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今日は母の命日

8月29日、今日は母の命日だ。
何年前になるのだろう、89歳11か月で亡くなった。
当時、私は東京、母は九州に住んでいた。

もう深夜、12時近い時間だった。遅い時間に鳴る電話、外国からかと思った。
弟からの電話であった。母がいた老健施設から電話があり、様子がおかしいということで、そこへ向かっている、というのかこれから向かうというのか、当時、まだ携帯電話などないころだった。

翌日、とりもとりあえず、というより、もう喪服ももって、九州へ帰った。
母は、すでに遺体として自宅に帰っていた。

母が恋しい。こんなに年をとっても、母が亡くなった年にはまだ間があるけれど、十分近い年齢ともいえる年齢になったのに、どうして、母は恋しいのだろう。
昨夜、姉が古い写真を送ってきた。
ギリシャを一緒にクルージングしたときの写真である。
あれはサントリーニ島だったか、何島というのだろうか、港から町まで、ロバにのって登っていく。
年寄には無理だから、お母さんは車に乗せてもらいなさい、と言いおいて、姉の家族と私は、さっさとロバで上っていった。
なんということはない、母もロバに乗って登ってきたのだ。

クルージングの間、海が荒れて、船酔いに苦しみ、食事の案内があっても、ベッドからでられない姉と私、母は、小さな甥たちをつれて、食堂でちゃんとオリーブ油たっぷりのギリシャ料理を楽しんで戻ってきた。

母にとって、初めての海外ではなかったけれど、このギリシャ旅行から、海外旅行の楽しさに目覚めて、それから10年以上、毎年、海外へ出かけたものだ。

旅先でも人気者になった。外国語は昔、住んだことのある中国語以外、話せる言語はなかったけれど、どこにいっても、身振り手振り、ちゃんと用事を果たせていた。

人生の最後は、老健ですごしたが、そこでもコーラスの伴奏をしたり、俳句のクラブに入ったり、書をたのまれれば書いたり、また日曜ごとに教会へ通い、通えなくなると、教会の方たちが訪ねてくださる、というように、周囲に人をひきつけ、子供たちが離れていても、孤独ではなかった。

手先の器用な人で、私には、ギリシャのパルテノン神殿で会った外国人のまとったロングのマントがかっこよかったから、と表は黒、裏は深紅のマントを作ってくれたり、奇想天外な服をも工夫して作るという、デザイナー、縫子という才能も持っていた。

先日、フランスに行ったとき、昔の知人と電話で話した。
彼は、ブルターニュでの思い出を話してくれた。それは母と一緒の時で、母が膝のあたりを悪くしており、自室でお灸の治療をしたときの話だ。
ママンはすごかったね、あの年齢で、ヨガをしたり、体を焼いたり(お灸のこと)、東洋の不思議の塊だったし、冷たいブルターニュの海でも一人泳いだよね、と彼は言う。
よほどの思い出だったのだろう。

今日、弟がお墓に参ってくれた。離れて住む姉と私は、ただ思い出をたどり、彼女のことをしのぶだけであるが、思い出はとても尽きない。
トルコの田舎で、綿の収穫を手伝って、農婦の方から食事に招かれた(断ったけれど)こと、フランスのカルカッソンヌの古城みたいなホテルでは、バルコニーで、ロミオとジュリエットのシーンを演じさせられたこと、スイス・アルプスでは、ハイジのシーンを再現したり、マルセイユの港では、モンテクリスト伯のストーリーをたどったり、母の読書の片りんが思い出される。

