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終わりよければすべてよし

これは今年米寿を迎えた姉が、しきりに口にする言葉である。
戦前派の姉は、戦争中の体験、戦後の混乱、日本経済の伸張期、一通りを経験し、今、人生の終わりに近づいている、と言いたいところだが、彼女はまだまだ終末期でない、という。120歳まで生きるのだそうだ。

健康面で年齢相応の不具合もでてきているようだが、本人いわく、頭はしっかりしている、という。
そして、その記憶力をためすように、昔の写真をとりだして、そこに映っている人物、背景、当時の時代相、そして写ってはいないけれど、生活を共にしていた家族などの情報、そういったものを集約していこうと、日々思い出にひたっているのだそうだ。

しかし、そんな昔のことを、同居している子供、孫たちは、興味を示してくれない。
おばあちゃんの思い出話を聞いてくれることもない。
それで、その語り、あるいは問いの相手として妹の私が選ばれた。

姉と私は、母が違う。それだけ、年齢も違う。したがって、姉の話にほとんど付き合えないのだが、それでもいくらかの共通する思い出はある。そのほんの少しを分かち合いたいという。

たとえば家族の思い出だ。
父と母、ここで母が違うというのは、たとえ、彼女の母親が、彼女がほんの幼児の時に亡くなって、彼女自体の思い出も少ないとはいえ、もう私とは食い違う。
同居していた祖母、大伯母、伯母、叔母、父、のち添えとしてきた母(私にとって)、出入りしていた昔の番頭さん、伯母がのちに後妻として嫁いでいった家の人々、叔母の嫁ぎ先の人々、昔は大家族が多かったので、その人間関係は限りがない。

父の先妻さんには長男と長女(この姉のこと)がいて、次男の産褥で亡くなられたというけれど、姉と話す場合、お母さんと単純に言えない場合がある。産みの母か、育ての母か、と分類もできない。というのは、姉は、生母なきあと、祖母や叔母たちの手で育てられたようなのだ。

そんな複雑な家庭環境の思い出整理をしていこう、という姉の希望、私自身も昔の記憶のあいまいなところを補える、と話しにのった。

姉は言う、88歳になって思い返したとき、今の幸せにつながる人生、ほんとうにいい人生だったと思う、と。
不幸の断片をさがすのではなく、幸せに結びつくことをさがす作業なら、お手伝いいたします、と来週に会うことになる。
どんなファミリーヒストリーがでてくるのか、とても楽しみだ。
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逃げる

道路の雪が解けた。まだ、これから降雪、積雪はあるだろうが、この土が出た道路をみていると、歩くこともできるので、逃げる準備ができたな、と思う。

逃げる、何から逃げる?何からというより、どこへ逃げる?というのを先に考える。

ウクライナにロシア軍が侵入してきて、2月24日で1年となった。
当初は、ロシア軍がウクライナの国全体に攻め込もうとしていたので、ロシア国境の地域のみならず、東西南北、国全体から、隣国へと陸路を使って逃げようとしていた。

あの時、鉄道や自動車、あるいは徒歩で国境を越えようとするウクライナ国民を見ながら、さて、日本だったらどうなるか、を考えた。
海に囲まれた国、ということは、海しか逃げ口がない、ということだ。

なぜ、逃げなければならない状況になるか?それは外国から攻められたとき、であろう。
どこの国から、とは特定しないけれど、日本の場合、北東、南西、北西の半島、と3方向の国から攻められるという可能性がある。

現代の攻め込み方は、忍者みたいに軍隊が上陸して、というより、バンバンとミサイル、それも一発ではなく、数百発?を、一挙に打ち込んでくるの可能性がある?(軍事問題にはうとい)。

アフリカに住んでいた時だ。実際、ここに住んでいた時、内乱が発生し、反乱軍が首都まで攻め込んできた。私はかろうじて、その前に最後の民間機で脱出したけれど、つれあいはそれよりあとに、隣国との間に流れる川をわたっての脱出だった。

