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不思議な花コルチカム

庭にコルチカムが咲いた。ピンクの色が冴え冴えとしてとてもきれいな花だ。
その咲き方が独特だ。
和名はイヌサフラン、だからサフランの咲き方と思えば、不思議ではないかもしれないが、茎がほっそりしていて、それでいて、花は大きい、という姿は、不思議な花である。

それにもう一つ、不思議な要素は、花だけが咲く、のだ。葉っぱはない。
サフランはだいたい、そのような咲き方をするし、また春に咲くフクジュソウやクロッカスも花だけが先に咲く。
コルチカムの異常なところは、花だけが秋に咲き、葉っぱは冬を超えて、春にようやく生えてくる。そのときには当然、花は名残ひとつなく消え去っている。だから、この葉がコルチカムのものであるとは思えないのだ。

学名は、Colchicum autumnaleで、ちゃんと秋という言葉がはいっている。
ヨーロッパ中南部や北アフリカあたりが原産地で、地中海沿岸には多くみられるという。
しかし、マルセイユに住んでいるときにはみかけなかった。

花が先か葉っぱが先か、私は春、それもいろんな草花が咲きそろうころに葉っぱがでてくるのだが、葉っぱが先で、栄養分を地下の球根にため込み、それで秋に花が咲くのだと思っていたが、花が先らしい。

我が家のコルチカムはいつからだろうか?
まだつれあいが生存中に、どこかのどなたからか、いただいたのだと思う。
その時、つれあいは知っていただろうか。この花がコルヒチンを含む有毒植物であることを。
腹痛、下痢、嘔吐などをもよおす有毒植物、でとても危険らしい。
つれあいは、庭の植物に有毒か、触ると痛いものが多くて、いかにもあなたの庭らしいね、と言っていた。(これは植物の特性であって、私が故意に集めたものではない)

花言葉は「危険な美しさ」
英語ではMy best days are pastなのだそうだ。

きれいな薔薇にはとげがある、ともいうが、バラのとげでは死にいたるまではいかないかもしれないが、このコルチカムの毒は死に至るケースもあるのだとか。
しかし、どうやって、このコルチカムを使えばいいのだろうか?
毒としての使用法は、携帯の索引ではでてこない。
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NHKの料金引き下げに反対

NHKはいつもいい時間帯に局自体のおしらせをする。
NHKからの大切なお知らせ、ととても引き締まった、それでいて愛想のいい言い方でのおしらせというから、おお、また値上げか、と思えば、値下げだという。
この何もかもが値上げの時代に、これは唯一の値下げではないか、毎時におおきく画面に値下げをだしてもいいのではないか?と思う。
ほかの局が、NHKだけ値下げします!なんて言わないのは、他局は民放で、視聴料を徴取しないからだ。

値下げをするにあたり、番組の質は落とさない、と。
あったり前だ。もうこれ以上はない、というほど、質は落ちている、と私は判断している。

いやというほどの再放送があり、新しい番組にしても、これがNHKか?というほどの質の低下だ。
番組編成にしても、民放との違いがわからない。
違わないのが当然かもしれないが、以前はさすがNHKと思う、スポンサーにへつらわず、人気だけで実力のないタレントは使わず、視聴率はかせげないかもしれないが、格調高い、時代を先行したり、あるいは時代遅れをいやがらず、といった番組があった。

今やどうだ!民放の騒々しさ、安っぽく視聴率を得ようとする、タレントをそろえただけの番組、局アナにしても、タレントとおもわせるような物言いが通常化している。

NHKはチャンネルをたくさんもっている。地上波で1チャンネル、Eテレ、BSでは1とBSP、そしてBS1がスポーツなどでタブるときは、2も使う。
いつの間に、BS1はニュース&スポーツから、スポーツ時々ニュースになってしまったのだろう。
古いタイプの人間なのかもしれないが、メディアの最優先はニュースであるべきだ、と信じている。
それなのに、まあ、スポーツ、それもMBA最優先ではないか。

これなら朝ドラももとはとれるのだろう、と思ってしまうが、現在の朝どらは、BSなどで時間を変えて同日に見られる。
そして、過去に放送されたなつかしのドラマが、何度も何度も再放送なのだ。

今時、なんで引き下げできるのだろう?これまで、そんなに暴利をとっていたのか?