母に会いたい。
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フランスのSDGs

この頃、メディアにSDGsの言葉が現れない日はない。
それはそれでとても結構なことであるのだが、なんだか、やり方がしっくりこないところもある。

6月、フランスにいたとき、ことあるごとにフランスの家庭における、あるいは外でのSDGsを観察した。といっても、行動的ではないし、ごく一部であったが。

先述したかもしれないが、フランスの田舎のレストランでのことである。
昼食をとったのだが、メニューの選択が、メインはともかく、前菜を選ぶか、デザートを選ぶかのメニューがある。もちろん、前菜、メイン、デザートととることもできるが、それは別料金だ。
同行者とともに、メインとデザートをとった。
ところが、アペリティフとして出されたものが実にヴォリュームがあって、それを食べただけでおなか一杯。
また、メインで選んだのが、超厚みのある豚肉の塊を低温でじっくり焼いたもの、付け合わせもたっぷりあって、とても全部は食べきれなかった。
デザート分の別腹をキープするには、もったいないけどメインは残す、と同行者も同意見。
二人してサービスの人に下げてもらうようにお願いした。
ところが、お持ち帰りになりますか?と聞かれたのだ。
同行者はちょっと考えたあと、お願いします、と返事した。

彼によると、サービスの人は、もし、いらないといわれると、これはそのままごみ箱へ直行する。
それはもったいないのではないか、と言ったのだそうだ。

結局、私の分はごみ箱直行になったらしいが、彼の分は、なんともシンプルなパッケージで、デザートを終えて、お勘定をテーブルでしたときに運ばれてきた。

彼曰く、この頃、こういう形で、フードロスを避けるレストランが増えた、というのだ。

結局のところ、このレストラン以外で、お持ち帰りを提案されることはなかった。
外食をあまりしなかったこと、食べられる量だけ選ぶというスタイルで食事をしたこと、などでその機会がなかったこともあるが、こういうスタイルがどの程度浸透しているか、もっと知りたかった。

この頃、おいしいお料理も、全部平らげるということができなくなった。
完食できない、というのは一つの苦しみでもある。

フランスの場合、家庭での食事は、お皿に盛りつけてあるのではなく、自分でお皿にとりわけるスタイルだから、食べられる量をとればいい。
しかし、いつも思っていたのだが、それで残ったものは主婦はどうしているのだろう。
昔風であれば、昼が正餐、だから昼食はだいたいその日に調理されたものがだされる。
そして、そのとき残ったものや前日の残り物などが、夕食には出される、というパターンであることを再確認した。
それでも残ったものなどは、泊まった家ではmonsieurが食べる係であった。

どこの家庭でも、というほど、家庭を知らないので広言できないのだが、家庭では日本ほどラップを使わない。
冷蔵庫にしまうときには、容器にいれる。
また、ラップの質が悪いのか、切り取りができない。これはあまり使わせないための手段であろうか、と思うほどだ。

このところ、テレビで、プラスティックを避けて、紙製のものを、というような場面をみるが、以前、紙やパルプを多用することは、森林破壊につながる、といって、使用をしないような運動があったのではなかったか?と思い出す。
それで、ナプキンなども紙製をさけ、布製のものを多用するようになったけれど、これだと、お洗濯の要があって、洗濯には水と洗剤、水も水道水そのままではなく、お湯で、となれば電気などを使用する。洗剤も化学、そして最後にアイロンとくれば、電気プラス手間だ。

何事も、こちらをプラスにしようとすれば、片方がマイナスになる。
電力も再生可能エネルギーと称して、太陽光、風力、がもてはやされているけれど、果たして、地球のために、人類のために、そう言えるのか、特に原子力など、その最たるものではないか、と思うけれど、フランスの場合、一度は50%以下にとしていた原子力を再度、活用するらしい。

現在の人口と生活様式を考えれば、昔と比較できない資源の浪費、そして自然の破壊をしているのは明らかだ。

フランスではもうほとんどの家庭で設置されている、食洗機、これが水の倹約になっているのかどうか、よくわからないのだが、もうフランス人はこれなしではやっていけないようだ。

私にはなにが本当にSDGsになるのか、よくわからない。
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そうだ、フランスに行こう(2)

昨日はフランスへ行きたし、の理由がガストロノミーであったけれど、次はスポーツである。
この秋、フランスではラグビーの世界選手権が行われる。
このことがからんできた。

この世界選手権の開催は、もうずっと前から知っていて、それがゆえに、渡仏を6月とした理由でもあった。
ところが、このスポーツイヴェントを目指して、渡仏する、という知人がいるのだ。

