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八ッ場ダムへ行ってみました

台風から10日ほどがたった。未だ全面交通止めの道路が多いけれど、八ッ場ダムへの道は幹線道路、いくらなんでも通じているだろう、と八ッ場ダムを見にいくことにした。

幹線道路(国道)ではあるけれど、村の一部ではう回路を通らなければならない。
ダムに注ぎ込む吾妻川沿いの道だ。吾妻川は台風直後の激流ではなくなったけれど、川幅いっぱいで流れている。まだまだ土色の濁流だ。

村から15分ほどの長野原にかけられた大橋(名前は知らない)を渡っていて驚いた。そこまで水は溜まっている。ここもダムのうちにはいるのだろうか?
両岸、どこまでが岸になるのか、今になるとわからないし、人家があるわけではないが、ちょっと恐怖を感じるところまで水がきている。

満々と水をたたえた、というようなダム用の表現があるけれど、そういうにはちょっとためらいがある。ダムには見学用の見晴らし台があるけれど、そこまではいかなかった。しかし、観光客なのか、けっこう大勢の人がダム見物をしている。

対岸とを結ぶ2本の橋のどちらかでは、ジャンジージャンプが観光の目玉になっていたそうだが、この水量では、水のなかにドボンと沈んでしまうことだろう。

水は濁っている。土色だ。泥まじりの水なのだろう。ここにいたるまでの川筋では、山肌がもぎとられ、崩落している箇所がたくさんみられた。
ダムの底ならず、水はまだ泥が混じったままであろう。どれだけの土石流を運んだものか、様子もうかがえない。このダムの水が澄んでいくことはあるのだろうか。周囲の緑はとてもきれいなのだが、その景色を映してくれるようになるのだろうか。

皮肉屋は言う。ダムの容量の半分は、土砂が埋まっているよ、次にあんな雨が降れば、もうすぐに放流するさ、と。

まだまだ吾妻川の流れは激しい。山は水分をため込んでいる。新たな雨、新たな被害も考えらえる。
八ッ場ダムの評価はまだまだ先のことだ。
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台風から1週間、改めて知ったこと

台風襲来から1週間がたった。メディアはニュースのほとんどの時間がこの台風被害の報道に充てられている。しかし、あまりに広域にわたる被害こ地域を全部フォローしきれない。同じこ光景が何度も繰り返し放送され、かえって被害の全貌などが見切れないでいる。

自分なりに体験したことを記録したい。

まず、武蔵小杉のタワーマンションだ。友人がこのタワーマンションに住んでいた。武蔵小杉の新築マンションに移ったと数年前に聞いてはいたが、このマンションだとは知らなかった。
そして一昨日、この友人に会った。
こういうときのお見舞いの言葉というのは、どう述べれば気持ちが表わせ、かつ相手に通じるのだろうか。

そして現実をうかがう。やっぱり13日から外泊になっているそうだ。上階ではないので、どうにか移動はできるけれど、やっぱり電気、水道なし、エレベーターなしでは住めません、という。
ホテルや親戚を泊まりあるいているとのこと。

テレビではエレベーター1基が稼働している、というような報道もあったけれど、それは動いていません、という話。

この頃、タワーマンションが流行で、高層階からの展望などが話題になるとき、高所恐怖症だけど、高いところからの景色は好きだという私は迷いを感じていた。
しかし、マンションというものができ始め、10階くらいの高さが普通になったとき、「木の高さより高いところには住むもんじゃない」という年寄りの言葉が耳に残っていた。

そして今回、このタワーマンションの電気設備が地下3階にあり、浸水して動かなくなった、という事実を聞いたとき、なぜかフクシマの原発を思い出した。補助の発電機が津波を受けて稼働できなくなった、もっと高いところに設置しておくべきだった、というような話があったような気がする。

タワーマンションにしても、地下にそういう設備を置くのは違法でもなんでもないらしい。設計ミスでもないという。でもこういう事故はおきる。
といっても上階にそんな機械設備があるマンションは、なにか工場みたいな感じがして顧客の購買意欲をそぐだろう。

