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わが人生に悔いなし

今日もまた雪が降っている。
横殴りの風にあおられた雪、それぞれに方向が違う。
横に流れる雪片もあれば、まっすぐ降りてくる雪もある。
雪はどこに落ちたとき、満足するのだろうか。

雪の日は、野鳥が餌をもとめてたくさん来る。餌といっても、ヒマワリの種、これだけで飽きはこないのだろうか、と思うけれど、ほかの餌というのはおもいつかない。
我が家にくる野鳥、雀の種類で、大きい方から五十雀、四十雀、ヤマガラ、十三雀(コガラと読む)の4種類だけだ。もっと、多種の鳥がご近所にはきているようだが、我が家はこの4種だけ。
それで十分楽しい。
この4種、同族ではあるらしいが、同族内別種の婚姻というのはないのだろうか。
以前は、ヤマガラ、これが一番人懐っこくて、年によっては、手のひらにおいた餌を直接つついてくれるから、気に入っていた。色もちょっと赤っぽい色で、ほかの3種が白黒だけ、というのより、魅力がある。
しかし、よくみると、ゴジュウカラは胸元は白一色で、それなりに威厳があるし、シジュウカラはフロックコートみたいに、胸に黒の線が通っているのが芸術家っぽい。コガラはなんといっても小柄、かわいい’の一言だ。

先日、「人間標本」という本を読んだ。蝶の標本みたく、人間で標本をつくる、といういささか怖い本で、また、存在する花の色が、人間の目で見分ける色と、蝶が見る色が異なる、などと、本当なのか嘘なのか、わけのわからないまま読み終えた本だ。
4種の雀種の鳥たちを見ながら、彼らの餌に対する欲望をどうやって知ることができるか、などと考える。

鳥の話ではない。わが人生に悔いはない、の話だ。
あす、京都に行く。最後に京都にいったのがいつなのか、思い出しもしないが、この京都行を決めて、心の中にある情景がでてくる。
お見合いの相手と、京都でデイトしたときのことだ。
大学をでたものの、ということばもあるが、新聞社の就職試験を落ちて、ほかになんのあてもなく、なんせ、家をでたい一心で、お見合いの話にはのった。
我が家より豊かで、できれば都会、この条件さえ満たせば、それでよかった(ということもないが)。
お見合いをした相手は、京都の大学を出て、京都にはくわしい、というので、初デイトは京都だった。

通という京都を案内してくれた。それでこちらは満足、婚約は成立した。
しかし、人生には落とし穴が多い。この婚約者、私とのお見合いを承知しながら、ほかの女性との付き合いもあり、そちらとのごたごたで、婚約は解消となった。

私にとって、人生をもう諦めたいほどの絶望をもたらした事件だったが、なんと私はまだ生きている。
人生を振り返ったとき、この婚約解消は、まだ胸がキュンと締まるほどの痛みをもたらす過去だが、また過去を振り返ったとき、ある程度鮮明にでてくる記憶でもあるが、結局は過去の1ページでしかない。

あれから何年たつのやら、もう過去というより、フランス語なら大過去で表現すべき事件だけれど、また私が思いを寄せ、それが届かなかった男性、つまりは片思いの相手は5本指より多いだろうが、それらの人は名前も定かでなくなったりしているが、この婚約者は覚えている。

連れ合いが亡くなったとき、フランス映画の「舞踏会の手帳」ではないが、過去、私が思いを寄せた、あるいは私に思いを寄せてくれた男性たちと、連絡して、今どんな暮らしをしているのか、みてみたい気分にもなったけれど、連絡先もしらない、名前すらきちんと思い出さない人もいる。
そんなに年月が過ぎたのだ。

友人がからかい気味に言う。京都で巡り合うかも、と。それはない。50年以上の時を経て、お互い変貌著しい。
名前は思い出しても、顔は思い出さない。
もしわかっても、そして彼のせいで、人生は変わったけれど、その結果、いまや、「わが人生に悔いなし」だ。

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ロッキード事件を読みながら

今、ロッキード事件の本を読んでいる。
真山仁著「ロッキード」(文藝春秋、2021)、591ページある大物だ。まだ読み終わっていない。
これを読みながら、以前から、政治、あるいは政治家とお金という、わけのわからない関係を理解しようと思っている。