オリンピックはパリという都市で催行されるが、ラグビーやサッカーは主催国の各地に分散して行われる。
つまりはフランス全体が人であふれる、ということになるのだ。

人込みがきらいな私にとって、行き場がなくなる、と思って、まだしも静かな(はずの)6月を選んだ。

9月初め、日本対どこの国かの初戦が南仏ニースで行われる、という。
ニースか、その隣のカンヌへは行ったけど、とニアミス(ミスでもないけど)みたいな気分になる。
もう20年以上前に南仏に住んでいたとき、ニースにはたびたび行った。
さて、ラグビーの世界大会の試合ができるような、おおきいスタンドがあったかしら?と思う。
そもそも、サッカー、ラグビーといった集合で争う競技は、どうも関心をもてなかったのだ。

住んでいたころ、サッカーの大会(Mondial)があったような記憶があるのだが、スタンドのみならず、パブリック・ヴューの会場となったところでも、両チームのファンの対決があったりで、大騒動となり、もうたくさん、と思い出がよみがえる。

ニースの初戦に行こうというのは、若い人ではない。知人は80代のご夫婦なのだ。もちろん、若い方たちとご一緒なのだが、いやー、よく行く気になるよ、である。

若いころは、スポーツの興奮が面白かった。
行儀よくしていなければならないテニスなどは物足りないものがあった。
マルセイユで、地元のOMを応援に2度、スタンドに足を運んだが、一度は一般のファン席。ここで、We are the championを歌ったり、ウェイヴで立ち上がったり、周囲の雰囲気に合わせて楽しかった。
2度目は、競馬でいえば馬主の席というのだろうか、招待客用の席で観戦だったが、試合の雰囲気に載れず、消化不良の観戦となった。

わざわざ日本から応援のために遠征する、こうなれば、もう雰囲気に乗るというより、雰囲気を作っていかなければなるまい。

ニースはきれいな街だ。とくに旧市街の市場など、カラフルで土地の生鮮食品や花々、お土産品など、もうローカル色がたっぷりである。

80代のご夫妻、こういう興奮のるつぼにはいって、無事に帰国できるだろうか?
隣の人たちと肩をくんで体をゆらす、ウェーヴにのる、拍手喝さいをする、からだを存分に動かしての応援をして、もしかしたら、20歳は若返られるかもしれない。

がんばれニッポン、そしてがんばれ80代!
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そうだ、フランスへ行こう

そうだ、どこどこへ行こう、というキャッチフレーズは、JR東海が使った「そうだ、京都へ行こう」のもじりである。
先日読んだなにか、それが新聞だったか、雑誌だったか、はっきりしない。なにかの評論だったのだが、それが旅行なのか、社会だったかもはっきり覚えていない、ということは著者についても記憶がはっきりしないのだ。

そうだ、京都へ行こうのキャッチフレーズは、まだ今のように、京都に観光客があふれていなく、観光地であることはもちろんだが、オーヴァートゥーリスムには至らず、観光客を誘致しよう、というのどかな時代のことであった。

フランスへ行こう、なんてキャッチフレーズは必要のないほどの観光国であるが、6-7月にかけてフランスに行ってきた私にとって、もう一度という気持ちを奮い起こすための標語である。

それも期間限定である。
9月6日から15日あたりにかけて、フランスでのイヴェントに参加する友人、知人から、フランスへ行きます、というお知らせをいただいた。
別にお知らせを強要するわけではないが、フランスを第二の母国と自称している私へのご挨拶でもある。

まずは1つ目:
9月7日から10日までの3日間、パリ、エッフェル塔の真下、quai Jaques Chirac(ジャック・シラク岸)において、Village International de la Gastronomieという催しがあるのだという。
詳しくは知らないのだが、フランス料理人の団体エスコフィエ・インターナショナルの主催で、この会に所属する料理人の代表が集まって、ガストロノミーの催しをするのだそうだ。
エスコフィエといえば、有名な料理人、そのあとを継いでいこうという料理人は世界中にいる。
その催しに、私の友人が参加するのだ。日本の代表として。
行かずしてどうしよう、と思う。

6月の渡仏のとき、もちろん、いろんな美術展などにはいったけれど、こういう催しというのはいかなかった。

ガストロノミーのキャピタル(首都)と言っても間違いのない、パリ、の真ん中で行われるこの催し、彼がどんなお料理をみせてくれるのか、現場でみてみた!