この状態が長引けばウィークリーマンションにでも行かなきゃね、と友人は割り切っていたけれど、その費用などはどうなるのだろう。きっと個人の負担なのだろう。
自然災害というのは、マンション管理会社の責任にはならないのだろう。
個人が加入した損害保険の内容次第というところか。

我が家は一戸建てだが、もし、台風で倒木などが我が家を真っ二つにするとか、住めないことになったとき、やっぱり保険だけが頼りなのだな、と改めて保険内容チェックを考える。

前向きに考える友人だから、今日は階段を上って、着替えをとってきたの、とリュックサックを背に、今晩の仮の宿へと帰っていった。
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八ッ場ダムの効用

ようやく完成間近の八ッ場ダム、今回の台風で大変役にたったという。
そのことにほとんど異論がでないと思っていたら、そうでもない。

そもそも、八ッ場ダム、地元の人に好意的にみられていないのだ。
地元の人たちに聞くと、八ッ場ダムは政治案件だから、と必ずいう。過去、群馬県は総理大臣を排出するところだった。中曽根、福田、小淵と、福田は親子2代、総理となっている。
彼らが同時に選挙戦を戦っていたころ、八ッ場ダムの建設は、利権も加わって、大きな政治案件となっていたのだ。

昨日の国会で、自民党の国土省大臣あるいは副大臣の経験者が、八ッ場ダムが完成したから、利根川の氾濫が免れた、民主党は八ッ場ダム建設を邪魔者にし、建設をストップさせたけれど、その後、再開して、完成にいたったから、即、その効果のほどを証明したのだ、と手褒めしていた。

利根川の八ッ場ダム、という表現に地元はうなった、八ッ場ダムがあるのは、吾妻川、この川は渋川で利根川に合流するけれど、それまでは利根川ではない。
この間違いのまま、議事録には記録されるのだろうな、と元国交省大臣を経験した人なのに、と不満を感じる。

台風の前々日に試験注水を始めた八ッ場ダム、まさか、こんなにすぐに満水になるとは思いもしなかっただろう。満水どころか、あふれそうになって、放流もしたらしい。
役に立って本当によかったと思う。八ッ場ダム、一生に一度のことになるかもしれない。

民主党の政策をくそみそにけなしたこの議員、あるいはそれに同意の答弁をした安倍首相に一言いいたい。地元の意見(一つの意見)では次のような観察もある。
あの時、民主党が反対して、工事をストップさせたから、完成が5年は遅れた。もし、5年前に完成していれば、当然、ダムに水は満たされていたろう。そこにあれだけの降水が流入したら、ダムは直ちに放流したに違いない、その時の被害は計り知れないものだろう。

たられば、はあまりすきではないが、地元の感覚を表現したものとして、興味深いものがあった。
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台風過ぎて2日がたちました

いろんなことがわかってきました。
自分の家が無事だったことから、そんなたいそうな台風でもなかったような印象を持ったけれど、とんでもないことでした。

13日、14日はそろそろと下界(村の中心)に降りたのだが、道路は各所で片側通行、いたるところに泥がたまっていて、工事服を着た人たちが、重機を使ったり、スコップで泥をかきよせていました。

その程度は十分想定内、こちらも低速で邪魔をしないように降りて行った。

我が家で影響を受けたといえば、水道水が少し濁っていることがあった。この程度のことは、やっぱりアフリカ経験が役に立ったのか、慌てず、飲み水に利用しないだけのことだ。

わが村も甚大な被害を受けたことは、今日になって知った。
村はとても広い。だから、村の中心が大丈夫だといっても、全域がそうだとはいえない。村の中心だって、JRの線路には崩れた土砂、倒木がかぶさった状態だ。
山から水が滴っているのはどういうことなのだろう。

村の放送では、小学校、中学校の送迎車が、道路の不通箇所が多くて、運行できない、したがって休校にします、という。
高校にいけば、生徒の姿はなく、鎮まりかえっている。JRが不通のため、通学できないので休校なのだそうだ。

なんじゃこら、と思っていると、村の端っこの地域が、ひどい被害で、いわゆるテレビなどに映っている被災地になっている、という。
そんなこと、知らなった、村のことなのに、と思うが、台風被害の情報は、すべてテレビなどによっていて、長野県はひどいらしいけど、山ひとつ(でもないが)離れたわが村は大丈夫だった、なんて思っていたのがひっくりかえる。
そうしてようやく、テレビでも被害の状況が視覚化された。

