったそうです、などという友人がえらくなったか、えらくなる必要もないけれど、親の期待とは違う道にいったのだろうとは思う。

名前には流行があって、フランスなどでも、その年に使われた名前というのが紹介されるのを見た記憶がある。
フランスの名前だけでなく、英語系などの名前がトップテンにはいったりするのが時代を表しているが、意外と、Louis, Pierre, Robertなど、昔からよくある名前が付けられるというのも、印象的だった。

生まれた子供たちに幸多かれ!
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感謝の拍手より賃上げを

「感謝の拍手より賃上げを」、この表現は、今朝、BBCの放送でみたものである。
イギリスでは、今、看護師など、医療従事者がストライキをしている。
激しいインフレにも関わらず、また、厳しい労働環境にも関わらず、賃上げは行われず、やむにやまれずのマニフェストを行っているという。

日本語でチェックしたので、この表現が原語で正しく、そういわれたのかどうかはわからないが、ああ、彼らの実感なのだろう、と思った。
最初は”感謝の拍手”がわからなかった。放送の最後のところで、ああ、感謝の拍手とは、コロナ流行の初めのころ、治療法、対処法も確たるものがない中で、厳しい状況に献身的な治療をしている医療関係者に対し、夜の8時だったろうか、全国で、外に向かって、感謝をあらわす拍手をする、という行為だった。

これはこれで、とても感動的だった。
拍手ならずとも、音をだそうと、鍋窯を打ち鳴らす人もいた。音のでるもので感謝の意を伝えたのだ。

感謝の意を表するのには、音響的なものばかりでなく、日本では飛行機も飛んだ。
ローマ法王は、全世界で、定時にお祈りをささげる、という呼びかけもされた。私も祈った。

イギリスの彼ら、彼女らは、もう感情的なものより、現実的なもので、と今回は言っている。

その昔、日本のテレビで、「同情するなら金をくれ」というタイトルのドラマがあったことを思い出した。ドラマ自体は見なかったけれど、このタイトルの直截的な表現が面白かった。
口の悪い友人から言われたことがある。私が「いつもあなたのことは気にしているのよ」というと、「口先ではなんともいえる、形にしてくれないと自分には通じない」と。
口先だけのご挨拶はもうけっこうだ、ということだ。

まあ、なんてことを言う人だ、と思ったが、反面、口先にすぎない、挨拶であることを見透かされた、とも感じた。

世界中で起きている悲劇に対し、かわいそう、気の毒、どうにかならないのかしら、同情する。
しかし、その同情、やっぱり形にしなければ、相手には通じない。
塵も積もれば、だが、塵では小さすぎる。

イギリスの医療従事者は賃上げを要求している。その要求は、政府が解決する問題なのだろう。
それ以外のいろんなところで起きている要求については、一人ひとりが答えることで、よい方向に進むことがあるかもしれない。
よきサマリア人になりたいものだ。

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マイナーカード、申し込みました

昨日、腰痛がはげしく、整骨院で電気をあててもらう。
昔の理髪店と同じか、ベッドで電気治療を受けながら、近隣の人たちの会話をきく。
マイナーカードが話題にのぼる。
断片的な会話なので、事情に通じていないと話はフォローできない。
今年いっぱいで、受付締め切りなんだった、という人、いや、この町のポイントは大盤振る舞いだね、90才のおじいさんが、申し込みしたカードをどこにしまったか、わからないでいる、いろんな話がでてきている。

やっぱりカードは申し込むべきか?
迷っているところに、そんな会話を聞くと、これだけのお年寄りたちも申し込んでいるのだ、とその実績に感心する。
アンチ・カード派を自認していたけれど、年貢の納め時かもしれない、なにか我が身を納得させる雰囲気だ。

ということで、今日は申し込みに行こう、と思ったが、なんのことはない。初積雪、どんどん道路は降り積もっている。
いやはや、これは行くなという兆しなのか、と思いながら、しかし、昨日はそう決めていたのだし、雪道はこれからも起きること、今日はこの冬初めての雪道運転、演習とおもっていくべきか、と考えは右左と動く。

結局、役所へ行った。
手続きは簡単だ。たった2枚の書類に名前と住所、電話番号を書き込むだけだった。
書類の1枚は、昔、送られてきたマイナンバーの書類、オリジナルではなく、コピーを持って行ったから。
マイナンバーカードを申し込むと、この割り当てられたマイナンバーは不要になるという。ご帰宅後、破り捨ててください、という。
なんじゃ、これは!といって、マイナンバーがなくて困ることはなさそうだ。
実生活で、マイナンバーを使ったのは、確定申告の時だけである。

マイナンバーカードは、なんの役にたつのですか?と問うと、住民票がコンビニで受け取れます、という。
たったそれだけ?住民票はめったに必要としない。必要とするとき、役所に行くのに問題はない。
健康保険証や免許証のかわりになる、というのはずっと先の話らしい。
もろに、なーんだ!とつまらない顔で、担当してくださっている人に相対する。
こちらで写真を、といわれて入った部屋は、給湯室。カメラはなく、担当者がアイパッドで撮影だ。

進化している、というのだろう。昔のように印鑑をあちゃこちゃに押していくこともない。サインというより、住所氏名を自著するだけだ。
これは河野大臣の功績か?

