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私は生き残った(7)わが生家はインテリ家族であったか?

小さいころ、といっても中学生のころまでだが、我が家はインテリ家族だと思っていた。
インテリという言葉自体をきちんと理解していたわけではなかったが、単に頭のいい人がそろっている、という感覚だったと思う。
それをことあるごとに口にしていたのは、同居していた叔母であった。

インテリ家族である証拠、その第一は、長兄である。旧制の中学、高等学校を卒業し、東大、それも法学部に合格した。戦時中には、海軍経理学校にも在籍していた。
私には、海軍経理学校に入ることがどうゆうことか、わからなかったし、その価値もわからない。まず、この長兄は、会ったこともなかった。あったかもしれないが、いつも不在の兄だった。
その他の理由は、父も一応大学(当時は高商)を卒業していたし、女性も祖母などを除いて、高女を出ていた。
母はそののち、東京で、お茶の水の専門科を終了していた。

これは田舎においては、相当、特別なことで、それが叔母のいうインテリ家庭だったのかもしれない。

私もなぜか、それを信じていた。というのも、日常に英語を話す家だったからだ。
今思うと、英語を話すなど、嘘っぱちだ。
使った英語というのは、How are you?と、学校にいく支度をしているときにHurry upと言われ、友達が玄関で待っているときに、What time now?と聞くのが、私にとってのすべての英語であったし、これに返事がちゃんと英語で返ってきていたのか、今、記憶はない。

割と放任の家庭で、特に私はほっておかれた。宿題を見てくれる人はいず、いつも朝になって、宿題がみつからない、と大騒ぎする日常で、これがインテリ家庭の実態?と疑問に思う一面、こういうものだ、とも思っていた。
なんせ、自分の家庭しか、知らなかったからだ。

大人になって、東京に出て、接する人が大きく変わった。
世間の広さをつくづく感じた。
働いたところが、時代の先端、というのか、その時代のハイライトのところだったこともある。

ある人の家庭は、明治以来、あるいは東大創設以来なのかもしれないが、家族は代々、東大出身、とか、学歴はもちろんであるが、末は博士が大臣か、を実態として持っている、それが何?というような家に育っているし、雲上人にも対面できるような家庭、というような人がざらにいたのだ。

インテリということばの意味の深さも知ったし、またインテリジェンス、インテリゲンチャ(intelligentsia, intelligentzia)といった関連語に、情報機関、情報員といったことをまずは考えるべき、というなんだか、田舎では考えられない意味が含まれていることを教えられた。

田舎のインテリ、そこまで父は頭脳明晰でもなかったと思うのだが、長姉はそれなりに父を評価している。父は英語ができるはずだったが、その証拠は一度もみたことがない。

私は父との接触が少なかったからか、母の知性のほうが直接感じ取れた。
母は、文学が好きだったようで、私に読書を勧めたり、なにかと日本の古典を口にした。
カーテンを開けて、と頼むと、「香炉峰の雪はいかに?」と言いながら開けてくれたり、よく口にしたのは、「いづれの御時にか」、とか、「ゆく川の水は絶えずして」などと、古典の言葉がでてきた。

家の中に、書棚もなく、蔵書なんてことばも聞いたことがなく、ないない尽くしの家、インテリの家庭というのも、叔母の虚栄の発言だった、と思うこともしばしばだったが、ただ、文字を嫌がらない家庭であったことは意識に残っている。

フランスの知人から、真のインテリとは、と教えられたことは、また大人になってのことだった。


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