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私は生き残った(3)祖母と大叔母

来年は昭和から数えると100年になる、のだそうだ。
昭和の時代に生まれた身には、3代といえば、明治、大正、昭和だったけれど、今や、昭和、平成、令和を3代としていう。

今、家族制度、あるいは孤独死、墓仕舞、昭和の時代には考えもしなかった変化がある。

私が小さいころ、11人の家族で暮らしていた。
小さいころ、家族関係もよくわからないままだったが、二人の老女がいた。
一人はおミヤさん、もう一人がおリクさん、だったが、こどもたちは、おっかばあちゃんとちんかばあちゃんと呼んでいた。おっかは大きいという意味で、ちんかは小さいという意味でつかっていたのだが、二人とも、ちんまりした老女だった。
おっかばあちゃんは父の母(あとで、祖父の後妻で、叔母たちの母であることを知ったが)、ちんかばあちゃんは、父の叔母であった。

11人の家族のなかで、男性は父と弟のみ、残る9人の女のなかで、この老女の存在は、私にとってはその存在理由が理解できなかった。特にちんかばあちゃんは、その行動などからも、「この人、なんなの?」と疑問だった。

現在でいえば、なにかの行動障害者であったのだろうが、幼い私にとっては、その行動が???であった。
だれからか、仕事を言われるわけではない、とても自由に動いている。
私に関係があるのは、登校後、雨が降り出すと、学校まで傘を持ってきてくれるのだ。
すこしどころか、相当だらしなく着物をきて、傘を3本もって学校へくる。
当時、小学校には姉、従姉、私と3人が通っていたが、この3人に傘を持ってきてくれるのだ。
授業中であっても、時には大きい声で、「傘もってきたよ」と叫び、先生に遠慮するときには、廊下で傘を振って存在を示す、もう恥ずかしくてならなかった。
こちらが反応しなければ、その行動が続く。だれかが先生に告げれば、授業を中断して「傘を受け取りなさい」ということになる。
これが、母からなら、こんな恥ずかしい思いをしなくてすむのに、と感謝より、うらめしかった。

しかし、当時、傘を3本、自宅からもってくる、というのは、傘が人数分ない時代、彼女は帰りは濡れて帰っていたのだ。

ずいぶん何度も、持ってこなくていい、と言ったものだが、彼女は聞く耳はもっていなかった。
彼女は彼女のしたい放題にする、のだった。

掃除などの家事を負担していたのやら、学校に行っている私にはわからなかったが、よく外出して、近所をうろついている、ということは知っていた。

彼女がお金を持っていたのか、知らない。我が家に同居して、食べることは一緒、なにかお金のかかるようなことはなかった。
ただ、愛煙家というのか、家の中でもよく吸っていたが、それはほとんどが、父の吸い残しのタバコだった。
みっともない、と私は軽蔑していた。
人の吸い残しを吸うより、やめてしまえばいいのに、と。
もしかしたら、ご近所をうろつくとき、吸い殻拾いをしていたのかも、と思ったりする。
今、思えば、タバコくらい、買ってあげたのに、だ。
でも、性格がわるいわけではなく、けろっとしていたので、大切にされていたとは言えないが、いじめもされず、年よりとして、ふつうに暮らしていたように記憶している。

73歳で、自宅で亡くなった。そのとき、私はまだ小学生か、中学生だったか、数日、具合がわるそうにして、近所の医師が往診に何度か訪れ、そして亡くなった。
葬儀や死にともなう行事については、何も記憶がない。

しかし、大人になって、帰省したおり、我が家の菩提寺にいけば、我が家の墓石にはちゃんと名前が載っている。
やっぱり家族だったのだ、と思う。そして彼女はまた、家族のなかで、落ち着きのない動きをしているのか、と。
今の時代なら、きっと行き所のない終わりになったろうにと。

家族のなかで、軽く扱われていた彼女、こんなになつかしく思い出すなんて、と意外で仕方ない。



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