平和ボケというのだろうか、こういう危機に対して準備をいうものがあまりない。
この国は、常に政情不安だったけれど、友人宅にはボートが備えてあった。いざというとき、このボートで隣国へ逃げるためだという。
このボートで川を渡れるのか、何人が乗れるのか、川まで運ぶ人力があるのか?いろいろ質問したけれど、友人もそういうことになっている、実際、どうなるのかは自分はしらない、と言っていた。
しかし、脱出手段として、そこまでの装備をしているのか、と感心したものだ。

国情不安定なところに住んでいる場合、常に脱出、逃げることも頭においておくべきだ。
とは、言われても、「水と安全はただ」というような意識にどっぷりつかった日本人として、なかなかそこまでの準備はできない。

昨夜、ウクライナの1年前の混乱を夜中までテレビでみていた。
彼らも予期せぬ事態に、どうしたらいいのか、混乱のきわみだった。
特に東部国境地帯に住んでいた人々にとって、砲撃のほか、ロシア兵が直接侵入してきたのだ。
逃げようがない。
季節は冬、ウクライナは寒い。(我が家も寒い)
昨日のテレビに出た女性たちは、いったんはロシア側へと逃げ、そこから再びウクライナのより安全なところに逃げられた。
淡々と話すその内容、ときどき、口のなかに戻す言葉がある。

”私は生き延びた、ても、息子は、母親は、親族は、”とまるで、自分が見殺しにしたかのように、口ごもる。

戦いは常に理不尽なものだ。こんなに世界の耳目を集めることはなくても、アフリカの地ではまだ日常で起きている。

逃げる、ことはきっとできないだろう(手段がない)。それかといって、その理不尽さと戦えるか。
Ni l'un, ni l'autre どちらもできない。ふがいない一市民である。
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戦争の終わり方

2月24日、ウクライナ戦争が始まって1年となるそうだ。
去年の今頃、極東の地にすむ私には、わけがわからないまま、ロシアの軍隊が、ウクライナに侵攻した。自国民、あるいは、ロシア系の住民を保護する目的だったと思う。

日本が海に囲まれて、陸続きの国教がないせいか、おかげか、そういう形での侵攻には遭遇したことがない。
侵攻の理由が世界の理解を得られるのか?なんて新聞の大上段の記事を読みながら、クリミア半島が1994年にロシアから占拠され続けていること、などを知らされていったのだ。

UEやOTANがウクライナ支援をする、ロシアへの経済制裁をする、ロシアの士気は低い、武器も在庫が少ない、評論家、専門家の言葉を聞いていると、なんだか、すぐに終わりそうな楽観的な気分になったけれど、あの寒い冬をもう一度、ウクライナの人々に強いている。

この戦争が始まって数か月たったころだろうか、ゼレンスキー大統領はバカだ、と評する人がいた。
どういう論理でバカと評したのか、そのテレビ番組を見なかったのでわからないのだが、馬鹿だと言い切る評論家たちを馬鹿なやつたちと思った。

戦争をしかける人間はおおむね、短慮の人なのだろう。外交交渉に耐えられない人たちなのだろう。
プーチン大統領については、馬鹿を通り越して狂人と思っているが。

昨日、書いたブログに、パリ日記という本に触れたが、そこに記録されている1990年のイラクによるクウェート侵攻、湾岸戦争、仕掛けた人間を馬鹿と言っても、仕掛けられた人が仕掛けるように仕向けた馬鹿な人間とは言えないだろう。

当時を思い出しながら、あの時もエネルギー危機がおきたようだったけれど、どう乗り越えたのか、エネルギー源の多様化など、当時もしきりに問題にされていたけれど、教訓にはなっていなかったのか、
自国のみならず、他国の指導者が正常な意識をもった人か、狂った部分があるのか、十分注意を払わなければならない、などと、学んだことはどこにいったのか?