しかし、ポイントは電子マネーで、というのは老人には適さない。現金主義なんですけど、と言ってみる。現金だとお取り扱いしていなのです、とおっしゃる。つまり、もらえないというのだ。
ポイント欲しくて申し込んだわけではないが、やっぱりもらおう、なんだかかんだか、使える方法を教えてくださるが、Dポイント、はい、それならもっています、というと、アカウントなんとか、など、と言われる。それが苦手なのに。利を得ようと思えば、ちゃんと知識を持つべき、と学ぶ。

将来的にはこのマイナンバーカードが行政上の切り札になるとか。
将来?何年先か?

今日は、夏川草介著の「レッドゾーン」を読んだ。もうなつかしや、である。Covid-19と名前がつく前、本当に最初のころ、コロナというだけで恐れおののいたころの、長野でのある病院の奮闘が書いてある。
試行錯誤というか、暗中模索というのか、詳しいことがわからず、手探りで、情報に踊らされ、コロナと口にするだけで観戦するかも?と恐れおののいたころのことを書いてある。
そういえば、だ。何とかというアプリをいれて、感染者と濃厚接触(何メートル以内だったのか)したかどうかをしらせてくれる、なんてこともあったけれど、そのアプリもあまり使われ鵜にこの間消えていったような話だった。

このマイナンバーカードも、政府がやっきになるほど、活用できるものだろうか?
電子カルテなど、夢の世界のような辺境の地にあると、カードそのものが、持っている証拠に、コンビニで住民票をいらなくてもとりましょう、という活動に使われそうな気がする。
電子カルテや、インターネットでの診察なんて、10年は実現しないだろう。

郵便局でクレジットカードを使えるようにしてください、マイナンバーカードとは関係ないのか。
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J'ai survecu 私は生き延びた

もう2週間ほど前から、最低気温がマイナスになり、毎朝、餌をもとめてくる野鳥のための水も凍っている。割と浅い容器に水をいれるのだが、底までバリバリに凍り、真ん中が盛り上がってきたりしている。
霜も当然で、屋根は真っ白になっている。9時頃になると、その霜が解けて、水滴が落ちてくる。

寝室の気温は5度以下、布団から出ると、きゅっと体が縮まる。
暖房は装備しているが、ファンヒーターなので、やたら空気は乾燥する。加湿器をつければいいのだが、毎日、加湿器を掃除したり、水をくわえたり、それを階下におりてしなければならない。
あれもいや、これもいや、で寝室の暖房は、ある一定の温度になったところで消している。

寝室の気温が0度になれば、ちょっとやばいけれど、4,5度ならまだ大丈夫・
生き延びていける。

J'ai survecu、これはタレーランが発した言葉と記憶している。
私は生き延びた!
たしか、ナポレオン帝政を打ち破ったあとの始末を話し合うウィーン会議で、王党派としてこの会議に出席した彼に対して、だれかが感想を求めたとき、彼が発したことば、だと記憶している。

今は、毎日、真冬日というような日の就寝時に、この言葉を発する。
寒さこらえての日々、風邪もひかず、コロナにかからず、交通事故をおこさず(まだ路面は凍っていない)、ヒートショックにもならず、なんせ、生き延びている、まさしっく、私は生き延びた、と言いたい毎日なのだ。

しかし、この言葉、真逆の環境にあったときも口にしていた。
アフリカ、南緯6度、熱帯で生活していたとき、毎日、就寝時にこの言葉を口にしていた。

伝染病、治安、食料危機、政治不安、なにかとネガティヴな要素があって、停電も、断水もなく、ごちそうとは言えないシンプルな夕食を食べ、濁ったお湯のお風呂に入り、どうにかベッドにはいると、自然とこの言葉が出るのだった。
しかし、夜中にヤモリの訪問、あるいは蚊の飛ぶ音、それよりも、隣国での騒乱の音、なにかしら、安眠を許さないことがおきる。
けっして、夜なら平安というわけにはいかない。

上水道、下水道、そんな水道の別はないし、水が水道管から流れてくるだけで恵まれているのに、浄水器だけでは不十分、水は煮沸して、あるいはボトルの、それもヨーロッパからのもの、使用期限もみて、などと神経質になっていると、心が病んでいくような日常だった。

