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大腸がん検査

ただいま、春の集団検診シーズン真っただ中、いろんな検査が待ち受けている。
その一つに大腸がんの検査がある。
同世代の友人が言った、大腸がん検査って、結局、検便でしょ!

そうなのだ。まずは検便、という語が正しいのだろうか。
というのは、検便という言葉では、今の便検査にそぐわないような気がするのだ。
友人のことばは続く。今の検便って、便利なようで、不便もたくさんあるわね。
例えば?ときくと、この頃、水洗トイレだから、っていうので、水の上に浮く紙をまず敷くのよね、その紙が浮いて、便の重さで沈むじゃない、あわてて検査キットでこすりあげるんだけど、沈んだ便から採るのって大変よね、という。
そうそう、あれはあわてるわね、とこちらも体験ずみだ。

なんだかちょっぴりすぎて、これで検査できるんだか、不安でしょうがない、たっぷりつけると容器にいれられないし、はみ出ると、手が汚れる、などと文句が多い。

そういえば、とくる。そういえば、昔はマッチ箱にいれてたわよね、と思い出は限りなくさかのぼる。
そうだ、小学校時代、検便提出というのがあって、便はマッチ箱にいれて提出していた。
どうやって採取していたのですか?と若い世代が聞いてきた。
昔は、水洗なんてなかったし、肥溜めというのか、下の穴に直結していたから、便器のそばに新聞紙をしいて、大きい方をそこにする、マッチ棒でちょっととって、マッチ箱にいれ、残りの便は、新聞紙ごと、下に捨てればいい、と昔方式を説明する。

マッチ箱の争奪戦もあった、と私がいうと、友人が争奪戦てどうして?と聞く。
当時、我が家は大家族で、小学生は3人いた。マッチは常に使う発火の材料だから、大箱でおいてあるもので、小さなマッチ箱はタバコを吸う父や、なにか小口で火が必要なところにおいてあるだけ、数がたくさんあるわけではなかった。
年上の姉や従姉が先にとって、私の分がなかったりで、争奪戦もあったのだ。

でも、昔の検便は、目的が違ってたよね、がんの検診ではなくて、寄生虫の検査だったでしょう、回虫とか、サナダムシとか。
そうなのだ、昔はもっと原始的な検査目的だった。
トイレには蛆虫がうようよしてたり、体内に虫をもっている生徒はたくさんいた。
ハエはたくさん飛んでいたし、虱、あと何があっただろう、もういちいち、虫には驚かない時代だった。

今年の大腸がん検査、ちょっと真剣に対応している。
というのも、去年から、周囲のごく親しい友人・知人の3人が大腸がんであることがわかり、2人はもう手術をすませ、一人は来月入院、手術の予定である。
大腸検査でちょっと何かありそう、と言われましてね、というが、大腸検査、それがまずは検便だったのだ。
何かありそう、と言われると、本格的な大腸検査になる。

検便を無視していると、何かありそう、と言われるときにはあるに決まっていて、それも先に進んでいることが多い。

さあ、昭和、平成、令和と3時代を生き抜いている我々だから、きっと大丈夫、と友人は言うけれど、なんの保障にもなりはしない。すでに3人の友人がそう診断されたのだから。

我が家にある小さなマッチ箱をみつけた友人は、そんな時代もあったのね、と何にするのか、ひと箱、持ち帰っていった。
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トルコの思い出、エルドアン大統領再選によせて

トルコの大統領選挙、決戦投票になったものの、結局はエルドアン大統領の選出に終わった。
何期目になるのだろう。プレスによると2002年、総選挙で大勝、翌年首相に就任、18年に議院内閣制から大統領に権力を集中させた初の「実権型大統領」に当選した、とある。

私が初めてで、いまのところ最後のトルコ旅行をしたのは、エルドアン氏が首相に就任したころだった。
そんなはずはない。もっと以前の話だと思う。
母をつれての旅行だった。
東京でのフランス人の友人が、トルコ、アンカラに転勤になった。
そんな知人を訪ねて、いろんなところに行くというのが、当時の私の旅行スタイルだった。
単身での旅行、のはずが、当時はかならず母が同行した。