外交官でもなく、歴史家でもなく(そうありたいと思ったことはあるけれど)、21世紀の戦争というものが、20世紀とは違った形(ドローン、無人機、生物や化学兵器、情報操作)で行われているから、兵士たちが白旗あげて、まいりました、と言って終わりではないことはわかる。

それにしても、ゼレンスキー大統領のスピーチの見事さ、数年後(できるだけ早く)には、きっと彼のスピーチ集が出版されるだろう。それを午後のコーヒーを飲みながら読む、という日が少しでも早くきますように。
地震は天災だが、戦争は人災。
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追憶

追憶、つまり過去をたどる、年齢を重ねると、思い出が積み重なって肩がこる。
追憶という映画があった。これは過去のある事件、あるいはそれにかかわる日々を思い出す、というような、ごく短い間の思い出をたどった内容だった。
今、生まれてこのかたの思い出が、年代をおわず、あるときは幼児期、あるときはつい数年前と、その時の気分で記憶がよみがえる。

それにしても、長く生きていると記憶もおぼろ、思い出ぼろぼろ、というと、友人が、映画の題名か、歌謡曲のタイトルじゃない、と笑ったが、年月日、さだかではなく、登場人物も名前もでてこない思い出に、たいへん役に立つ資料をみつけた。

それは元新聞記者の山口昌子氏が書かれた「パリ日記」である。特派員が見た現代詩記録1990-2021で、今、わが手元にあるのはその第1巻目「ミッテランの時代」(1990.5ー1995.4)(藤原書店)である。

彼女は新聞社の特派員として、長くパリ駐在をされたが、もう退職され、パリに住まわれているようだ。
彼女の新聞期は時代、難度かお目にかかったことがあるけれど、しっかりした方だった。
新聞記者、外報部の方たちはそれなりにきちんとした方々が多かったけれど、そのなかでも凛として報道に取り組んでいらした印象が残っている。

1巻目が579ページもある本の、まだほんの90年の終わりのころまでしか読んでいないのだが、もう激動の日々連続である。なんせイラクのクウェート侵攻があった年なのだ。
あの頃のことを思い出す。姉一家はサウジに住んでいた。湾岸戦争が始まって、イラク在住の外国人が捕虜になったり、国連軍ではなく、欧米の連合軍が出兵したり、と歴史そのものが毎日起きていた。
それを事実だけ淡々と描き記されている。事実だけのはずが、その裏にいろんなドラマがあったことを覚えているから、手に汗握り、なにか記録映画をみているような、切迫した映画のシーンをみているような、そんな気持ちになりながら読み進む。

新聞記事とは違う。日記なのだ。3段に組まれたページ、何月の何日、事実の記載、そこに登場する人物、会うというより、目にしたことがあるフランス人、もう名前を思い出さなくなっていたけれど、そうだ、そんな人がそんな行動をしていたのだ、とその瞬間が目の裏によみがえる。

そして彼女の意識が、全部ではないけれど、当時、私自身がもっていたものと重なり合うと、そうだそうだ、と同館してしまう。

表紙はミッテラン大統領を中心に、右にジョスパン、左にシラク、3人とも故人ではあるが、当時のいきさつを思い出す。
ミッテラン大統領については、就任時から全立願を患っていたこと、それを14年間の大統領時代、ずっと隠しとおしていたこと、などが先に触れられている。
そうなのだ、ミッテラン大統領が東京サミットに出席したとき、その顔色が蝋石のように白かったこと、握手した手の冷たかったこと、など思い出してしまう。
またシラク元首相(ミッテラン時代、その後大統領になった)の手の大きかったこと、パリ大相撲のとき握手したけれど、その手と直接触れて、こちらの手は赤ちゃんの手のように感じたこと、など、急に思い出す。