再放送の多さ、どの番組がどうのこうの、ときちんと指摘できないのだが、特に昼間のBS放送、民放はみんなセールス番組ばかりのとき、せめてNHKならば、と思っても、NHKよお前もか、とがっくりすることのおおいことよ。

私は引き下げてくれなくてもいい、もっと質の高い放送をしてほしい。
そんな注文も、聴視料を払っているから大声で言えるのだろうし、視聴率も気にするなと言える。
こんなブログ、NHKの目にはとまらないだろうが。
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きりきりしやんとしてさく桔梗哉

これは小林一茶の句「七番日記」だそうだ。
9月24日、朝日新聞ピーター・J・マクミラン氏の星の林に、という連載(2週間に1回、日曜日掲載)にあった。
氏によると、一茶は二万句ほどの発句を残しているとのこと、私が一茶で思い出すのは、「われときて遊べや親のない雀」くらいなものだ。

マクミラン氏はこの句を、
Chinese bellflowers
- chic and erect -
pop open in blossom
と訳している。

そうなのか、桔梗はchinese bellflowersというのか、と桔梗の英語名を知った。
ちょうど、花の終わった桔梗を刈り取るときで、あなた方はチャイニーズ・ベルフラワーというのよ、と言いながら切った。

この英訳で、桔梗は普通名詞だからいいけれど、きりきりしゃんという擬態語をchic and erect、そしてその咲くさまをpop open in blossomと表現されている。

その昔、仕事に翻訳もはいっていたころがある。
日本語から外国語にする、これは外国の事情や生活、歴史、風土、すべてを知っておかないと、なかなか適切なことばがみつからない。
そんな知識のない私にとって、日本語を外国語にするのは、至難のことで、できれば外国語から日本語のほうが楽だった。楽といっても正確に訳できたわけではないが。

氏によると、桔梗の英訳としては、上記のChinese bellflowerのほかにBalloon flowerという語もあるという。
Balloon flowerは桔梗のつぼみが紙風船のように膨らんだ形をしていることにより、咲いた桔梗はbellflowerという名前のように、ベルのような形をしており、花びらが五つに割れて、上から見ると星形になっている。

そういわれれば、桔梗の花は五角形だった、と思い出す。
しかし、「きりきりしゃん」という形容はなんともポップだ。
現代用語辞典にでてそうな表現ではないか!
花が開く瞬間をみたことはない。でもポップという表現をみると、まるでポンと音をたてて咲くような気持ちになる。

とても凛々しい花に思えるが、わが庭の桔梗は、庭の持主に似たのか、咲くころには花の重みか、首からだらりと力なく咲く。
現在の桔梗は、ずいぶん品種改良がなされているようなので、一茶の時代の桔梗はもっときりりと咲いていたのだろう。

このマクミラン氏の「星の林に」は、多くは昔の和歌が多いけれど、和歌、短歌、俳句、そしてたまに詩などを英訳して、解説している。
詩歌翻遊とされているが、本当にその詩歌の本筋をついている。

過去に「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや頻け吉事」(大伴家持)を訳していらしたが、その解説で初めて新しき年と初春も重なりの意味をしる、という次第だった。
私もきりきりしゃんとしなければ。
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糖尿病の病名変更

9月22日、日本糖尿病学会と日本糖尿病協会は、糖尿病の新たな呼称案を英語名に基づいて「ダイアベティス」(Diabetes)とすると公表した、という記事が朝日新聞9月23日に載った。
糖尿病への誤解や偏見をなくすため、という。
また多くの患者らが病名への抵抗を感じていることから、呼称変更を検討していた。今後、患者や医療従事者らからも意見を募る、という。

私は糖尿病患者ではない、少なくともいまのところは。しかし、親族に糖尿病患者で、重症な人はいる。
なかなか手ごわい病気であることは理解している。
しかし、糖尿病という病名が誤解や偏見を招くものであるとはしらなかった。

糖尿病は、インスリンの不足や作用低下により、血糖値が高い状態が続く病気。国内で約1千万人の患者がいるとされる。(朝日新聞9月23日)

この頃、血液検査の結果がでてくるとき、血糖値というのはとても気になる。
そして、その値が高いとき、糖尿の気配が出ましたね、と言われるのだろうか。今のところ、そういう指摘をうけたことはないのだが。
ただ、糖と尿、という言葉から、尿、つまりはおしっこの変化には気をつかう。
色がつく(黄ばむ)、や甘い匂いがする、というとき、きっと糖尿の気配があるのだろう、と思う。
自分のおしっこのあとでは気付かなかったが、あるとき、友人が来た時、トイレのあとで匂いが残っていた。親しい仲だったので、そのことを告げると、その友人はそのあと、病院で検査してもらい、糖尿病の数値がでたらしい。