グループ旅行ではなく、行く先々で、ホテルも決めるという、行き当たりばったりの旅行、土地のひとたちと接する機会もとても多かった。

イスタンブールで感じたのは、親日家が多い、ということだった。もちろん、その裏側に、じゅうたんやさんに案内される、とか、お土産屋さんとつるんでいる、というバックもあったけれど、日本語を、それもとてもきちんとした日本語を話す人が少なからずいたのだ。
のせられて、母がじゅうたんを買ったりしたけれど、その価格が適正かどうかはわからないが、きちんと船便(航空便は高い)で母の自宅に届いたのだった。

なぜ親日家が多いか、その理由を、ガイドブックなどでは、日本がロシアに勝って、ロシアに痛めつけられていたトルコのうっぷんを晴らした、とか、紀州沖で難船したトルコ船の救助にあたった、というような事実が書かれていた。

たったそれだけで親日家になるかよ、と思ったりしたが、現地では本当にみなさん、優しかった。
年寄の母と、現地の交通機関を利用して、勝手に動いていた私、言葉も通じない田舎でも困った、という記憶がない。

そして、その親日の証は、外国で暮らすようになったとき、南仏でも、アフリカの地でも、特別な友情をうけたのだ。

それらはともかく、トルコに旅行したとき、エルドアンの評価が最高値の時だったようにおもう。
トルコといえば、オスマン帝国の印象がつよく、旧弊で、中世のおもかげが生活にもたっぷり残っている印象だった。
そこを、エルドアン氏は大きく変えつつあったのだ。

無知といえばそうだったが、現地にいって、初めて、トルコがNATOの一員であること、を知った。そしてNATOは、日本語で呼ぶナトーではなく、ネイトーであること、ボスボラス橋がアジアとヨーロッパの境界であること、地理と歴史の勉強を一挙に学ぶところであった。

長期政権はよくない。
それからたびたびエルドアン氏のことはメディアで見るけれど、腐敗というのか、根元が腐っていく様子がみえて、特にクルド人との問題、臭いものに蓋、的政治手法、強権的すぎた。

もちろん、トルコの立ち位置からすれば、彼の手法はそれなりに理屈にあったものかもしれない。

これから5年、また重いトルコになってしまった。

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カンヌの映画祭

今朝、テレビのニュース番組で、カンヌの映画祭最終日、日本の俳優、役所広司氏が男優賞を受賞したことを知った。
カンヌの映画祭、行ったことがある。
俳優として、ではない。

新聞記事によると、1997年、今村昌平監督の「うなぎ」がパルムドールを受賞した。
その時、最終日、つまり授賞式に出たのだ。
赤いじゅうたん、tapis rougeの上も歩いた。

この日、授賞式に出る、と言われたのは前日だったような気がする。
いくらなんでも、平服というわけにはいかない。
つれあいはしまいこんであるタキシードにエナメルの靴、私はどうしよう、そんな華やかな服はないわ、と手持ちのなかで一番派手な服を選んだ。

オーラが違う!
タキシード姿の男性もそうだが、女性たちの美しさ、放たれる、空気だけでは表現できない、やっぱりオーラの言葉になってしまう。
足の細くて長いこと!

