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白内障手術を受けて

白内障の手術を受けた。
両岸のうち、右の眼である。
2泊3日の入院だった。

この手術を受けるにあたって、情報収集というのか、友人、知人に話せば、経験者そのもの、あるいは身近な人が受けたという体験談が聞こえてくる。
亡くなった連れ合いも受けた。もうずっと前になるが、やっぱり2泊3日だったような気がする。
そうなのだ、担当医の先生は、つれあいのときと同じ医師なのだ。

この医師の方針なのか、病院の方針なのかはわからないが、白内障の手術の説明のとき、当院では2泊3日でいたします、と言われる。
初めて受ける私としては、そうですか、としか言えない。

決めたあとで、テレビの広告や、他の人の体験談から、日帰りでできる、とか、1泊で十分よ、などと情報が寄せられるけれど、もう2泊3日、了承したあとだ。
これをどうしても1泊で、というとどうなるのか、きっと当院では受けかねます、別の病院を当たってくださいとなるに違いない。そんな面倒、私の性分ではできない。

手術は午後なのだが、午前10時に入院する。午前中は何をしたのだろう。体温、血圧、酸素などのチェック、なぜか血圧がばか高い。
目薬も差されたかもしれない。

いっぱしの手術である。術着に着替え、術帽をかぶり、車いすに乗せられて手術室へと向かう。
この行程は、昨年のカテーテル検査で体験した。

目の手術、なんと表現したらいいのだろう。片目で宇宙旅行をしている、というのが一番当たっているのでは?と手術を受けながら考えていた。
部分麻酔だから意識はしっかりしている。次から次へと進行しているであろう手術の内容を、眼科医は逐次説明されているが、なんのことだか全くわからない。

15分くらいの時間だっただろうか?
もう終わりました。そうか、宇宙旅行もこんなに短時間ですむのか?でもこれ以上かかったら、宇宙酔いにかかったかもしれない。
目のまわりにかけられたものを取り除き、手術を受けた目にはおおきな眼帯がかけられる。
眼帯といえば、その昔、ものもらいなどができたときにする眼帯を想像していたのだが、隻眼の剣士みたいに大きなガーゼなのか、コットンなのか、斜めにかけられ、ガムテープみたいに頑丈なテープで止められる。

先生にしたら、一人あがりました、なのか、まだ手術する患者がいるのだ。

病室まではまた車いすだ。
座るか、ベッドに横たわるか、なんせ、1時間か2時間、絶対安静にしていてください、とのことだ。
ものが見えないわけではない。もう一つの目は元のままだ。なのに、焦点があわない。
焦点があわない、というのは対象のものが形をなさないのだ。
眼帯を施した目も開いている。開いてはいるけれど、見えるけれど、手術した目としていない目が協力しあわない。

なんと不自由なことだろう。
今更、目がみえていたことに感謝している。

こうして、手術1日目、隻眼の美老女、ここまで美が使えるのだ、誕生であった。
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スーダン脱出、その後

日本人というのか邦人の脱出希望者全員、脱出ができたそうだ。
なによりのことだと思う。
ハルツームからポートスーダンまで、700キロとも800キロともいわれる距離を、36時間(時間に誤差はあるが)かけての移動だったという。

NPOの人は、眠ることなくこの距離を運転したとか。
36時間とすれば、1日半だ。
途中、食事はとれたのか、トイレ休憩はできたのか、ガソリンはいれられたのか、いろんな疑問がでてくる。
そして、前回にも書いていたように、乗っていた車両は乗り捨てになるのか?と思っていたが、今朝の朝日新聞において、このNPOの車は、知り合いに預けることができたそうだ。

無事についたのだから、トイレも食事もガソリンも、すべてクリアできたのだろうと思うが、しょっちゅうトイレに通う私が、もし、こういうことに遭遇したとき、すみません、トイレ行きたいです、と車列を止めることができただろうか、などと想像して、またトイレに通っている。

ジブチなどに到着後、その後も気になる。
日本政府は、日本に帰国するまで、面倒を(費用の点も含めて)みてくれるのだろうか?
日本から派遣された救援機に日本まで乗せてもらえるのだろうか?
あるいは、民間機に席を得て帰国することになるのだろうか?
全員が日本へ帰国希望なのだろうか?
大使館はジプチの日本大使館に仮事務所を設けるのだという。