そうやって、尿で判断できるところもあるのに、患者の約8割が、「尿に糖が出るという不潔なイメージが不快」として病名の変更を望んでいた、のだそうだ。
検討の結果、国際的な観点や学術的な正確さから、英語表記の「ダイアベティス」が有力案になったという、ということだ。

病名というのは、なにかマイナスのイメージはあるものだ。
糖尿病が不潔なイメージがあるのか、私は感じないが、患者の感性はまた異なることもわかる。

英語名にして、そのイメージがなくなるのだろうか。
Diabetes、フランス語であればDiabete(アクセントの印がいれられない)、英語もフランス語も語源がギリシャ語だから似通っている。最初のdiaが突き抜けるとか、し通す、完全な、というような意味で英語の辞書によると、diabetesは「突き抜けてしまうこと」の意にもなるらしい。
フランス語の辞典でみると、ただ糖尿病というだけで、diabete sucreが真性糖尿病、diabete insipideが尿崩症とある。

英語のカタカナ読みダイアベティスにして、印象は変わるのだろうか?
この名称にして、果たして以前の糖尿病、と理解できるのだろうか。
やっぱり、呼び名は漢字を替えることで、名称変更といったほうがいいのではないか?と思ったりする。
医療者の中では、英語名でのダイアベティスが通称になっているのかもしれないが、一般の患者およびそのまわりにまで浸透するのは難しかろう。

日本語での名称変更にしても、「精神分裂症」から「統合失調症」へ、「痴呆症」から「認知症」へも時間はかかったし、また変更後の名称にしても、違和感をぬぐえないでいる。

これから、メディアなどを通じて、名称変更への道を歩むのかもしれないが、トイレでおしっこの色が変わっていた時、ダイアベティスかも?なんて思える日まで生きているのかな?
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母の人生は幸せであっただろうか?

自分自身が人生の終わりに、少なくとも終末期というような時期になったとき、先人、特に自分の母の生涯を思い起こしている。
「お母さん、あなたは幸せな生涯をおくれましたか?」と問うている。

母は大正元年に生まれ、亡くなったのは89歳と11か月だった。
最後の5,6年、もっと長かったかもしれないが、自宅を離れ、老健施設にはいった。
同居していた長男夫婦(長男は先妻の子)とあまりうまくいかず、自分で施設にはいることを選んでのことだった。

父と死に別れしたのは、60代に入ってすぐのころだったように思う。
当初は、自宅で一人、古い、造りもそうよくない家を、自分のセンスで住みやすく、来客も多く、楽しい生活をしていた。
兄夫婦が、故郷に引き上げて、家を建て直し、同居ということになったのだ。
家は土地、建物と兄が相続していたので、それは当然のことだった。
善意の人の共同生活であれ、生活の感覚が異なれば、それはそれで軋轢が生じる。
そんな中で、身体に不自由を感じるようになり、さっさと施設へ移ったのだ。

姉の家族や私との海外旅行を楽しんだのは、その単身時代のことであった。

母の生活はそうたやすいものではなかった。
戦後の混乱期、30代早々に妻を産褥で亡くした父の後妻になった。父には先妻との間に長男、長女がいた。次男の出産後に亡くなったのだ。次男もほどなく亡くなったのだそうだ。
父は一人息子で、地方の方言でいう、ジョンジョン坊やと大切に育てられた。

思い出すと、我が家は女系家族というのか、女ばかりが多かった。まず祖母(この人も後妻で父の実母ではなかった)、大叔母(祖父の妹?)、伯母(父の姉)、母、叔母とその娘、長姉(先妻の子)、姉、私と女は9人、男は成年では父と最年少の弟の2人だけだった。
兄は学校のため、常に不在で、私は兄がいることも知らなかった。もう一人、弟がいたが、4歳で亡くなり、いくらかの記憶は残っているが、ほんとうにはかない生命だった。

私は父に対して、肯定的ではない。私の知る父は、酒飲みで、目を三角にして怒る(酔った時)か、体をグラグラさせて、まともに歩けない、まさにアルコール中毒者であった。
なんで、こんな人が父なのだろう、と常に思っていたし、母がこんな男と結婚したのは間違いだった、と思春期には思っていたものだ。

しかし、父も若いころはきっと素敵な男性だったのだろう。
一度、深夜(でもなかったが)、座敷ですごす二人を盗み見(隣の部屋で子供は寝ていた)したことがあるが、火鉢を間にして、二人、タバコをくゆらしながら(当時、母も喫煙していた)、なんだか、とても濃密な雰囲気が漂っていた。幼い私が感じるほどの濃密さで、あわててそっとふすまを閉じたのだった。