他人の日記ではあるが、なん年何月何日という日付まで確かなものが出て、自分のあやふやな記憶が更新されるなんて、なんて楽なんだろう。

日仏交流史の資料ともなりうるこの日記、山口氏にも敬意を表したいけれど、出版した藤原書店にも感謝だ。

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Mariage pour tous

Mariageは結婚、pourはために、tousはすべて、つまりすべての人のための結婚を、ということになる。
これは、もう10年以上も前に、フランスで大きな運動のスローガンである。
すべての人、つまりLGBTの人たちにも結婚の権利を、という運動だ。

何年前になるのか、ある年、パリの代父の家に滞在していたときだ。
パリでこのMariage pour tousのデモがあるという。
代父はもう90歳という老人、とても保守的な人である。そして同じ建物の別の部屋に住んでいた孫は、ソルボンヌの修士課程に籍をおく学生がいた。

新聞でもテレビでも、このデモについてどんなに大がかりなデモになるか、と報道している。
朝食の場で、このデモに参加してみようかな?と言ってみる。
私の場合、旅行者の好奇心そのものだ。
孫が言った。僕も参加するんだよ、と。
びっくりした。私の参加は冗談だが、彼の参加表明は真剣な感じである。

孫が外出したあと、私は代父に、彼がデモに参加するのを認めるのか、と問うた。
老父は言った。これは個人の問題だ、彼は参加する権利があるし、彼にLGBTの傾向があることはわかっている。
そして父は付け加えた。自分もデモに参加する、と。
しかし、そのデモは孫と同じものではなく、これまでの家族の在り方を支持する、Mariage pour tousに反対するデモ、に参加するというのだ。

夕食の場、老父も孫もそれぞれデモに参加した、という。
反対の立場にあっても、なにも言わない。賛同も非難もなしだ。

その後、フランスでは同性婚も認められたのだろう。

あの時の、老人と若者の静かな態度が思い出される。激しい言葉のやりとりなどなく、相手の立場や性的嗜好を受け止めていた。

ところで、同性婚をいうとき、LGBTだけが出て、最後のQは省かれるのはどうしてなのだろう。
QはQueerあるいはQuestioningの略で、自身の姓自認や性的指向が定まっていない状態にある人や、あえて決めない人、のことだという。

あの孫は同性婚をしたのだろうか?5年前、代父の葬儀ミサに出たけれど、その時、特別話し合うこともなかった。
日本に来たいと言っていたけれど、コロナのせいもあるだろうが、なんの連絡もない。

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トルコ、シリアの大地震

今日の朝日川柳に次のような句があった。「千人の単位で死者が増す怖さ」(千葉県 野田允男)
その恐怖、私ももっている。昨日は2万2千人だったのが、今朝のニュースでは2万3千人になっている。
この数字も確認された死者数であろうし、まだがれきとなっている建物の下にどれだけの犠牲者がいるのか、特にシリアの犠牲者の数字はとらえがたいと思う。

7,8という震度、ほとんど8に近い。
どのくらい激しい揺れだったのだろう。
我が家では、2011年の東日本大震災の時、たしか震度4強だったろうか。
家屋に被害はなかった。が、日中であっても(午後2時45分?)その揺れに恐怖で、外に飛び出した。
震度7以上の揺れが、現地では午前4時というから、まだ眠っている時間だろう、どうやって逃げ出したのだろう、と助かった人々をみながら思ったものだ。

天災は起きるときは起きる。人為の及ぶところではない、と思う。
この被災地、いくつかの断層がぶつかるような位置にあるという。
数十年に一度かもしれないが、地震は可能性のある場所に起きるものだ。

しかし、建物倒壊の様子をみると、多層の建物が見事にぺしゃんこにつぶれている。
パンケーキ現象(?)とかいうらしい。パンケーキを数枚重ねたようにつぶれているからか。
しかし、このような倒壊の仕方、デジャヴュではないか。
バングラデシュでも見た。インドでも見たことがあるような。それはテレビの画面であるが、実際には、エジプトのカイロでみたことがある。
カイロでは地震の結果ではなかった。しかし、大きな建物が、レンガ造りであったが、ぺしゃんこにつぶれていた。そして崩れたレンガがあるところに、鉄筋がなかった。
もしかしたら、鉄筋はもう盗まれていたのかもしれない。が、レンガも手作りのような雰囲気で、これで大きなビルを建てていたのか、と恐怖を感じた。