軽井沢の美容室に行ったのだが、軽井沢もひどかったらしい。お店は1日半停電だったそうだ。
3連休で、結婚式も強行したカップルもいたらしいが、お客は発電機をかりてきて、ヘヤーセットをしたのだそうだ。

美容師さんは、この2日間、停電でテレビをみていない、と言って、私の伝える情報を真剣に聞いている。

当事者がもっとも情報に欠けている、というのは本当のことだ。
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台風から一夜あけて

昨日は朝からずっと台風対策に心身共にかかり切っていたので、夕方、早めの夕食、入浴をすませて、寝室にこもった時には、もう疲労困憊、6時前に寝室にはいったあとの長い事、夜になると、いよいよ本格的に風を伴って豪雨になる、という予報に身構え、心構えをしているはずが消耗しきっていた。

友人たちとのメールのやりとりも、だんだん読むだけになって、とうとう10時くらいには退場になった。そして、ちょっと耳をすませてみると、雨は小降りになり、風が強いばあいに聞こえる、大木の幹のしなりもきこえない。
友人はチャットのなかで、もしかしたら、台風の目のなかに入っているかも、というが、このあとは、どうにでもなれ、と本格的に眠る体制にはいった。

そして今朝、はめ込みの窓のカーテンを閉めていなかったので、朝の明るさがしっかり見える。
ああ、お天気なんだ、台風一過なんだ、とほっとする。
風は強いけれど、空は台風が去ったことをはっきり表している。

寝室のベランダから庭を見下ろすと、別に変化はない。草花、特に花をつけた植物が倒れているのは見えるけれど、それももう季節が終わるころだったのだろう。
8時になるやならないか、玄関のチャイムが鳴る。管理事務所が様子見にきてくれたか?と思えば、それは別荘を建てたときからの村の知人、一人暮らしを心配して様子見に来てくれたのだ。

我が家は被害もなさそう、というと、周囲はそうでもないとのこと。2ブロック先の家は、庭がくぼ地になっているため、池の状態になっているという。
舗装されていない別荘地の道路は、大雨でそぎ取られて、大きな穴ができたり、水路に変化したところもあるという。

本当に雨はすごかった。テレビでもわが村の名前が何度も出たし、レベル5の退避が勧告され、この24時間の降雨量も、箱根の900ミリ越えには及ばないながら、411,5ミリという数値を出したらしい。
雨どいをつけていない我が家は、まるで滝のように、それも軽井沢の名所のように、ずっとカーテン状態になっていた。

今日は出ない方がいいですよ、と知人はアドヴァイスする。彼の家の一帯は、停電しているのだそうだ。
停電、断水、これがこわかったけれど、さいわい、なんの不都合もおきなかった。

そうなると、被害状況をみてまわりたい。まずは別荘地のその池状になった家を見、道路状況を確認し、ほかに新たな被害がないか、調べて回る。
管理事務所は、別荘地内を一巡し、通行不能になった道路に赤いコーンを置いている。

駅の近くのコンビニに電話をする。毎朝、新聞の取り置きをお願いしており、今日はあきらめるか、午後から行くか、などと迷っていたのだ。開店しており、新聞も届いているという。
おそるおそる車を出す。別荘地の真ん中を通る村道は、さしたる被害がなかったけれど、県道にでてからが、各所に小規模ながら土砂崩れが起きている。重機がでて、その土砂を処理しているが、ほんの車1台通れる空間を作ってくれているので、どうにか通っていく。

JRの線路沿いがひどい。線路は盛り土をして作ってあるためか、やたら土砂が道路にでている。
そういえば、北陸新幹線はどうなっているのだろう。車庫となっていたところが水没してしまったとか、長野―東京間は運行するのだろうか。

前橋から前日帰れなかった友人が、お昼すぎに、う回路などを通って、どうにか帰り着きましたが、車で自宅までは入れない、道路に陥没箇所があって、300メートルくらい前までしか通れなかった、とメールで言ってくる。