このルポでは、どうも田中角栄を全否定していない。金権政治家として烙印をおされたまま、公判途中で亡くなった。

日本では、死者を貶めないという美風?があるからか、死んでしまえば、功績ばかりが、功績がなくてもそれらしいものを作って称賛されるけれど、毀誉褒貶の厳しさは、田中角栄の場合は死後も毀誉では毀のみが褒貶では、貶だけがのこったような気がする。

以前の政治の世界、お金の動きがよく取沙汰された。
そんな中での、ニッカとサントリー、という表現もお思い出すが、よくウィスキーの名前が使われていた。
思い出すのは、新聞記者をしていた友人が、田中角栄からは、盆暮れにジョニーウォーカーの黒ラベルが、信濃町の田中邸に出入りする記者全員に配られていたこと、しかし、三木武夫氏にかわると、何も配られないんだ、と言っていたことだ。
ジョニーウォーカーの黒ラベルというのは、当時は最高級のウィスキーで、赤ラベルは見たことがあっても、黒となれば、なかなかお目にかかれない代物だった。
そして、そのとき、だから田中時代はよかった、という、その友人に、それでいいのか?という疑問を抱いた。

田中角栄の事件は、民間機、それも全日空が黎明期で、成長しようとするところへの機種選定にかかわる問題だったことがよく言われるけれど、それとは別に、軍用機の問題が大きかったという。

この本を読んでいると、裏金事件なんて、小さい、小さい、と思ってしまいそうだ。

安倍さんはなぜ、このキックバックをやめようと提案したのだろう?
彼は違法なやり方であることを十分承知の上で、清話会のパーティを主催していたのだろうか?
なんのきっかけがあって、やめようと言い出したのだろうか?
清話会のリーダーとして、やめたくないという意見を受け入れたというのは、どうしてだったのだろうか?
観桜会前夜のパーティの話なども絡めて、全容がわかるまでには、ずいぶん時間がかかるのだろう。
死者に口なし、安倍さんはまた、暗殺されるという劇的な死であったため、毀誉褒貶の誉と褒の部分がアップされがちだ。

ロッキード事件の本も読んでいて、当時の状況を理解できるわけではない。
政界は闇?なんだかわけがわからず、もやもやの時間ばかりが過ぎていく。
政治家用語集というのは、まだ出版されていないのだろうか?
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葬儀のあり方の変容が過激すぎる

今年の2月はつらい月になった。
短い月なのに、なにかいろんな印がついた日付がおおい。
命日、誕生日、なんで2月はこんなに記念日があるの?と思っていた。

16日、南仏に住んでいた時、受洗のための勉強を手伝ってくださった方の命日、彼女はコロナで亡くなられた。
22日、パリの親と呼んでいた方の命日、もう8年にもなる。22日に亡くなられ、ご葬儀は29日だった。つまり閏年、8年前になる。この葬儀にはパリまでいって参列した。

そんな中、5日には、関西に住む96歳の知人の訃報、母のような存在だったが、ご葬儀は本当に家族だけでという。
50年をこえるお付き合い、本来なら通夜からすべての儀式に参加すべきだし、参列したいと思ったが、喪主(長男)の意思がそうであれば、と参列をあきらめる。
しかし、どうしてもお参りして告別を、という気持ちから、月末、関西へでかけることになった。
その手配で、あれこれしているときに、新たな訃報が届く。

それは従兄で、高齢に加え、長年、糖尿病で苦しんでいた。
母方の従兄で、この従兄の出産時、母が手伝ったということがあり、母にとっては、子供にも似た感情があったのか、大きくなっても、とても親しくしていた。
帰省時、母のお墓にまいる、というと、必ず同行してくれていた。
ボケ防止に週に10人に電話するんだ、という10人の中に私もはいっていて、時折、電話でとりとめのなさすぎる会話をしていた。
その従兄の死は、彼の姉(高齢者施設にいる)の息子から知らされた。
この死去のニュースは、姉と弟に連絡するだけで、二人とも従兄とその配偶者への連絡方法は持っており、弟が右総代で、葬儀には参列、というシナリオが完成した。