入場料はたったの5ユーロ、まだ財布に残っている。
息子のように思う、その料理人、亡きつれあいに聞いてみる。
そんな晴れの場に出る姿が想像できる?現場で見たいわね、と。
返事は”好きにせい”。(なんだろうと思う)

これが10年前なら、好きにして、すぐにフランスに行けたのに。
もう、気持ちだけで行動に移せる年齢ではなくなった。
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フランス語の変化

5日、フランスの著名な女性が亡くなられた。
エレーヌ・カレールダンコース氏、ロシア史のスペシャリストである。
つい先日まで、ロシアの問題について、メディアで分析などをしていらした。
享年94歳という。

彼女はたしか、女性として初めて、アカデミー・フランセーズの事務局長Secretaire generalに選ばれたと思う。
それまで事務局長のポストは男性のみ、その役職であるSecretaireは男性名詞である。それをどうするか、ことはフランス語の総本山であるアカデミー・フランセーズであるから、侃侃諤諤、大議論になった。
結局、la Secretaire generaleとなり、冠詞にlaをつけ、generalにe(女性形として)を付け加えるといった形で、妥協成立であった。

その後、大臣(ministre)も形は変わらないが、le Ministreではなく、女性はla Ministreとなるなど、昔フランス語を習得した人間には、え!ministreは男性名詞じゃなかったの?といった疑問がでてくるような場面が増えた。

フランス語もフランスだけの言語ではなくなっているし、その変化を、世界に知らしめてほしいところがあるのだが、フランス語の世界から遠ざかると、なかなかついていけない。

Covidがその一例である。Covidはコロナのco、ウイルス(virus)からvi、dは疾病のからきているのだが、最後の疾病の語が女性であることから、女性形だという説と、いやcovidは男性だという人もあり、le Covidあるいはla Covidと人によって変わってくる。

そういった例がたくさんありそうな、現代フランス語、勉強していかなくては。
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自転車とtrottinette

今回、フランスというのか、パリで目立ったのが、移動手段としての自転車とトロティネットの増加である。
それも、いわゆる貸出のサービスに供される数の増加である。

以前から自転車、そして自動車さえ、街角にその自由使用ができる電動自転車などがおいてあった。どういうふうに貸与されるのか、利用しなかった(できなかった)ので利用方法はわからないのだが、乗り捨てができる、というのか、目的の場所の、そういった自転車置き場に乗り捨てができる、というので、パリのみならず、フランス全体に広がったサービスであった。

参入する会社も増えたりで、地下鉄の出入り口近くなどにこだわらず、いたるところにその置き場があった。

今回はその貸出自転車(フランス語ではlivero?だったか、無料のlibreと自転車のveloが組み合わさった名称だったが、今、正確にでてこない)のほかに、trottinetteも貸出されている。
日本でも今、問題になっているが、昔は子供の遊び道具であったものが、電動になり、時速40キロが出る、とか、2人乗りができる、といった能力のアップもあって、移動手段として、人気を呼んでいる。

パリで気づくことだが、道路も自動車用に片側2車線あったようなところは、1車線分は、自転車やこのtrottinette専用になり、小型であることから、車は渋滞していても、すいすいと走っていく。
小回りがきく、というのは使用者には便利だろうが、歩行者、あるいは自動車側にとっては、予測がつかない、という危険が伴う。
逆方向で走ることはないにせよ、交差点での動き、あるいは信号の変化時の動き、など、使用者にとっては、安全確認の上の走行かもしれないが、歩行者、あるいは自動車にとって、とてもこわい存在になっていた。

そして、これはモラル崩壊といっていいかもしれないが、その乗り捨てがひどい。
街角のいたるところに、自転車が横倒しになり、放置されている。あるいはtrottinetteにしても然りである。
定期的な回収など、行われていないような状態だ。
ごみ収集と同様に、この自転車、trottinette、コロナのせいかもしれない。
しかし、フランス社会の乱れ、崩壊、そんなものを感じさせる断面でもあった。