テレビをみれば、もう幾多の河川が氾濫している。多摩川も氾濫したのだとか。義娘の住むマンションは多摩川沿いにある。無事であればいいけれど。

中学時代あたりの地理の教科書をみるような、日本の河川図がテレビに映し出されている。メインの大きな川、そして支流、信濃川や千曲川が日本海側に流れるのだというのを、この地に住んで学んだ。分水嶺というのも実感した。
水の豊かな国ニッポン、このありがたさは外国にいってよくわかったけれど、こういう災害のもとでもあるのは忘れてはいけない。

村の稲田も水につかっていた。もう刈り取りが終わって、脱穀をすませたところはいい。しかし、刈り取ったあと干していたところ、この週末に刈り取りをしようとしていたところ、この豪雨でどうなったのだろう。11月初めにあるという集落の収穫祭を楽しみにしていたのだが。

災害は本当にいつ起きるかわからない。
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危機管理ができない

台風19号、超大型とやら、まだ本体が来る前に、大雨での被害が広域に出ている。

わが村も、午後3時前に全村を対象に、避難指示から勧告へとアップした。避難所もたくさん開設されている。

私は自宅に残っている。というのも、避難所へ移動するより、自宅に残っていたほうが、雨の場合には安全、と判断していることがある。
しかし、これが風となると、とても不安だ。この20年以上、この村には本格的な台風は襲来しなかった。だから、とても油断している。

大風が吹けば、15号で被害を受けた千葉県のようになる可能性はとても高い。倒木は道路を寸断するだろうし、この地方の山林での倒木は、送電線を遮断したり、電線に枝が絡んだりしての停電は常に頭の中にある。

台風のみならず、地震に噴火、いろんな災害が多発しているにもかかわらず、私に危機管理の意識が薄いのはどうしてだろう。ないわけではない。しかし、薄い。
これはアフリカのある国に住んでいたときにも思ったことだ。

内乱がおこり、ドンパチの音も聞こえる家の中で、つれあいは仕事場に出かけ、私は一人、サロンの真ん中に座って、なにをすればいいか、一生懸命に考えていた。窓や壁の近くにはいないほうがいい、というのはわかる。だからサロンの真ん中にいるのだが、そこにじっとしているのが間が持たない、
そうだ、頭を保護しなければ、といって寝室に行き、頭巾になりそうなものを探すのだがみつからない。昼ご飯の準備を、とコックを探すと、彼は台所のドアのところで、ガードマンとおしゃべり中だ。

飲料水はあるか、非常食はあるか、チェックはするが、それで足りるのかどうか、つれあいと二人だけならある一定期間は大丈夫だろうが、使用人の分も確保すべきなのか、我が家に避難してくる人がいる可能性についてなど、つれあいに聞かなければならない。
そんなことに気持ちは向くのだが、解決策はみつからず、家の中をうろうろするばかりだ。

結局、今でも生きているのだから、どうにかなったのだが、どうしてあんなにうろうろし、映画のヒロインのように、きっぱり、しゃんとできなかったのだろう。

さあ、我が家の危機管理、停電対策はできていない。
懐中電灯はあっても、電池を長く交換していないとか、どうやればあかりが付くのか、わからないのもある。
携帯用のラジオはない。ここは電波が入りにくいところで、以前、買ったものの、使わないまま、捨ててしまったようだ。

飲料水くらいはあるけれど、生活用となると、一応、風呂のお湯を流さないで残している。

ズックは寝室に運び込んだ。服装はラフだけれど、外に出られるものにしている。
ハンドバッグは手元に、その中には車と自宅ドアのかぎも入れている。

これで十分か不十分か、きっと不十分なのだろうな。まだ亀の甲程度しか知恵がついてない。
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臓器提供への迷い

毎年、国民健康保険被保険者証を受け取る。その裏面には、臓器の提供について、1)脳死および心臓停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供します、2)心臓が停止した死後に限り、移植のために臓器を提供します、3)臓器を提供しません、という記載がある。

私はずいぶん以前には臓器移植肯定派で、こういった記載が始まる前から、なんらかの形で臓器移植の意思表示をしたいと考えていた。
献血はずっと実行していて、日赤本社が近いこともあって、昼休みに献血のために通ったりしていた。