60名弱の邦人、どういうことでスーダンにいらしたのだろう。
もし、会社からの派遣であったりすれば、会社が帰国費用を負担してくれるのだろうが、個人の立場であれば、自己負担になるのかもしれない。

スーダンに残したものも、放棄することになるのだろう。
こういう内乱の中、略奪は常だ。

この国軍とRSFのどちらに義があるのか、わからないという。
義のない争いで、決して豊かでもない生活を、底から覆された国民もたまったものではない。

邦人は脱出できたが、スーダンの友ナヒドはどうしているのだろう。まだ眠れない夜が続く。
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スーダン脱出について

毎日、スーダンの内乱を追っている。
ようやく、邦人の脱出もできたらしい。ほっと一息ついた。
その中で、私が持つ疑問、過去への追憶、そんないろいろをどうしても記していきたい。

まず、即応支援部隊と称される、当事者の一方はどういう存在なのだろう。
RSFと略されているが、なんの略なのか、ちっとも思い浮かべられなかった。
Rapid Support Forcesとなるらしい。そうしてみると、即応、支援、部隊、その通りだ。

なぜ、スーダンには2つの軍隊が存在するのか、そういったいきさつは、まだ勉強中だが、もう一つの当事者について、国軍という表現は使われているようだが、政府軍はことばとしてみない。
なぜ、二つの軍隊が存続し、その資金はどこからでているのか、国軍については国費なのだどうが、ではRSFはどこから資金を手当てしているのか?

今回、大使館の存在がとても薄いような気がしてならない。現地の情報は、NPOの人が一人で担当している。
もちろん、大使館は本国との連絡、現地での他の国々との交渉、情報収集で手一杯、メディアの相手などできないだろう。しかし、ちらりとも出ない。

救援機がジブチに到着した、しかし、スーダンまでは1200キロ、首都のハルツームが両軍の攻防の部隊となれば、ハルツームの空港は使えない。
ポートスーダンまで800キロ(今日は700キロとなっていた)を陸路避難する、という方法がとられている。

結局、日本独自の車列をつくることなく、国連の避難のなかに加わっての脱出となったそうだ。
そこに、アメリカはハルツームの大使館から、ヘリコプターで館員を救出した、とか、イギリスも独自に大使館員を救出した、という情報が出る。
まるで、ランボーの映画を実演しているようだ。

元防衛省の高官であった河野氏によると、日本との差は法律的なところにあり、英米は救援作戦(evacuation)であって、日本は輸送作戦でしかないから、自衛隊員のできることは極めて制限されているのだという。
日本版ランボーは実現できないのだ。

いくつもの情報のなかで、フランスが救援した人のなかに、日本人数名がいた、とか、韓国の救出のなかにも日本人が含まれていた、という報道もあった。
韓国との協力、昨日書いたブログでも触れたが、その昔、アフリカの地で、韓国の方々の親切、やさしさに触れ、心あたたまる思いをした。

日本は韓国のお兄さん、と言って、連れ合いや私のことをとても大切にしてくださった。日曜日のゴルフで一緒にプレイしたり、キムチが好きだと知ると、現地で栽培されている白菜で作ったキムチを届けてくださったこともある。
内乱が収まって現地に戻ったとき、韓国はまだ戻っていなかった。いつになるかわからない、というので、彼らの現地での雇用していた人々の行先を頼んできた。
私の私用の運転手も、その中の一人をお願いした。
現地では、外国人が運転していて事故ったりすると、原因がどうであっても、周囲の人が外国人に対して危害を加えることがある、と現地の人の雇用が勧められていた。

今回もまた助けられたのだ、と思うけれど、それは今の情報で分かっただけのこと。
きっと助け、助けられる関係なのだろうと思う。

世界中にこんな騒動を起こして、国軍とRSF、何をどうしたいのだろう。疑問でしかたない。
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スーダン脱出で知りたいこと

ハルツームからの脱出が実行段階にはいったようだ。
救援機がジプチに到着し、いつでもスーダンまでは飛べる状態にあるとか。
しかし、ハルツームの空港が着陸できる状態にない、というので、別の場所(どこかというのは明らかにされていない)に各自で行って、そこで日本の救援を受ける、のだとか。

その場所まで、各自で行くのだという。
他国の例をみていると、車列をくんで、ハルツームから集団で移動しているようだ。

どんな手段で移動するのだろう。自分の車で移動するのか?
それならば、その車は、退避後、だれがどうするのだろう。
スーダン人の運転手を雇っているのか?その運転手は一緒に退避できないのか?