脱炭素の世の中にするため、自動車の使用を減らすとか、EVに変えるとか、そんな中での自転車、あるいはtrottinetteの使用促進もあるだろうが、一歩行者として感じたのは、身の危険であった。

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理想と現実、フランスも同じく

先日、フランスの社会党を称賛するような文章を書いた。
それを訂正、削除するつもりはないのだが、私が評価したいろいろな政策を、昨日読んだ本では、机上の空論、と評価されていた。
その本とは、元産経新聞パリ特派員であった山口昌子氏の「パリ日記」IIIの序文で、2022年に書かれている。
ミッテラン大統領の14年間に、おそらくは全部ならずとも、一部は実現したものと思っていたが、それはおそらく書類上(例えばJournal Officielに出ている)のことであって、例えば週35時間労働などがその一例とされている。

現地で取材された彼女の評価であるから、きっと正確なのであろう。
週35時間労働や、退職年齢を65歳から60歳への引き下げ、これが若年層の失業問題解決策として打ち上げられたのも、高級官僚(ENA出身者)の理想実現として、掲げられたものだったようだ。

そのほか、有給の年休を4週間から5週間へと、ヴァカンス好きな、労働をよしとはしないフランス人には歓迎された政策も、それによって、社会的条件が改善されたわけではない、エリート官僚(キャビア社会党」のもたらす、「机上の空論」で終わったらしい。

理想を高く掲げて、社会をリードしていくのは政治家の役割でもあるが、そう簡単に理想が現実とはならない。

その中に、移民問題(難民も含む)は仏内政のみならず、欧州全体の外交問題であり、解答がみつからない永遠の課題だ。フランスのみならずEU内で、極右、あるいは極右寄りの右派の支持率が、一定の高さを保持しているのも、反移民、反難民の根強い感情があるからだ、と書かれている。

その一例に彼女は2005年松のパリ郊外の暴動事件をあげているが、この6月末におきた17歳の少年を警察官が射殺したことによる、フランス全土にわたっての暴動がこの問題の根深さを表している。

この事件がおきたとき、私はフランスにいた。台所で朝食を食べながらテレビのニュース番組をみていたが、この射殺の場面が何度も放送された。
寄宿している夫妻が、これはひどい、と言っていることで、最初は表面だけをみていた。
テレビの画面では、17歳の少年が、警官2名に一方的に射殺された、と報道している。
そして、警官はすぐに拘束されたこと、などが言及されたとき、この夫妻は、なんていうことだ、彼(彼らではなかった、撃った警官は一人らしかった)はこれで刑務所に20年ははいることになる、というのだ。
それは当然でしょう?罪もない少年を撃ち殺したのだから、と思ったが、その後、展開は思いがけないものだった。
この少年は移民2世か、3世か、親はマグレブ出身者らしい、フランス国籍はあっても、いろんな差別、格差の対象になっていたのだろう。
そして、それを感情を一にする人々の、彼に対する同情心なのか、彼ら自身の鬱屈した感情を発露する好機ととらえたのか、各地で暴動が起きた。
その対象は公的機関、市町村役場、警察、といった建物、そして奢侈品を売っている商店などで、略奪も行われた。

そうした中で、この少年がもともと、その素行がゆえに警察の観察対象となっていたこと、無免許運転であること、レンタカーしたのがメルセデスという高級車であり、その費用、同乗者2人の存在、いろんなことが明らかになってきた。
そして、停車を命じられたことを振り切って逃げたこと、そのなかで、警察官を車で壁に押し込みそうにした画面、同乗者2名が逃亡していること、そこには麻薬の可能性も含められていた。

フランスは外国からの移住者が多い。マグレブ諸国、インドシナ半島、そして植民地として統治していたアフリカの国々、それよりも海外県、海外領土という存在すらもある。
自由、平等、博愛、憲法にある標語は立派だけれど、標語は掲げるものでもある。
厳然として残る格差、いつになれば解消するのだろう。
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Covid-19、フランスでは?