しかし、長い年月がたち、狂牛病のことから、ヨーロッパ滞在経験者の献血が拒否されるとか、年齢のこともあって、もう臓器提供の年齢でもあるまいと、この保険証になっても記載をしていなかった。

しかし、つれあいが亡くなり、自分の死というものが身近に感じられるようになってきた。
その時、臓器提供をすることを再検討しようか、と考えはじめたのだ。

身近に献体をされた人もいる。しかし、献体はプログラムには入らない。
臓器提供は提供者が何歳くらいまで受け付けられるのだろう。

眼科の先生に、正直に年齢を告げて聞いた。先生いわく、年齢にはこだわらないとのこと。
眼の場合には、脳死段階ではなく、心臓がとまった、いわゆる通常の死後でかまわないのです、と言われる。ご家族のご意見も確認しつつ、と言われるが、そのご家族がいないから、提供ということも考えるのだ。

つれあいが亡くなった時、解剖もなく、すんなりと自宅へひきとった。病中は苦しんだけれど、死に顔は穏やかに、彼らしい顔になっていた。
傷つけることなく、お骨となったことにほっとした。

しかし、私の場合はどうだろう。すべての臓器(心臓、肺、肝臓、すい臓、小腸、眼球)を提供しようと、何もしまいと、私の後始末をしてくれるはずの弟は気にはしないだろう。
するかもしれないが、故人の希望です、と医療サイドが言えば、それを受け入れるだろう。

臓器は新鮮なうちに摘出されるのだから、葬儀が大幅に遅れるということもないはずだ。

持病というほどの病気もちでもなく、だいたい健康で年齢を重ねたこの体、提供できるものがあればお役にたちたい。

ただ、老化、劣化した臓器でもいいものかどうか、これをはっきり知りたいと思っている。
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老眼は治りません

今日は意を決して、眼科にかかった。
車で1時間ほどのところにある地域基幹の病院である。眼科は木、金、土開いている。

眼科にかかるのは制約がある。眼底検査のための目薬は、ある一定の時間、視力の妨げとなる。帰りの運転ができなくなるおそれがある。

どの診療科も混んでいるのだが、眼科は特に混んでいる。老人科といってもいいくらい、高齢者が多いのも事実だ。

とうとう私もその一員だ。診療前に看護婦さんの問診がある。相当前に受診したときのカルテもあったようだ。そういえば、まだつれあいが生存中、彼はしょっちゅう眼科通いをしたのだが、一度、私も受診して、帰路の運転のために、たいぶ病院内ですごしたことがあった、と思い出す。

急速に視力が落ちていること、光の陰影についていけないこと、動体視力の低下、白内障の可能性、などと受診の理由を述べたてる。

眼科医は女性であった。視力検査などは、あらかじめ、看護婦さんによってすませている。
昏く照明を落とした診療室、眼科独特だ。

結論は、老眼が進行している、ということだ。つまりメガネがあわなくなっている。今使っているメガネの度を調べてくれたが、現在の私の眼には、ほとんど役立たずなのだとか。
老眼はなおりようがありませんから、それに適合するメガネで矯正なさってください、白内障は今のところ、手術の要なしです、という診断だ。

レンズを使えば、1,0の視力はありますから、いい状態の方ですよ、と言われて、昔は裸眼で1,5ありました、というと、昔には戻れませんからね、もともと遠視のかたは老眼になりやすいし。全くその通りなのだろう。

白内障でないことはまだよかったのかもしれない。

先生のお名前をみて思い出した。亡くなったつれあいがかかっていた先生だ。もしかして、3年前くらいまでかかっていた患者でこういうものがいたか、ご記憶にありませんか?と問うてみる。
ああ、この頃はみえませんね、というお返事。覚えていらした。

亡くなりました、というと、そこにいた看護婦さんもそろって礼をされる。おつらいことでしたね、という言葉を聞いて、診察室を後にしたが、薬のせいではない涙があふれてきた。

老いに直面するのはなかなか難しいものだが、未知の道、歩んでいかなければならない。
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やっぱり多い外国人労働者