そのあとにもう一つ訃報が届いた。
母の実家の家業を継いでいた従兄である。
母が亡くなったときには葬儀に参列してくれていたが、もう半世紀、コンタクトがない従兄だった。
母は兄弟姉妹が多く、いとこの数も必然的に多かったし、若いころは従兄会などして、親しい関係にあったけれど、いつ頃からか、疎遠になっていた。
郷里に帰る回数も少なくなり、何年かに1回、そして、帰省時には、親戚よりも中学、高校の友人との再会が優先して、親戚との関係が薄くなっていった。

この従兄の訃報は、アメリカ経由でのルートで知らされた。故人の妹がアメリカ在住なのだが、彼女はその昔、アメリカ人と結婚して、その結婚を認めない親(父親)から絶縁を言い渡されていた。
そして、この従兄は長男として、やはり絶縁を続けていたらしい。
今からすれば、ばかばかしい話だが、当時は、どこの馬の骨かわからない、そんな人との結婚も認められず、ましてや外国人、外人と呼んでいたが、との結婚はそう簡単に認められなかった。

そんなこんなで、従妹はずっとアメリカ在住なのだが、だれからか兄の死を知らされたらしい。
ただ、訃報だけで、詳細は自分で調べて、ということで、まずは弟に知らせた。
ところが、弟は母の実家である、その故人の家の連絡先を知らないという。
それからである。母の実家の連絡先を知るための、聞き合わせが始まった。
病院に入院中の姉に聞く。姉は自分の携帯に登録している従姉妹の電話番号を知らせてくれる。
それは固定電話であった。電話すれど、もう使われておりません、だ。

従姉の子がアメリカ在住の従妹とラインでつながっているというので、従妹がだれから連絡を受けたのか知らないが、なにしろ連絡の付けられる先をきいてもらう。

教えてもらったのは、亡き母の弟(故人)の長女の電話番号、これは携帯であるから通用しそうだ。
もう何十年も連絡したことがない従妹、もしかして忘れられているかも、と思いながらかけてみる。
名乗ると、えー、姉ちゃん!と昔の名前で呼ぶ。
もう老年の二人だが、なになにちゃんと呼びあった昔に戻ってしまうのだ。

この従妹にも訃報は伝えられていなかった。
しかし、彼女が持っている固定電話の番号を教えてもらい、電話をすることで、従兄の死亡は確認できた。
配偶者の意向で、家族葬、それも本当に限定的な形でする、ということを伝えられた。
母の実家の長男だから、となつかしさもあるが、義理の気持ちも半分で、やっきになって連絡先を求めたけれど、結局は、なにもしないと、弟、姉と納得したのである。

顧みれば、たとえば私自身、親戚で付き合いをもっている人は数少ない。
電話が固定で、家族全員が一つの電話であった時代から、個人個人で電話を持ち、その電話番号は公表していない、となれば、よほど親しくて、登録していなければ、調べることすらできない。
数日前、自分が死去した場合、死亡通知を出す(もちろん、葬儀などはすませたあとに)リストをチェックした。
親戚・知人・友人ではあるが、親戚はほとんどない。兄弟姉妹、おそらく兄・姉は先に死んでいくのだろう。
知人や友人にしても、年齢的に似たようなもの、となると、私の訃報に先立たれている可能性もある。

もう従兄弟・従姉妹の訃報でばたばたしなくていいのかも、と強く思った。

それでも、ちゃんづけで呼ばれるのはくすぐったいけど、若返った。
これだけ、家族葬が一般化するとは、コロナの影響は大きいものである。
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to buy, or not to buy,広辞苑第7版

岩波書店から、毎月「図書」という出版案内が出ている。
以前は購読していたけれど、今は、神保町に住む友人が、書店を見て歩くとき、見つけてはその月の号を送ってくれる。
数日前、2月号が届いた。
30ページくらいの厚さというか薄さというのか、これも自分では決められないのだが、それだけのページ数でありながら、岩波書店の出版物の質の高さ、あるいは内容の固さ、などで読みでのあること!
さっと目を通すなかで、後半の新刊案内のページに目がいった。