あの日常に比べれば、この寒さ、しのげないわけではない。暖房も費用を考えなければふんだんに使える。
といっても、このところの世界情勢で、ふんだんに、とは心理的に許されなくなってきたけれど。

生き延びた、これは私にとって、呪文だ。

ウクライナで、困難にあっている人々、彼らにとっては、それこそ、生き延びたい、そして生き延びた、となるのだろう。どうか、生き延びてください、これを呪文にしなければ。
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日記帳買いに丸善へ

昨日、東京へ行った。日帰りだ。
目的は、この7月に配偶者を亡くした友人に会うこと、そして日記帳を買うことである。
この目的は、前回(11月)、東京へ行った時も主たる目的であったけれど、そのとき、友人は出張で不在、そして、丸善行は、ほかの用事があまりにexcitingで、もう丸善まで足を運ぶことができず、そのままになったのだ。

毎日、日記を認める。もうずいぶん昔からの習慣で、一時期、外国にいたときはその習慣を貫くことができないときもあったけれど、帰国してからはずっと続けている。
日記帳は、原則として、高橋書店の5年(横線)当用新日記というのを使う。
ときに1年物、あるいはただの大学ノートを使ったことがあるけれど、そういうときは続かなかった。

日記を書いてどうする?と問う人もある。私も自問する。
しかし、書く。そして高橋書店の5年日記でなければならない。
と信じての丸善行であった。

なぜわざわざ丸善へ?ほかの場所を知らないからだ。
今、書いている2018-2022はどこで買ったのだろう?記憶にない。
それでも、書店もない田舎暮らし、どこか都会、おそらくは前橋の書店で買ったのだろう。

去年、丸善で手帳を買った。そのとき、あまりの品ぞろえに、前橋に行くなら、いっそ東京、丸善で、と頭にインプットされた。

社会的生活のなくなった高齢者、日記に何を書き、その日記はのちのちどうするのだろう?と思う。
きっと、日記も写真と同じで、とても私的なものだ。だから、死んだら、遺品整理をするものにとって、重いものになるだろう。

それがわかっているから、2017年までの日記帳は処分した。
5年日記を処分するのはとても大変だ。装丁が立派なので、分解が難しい。1年365日、表裏だから全部で180枚ほどの枚数がある。しっかり綴じられたものを一枚ずつでははかがいかないから、2,3枚ずつはぎとるのが、とても大変だった。

前の冊になるが、2012-2017年の日記は、最後の2017年につれあいが亡くなり、その当時の入院記録でもあった。
その分だけでも残そう、と思っても、その期間を5年分残すことになる。ばらばらにした日記、いつしかどこかに紛れてしまうだろう。
そして、だれが読むのか?9月末日に入院して、年末に亡くなった。病状記録でもない。娘たちも欲しがらないだろう。と、結局、焼却したのだった。

それにしても、この頃話題になっている、初代宮内庁長官田島道治氏の拝謁録はすごい、あの詳細な記録、それだけの貴重さがあるから評価もされようが・

なぜ、人の役にもたたない日記をつけるのか?
きっとボケ防止なのだろう。
ボケの症状はでている。人名、地名、普通名詞、日記を書いていて、出てこないことが多々ある。そうすると空欄で残す。そして翌年、同じ日を書いていて、前年の空欄に、適切な言葉を思い出すこともあり、思い出さないこともある。
天気、気温、そして今はコロナ陽性者数、全国、東京、群馬を記録する、ただただ、自分のためだけだ。

大学で史学を専攻したとき、自分自身で歴史を書き記し、後世の役にたちたい、などと理想を持ったこともあるけれど、いまでは昨日のこともちゃんと思い出さないし、社会的に意味をもつ内容などゼロに等しい日記を習慣として書いているだけだ。

丸善に私の欲しい、高橋書店の日記はなかった。
あれだけの品ぞろえをしている丸善にないなんて!
信じられなくて、売り場にいる担当者っぽい人に聞いてみる。いえ、私は丸善の人間ではなくて、某社のものです、と言われる。事務用品を製造している会社の方だ。売り場の自社製品を管理するために来ているらしい。それは失礼しました、と別の売り場にいくと、またその人に巡り合う。
高橋書店さんの日記はこの辺にまとめてあります、と売り場を教えてくれる。
もうチェック済みなのだ。買い物センスに富んだ友人もいろいろ見てくれるが、みつからない。

わざわざ新幹線で来たのに、とぶつぶつ言う。といって、もう他のところに行く気もなく、他の出版社の5年日記を購入した。
日記を変えれば、人生も変わるかもよ、と友人は根拠のない応援をしてくれる。

箱入り、上質の紙、5年日記、とくると、”重い” 

ショルダーバックにいれて、丸善から八重洲口まで歩く。
これから5年、この重たい思いはしなくてすむ。
ちなみに22年までの日記は、1年間、参照用に保存である。
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