報道でみていると、建築基準があるにはあるが、欠陥があってもそれをちゃんと認識していますと届けておけば、建築恩赦というのがあって、そのまま建物は建てられるらしい。
そんなことがあってたまるか、である。

これからはエルドアン大統領批判だ。
エルドアン大統領は大統領の地位について20年、また今年再選を狙っているという。
トルコに任期の制限がないらしい。

一度、トルコに旅行したことがある。何年前になるかは覚えていないが、当時、エルドアン氏は首相だった。なかなかやる気まんまん、女性のヴェールをはずすことをすすめたり、なにしろ、西欧化をはかって、社会に活気があり、いけいけどんどん、頼もしい印象だった。

そして首相から大統領に選ばれたとき、私はトルコもこれで変わる、と喜んでいた。
そして、西欧には属さないけれど、NATOのメンバーとして、アジアとの間を結ぶ存在感をだしてくれるものと、勝手に期待していた。

とてもしたたかな存在だ。それは今回のウクライナ戦争において、地理的、政治的、戦略的存在を存分に意識した外交にも表れている。

しかし、今回のこの大地震、強権的政治のつけをしっかり感じているだろう。
自国の社会性の低さ、国内のインフラの脆弱さ、それは彼の政治の失敗を意味している。

被災地を訪問して、今日はよくなる、そして明日はもっと良くなる、と言っていたけれど、馬鹿なことをいいなさんな、こんな状態になった責任はどうとるのだ、よくなる、どうよくなるのだ、と私はテレビにむかって怒っていた。私が怒ってどうなる、のだが。

ウクライナの戦争は続いている。エルドアン大統領は外交を考える暇はないだろう。
ロシアはどう出る?

最後に、トルコはその英語表記TurkeyをTurkiy(uの上にトレマが付く)(トゥルキエ)と変更したいのだそうだ。Turkeyが七面鳥と同じなのがお気に召さないということらしい。
ウクライナの首都がその英語表記をKievからKyivと変更したことにならいたいのか。
まだ英語表記でそうなったのをみていない。
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エスワティニ王国

昨日テレビをみていて、なんじゃこれは、と思った。
それは、アフリカの地図で、南アフリカのすぐ上(北)にエスワティニという地名がある。
この日の地図では、ロシアのラズロフ外相がアフリカ歴訪をしている、という報道で、その訪問国をピックアップしていたのだ。

ほかの国名は知っているのだが、エスワティニというのは初見である。
以前はアフリカの国名は全部知っているつもりだったが、もう20年来、アフリカと縁がなくなって、だんだん記憶から消えていった。

国名としては初見なので、果たして国名という確信がない。検索をかけた。
もとのスワジランド(Swaziland)王国である。スワジランドなら聞いたことがある。
いつ、どうして国名を変えたのか、私に断りもなく、なんて自分の情報不足を無視して文句を言う。

2018年4月19日、独立50年(1968年独立、イギリスから)を祝う日に、ムスワティ3世国王が、この国名変更を宣言し、当日より実効したのだという。

手持ちのアフリカ地図をみてみると、古いことがよくわかる。
スーダンのところに、南スーダンはない。

地図と辞書は、毎年買い替え、と資料室で働いているとき心掛けていた。
まあ、この緩さ、ニュースを毎日見ているのに、この国名変更は知らなかった。
知らなくても、日々の暮らしにはこまらないけれど、なんとも冷や汗かいた。

いろんなファクトをup to dateしていくのも大変なことだ。

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マイナンバーカード初使用

昨日、車で1時間ほどの距離にある病院へいった。
受付で病院のカードと保険証が必要だ。
ここは大病院、マイナンバーカードに保険証を組み込んでいるのを使ってみよう、と、使えますか?と問う。
はい、お使いになれます、という返事。