戦後の生活にうまく順応できなかった父は屈折したものがあったろう。頭がいい、とかハンサムとか、けっこうちやほやされて育ったのに、家業はつぶす、中国から引き揚げ、家作は売り払い、と経済的にうまくいかず、長男がゆえに扶養家族は多い、兄は、父への同情を口にするが、小さな女の子だった私にはアルコールに逃げた父は許せなかった。

そんな中で、四人(一人は早世したが)の子をなしたのだから、夫婦仲も悪いわけではなかったのだろう。

私も大人になって、父の大変さを理解はしたが、いまだあまり好印象をもっていないのだ。

家族関係の苦労、そして経済的にも大変な思いを経験したであろうが、母はいつも肯定的な人生だったようにおもう。
晩年に基督教(新教)に入信、その関係で友人・知人にも恵まれた。
施設にはいっても、その関係の方たちが母を気遣ってくださり、遠くに離れている子供たちのかわりに常に訪問してくださった。

施設でも、俳句の会、合唱グループの伴奏(昔、幼稚園の先生なので、伴奏は上手だった)、自己流茶道、洋裁、趣味にもそれなりのグレードを保ち、幼稚園の教え子がまだ交際しているような、そんな魅力ももっていた。

最終的に母は、一人になってからの生活に、個人としての部分もたくさん持っていたし、憎む人、憎まれる人、そんな存在も感じられなかったので、きっと平和な人生の終末期であったのだろう、と想像するのだ。

時代も立場も違うのだから、母の生活を真似はできないけれど、娘の立場で、母の生活を肯定できるのは幸せだ。
姉と語り合う。”われらが母はえらかった!”と。
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母の海外旅行

過去の海外旅行を思い返していて、母と同行した旅行の思い出の濃さが感じられた。
そして、母の海外旅行はどうだったのだろう、と考えた。

もうなくなってずいぶんなる。
彼女は大正元年の生まれだった。9月23日が誕生日だから、生きていれば100歳越えはもちろんだ。

戦時中、といっても最後の数年を、父とともに中国で生活していたから、海外生活の体験はあるのだが、いわゆる海外旅行、というのは別物だ。

父が亡くなって、その翌年であったろうか、ロンドンで働いていた姉が結婚することになった。ロンドンで知り合った日本人男性とである。
結婚式はロンドンで、双方の両親(姉の場合は母のみだが)を招待してくれるという。
母はためらうことなく、はい、ありがとう、と出席を決めた。
好奇心の強い人で、なんでもトライ、ご招待というのだから、なんでお断りすることがありますか?という。
義兄のサイドはご両親に、当時フリーであったその弟が付きそうのだそうだ。
こちらの母も一緒に面倒みてもらいましょう、となり、また母には独身で年金暮らしの母の妹が同行することになった。

結婚式に出席のあとは、義兄の両親と私の母と叔母を、義兄の弟がガイドとなって、ヨーロッパ大陸の数国を旅行したはずだ。

2度目の旅行は、出産の手伝いだった。
これは単身での渡航となった。
イギリスの入国審査はきびしい。英語での応答をどうするか?私が模擬の応答モデルを作成した。
必ず聞かれること、聞かれそうなこと、想定問題を作り、英日の対訳、カタカナで発音、練習もさせた。
往路は、東京からで、羽田へ送っていったのだと思う。

母はあまりおたおたしない。人をこわがらない。だからであろうが、まことにスムーズに入国もすませたよ、と迎えにいった義兄からの連絡があって、ほっとしたことを覚えている。

それから、数年後にギリシャへのクルージングに私も同行しての姉の家族との旅行に、母ははまってしまった。
海外旅行のこつもわかったのだろう。
あるとき、冬のスキーにこないか、と誘われ、一人でスイスへ行ったことがある。日程の都合で、母の方が先に現地入りすることになった。
切符の手配、お金の準備などは私がしていたけれど、無事にホテルにはいれるか、とても心配したものだ。
しかし、”ハロー、こちらはお母さんよ”としっかり、国際電話をかけてくる母だった。

その辺から、姉の家族からの招待をまたず、私と一緒に旅行することをプログラムにいれたのだ。
私は東京で、やりがいはあるけれど、給料は高くない職場にいて、一人暮らしで貧乏だった。
ただ、休暇はまとめて1か月とれる職場であったので、その1か月を海外旅行にあてていた。
それに同行するというのである。