今日、本来なら6回目のワクチン接種日だった。
ファイザー社製、オミクロン株対応2価ワクチン、の接種を受けるべく、申し込んでいた。
しかし、いろいろ考えた結果、昨日、受けない、旨の電話をした。

というのも、フランスに旅行して、もうコロナは過去のもの、として扱われていた。
日本でも5種に変更されて、各種の規制をはずされたあとの旅立ちで、出入国時のワクチン接種の記録など、求められることもなくなっていたが、新株の発生、などがあると、またその株対応のワクチン接種、となって、今日のワクチンも新種対応のためだった。

フランスで、早くに規制が緩められたといって、コロナにかかった人が少数であったわけではない。
年配者ではあるが、2年前、私の洗礼時に聖書の勉強を手伝ってくださった女性が、コロナにかかって亡くなられた。
パリの寄宿先の従妹夫妻、夫のほうは、ノルマンディに両親(100歳)が住んでいて、毎週末、介護のために通っていた。常駐の看護担当者(夫婦)が感染し、それが両親にも伝染、そして彼も感染したのだ。
自宅での療養ですませたけれど、それは高熱で苦しんだ、という話であった。
体力もなくなり、歩くこともままならない状態が続いたという。

そして従妹も感染している。それは配偶者からではなく、家族、つまり子供や孫たちと、冬にアルプスにスキーにいって、集団感染しているのだ。
どう、そこから脱出したか、詳細はきかなかったが、一家眷属、スキーにでかけたみんながかかったのだ。

そんな経験をしているわりに、コロナに対して、神経質ではない。
ワクチン接種について聞くと、そんなの役にたたないわよ、という。
どういう根拠での発言なのやら、彼らがかかってしまった、その体験からなのか、はっきりしないのだが、ワクチン接種に重きをおいていないのはわかる。

フランスで接した人々のほとんどが、コロナの最初のころ、ワクチン接種を1回、2回受けたようではあるが、それ以降、受けてはいないようだ。
一時、ワクチン接種の証明がなければ、キャフェなどでの飲食を断られるといったこともあったようだが、いつしか、そんな制約もなくなってしまったらしい。

こうなると、ワクチンというものの効用が、果たして、日本の政府がいう通りなのか、疑問にも思える。
Covidそのものがもう話題には上らず、過去の事象にすぎないのだ。

それにしても、日本のこの生真面目さはなんだろう。それでいて、毎日の実数報告をやめてから、なんだかわけのわからない指数的なもののみが週一?で報道されるけれど、感染者数の実態がつかめない。

フランスでこうだったから、受けない、というわけでもない。
ワクチンの手配に後れをとった日本が、今更、余ったワクチンの引き受け手になっているのでは?などと思ってしまうのだ。
Covidという名詞が男性名詞なのか、女性名詞なのか、あるいは中性になるのか、その判別は私にはついていない。
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Solferino

Solferinoと聞いて、何を思い浮かべるだろう。
私には、フランス、パリ、ミッテラン、そして社会党とくる。
ミッテランが大統領に選出されたころ、在任期間は1981年から1995年の14年間であるが、左翼が強かった。
ミッテラン大統領は社会党出身で、その社会党本部がこのソルフェリノ通りにあったのだ。
新聞などのメディアでは、社会党とはいわず、ソルフェリノで代用することも多かった。

あの頃、どうして左翼は強かったのだろう。
今、フランスでも社会党、そして共産党は勢いを失った。
当時、共産党支持者は国民の4分の1を占めていたはずだ。
いまや、左翼の政党は、極小政党となっている。

日本でも同様だ。
そして、ある右側の政党党首は、共産党は日本には不要だ、と言っているという。
果たして、そうだろうか?そう言い切れるものだろうか?

rue de Solferinoを見たのは、オルセー美術館にいくため、バスを降りたときだった。バス停の名前がソルフェリノだった。懐古の感情が湧き出てしまった。
社会党が盛んだったころ、私自身も働き盛り、意欲に燃え、社会的に上昇機運があったことも幸いして、いろんなことに挑戦できた。
フランスの従妹たちに言わせると、社会党の政策は間違っていた、となるが、女性の地位をアップさせたり、社会的平等を目指したり、保守政権では後ろに追いやられていた政策を前面に出した、という実感があった。