今回の草津温泉行で、発見したことがある。それは外国人労働者の存在だ。

過疎のわが村にも、季節的な外国人労働者はいる。たとえば、キャベツの収穫については、中国人の力をかりている。
しかし、都会ではコンビニが外国人不在では成り立たない、というけれど、わが村のコンビニは、日本人だけでまわっているようなので、別に外国人の労働力は必要としていないのだと解釈していた。

草津で宿泊したホテルは、老舗の大型ホテルであった。フロントは応対した人が日本人であったため、普通に日本人スタッフばかりだろうと解釈した。
しかし、レストランにいけば、90%のスタッフが外国人のようである。何国人であるのか、労働資格があるのか、研修生なのか、アルバイトなのか、それはわからない。

しかし、テーブルを指定する人、案内する人、飲み物の注文を聞きに来る人、皆さん、日本語にアクセントがある。

ああ、こういう風に外国人に頼っているのだ、と実感する。ホテルといったサービス産業は、人手というのはどうしても必要だ。
皆さん、忙しく働いていらっしゃるので、余計な質問は避ける。

彼らがどういう資格で働いているのか、研修生とすれば、それなりの研修を受けられているのだろうか。

彼らに日本人の職場が奪われている、ということはあるのだろうか。
わが村は夫婦共働きというのが多い。ホテルなどで働いている人も多い。送迎車で往復する人たちが、コンビニの駐車場に集まっている風景は目に慣れている。

こういった労働形態がもう日常化しているとしても、正常かどうか、それは時間をかけての判断になるのだろう。

こうして、旅行などで生活の場から離れると、現実の1面をみることができるのだ。
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Velours du Kasai 草ビロード

屋5-6日の週末、北軽井沢クラフトフェアなるものが開催された。これは毎年10月に行われている。それに参加したショップの一つに、アマゾン屋というものがあり、このお店はペルーの民芸、泥染めの製品を取り扱っている。

話題はそれではない。アマゾン屋の女主人は親しい知人なのだが、我が家にはアフリカの民芸品がある、と話したのだ。テーブルセンターにするような、ちょっと厚めのものだけど、我が家ではちょっと使いづらくて、しまったままだ、と話した。
すると、彼女、それって草ビロードじゃありませんか?という。初めて耳にする言葉だった。

携帯で検索すると、(以下引用)「ショワ族が生み出した幾何学模様の刺繍布。ラフィア椰子の若葉を干して裂いた繊維で男性が平織りの生地を織り、その後女性が刺繍で幾何学模様を描き出す草ビロード。無限ともいわれる草ビロードのバリエーションの豊富さはこの布をさらに魅力的にしています」とある。

初めて知ったことばだ。アフリカ布、民族布、クバ王国の布といった表現もある。

クバという言葉でフランスの辞書(Dictionnaire de l'Afrique)で調べてみる。草ビロードに相当する言葉は、velours du Kasaiと載っていた。
昔のザイール、現在のコンゴ民主共和国の東カサイ地方で作られる民族布なのだ。

この地方には、まだMatwoon王朝が存在するのだとか。そういえば、記憶をたどると、我が家にある布は、王様から賜ったもののような気がする。

キンシャサに住んでいるとき、スペイン人のお宅での昼食会で、立派な服装のコンゴ人の男性にお目にかかった。隣席に座ったので、どうお呼びすればよろしいでしょうか?と問うと、Sa Majesteと仰せになる。つまり陛下とお呼びせよ、ということなのだ。
ホストもホステスもそう彼のことを呼んでいるので、私もコンゴは共和国なのに、などと思いながら、陛下、と呼んで会話をすすめた。

この陛下、ある日、突然我が家へみえ、スペイン人の家での昼食会に、あなたへのギフトを持参していなかったから、とこの布をいただいたような記憶がある。

ご下賜品なのだ。あだやおろそかにしてはいけなかった。

ビロードと表現するけれど、どちらかといえば、軽めの絨毯のような風合いである。男性が平織りで女性が刺繍、と共同作業というのはいい。
きっちりした幾何学模様もずっと以前からの模様なのだろうか。

1枚を織るのに、どのくらいの時間が必要なのだろう。今頃になって好奇心が生まれる。
無知がゆえに、アフリカの文化を滞在中に理解できないままだった。ラフィア椰子というのも実感できない。

民芸品は奥深い。
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