母も一人暮らし、迷惑をかけるひともいない。少ない年金と子供たちからの送金で、とてもつましい生活をしていたのだが、それでも海外旅行のためなら、貯金する、お金で面倒はかけない、という。
正直、私はいやだった。
別に旅行はごく普通の名所旧跡をたどるものだったが、母と一緒であれば、行動もある程度拘束され、冒険もできない。
しかし、周囲はみんな、母の味方で、同行を拒否すると、親不孝と言われる。

1回の旅行で、3か国を旅する、というようなプランであったが、母は、中国、パキスタン、トルコ、ギリシャの再訪、そしてヨーロッパ各国、をまわり、一度はイギリスで、ウインブルドンテニスも行った。
これは私の友人が招待券を手配してくれたのだが、オープニング2日目だったろうか、センターコートで、女性の前年優勝者のオープニングゲーム、ナヴラチロヴァだったような気がする、をコートサイドで見て、大感激していた。
帰国後に、女学校(私の卒業高校と同じになる)会報に、その観戦記を寄せ、自分一人で行ったような文章を書いていた。

のちにパリの両親と呼ぶようになった夫妻の娘の結婚式にも出席、母も私も着物姿であったが、母はスターのようにもてはやされ、大変にご機嫌であった。

九州と東京に離れ住んでいたので、海外に行く場合には、東京で合流するか、航空会社次第では、第一の合流地、たとえば、当時大韓航空を多用していたが、福岡からソウルへと一人できて、そこで合流することもあった。パスポートの準備、外貨準備、知り合いを訪ねる(泊めてもらう)場合のお土産の手配(ほとんど手作りで用意していた)、荷造り、そういったことを一人で可能だったから、一緒の旅行もできたのだが、60代から70代後半まで、実によく旅行していた。

私がそうであったから、母も一度も団体旅行というのは体験せず、姉の家族と一緒の旅行か、私と一緒であった。
それがどんなに面白い体験であったかを、そしてどんなに感謝しているか、を、施設にはいって、外出もままならなくなったころ、見舞いに帰った私の手をにぎり、しんみりと話したものだった。

トルコの田舎で、面白がって寄った絨毯屋さんで、母が乗せられて買う絨毯、持つのは私なのよ、と文句をつける私、自分で持つからと、どうしても買うという母、母子けんかのかたわらで、さっさと包装する絨毯屋、結局、船便で送ってもらったのだが、どうせ母のお金だから、だまされてもかまわない、と冷たくしていた。その後、数か月後に無事届いた。
トルコのイスタンブールでは、ガルタ橋のレストランで、バンドにはいって、タンバリンやら太鼓などを演奏したこともある。
あるときは部屋の中で、お灸をすえたり、ヨガ体操をしていたり。
ブルターニュでは海水温度が16度と冷たいのに、さっさと泳ぎだしたり、また外国人がしない、横泳ぎなどで泳ぐので、珍人扱いであった。

こうしてみると、私の場合、25歳が海外旅行のスタートであったが、母はおそらく65歳くらいであっただろう、スタートは遅いけれど、内容充実は大変なものだった、と誕生日を前にして、母と思い出話をしている。
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訪れた国々

25歳に初の海外旅行に飛び出して、それからウン十年、結局のところ、何か国行ったのだろう、少し、見直す気分になった。
50か国を超すかどうか、最初のころは、未知の国、ということで、行ったことのない国々を訪ねることが楽しかったが、最後のころは、フランスだけ、という、旅行というか、家庭訪問みたいな旅になっていた。

アジア:
 大韓民国、中華人民共和国、ラオス、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、パキスタン、インドネシア(バリ島のみ)、香港

オセアニア:
 オーストラリア、ヴァヌアツ、ニュー・カレドニア(仏領だけど)ついでにハワイ(アメリカだけど)

南北アメリカ:
 アメリカ合衆国(東海岸、西海岸)、メキシコ、コスタリカ、グアテマラ

カリブ海:グアドループ(フランス海外県)

ヨーロッパ: 
 ソヴィエト連邦(ロシアになる以前)、イギリス、アイルランド、ポルトガル、スペイン、アンドラ、スイス、イタリア、フランス、西ドイツ、ポーランド、スロバキア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、ギリシャ、オーストリア、ヴァチカン、マルタ