ここで共産党の意味が問われるのだが、共産党がフランスにおいても、日本においても、決して無用の存在ではないと信じている。
共産主義、communismeを正確に理解しているかは自信がないが、国民を人民、あるいは民衆といった形でとらえている、のは間違いではない。
言葉のニュアンスかもしれないが、人民、民衆という場合、それは労働階級、あるいは、国を下支えする人々の感がある。

資本主義と共産主義の対立、といった時代は終わった、というけれど、そして共産主義は破滅した、という人もいるけれど、理念として、すべてが間違っていたのだろうか。

Solferino通りに、もう社会党本部はない。

そして、フランスの現在の政党は、社会主義だ、資本主義だ、といった全世界的スケールで呼べるものはない。
お国ぶり、あるいは細分化した利益集団となって、自国の、自分自身の保身、利益を求めるものが多いように思う。

明治は遠くなりにけり、そして、昭和も遠くなりにけり、はいいが、共産党も遠くなりにけり、にはしてはならないと思っている。
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フランスでレシートがでてこない訳

6月から7月にかけて、フランス滞在したとき、従来と違う!と思ったことがいくつもあったけれど、その一つにレシートがもらえない、ということもあった。

先方の出し忘れか、こちらのもらい忘れか、なんだかわからないまま、もしかしたら、カード払いではなく、現金で払っていたから、レシートがでないのかもしれない、と思ったりしていた。

今朝のフランス2のニュースを見て、納得した。
8月1日からペーパーレスになるのだそうだ。完全になのかどうか、もうフランスにいないからわからないが、レジでのレシートは発行されず、必要な場合かどうかわからないが、メールで送信されるのだという。

6-7月は試用期間だったのかもしれない。
現金でのやりとりが不確かで、あとで出納長をつけながら、金額を確認したいのに、レシートがみつからない、ハンドバッグの中をひっくり返しても出てこない。
特に南仏のSt Paul de Venceという観光地はひどかった。
絵葉書や、Tシャツなど、の買い物で、金額がおおきなものではない。しかし、買ったときはともかく、あとでいくらだったのか、思い出さない。レシートは?と探してもでてこないのだ。

ひがみ根性のある私は、ツーリストとして軽んじられた、税金をごまかそうとしている、などと悪意の判断を下したのだが、もしかしたら、このレシート省略のトライアルであったのかもしれない。

SDGsの一環なのか、うまくレシートが出なかったのは観光地ばかりでなく、パリでも経験したのだ。

SNCF(フランス国鉄)の切符も大きな変化の一つであった。
パリから南仏に行くときのチケットを駅で購入したが、今時、チケットを求める行為がレトロなのだ。
ほとんどの人が、携帯で予約、それを自分で印刷するか、あるいは携帯にはいったデータを示せばいいようになっている。
超レトロ人間の私は、チケットがなければ安心しない。
そして出たのは、ピラピラの、スーパーなどのレシート用紙に印刷されたものだった。
これは料金のレシートでしょう?チケットは出ないの?と係員に問うと、これがチケットだという。
トップの部分に、マークシートが出てくる。それがリフェランスになるのだ。
昔ながらのスタイルでチケットが発行されたのは、カンヌ―マルセイユのローカル線の分だけであった。

そうしてみると、飛行機だってそうだ。今や、搭乗のための規約などまで印刷された冊子の形でチケットが届くことはない。
どこにチケット購入の証拠があるの?と言いたいけれど、何もなくても搭乗受付はできる。

このペーパーレスの実行で、フランスでは年間150000トンの紙が節約できるのだそうだ。

毎朝、コンビニに新聞を買いに行くが、毎回、几帳面に180円のためのレシートが発行される。
もったいないとは思うけれど、ちゃんと払いましたよ、という安心感はもたらされる。

帰国して、旅行の収支決算をするのに、レシートなしの部分は本当に困った。

そういえば、クレジットカードの収支も、紙ならば料金が必要になるらしい。
レトロな人間にとって、生きづらい。
しかし、まだ日本は法律でペーパーレスを決めてはいない。レトロ人間救済なのか、国自体がレトロなのか。答えは後者なのだろう。
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