大使館の館員たちもそうである。大使館の車で移動するのはよいが、その車はハルツームまで戻ることになるのか?
大使館に戻って、大使館の敷地に駐車しているのか?大使館の敷地の安全性(治外法権)は保障されるのか?

アフガニスタンの時のように、現地の職員の安全性が保障されていないとき、職員そしてその家族も同行避難できるのか?

アメリカは大使館員の無事避難が報道されている。
フランスは車列に攻撃をうけ、一人が死亡したとか。
みな、秘密裡に実行している作戦なので、他国のことはなかなか報道されないし、わかりづらいけれど、たとえば韓国との共同作戦などはしていないのだろうか?

外国人はまだ出獄ができるかもしれないが、スーダン国民はどうなっている?
ナイル川は脱出に使えないのだろうか。
もやもや、疑問ばかりが浮かんでくる。
気持ちばかりの支援をしている国境なき医師団のメンバーは無事だろうか?
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脱出前のあれこれ

スーダンにはいったことがない。したがってハルツームの事情も知らない。
首都だけあって、相当な大都市のようだ。

毎日、ニュースの時間になると、スーダンを見逃さないよう、テレビを注視する。
状況は違っても、私にとって、雰囲気にデジャヴュの部分がある。

20年以上前のこと、私もアフリカのある国にいた。
長期政権が倒れ、新しい大統領になってからの赴任で、当初はそれなりに平穏であった。
ところが、ある時から辺境の地で、反乱が続発するようになった。
多民族国家で、国土は広く、国内の道路や通信網というのは整備されておらず、政府というのは、首都周辺だけが統治できている、というような国家であった。
辺境の地の反乱は通常なので、最初はみんな軽くみていた、のだと思う。
ところが、だんだんに首都に迫ってきた。しかし、道路事情は悪いから、まあ、大丈夫でしょう、と思っていた。
それなりに反乱軍も進歩していた。アフリカの中央部分から西へと進軍していたのが、一挙に飛行機で西の都市へと進軍、そこから首都攻勢にでたのだ。

首都が落ち着かなくなった。
ある日、いつも通る道路沿いにある外務大臣の公邸、いつもなら、大勢の人が公邸前にたむろしている、この外務大臣はとても若い人で、大統領とは別の部族出身、部族間の融和をはかるための任命だった、その公邸の前ががらんとしている。人っ子一人いない。物乞いすらいないのだ。
一晩にして、外務大臣が逃亡したというのは、とても危機感をあおるものだった。

つれあいが、国外退避もありうる、というようなことを言う。
私は私できちんと事務処理をするべきことがあった。
外国人女性の団体の役員をしていたのだが、2か月後あたりに予定されているバザーの書類を手元においていた。
退避となれば、どのくらいのことやらわからない。そこで一緒に仕事をしているイギリス人の女性を訪ねた。彼女は退避のうわさも知らず、書類などをあずかってくれた。
ところがである、その翌々日、イギリス人はすべて首都を出たという事実を知らされた。
彼女に電話しても通じない。

その時からである。脱出ラッシュが始まった。
つれあいがあなたも出なさい、という。いえいえ、私はあなたのそばを離れません、とメロドラマのヒロインを演じてみせふ。
トルコ大使が、日本人の脱出については、トルコから救出機がくるから、余席に日本人を同乗させることもできるという申し出があった、などとの話も聞く。

当時は、現在ある自衛隊法の改正よりずっと前で、日本独自の脱出なんてできなかったのだ。
女子供をまずは民間機が運航している間に、ということで、サベナ機の最終便(あとにもう一便運航されたが)で国外に出た。