中東:
 イスラエル、トルコ、

アフリカ:
 モロッコ、チュニジア、エジプト、コンゴ民主共和国、セネガル、コートジボワール、ケニア、南アフリカ、

地図を見ながら、記憶をたどると、以上の国々(地域も含めて)になる。
亡くなった連れ合いと行った国々も4分の一くらいにはなるのだろうか。
それ以外の国々の95%は、行った先に友人、知人、友人の友人、といった知り合いがいた。
そして、ほとんどが一人旅、自分で旅行のプランをたて、そのプランにそって、旅行代理店で飛行機の手配をしてもらった。なるべく安い代金で、しかし、フライトの時間は安全に移動できるもので決め、宿泊は、現地で、飛行場のインフォメーションで決めることもあった。
だいたい、友人や知人を頼っていたが、時には、各国の郵便事情で、到着までに着いていないとか、自宅配達がなかった、とか、連絡がとれていないこともあった。

何で電話しなかったのか、と責められたこともあったが、国際電話というものは慣れていなかったし、高額そうで使えなかった、なんせ貧乏旅行だったのだ。

日本人の友人・知人ばかりでなく、外国人の友人を頼ってということも半分以上あったが、彼らのほとんどが前の旅行で、飛行機の中で知り合った、という関係が多かった。
なんと平和な時代だっただろう。
隣り合わせた席の人と、飛行中に話がはずみ、住所や電話番号を交換、次に自分の国にくることがあったら、ぜひ連絡を、と約束、そして彼らも日本に来た。
まだお付き合いをしている人は数人、いるかくらいだが、当時は、世の中、悪い人はいない、みたいな思い込みもあっただろうし、まず、人を見る目がある、というほどではないが、10時間をこすフライトの間の会話で、いい人、悪い人の区別をつけていたのだろう。

ギリシャの友人などは、モスクワからアテネまでのフライトで、アテネの空港の荷物受け取りで待っている間、おしゃべりしたのがきっかけだった。
ギリシャでもトルコに近い地方に住んでいる彼ら(夫婦)とはその場限りの会話と思っていたが、次回、ギリシャに来るときは、ぜひ自分のところに来い、と言われ、同行していた母が必ず行きます、と勝手に約束したのだった。
そして、その約束を果たすため、数年後にギリシャへ行ったとき、彼らの歓待ぶり、普通の生活の中で、こんなにも歓迎してくれるのだ、と母とともに、人情の厚さをかみしめた。

開発途上国での交通問題、トイレ事情、シャワー問題、治安、今になるとよくぞ行ったもんだと思うけれど、若気のいたり、こわいもの知らずだった。

いまだに団体旅行というのは気がむかず、さすがにアジアなどでは行先に日本語のできるガイドさんをつけてもらっているけれど、自由がきいて、一人旅は気に入っている。

今年のフランス行きを最後の旅行と決めたけれど、こうしてみると、行きたかったところで行きそこなったところがなんと多いことか。
あの時、お誘いがあったのに、なんで行かなかったのか?
世界地図を見ながら、行きたくて行けなかった国々のリストを作成したくなっている。


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初めての海外旅行

近日中に海外旅行に出かける知人家族がいる。
学齢の子供も一緒だ。海外在住だった家族だが、日本に帰国して以来、その子を含めての海外行は初めて、その子にとって最初の海外旅行になるといえるだろう。

そんな話を同年代の友人と話しながら、お互いの初海外はいくつの時、どこへ行ったのか、話題がいった。
彼女は28歳のとき、配偶者とともに東欧へ行ったのが初めてだという。初海外にしてはちょっと変わった行先だが、それは学会への出席という目的からだったらしい。

さて、私といえば、年齢は25歳のときであった。8月8日、横浜港からの出発だった。
なぜ、年齢をきちんと憶えているのか、それは旅行の途中で、パリである会社でアルバイトをしたのだが、11月25日、外の道路で人々の声が聞こえてきた。何か、と見下ろせば、女性のデモが行われている。何事?とオフィスの女性に聞いてみると、25歳の独身女性たちのデモなのだという。
その日にあたる聖女はお針子で、独身だった、というので、この日はお針子ではなくても、25歳の独身女性が、華やかな帽子をかぶって、デモ行進をするのだそうだ。
あら、私も25歳、独身だわ、というと、職場の女性たちが、こぞって帽子を探し出し、いろいろなもので飾り立て、私にかぶらせた。その後、職場の全員から、ビーズ(頬っぺたへのキス)の嵐、そんなことになれない私は、半ば恐怖を感じた日であった。
そんなことで、25歳の年齢の年に、海外へ出かけた、という記憶が強く残っている。