ナイナンバーを読み取るための装置にカードをいれる。ずいぶん奥まで押し込む。
本人認証は、顔、暗証番号などがある。暗証番号は何にしたか、もう忘れている。
顔で勝負だ!
と画面の丸の中に顔を押し込む(写しこむ)。
かわゆく微笑む暇もなく、はい認証されました、と掲示がある。

病院の受付の手をこれで一つ、二つ、軽減したことになるのかな?と思う。

健康保険証をいれたご褒美で、7500円分のポイントをもらっている。
こうして、実際に保険証の代わりに使用すると、無為にポイントを使っていることの代償にはなる。
キャッシュカードの機能はつけていないから、病院の費用はマイナンバーでは払えない。

ほかになにができるんだっけ、と付き添いにきてくれた友人に問うと、彼女は昨日、確定申告をしたという。
彼女はPCなどに長けているので、簡単にできるのだろう。
私も考えないではないが、どうもPCでの操作が苦手だ。
確定申告は税務署で、というキャンペーンは今はないけれど、実際に税務署に行き、PCへの入力をしてもらい、書類にハンコをもらわないと安心できない。

よしよし、step by step一歩ずつマスターしていけばいいのよ、と友人はやさしい。しかし、次の一言は厳しかった。棺桶への一歩と、パソコン申告の一歩はどっちが早いかしらね、どっちでもいい。

それより、この県で、いつどこの病院・医院でも使えるようになるかが問題だ。
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今年は米寿

2月になった。
2月末、つれあいは米寿を迎える、はずだった。そう、もういない。だから米寿のお祝いはなしだ。
それでもお祝いしたい。

ここに一冊のアルバムがある。
2010年5月27日、パリでの写真をまとめたものだ。
この日、つれあいと私は、パリにいた。
私の代父、代母がともに88歳となり、米寿の祝いをするためだった。

米寿?なんじゃそれは?と代父・代母の親族は問うた。
八の数字が重なるから、とてもおめでたい数字なのよ、お米の形をしていること、お米は日本人にとってとても大事な食べ物、おめでたいことがかさなって、どうしてもお祝いしなければいけない年なの、と説明し、私が主催、場所は代母の姪の住まいで行うことになった。

フランスでは、だいたい5歳ごとにちょっと大がかりにお祝いをする。50歳はとても大がかりだ。
代父・代母(同い年)たちの85歳はそれなりにお祝いしたのだと思う。

出席者は、代父・代母と親しい親族、かれらは私とも親しい。
場所を提供してくれた姪夫妻、代父の甥夫妻、代母の甥夫妻、それに孫と我々夫婦、それにあわせて姪の父(93歳)の誕生日も祝う。

メインとデザート、飲み物は姪、おつまみや前菜を私が出すことになった。日仏協力の晩さん会である。

それはそれは楽しい晩さん会になった。93歳のギイ、88歳の代父、代母、矍鑠とはいえないにせよ、晩餐の席、2時間以上だ、を飲み、食べ、しゃれた会話をし、答礼のスピーチをした。
次回は私のつれあいが88歳のお祝いをするとき、フランスからみんなが来てくれる、となった。

だから、本来であれば、今年2月、日本にみんなが集まってくれるはずだった。

フランスとの間の制限は緩和されたから、彼らが来日するのに障害はない。
ただ、主役となる本人がいない。
そのほかにも、もし生きていても、客人を迎えて食事会をする、ということはきっと無理だろう。
おそらくは、病床にあったり、施設にはいっていたりで、ことばだけのお祝いになったかもしれない。

この代父は96歳、代母は92歳でこの世を去った。

まあ、死んだ者の年を数えてもしかたない。つれあいの誕生日に、”二人で酒を”楽しみとするか。
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N分N乗方式