ライフラインが断たれてしまったり、通常はあふれていた街中の人が消え失せたり、遠くに聞こえていた銃弾の音が急に耳元で聞こえるような感じになったり、あのお尻が浮いた感じを思い出している。

細かいことはもう記憶から消えてしまったけれど、スーダンもいま、こんな空気のなかにあるのだろう。
現地の邦人たちも、救援隊もベストを尽くして、脱出を試みているのだろう。
どうぞ、ご無事で、と思う一方、なんでアフリカはこうなのか(アフリカをひとくくりにすることはいけないけれど、なにもかもがデジャヴュなのだ)、ちっとも時代が変わらない。
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スーダンの友よ、無事ですか?

ウクライナの戦争、ミャンマーのクーデタ、イエーメンの休戦問題、世界は動いている、それも騒乱で。
そこにスーダンが登場した。政府と反政府で騒乱が起きているというのだ。

スーダンはもう何年前になるのか、南スーダンの独立で一時期動乱であったが、それ以来のことだろうか。
報道によると、首都ハルツームでは、ライフラインも断たれた場所があり、逃げ惑う民衆の映像もあった。
スーダン人の友人がいる。友人なのだが、この30年近く音信不通だ。

彼女、ナヒドは無事だろうか?と気がかりだ。それよりも生きているのだろうかというのも気になる。

彼女とは東京で知り合った。
ある時、私にはアフリカの友人がたくさんにできた。
はじめはガーナの女性外交官、次はエジプトの女性外交官と知り合いになった。
彼女らの交友関係から、友人の輪がおおきくなったのだ。
ナイジェリアやエジプトの公使、どこの国だか覚えていないが、大使たちもいて、丸外の車で現れるのにはびっくりものだった。

ナヒドはスーダンの次席か参事官だったように思う。
私の住まいと近く、彼女の家で行われる集まりによく招待されたし、週末、おしゃべりに来ない?と誘われていったこともしばしばだ。

彼女が同じスーダンの外交官と結婚し、東京を離れるとき、自宅にあるもので、外交官仲間に譲れないものはすべて、我が家へときた。セカムのテレビもあったし、細かいものでは、掃除用具なども引き取った。

彼女の家に招かれて、こちらからの招待もしなければ、と毎年、テレビ朝日の仲間としていた毛利庭園でのお花見に誘うと、アフリカの外交官グループが大勢きたことがある。
缶ビールを片手に、かわきもののおつまみだけ、という質素な花見だったが、営業の人がお料理をまわしてくれたり、場所のたりないところを譲ってくれたり、提灯がともされた池の風情と夜桜がなんともいえない雰囲気で、日本で初めての花見をした、と大好評を博したこともあった。

ナヒドはその後、配偶者の任地に同行したのだが、私が南仏にいるとき、なにかで連絡があり、ドイツのボンにいることがわかった。
マルセイユからなら一っ飛びよ、と誘われ、遊びにいった。

彼女の夫は、もう外交官ではなかった。反体制側の重要人物であったようだ。
自宅で会合が行われるとき、ナヒドは私に部屋にこもっていてね、と頼んだ。
私も、何語になるのか知らないが、よくわからない言葉で、興奮して討論する彼ら、なにか、明治維新のころの反幕府の運動をしている竜馬たちをみるような雰囲気だった。

アフリカに住んでも、ヨーロッパでとは違い、スーダンに訪問ということもできなかった。まず、彼らがどこで何をしているのか、情報が得られなくなっていた。
一度、ナヒドから電話がかかってきたことがある。アフガニスタンからだった。夫婦で国連の仕事をしている、という話だった。
アフガニスタンから移動するとき、東京を経由することになれば、必ず連絡をするから、と言っていたが、とうとう連絡はなかった。

それ以来、無音である。

彼女はいつも言っていた。一度、スーダンに来てほしい、と。
自宅からナイルが見えるのか、ナイルの川沿いにあるのか、エジプトではないスーダンのナイルをみてほしい、と言っていたのだ。源流は無理でも、ナイルの上流に一緒に行こう、と。

あの約束、今でも心に残っている。
まだ生きているのだろうか?
今のスーダンの政権、反体制派、この30年来、どうなっているのか、フォローしていなかった。
ナヒドの顔は記憶に残っているが、配偶者の顔は覚えていない。