8月8日については、8がダブることでもあるが、また別の記憶の素があるけれどもここには記さない。

この初海外旅行、JTBの団体で、往路は横浜から船で、ナホトカへ渡り、ロシア(当時はソ連)のシベリア地方を列車で移動、2日ほど列車だったろうか、ハバロフスクから飛行機でモスクワへ、モスクワ見物をして、ウィーンへ飛行機で移動し、この地で解散、各自の目的地へ行く、という旅行だった。
私はウィーンからロンドンへ、イギリスの知人の出迎えをうけ、もうどこだったか忘れたが田園地帯の小さな町へと移動したのだった。

当時、海外旅行に許されるのは1000ドルまで、1ドル360円の時代だった。日本円で持ち出しても、現地のお金に交換できるかどうかはわからない、許されたドルをトラヴェラーズチェックに替え、パスポートとともに腹巻にまいて、というような旅行だった。

日本国内で買ったユーレイルパス、これはイギリスでは使えないが、ヨーロッパの鉄道に乗車でき、一等車も利用できる、というので、旅行者には必須のアイテムだった。
どんなコースでどう旅行したのやら、もう詳しくは覚えていないのだが、ドイツ(西ドイツ)、オーストリア、スイス、イタリア、スペイン、など旅行し、フランスのパリに戻ってきたのは9月後半だったろうか、秋が始まったころだった。
当時は何の木やら名前も知らなかったが、並木の紅葉が秋の太陽に輝き、感激した。ヴェルサイユ宮殿の庭にも、自分の身を埋めたいと思うほどだった。

滞在許可証がなくても3か月以内は滞在できる。できる限り滞在しよう、それには、手持ちのお金はもう底をつきかけているから、なにか仕事をさがして、と探し出したのが日本企業の支店で、フランス語が話せるわけでもなく、タイプもテレックスも打てないけれど、日本語は話せるから、と雇ってくれた。
週5日、9時―5時の労働時間だったろうか、その帰りは、アリアンス・フランセーズのフランス語講座をとり、そしてオデオンにあるホテル(星などないホテルだった)に戻る、という生活を12月までしたのだった。

もっと滞在したかったけれど、勤務先は、きちんと滞在許可証のいらない範囲で、ということだったし、一度、日本に帰って、語学研修もし、仕事のスキルを身に着けて、という自覚もあったので、帰国を決めた。
それでも、オープンで購入したチケットを利用して、まずイギリスにわたり、往路のグループ仲間とクリスマス、新年を共にし、スイス、イタリアを再訪。イタリアでは、ミラノで先に見損なっていた「最後の晩餐」をみて安心、ギリシャに飛んで、冬の寂しいアテネの町や、エーゲ海をみた。パルテノン神殿では、イタリア人カップルの女性が、長いマントをひるがせて立っているのをみて、まるで映画みたい、と感激した。このことを帰国後、母に話したところ、手先の器用な母が、表地は黒、裏地を深い赤で、足元まであるマントを作ってくれた。それでもう一度、パルテノンに行こうと思っていたが、それはかなわなかった。

ギリシャまでくれば、帰りのフライトはどうしても南回りである。ついでに、というので、タイのバンコクにより、香港により、で結局、帰国したのは2月になってからだった。

今、考えてみて、いくら物価が安かったかといっても、1000ドルで6か月の旅行というのは考えられない。
しかし、I have doneである。
情報を仕入れ、安全で、リスクの少ない場所を選び、堅実に、正直に、を心掛けたが、旅先での人々の親切というのはありがたかった。

自分の能力のなさを自覚して、帰国後は、働きながら(週4日でいい、という職場を選んだ)、フランス語の学校へ行き、またタイプを習い、という日をどれだけ過ごしたのだろう。
外国の機関で働く場所を得て、またその仕事が天職といってもいいほどあっていて、のめりこんで仕事をした。

友人と話していて、これまでの旅行のうち、母親が希望した同伴旅行、それに友人と何度か旅行をしたことはあるが、ほとんどは一人旅であった、というと、信じられない!という。
この6月にした、きっと最後の旅行になるだろう、という旅も、一人旅であった。

若い人たちにいいたい。これは高齢になると、つい言いたくなるのだが、若いころはソロで動きなさい、と。
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冬の服を買う前に

都会はまだまだ猛暑を強いられているようだが、わが里は日中はともかく、朝晩は時に寒さを覚える(冬の寒さとは違うけれど)ころとなった。
そろそろ、長袖、冬物のパンツを出すころかしら?と思い始めた昨今に、昨日の新聞に1ページのユニクロ広告が載っていた。