辞典のページがあった。岩波書店の名を知らしめす「広辞苑」がある。
第7版とある。
えっ!第7版!
我が家の広辞苑をみると第4版である。
いつの間に第5版、第6版がでたのやら、記憶にない。

なくなったつれあいも、私も辞書は大好きだ。
英語、フランス語の辞書は、二人分でたくさんあった。
私はその昔、短歌の結社に入っていたこともあって、広辞苑はお金がないにも関わらず持っていた。
言葉に疑問が生じると、まずは辞書で調べなさい、と短歌の先輩から言われ、知らない古語にも、使い方が変わった新語にも、まずは広辞苑に載っているかどうか、どう説明されているか、それを確認するのが常だった。

でも、だ。短歌をやめてからもう半世紀、辞書を使うこともほとんどなくなった。
この頃は、携帯の検索というのを使っている。使い勝手は悪い。けれども早い。
その内容に信頼を持てない。でも便利だ。
厚ぼったい広辞苑を、書棚から出して、ページをめくるのに、時間がかかる。
携帯ならほとんど即時だ。
だけど、携帯にのる説明が正しいのかどうか、疑問である。

広辞苑だと、最終の部分に、執筆者、校閲者の名前が載っている。
その分野の専門家、それも信頼できる人たちのお名前だ(と思う)。

「舟を編む」という辞書造りをテーマにした本がある。
辞書造りには、ある仏和辞典について協力したことがあって、協力者として名前が載ったことがあった。
とっても嬉しかったこと、誇らしかったことを覚えている。

さて、第7版、普通版で9900円、机上版で15,400円、
買いたい、けれど、高い。
そして、残りの人生で何度使うか?
そして、第4版を処分することになる。その罪悪感をどうするか?
第7版がなくても、今の生活になんの不都合もない。
本屋さんで見てみよう。と思ったが、本屋さんてないところだ。
広辞苑を置いている本屋さん、どこにいけばいいのやら?
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Robert Badinter氏、死去

わが携帯にあわただしくニュースが更新される。
ほとんどは無視するのだが、今日は何か、気になった。

J'ai tenu bonという言葉がでてくる。
それはRobert Badinterの言葉だった。
なつかしい、というより、なにか昔、そんな名前の人、知ってたような、だったが、気になって、ニュースを読んだ。
フランスで1981年、死刑を廃止した時の法務大臣だった。

ミッテラン氏が大統領にえらばれ、彼の公約が次々に実行に移されていったが、その一つが死刑廃止であった。
そしてそれを担当した法務大臣が彼だったのだ。
彼の発言がある。
”Il n’y aura plus, pour notre honte commune, d'executions furtives, a l'aube, sous le dais noir, dans les prisons francaises.
Demain, les pages sanglantes de notre justice seront tournees."
それは、1981年9月7日のこと、363人が賛成し、反対は117人だった。

死刑廃止は、時の流れでもあった。最後に死刑が執行されたのは、1977年9月10日、ギロチンでの執行であった。

それから、現在にいたるまで、フランスでテロ事件もあったし、少年少女への誘拐殺人もあったけれど、有罪の最高は終身刑、死刑はない。

先日、日本では死刑の判決があった。京都アニメーションの殺人事件である。30名を超す人が無残にも焼死した。
裁判のとき、裁判長が有罪を認めるが、刑については最後に、というところで、死刑であろうことは推察できたし、その通りだった。
しかし、結局、弁護団は上告したので、すぐの死刑執行にはいたらない。

この判決を聞いたとき、よく1人殺しても死刑にはならないが、2人以上は死刑、といった表現を聞く中で、30名以上の人たちが焼死させられたことを考えれば、死刑以外にあり得ない、と思ってしまう。
日本では極刑=死刑であることに慣れているし、死刑判決にアレルギー反応はあまり示さない。

世界でいくつの国が死刑制度を残しているのだろう。
先進国といわれる国では日本だけなのだと思う。

1981年、ずいぶん死刑というものについてその是非を考えたものだったが、いつしか、忘れてしまっていた。
このバダンテール氏、honte(恥)という言葉を使っている。死刑制度は恥なのだ。