スーダンの映像が放送されるたびに、ナヒドを探すが、彼女も年齢を重ねているのだから、どう変わったのか?心配は尽きない。
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今年50年忌という父

九州に住む兄から手紙がきた。
携帯電話をもたず、固定電話のみの兄とは、なかなか連絡をとりあうことはない。
手紙というのは、年に1回、2回というところだろうか。

その手紙、亡き父の50年忌についてのものだ。
50年、気が遠くなるような数字である、それが亡くなってからの年数だと思ってのことだが。

つい先日、友人4人でのランチを楽しんだ。もとの仕事仲間、とうとう、4人とも配偶者をなくした、という境遇にある。
もっともはやくに配偶者を亡くした友が、お寺から17回忌の案内があった、という。
別の友が、13回忌まででいいんじゃない、もう17回忌はやらなくて、という。

私の場合は、昨年の12月、7回忌だった。墓守は長女に任せていたので、もう列席もしなかった。

兄の手紙によると、33回忌は兄弟姉妹、全員で行ったようだ。それから17年、まだ全員そろってはいるけれど、弟をのぞく全員が後期高齢者だ。
兄の判断は、もうやらなくてもいいだろう、ということだ。

明治生まれの父、昭和49年に死去している。
正直いって、母(大正生まれ、平成14年に死去)のことはよく思い出す。
まだ母の年齢はこさないけれど、立派な高齢者になっても、母は恋しい。
花好きだった母のために、ようやく咲き始めた庭の花を供える。そして母に毎朝話しかける。
母の写真の前では、おばあさんではない。若い娘に戻るのだ。

父にはあまり親しみを覚えなかった。こちらが物心ついたとき、父は社会人として、不遇な立場にあったのだろう。いつも苦虫をかんだような、苦虫とはどんな虫なのだろう、カメムシか?そんな顔で、夕食時にはかならずアルコール飲料を飲んでい。そういうとき、父になるべく近寄らない、というのが暗黙の行動だった。

同じ血をひく兄弟姉妹でも、父に対する印象というのは違うものだ。
父に対して、否定的な感情をもつのは私だけである。
なぜなのだろう、別に暴力的であったわけではないが、父のみせる酒に酔っただらしない姿がいやだった。他の兄弟はそれを目にする機会が少なかったのかもしれない。

世に父親っ子という存在があることを知ったのは、東京で生活を始めてからだ。
友人たちは、父親のことを尊敬の念をもって、愛情深く、近しい存在として話していた。
そういう父親が存在する、というのは私にとって想像もつかなかった。

父の生年を超えた今、父のおかれた立場も理解できるし、彼の弱さも仕方なかったことと受け入れられる。
理解はできるが、愛せるかといえば、やっぱり愛せない。
こんな感情ですごした50年だった。

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雑草という名前の草はない

雑草という名の草はない、これは昭和天皇が言われた言葉として、世に知られている。
皇居の草(雑草)を刈ってしまった庭園担当者が、雑草だから刈りました、といったことを申し上げたときの天皇の言葉、というように言われている。

しかし、なにかの本には、そもそものこの表現は、牧野富太郎博士が発せられたことばらしい。

それならそれで、彼ならすべての植物をリストアップし、分類し、学名のないものについては彼が命名した、らしいので、納得できる。

歌人である知人は、名前を知らなくても雑草とは呼ばない、野草とよぶ、という。
言葉に厳密なかたの言い方だな、と思うけれど、野草というにはたけだけしい草に対面している私としては、雑草、という呼び方以外の方法はない。

可憐な花、色鮮やかな花、姿かたちのいい葉、山野草にうやうやしく名をつらねていても、その名が出ない私には、雑草の名前など覚えられない。せいぜいタンポポ、くらいなものだ。
そして雑草に分類してしまう植物は、なんせ生命力がある、
毎年、春先、まだそんなに勢いのないうちに、私が雑草と判定する草については、頑張って取り除く。
しかし、取り残しの小さな株、落ちこぼれていた種、捨て損ねたもの、雑草はたくましい。
この逞しさから、「雑草のように生きなさい」と説教されることもあるようだが、私はこれだけ嫌われていきたくはない、と思っている。生き残るには、皇居にいかなければならない。