UNIQLO BOTTMSと銘打って、10種のボトムスが載っている。
モデルが着て、写真が載っている。そして、一つ一つの名称がある。

写真と解説と、価格をみているのだが、どこがどう違うのか、どこがどうかっこいいのか、まったくわからない。
呼び名がボトムが正しいのか、パンツなのか、それもわからない 。

まず、私にとって、パンツというのは下着のことであり、昔はズボンと称していたものを今、パンツといったり、ボトムスと言ったり、どっちが正しいの?その呼び名の違いは何?と説明してほしい。

それらの名前をあげてみると、スマートアンクルパンツ、ストレッチスリムストレートジーンズ、スリムフィットチノ、カーゴパンツ、ワイドフィットジーンズ、タックワイドパンツ、タックワイドパンツ、ウルトラストレッチレギンスパンツ、ワイドストレートカーゴパンツ、感動パンツ

これら10種を言葉だけで、どんなパンツなのか、少なくともユニクロで働いている人は区別できるのだろうか?
冬用と書いてあるわけではないので、素材もよくわからないし、結局、ユニクロにいって、サイズも含め、試着という方法で、現物で確認する、クラシカルな方法で購入するのだが、この名前で、スタイルを想像できる人は、ずいぶん、ファッションに詳しいのだろうと思う。

トップスだ、ボトムスだ、いつの間にかファッションなのか単に衣服の表現なのか、わけのわからない言葉が増えてしまった。
わが年齢になると、ウエストで留めることができ、ヒップや太ももに少し余裕があり、洗濯がきき、長持ちする、それが必須であって、それで十分感動する。

別に冬用と書いてあるわけではないが、そろそろ、ユニクロに行ってみるか、というころにはなった。
さあ、このページをもって、美しくみえる、スマートな着こなしもきまる、すっきり美しいシルエットをもたらす、快適なはき心地で、品よくはける、そういうボトムスをみにいこう。
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秋の庭

いつの間にか、すっかり夏の気配が抜け、庭は秋模様になってきている。
花はコスモス、吾亦紅、萩、ホトトギス、シュウメイギク、木槿(白とピンク)などが咲いたり、咲き始めたりだ。
コスモスは小さいときから実家の庭に咲いていたので、知っていたが、ホトトギス、吾亦紅、シュウメイギクなどは、こちらにずいぶん年齢をくわえたのちに知った植物だ。

庭の植物は、ほとんどが自然発生が多い。
シュウメイギクは、一株、買ってきて植えたのが、徐々に増え、いまや、友人などにも分けている。

吾亦紅は花に分類するのだろうか?いつも疑問に思っている。
学名は、Sanguisorba officinalisというのだそうだ。
花言葉は、感謝、愛慕、物思い、あとたくさんあって、覚えられない。
ドライフラワーで飾ると、そこに秋、という雰囲気が出る。

6月には大きな花を咲かせた薔薇などは、小さなつぼみで、お別れをする。

植物でいえば、もう20日くらい前から、どんぐりが落ち始めた。
夜、屋根を滑り落ちる音が聞こえる。
コロン、コロンで表現が間違いないのか、コロコロなのか、定型はどうなのだろう。
落ちるものなら、栗が待たれる。
我が家に栗の木はないけれど、お隣に大きな栗の木があって、枝が我が家の庭にせり出している。
栗の実は、幹のある庭のものか、落ちた庭にも権利があるのか?
そんなことを言っていると、すぐに虫食いになってしまう。虫との一瞬とまではいかないが、1日を争う。

我が家の訪問客は、野鳥と蝶だ。
野鳥は、夏にはもっと涼しいところで過ごすらしい。
その間に彼らの世代交代が行われたのか、新しく我が家を訪問するのは、みな小ぶりで、スマートだ。
冬あたりには、餌をとる前に、室内をちょっと覗いて、家主への挨拶もあるのだが、新鳥たちは、まだマナーができていない。
あの家には餌が用意されている、などという情報はどうやって入手しているのだろう。

蝶も大きい、小さい、と数種類がくる。
とげが痛くて、あまり好ましいと思えないアザミの花にも蝶は寄る。
それぞれに好みがあるのだろうが、どんな味の違いがあるのやら、蜂と違って、蜜のストックはしないのだろうか?
黒の大アゲハが、大きく咲いた木槿につくと、それは絵になり写真になる。

虫愛でる姫にはなれないが、蝶めでる老女にはなれる。
薔薇にはどうしても防虫剤を使ってしまうけれど、ほかはほったらかし。
戯れは蝶や虫(虫は好きではない)に任せ、庭主は、夏の整理にいとまがない。

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