日本では2024年の今も死刑制度は存在している。
私はわからない。死刑や自殺、自死といったことにいささか無神経になりすぎている。
ミッテラン政権が誕生したときのあの興奮、もう一度、思い出そう。
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私はやっぱりバカだな、雪かきをして。

数日前から、テレビでもうるさく予報していた大雪注意報、ちゃんと当たった。
都会で数センチの雪でも、大雪と、テレビのレポーターたちが、少ない雪をかき集めて、こんなに降っています、という画面をみながら、我が家あたりはどのくらい降るのかな?と昨日は一日、雪のふる様子を観察していた。

昨日、午前10時、時間をきめていたように、雪が降りだした。
細い糸のような雪だ。これは細雪か?つい谷崎の小説「細雪」を思い出す。
昨日は幸い、風があまり拭かず、まっすぐに落ちてくるといった降り方だった。

それにしても、みるみる地面が白くなっていく。ひとかた、白くなった地面に、それではこれから積もります、というような合図があるような、ないような。
飽きもせず、絶えることもなく、空から雪片がおちてくる。
雪の形がいつまでも細雪ではない。
雪の種類、それが科学的呼び名であるのか、文学的な呼び名なのかは知らないが、思い出すだけ、雪という名詞を出してみる。
細雪は谷崎、春の雪は三島、ほかに雪は?ああ、雪国があった、「トンネルを過ぎるとそこは雪国だった」という川端氏の表現は、東京から新潟に抜けたとき、あるいは長野県から富山県へ抜けるトンネルを過ぎる時、かならず、この表現がでてくるのだ。

今朝、起きてみれば、30センチ以上ある積雪だ。
正確には測らない。というのも、雪は下の温度で、厚くも薄くもなるのだ。
さいわい、ベランダに吹き込んでいなかったので、玄関先と階段、そしてガレージから道路までの部分を除雪すればいい。
道路は、管理事務所の担当だ。
今日は別に外出予定も、来客予定もない。除雪をしなくても別に差しさわりはない。

が、しかし、だ。このまましておけば、嵩は低くなるかもしれないが、湿気を含んで、重い、粘性の雪になる可能性が高い。
やっぱり、朝の寒いうちに、雪が新品の間に雪かきをしなければならない。
階段のゆきかき、下からとりかかれるものなら、ずいぶん楽なのだが、あいにく、上から腰をしっかりまげてすることになる。

少しの雪ならちりとりですれば、あまり重くなく、雪をはらうのもやさしい。
しかし、30-40センチの雪ともなれば、塵取りでやっているのではとてもはかがゆかない。
大型のスコップを使う。
直線的にぐさっと雪のなかに突っ込んで、雪を掬い上げる。
重い。そして雪が離れない。べったりとスコップにくっついたままだ。

12段ある階段、4段ずつ3回、5段x2プラス2,6段x2,と休み休みでする方法を考える。
一度に12段、以前だったらそれはできた。でも今では無理な話だ。
それにガレージ前のスペースも除雪しなければ、車をだせない。

前の道路の除雪にはいつきてくれるのだろう。と思っていたら、11時すぎにきてくれた。
どうも優先度がさがったようで、以前、私が仕事をしていたころは8時、9時にはきてくれていたのに、と思うが、今は暇人なのだから、まあかまわない。
階段だけでぐったり、もう外出はしないでおこう、だからガレージ前は明日にまわそう、と思ったが、雪はそのまま残しておけば、硬くなる。湿気も含んで、重くもなる。もう春の雪で、粘性があるのだ。

外出しての用事というのは、新聞を買いに行くという用事だ。毎日、6キロ下ったところのコンビニに新聞を買いに行く。
明日は歯科の予約があるけれど、今日はなにもない。新聞は必ず読まねば罰を受けるというものでもない。

11時すぎに管理事務所の除雪車が道路をしてくれ、食料品配達の車が通っていったのもみえた。
宅急便などは、昨日、今日の配達はしない、などとテレビでみたが、この食料配達の車は関心に、とそろそろ、そういうサービスを受ける場合の参考にする。