天皇陛下は、名前のない雑草はない、と仰せになったあと、雑草でも刈るな、と指示されたのだろうか?
もし、そうであれば、その後の皇居のお庭はどうなったのだろう。雑草の生命力をおもうと、あとは見るも無残になったのでは?と想像する。

この世界的な燃料不足、運輸費用の高騰で、輸入食物が高騰している。
高騰だけならまだお金があれば、ともいえるが、もともと、食物を人工的に栽培する、ということに違和感もある。
もし、食べ物が市場から消えたらどうする、と考えた。
自給自足ができるか?
動物性のものは、野生dの動物がいることはいる。熊、イノシシ、狸、キツネ、ウサギ、それに鳥類もいる。いつもベランダにおいた餌(ヒマワリの種)をついばむ野鳥たちも、おなかがすけば、とらえ、羽をむしって焼き鳥になるのか、
そんなこと、できっこない。熊やイノシシの餌になるのがせいぜいだ。

動物性たんぱく質をあきれあめたら、植物に生命のもとを求める。
春になれば、山菜がある。ウド、フキノトウ、タラの芽、ワラビ、ぜんまい、ギボウシ、山菜はある。
しかし、腹ふくるるものではない。
それに季節性がある。春先はいいけれど、通年で食べようと思えば、それこそ雑草に頼らざるを得ない。名前を知っていようといまいと、どれなら食べられる、という判断をしなければならないのだが、わが庭に出てくる植物は、毒性の強いものが多いのだ。

そういえば、行者ニンニクが育っている。これは食べられる。
今年の課題は、雑草の名前を覚えることと、食べられるものかどうかチェックする、なのだろう。

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リスキリングと聞いて思うもの

この数年、新語のなかに外国語が混じることが多くなった、X世代、GX,、LGBTQ,、そしてカタカナ語が加わる、
このリスキング、という言葉、最初は最初のリスクとそれに伴うイングという言葉の合成だと思った、リスクを避けるなにかのテクニック、と思ったのだ。
しかし、これはリ、つまりre(再びなにかをする)とskill(技能)に現在進行形のingを組み合わせした言葉らしい。
普段に使っている英和辞典には載っていない。
このリスクの多い時代に、リスキングとくれば、リスクを避けるなにか、と思うのが自然だと思うのだが。

また、この言葉がでてきた場面が、なんとも納得いかなかった。
岸田首相が言い出したことらしいが、女性が出産休暇をとっている間に、スキルアップしたらいい、などという意図での発言だったらしい。
出産を経験していないので、その期間にスキルアップする余裕があるのか、わからないのだが、その発言をきいて、思い出したのは、マーガレット・ドラブルというイギリスの作家の著作「石臼」(記憶が定かでないのだが)だった。
未婚のまま出産するのだが、その子を乳母車(イギリスの乳母車は、豪華で乳母車のロールスロイスと呼ばれる)に乗せ、あやしながら、論文を書いている、というようなエンディングで、こういうできる女性を主役に、こういう場面で終わるこの作家に、果てしない憧れを抱いた。そして、イギリスでは現実こういうことが可能なのだろうか、と少しの疑問ももったのだ。

リスキング、今だとどういうふうにするのだろう。
私の身近な例を思い浮かべた。ほとんどが過去の例であるが、現実的に今もなお、同世代(数年若いけれど)で、現役として働き、そしてなおかつ、レベルアップのための努力を続けている人がいる。
もとの仕事を65歳の定年で退いたあと、別の会社に就職、外国語の能力を認められてのことだが、それからも、語学学校、レベルの高い人のためのプライベートレッスン、を続け、また体力維持のためにはテニスレッスン、趣味・感性にはオーケストラに参加、といった、信じられないほどのリスキングである。