昨日のテレビで、国会の場面を見ていてがっかり、そして腹がたった。
自民党、国民民主党、維新、この3党の質問にそろって「N分N乗方式」という言葉が出ていたからだ。
これは所得税の課税方法の一つで、個々人にかけるのではなく、世帯の場合、一世帯を単位として全体に課税するシステム、だそうだ。
聞きなれない言葉が出てきたけれど、システムの解説を読み、またフランスで長く採用されている課税方式、ということに、なんだ!という思いが、それも腹立たしい思いがでてきた。

フランスでこの呼び方を聞いたことはない。
といっても、私の知識は、1995年あたりでストップしているので、現在では、フランスもこの呼び方を使っているのかもしれないが、私がフランスとつよくかかわっていた時、この課税方法は、Quotient familial(家族除数)と呼ばれていた。つまり、除数(割り算の下の数)を個ではなく、家族全体の数字にする、ということなのだ。
この税制、税金にうとい私にとって理解しがたいところもあって、その時代、大蔵省であったが、主計局の若手に教えを乞うたものだ。

大蔵省主計局には、それは頭脳明晰な人がいて、フランス留学経験者もいた。ENAというエリート官僚を育てる大学校に留学もし、フランスの税制にも詳しかった。
現議員の片山さつき氏もそういうキャリアを積んでいらした。
彼らがしっかりフランスのシステムを研究してきたはずなのに、なんで今頃まででててこなかったの?と、昨日は腹が立った。

国会での質問者は、フランスのこの税制こそが、フランスの出生率の高さをもたらした、と言っていた。
私はそのテレビ画面を見ながら、それだけじゃないよ、と叫んでいた。
フランスにはFamille nombreuseという言葉がある。大家族、つまり子供が4人以上いる家族のことだ。
子供に対する手当などももちろん1人から得られるけれど、4人以上いれば、その補助がけた外れに多くなる、また鉄道やその他の面で、割引が大きいとか、各種の援助があるのだ。
そもそもまだ当時は、カトリックの影響もあって、一世帯における子供の数は多かった。

当時すでに、ではないけれど、出産において、母親への休暇conge de materniteのほか、父親の休暇conge de paternite(2002年より)も新設されたし、いまや、もっと充実しているはずだ。
これらの休暇は権利であり、勤務先の都合でとれない、というような制約はつけてはいけないことになっていた。

もし、岸田首相が、異次元の(今は次元の異なると言い換えているけれど、言語上の違いはわからない)政策をとるのなら、もっと根本的に制度改革をしなければ、と思う。

当時、とくくると乱暴だが、フランスではIVG(intervention volontaire de grossesse)、これは妊娠中絶のことであるが、volontaireという言葉から自分の意思で、という意味が加わっている。それまでは単にavortementと呼ばれていた。そして人工妊娠中絶は違法だったのだ。
これを合法にすること、またあわせてmere celibataire 未婚の母の問題もあった。
結婚の形式の問題も浮上、Union libre, Concubinage, Cohabitationという呼び方は違うが、結婚という法的な手続きをとらず、ともに住む、つまり同棲をする、しかし、夫婦としての法的権利をどの範囲まで与えるか、というような諸問題、を改善していく動きがあった。

そして、このような自由な結びつきから生まれる子供の問題も浮上したが、それもほとんど正式な結婚による子供と変わらぬ保護が与えられるとなったのだ。

姓の問題については、フランスはとても保守的だ。男性の姓を名乗ることになる。
ただし、法的には生まれたときの姓を維持することになっていて、子供が生まれたとき、その子は父親の姓を名乗る。したがって、女性の姓は継続性がなく、希少な姓が消滅していく、というので、あえて結婚の手続きをしないカップルも多い。

選択性別姓制度も一つの方法だが、中国や韓国のように、夫婦別姓の制度を取り入れることも一つの方法だろうし、こういう選択しなくても別姓を維持する、という方法もあるではないか。

N分N乗方式にもそれなりの欠陥はあるだろう。しかし、この方法をとることで、103万円の壁や160万円の壁など、解決方法がみえるものもあるのでは?と税制に無知ながら、無知がゆえの提言をしたい。







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