よし、昼ご飯を食べて、そのあと、体力が戻ったら、ガレージ前をして、新聞を買いにいくかどうか、決めよう、などと考えたが、昼ご飯を食べると、それだけで疲れて、もう出かける気にはなれそうにない。
と、昼飯前にガレージ前を除雪、車で新聞買いに出かけることにして、除雪を始めた。

車をどうにかバックさせ、すこし回転して道路に出す、というのに必要なスペース分だけ除雪した。
20年近いキャリア、車を動かす部分はちゃんと除雪されている。

我が家からコンビニまで、別荘地の私道、村道、県道、そして国道と通る。
それぞれに担当する業者が違うらしいが、やっぱり国道、県道、村道とできが異なる。
下まで降りれば、そこは除雪のし残しもあるけれど、もう舗装がみえて、滑らないか?という恐怖心はもたなくてすむ。
村道が一番大変だ。というのも、急な坂道、カーブ、そして除雪残し、これがシャーベット状になったり、明朝、凍結していると、どうなるだろう、と思いながら、セコンドに落としたまま、慎重にブレーキ併用で降りていく。

新聞は受け取った。しかし、もう読む気力も残っていない。
朝刊だけの土地に住んで、その新聞を午後に読むとき、これは新聞ではない、旧聞だ、と思う。
旧聞になるのがわかっていて、除雪に腰をいため、そして恐怖感でちびりそうになりながら、やっぱり新聞を買いに行く私、やっぱりバカだわ。
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ママハハ、亡くなる

ほんの20分ほど前、携帯電話が鳴った。
だれから?見れば96歳のママハハの名前がある。
病床について、もう長く、人と接しないから、話す機会が無くなって、声が出ない、と電話での交流もなくなっていた。
先年11月に容体が悪化して、もういつ亡くなっても不思議はない、と看病している長男から先日、連絡があったばかりだった。
それでも、私が週に1回書き送る手紙を楽しみにしていてくれる、というのは私にとっても救いだった。

今日は雪予報、東京は夕方だというが、当地では10時に降り始めた。
いつもなら9時すぎには郵便局へ行くのだが、今朝はなぜか1時間寝過ごして、郵便局についたころ雪が降り始めた。
関西のママハハの家に手紙が届くのは、水曜日かな?と思いつつ、この手紙は必ず、郵便局の窓口に渡す。
今朝も、いつものにこやかで親切な窓口の方にお願いします、と渡して帰った。

今日は風もなく、雪はしんしんとまっすぐ落ちてくる。
ベランダに集まってくる鳥たちを観察しながら、新聞を読み始めたところだった。
携帯電話が鳴る。だれからの電話、というのを言ってくれるのだが、聞き取れない。
見れば、ママハハだ。

声はママハハの長男である。
ママハハの死を告げる電話だった。今朝、7時半ごろ、様子を見に行ったときにはもうなくなっていた、と。

ママハハとは、私が22歳の時に知り合った。ママハハの姑にあたる人が、私の縁談を紹介してくださったのだが、そのおしゅうとさんと私は九州、縁談の相手は関西、お見合いには関西まで来てくださいというので、行くことになったのだが、当時は、お嬢さん一人をホテルにお泊めすることはできない、と、その仲人をしてくださる長男のご家庭が大阪にあったので、そこに泊めていただいた。
おしゅうとさんの仲人趣味に付き合わされる長男夫婦も迷惑なものだが、縁談の相手方とも知り合いで、というので、お見合いにも同席してくださった。

それからいろいろがあって、この縁談は、いったん結納までしたのちに、先方から破談ということになった。
大学を出たて、就職もせず、結婚に備えていた私、結局、東京へでて、兄の家に居候しながら、九州へ帰ることはしなかった。

その後、私に同情してくださったママハハとの交流が始まったのだ。
それから50年以上、長いお付き合いになった。まるで母親みたい、ということで、ママハハと呼ぶようになったのだ。

もちろん、ママハハだけではなく、ママハハのお連れ合いもとても親切にしてくださったのだが、そのお付き合いは、経済的援助だけでなく、本当に親身なものだった。

短歌にも導いていただいた。

とうとう、母とよべる人はいなくなった。実母、そしてフランスの母、ママハハ、寂しい!
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