彼女は例外的存在だが、私の周りには、過去のことながら、リスキングに励んだ人は多い。
身内のことで恐縮だが、もう半世紀も前、姉は安定した一流の会社を退職(九州の中都市においてはすばらしい職場であった)、上京し、英語の学校に通った。その学校は海外留学や現役会社員の実務レベルアップのためのもので、そもそも上級の学校だった。
その学校を終えたのち、いったんは就職したが、イギリスへ渡り、そこで仕事をみつけ、また配偶者もみつけ、結婚。そのご、彼女自身は仕事はしなかったが、配偶者の海外転勤にはすべて同行した。

その姉の息子は、大学卒業後、新卒で就職はしたものの、彼の思う仕事ではなかったようで、貯蓄にはげみ、イギリスの大学へ自費留学、MBAを獲得した。

さて、自分自身はどうだったか、顧みると、努力はした。そしてその努力はほとんどが実をむすんだ。
なんとラッキーだったのだろう!と思う。
外国語で仕事をしたい、と希望はもっていたが、外国語をさして勉強もしなかった。
しかし、外国語で仕事をするために、語学力も必要だが、まず、タイピストで働くというより、タイプはできないと、とタイプ学校に行った憶えがある。
ブラインドで打てるようにはなったが、聞きながらタイプする、とか、高度なことはできない、だが、履歴書の技能のところにタイプとは書ける。
そして語学学校にも通い始めた。大学の教養としての外国語では、とても仕事にならない。そこでレベルアップを狙ったのだが、語学というのは一瀉千里、というわけにはいかないのだ。

実力には幸運というパーツもあるという。私の場合、まさしくその例に与った。
事務職で働きながら、語学学校に通い、まだ十分な能力がないままに語学をつかう職場に転職できたのだった。

リスキリングというのは、どうすればできるのだろう。
目的とする技術を学ぶ学校などに通う、お金と時間がかかる。体力もいる。
東京などにいれば、そういう機関はたくさんあるのだろう。
しかし、地方在住者はそうはいかない。今は遠隔という方法も発達はしたけれど、私は自分ができないから、遠隔というやり方を信じない。
私が若いころ、語学を学ぶのに、通信教育があったけれど、慶応大学の通信教育に登録したとき、レポート1本出せなかった。

政治家たちはこともやす気に、リスキリングと仰せになるが、なにせ、お金、気力、体力、がんばらなくっちゃ、なのだ。
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職探し

山の中で隠居生活を送っていると、世の中の動きにうとくなる。
AIが一般化して、生活が変わった。
田舎にいても、政府が決めたというマイナンバーカードは持たされ、それでいて使えるところは皆無(とまではいかないが)に近い。

もう後期高齢者になって久しいから、今更働こうという気持ちにはなれないし、ヴォランチアの仕事にしても、もうご遠慮くださいという声がかかったのだから、就業の予定はない。
しかし、先日、アメリカから休暇で帰ってきた高校時代の親友が、まだ働いているというのに、ショックを受けた。本当に短時間のパートタイムではあるが、現業である。

仕事探し、就業、労働条件、給与、社会保障、人間が生活していく上で、若いときからの蓄積がどんなに大切か、この老後をすごす私にも見逃せない問題なのだ。
現代では、どういう形で仕事探しをするのか、とても関心があり、新聞の求人欄というのをみたりする。
ところが、新聞の求人欄というのがとても小さくなったのか、消えたのか、なかなかみつからない。

数日前、割と大き目の求人広告がみつかった。
それも私が若いころ、就職したいと思っていた出版社、それも正社員募集とある。
仕事内容、視覚、給与、諸手当、勤務時間、休日休暇、福利厚生、応募方法、と条件が詳細に記されている。まるで、ウン十年まえと同じ形ではないか!
資格というのをまずチェックする。年齢制限についての記載はない。会社の条件は、編集経験が2年以上、即戦力として働ける方、これは編集部門だ。業務経験が2年以上ある方(業界未経験者可)これは営業部門の条件だ。

うれしくなった。この頃、こういう形の求人広告というのはあまりない。みんなナビで検索するらしい。
実際、この出版社の広告以外は、マイナビ転職グローバル、女性のお仕事、エンジニア求人サーチ、といった職業紹介所の広告である。

もう昔むかしになる。職探しはどうするものか、わからないまま、大学卒業したのだが、大学に就職部なんてあったのだろうか。
たしか、新聞広告でみつけた朝日新聞西部本社の、新卒者求人の試験をうけた。
書くことが好きで、新聞記者はあこがれ、雑学に自信があったので、まあもしかしたら、という幸運をたよりに受けたのだが、見事に落ちた。
家を出たかったから、就職できないなら結婚、と安易な考えで、お見合いをし、婚約をし、それが中途でダメになり、東京へと出た。
いつまでも兄の家の居候もできず、仕事探すか、と新聞の求人欄を眺める日々。

親戚が働いている会社の求人広告があって、そこに応募したら、試験をうけ、面接でなぜ、この会社で働こうかと思ったのですか?という質問に、親戚が働いているから、信用がありそうで、と正直に答えると、求人担当の人があわててその親戚に問い合わせをしていた。
その日は交通費をいただいて帰宅。結果は後日、といわれたが、結局、縁故はダメだという断りの連絡があった。縁故で採用されようとはおもわず、試験をうけたのだが、と不満だった。
結局、新聞でみつけた銀座に事務所のある会社で、アルバイトで働き始め、数か月働いたところで、幼馴染の紹介で、テレビ局のアルバイトで雇用された。

テレビ局のアルバイト雇用期間が終わったあと、社員の人の紹介で別の会社に雇われた。
テレビ局もそうだったが、小さな会社だったけれど、社会保障はしっかりしていて、いわゆる失業保険(今の雇用保険)、健康保険、あとはなんだっただろう、交通費支給、など、一応、すべての条件は完備していたから、それはそれで、仕事とはそんな形でできるものだ、とのんびりしていた。

その小さな会社で働きながら、夜は学校に通った。フランス語の学校であったが、そこで掲示板に求人広告がでていた。フランス語ができる人を求人しているのは当然、ただ、その語学力の程度については別に指示がないところに電話をかけた。

電話にフランス人がでると、会話がなりたたない。ほとんど、あなたの会話力では無理ですね、と言われ、がっくりきたものだった。
しかし、一つの大使館が、履歴書を送ってください(日・仏で)、試験と面接の日は追ってお知らせします、というのにあたり、なにがよくてか、採用された。

きっとAI利用であれば、どこにもひっかからない、まずメカに弱い私には働く場が見つからなかっただろう、と思う。
その良し悪しは別にして、当時はコネという方法が、女性や中途採用の場合にははばをきかせていたような記憶がある。

今、この切り抜きを目に、もし30代だったりすれば、きっと応募するだろう、とか、ナビでの応募はできるだろうか、などと考えるけれど、これらの方法だと、最初のステップはどこで踏み出すのだろう。
つまり、ナビ求人の場合、仕事のビギナーについてはほとんど可能性がないようにも思う。

私の場合、時代がよかったのが一番だが、なんの保障もなかったアルバイトから、同じアルバイトでも一応テレビ局という名の通った会社で、保障がきちんとしているところで働き、外国の大使館はながいことなんの保障もない現地雇いであったけれど、仕事で学ぶことは多く、仕事なのか勉強なのか、自分でも毎日が学びの時間と自覚していた。

給与の面では恵まれない生活で、大使館時代には交通費も支給されないので、歩いて通えるところに住まいを探したり、毎日、財布を逆さにして、残額確認をするような生活だったけれど、充実して、友人はたくさんできたし、その時の友人が今も親しい、心を許した友人となっている。

昔だって仕事に恵まれない人は多かった。父は定年が50歳か55歳の時代で、定年になっても扶養しなければならない家族が8人ほどはいて(祖母、大叔母、叔母とその娘、それに教育年齢の子が3人いた)、貯蓄はなく、年金などない時代、長兄からの送金でしのいでいたけれど、大変な苦労をしたはずだ。
二人の姉は、とても進学はさせられないと、高校からすぐに就職したけれど、長姉などは大変に不満であったらしい。

時代、時代でいいこともあり、苦労なこともあるけれど、今の時代の厳しさは、山の隠居にもひしひしと感じられる。
今も、時々、明日までは食べられても、あさってから何を食べたらいいのか、途方にくれていた日々が夢にでてくることもあるのだ。
苦労は買いたくない。でも買わなくても出てくる。
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