私も一応、運転手付きの車で乗り付けている。ジャーナリストだけではなく、ファンたちが大勢いるなかに、車を止めて降りる。
テレビなどでみていると、みなさん、両足を優雅に車の外に出し、すっと立たれる。
私も真似してみた。しかし、出した足の程度が違った。
彼女らの足は、細くて長い。私の足は、太くて短い。
足をみたとたん、周囲の人の関心が消えた。別にショックでもない。それが当然のことだ。

(初の)パルムドール受賞であるのに、監督をはじめ、主要なメンバーはカンヌにいなかった。
受賞できるとは思っていなかったらしい。たしか、だれか急遽ステージにたったような記憶がある。

ほかの受賞者についても、なんの基礎知識もなく出席したため、またすごく若いときならだが、もう映画そのものへの興味がそんなでもなくなったころだったのだろう、ステージにたつ俳優にも、話題作の監督にも、あまり知っている人はいなかった。

ただし、初めて、カンヌという有名な観光都市の、有名ホテルに宿泊したのだが、そのエレベーターで、アメリカかイギリスか、英語国の俳優だったが、二人きりになり、数語、会話した。
同業者とはみてくれていない、のは確かだ。
でも親切だった。きちんとGood Morning Madameだったか、Good Afternoonだったか、礼儀正しい応対だった。
これこそ、カンヌ!と興奮した。

「うなぎ」はその後、テレビで見たけれど、パルムドール受賞、と感激はしなかった。
私の感性が乏しいのだろう。
感性の問題から言えば、数年前の韓国映画「半地下家族」でも思ったことだが。

来月、カンヌに行く。さあ、レッドカーペットはないけれど、会場に行ってみるか。

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天網恢恢疎にして漏らさず

昨年末、首相の長男、政務秘書官でもある岸田祥太郎氏が、首相公邸で年末に親族と開いた「忘年会」が問題になっている。
公邸での忘年会はともかく、公邸の公的部分、赤じゅうたんの階段などでの記念撮影が表にでてきたのだ。
半年過ぎて、写真が出てきた、これはだれからでてきたのだろう。
ご親族のなかのおひとりからなのだろうか?
プライヴァシーの問題で、翔太郎氏以外は顔がぼかされている。
ご親族というからには、だれが出席してのやら、すぐに判明するだろうし、その中のだれが写真を出したのか、それもきっとわかっているのだろう。

でも顔ぶれを服装から想像するに、果たしてご親族なのだろうか?
ご親族との忘年会、と聞いたとき、ほう、あの若いのが、父親の年代のご親族を接待したのか、と少し感心だと思ったのだが、写真の服装をみると、なんか違う。どうも御子息と同年代にみえるのだ。
漏出した写真の1枚は、一人が赤じゅうたんの上に寝そべって、Vサインみたいなしぐさをしている。
60代以上のいい大人だと、こんなしぐさはしないだろうと思う。

しかし、公邸を私的に使ったといって、急に公私混同、と騒ぎ立てているけれど、以前から公邸を接待に使った話はよく聞くではないか。
たしか、地元からきた後援会の重鎮などは、公邸に立ち寄って、お茶でも出されるのがコースになっている、とうわさだったような気がする。
その接待を首相がすることはないだろうが、夫人やら事務所の責任者、夫人はともかく、事務所の人間は公的な存在ではないけれど、そんな話、歴代の首相についてまわっていた、という記憶がある。

ただ、記憶があるだけで、証明せよ、と言われても証明はできないし、そんなあやふやな記憶で文章を書いてはいけない、と言われれば、頭を下げるだけだ。

この翔太郎氏、今年の1月に首相の外国訪問時、大使館の公用車を使って観光したり、お土産を買ったりした、ということでも、公私混同甚だし、と責められた。
しかし、これも、彼にとってはなんで責められるの?と思っただろう。
父親の買い物にしても、彼にとっては公用に違いない。言われた通りにしただけなのに、という思いもあっただろう。
政務秘書官という公職と、私設秘書の区別がはっきりしていないようだ。

だれの思惑があって、この時期に公邸での忘年会などの写真がでてくるのか、一種、田中元総理のロッキード事件を思い出す。これだって、田中首相はスキャンダルだとは思っていなかったはずだ。

今日の朝日新聞、かたえくぼに寄せられた言葉、『公邸での忘年会』注意だけとはうらやましい―ジョンソン元英首相
彼もコロナで制約を国民に強いている間に、ダウニング街の首相公邸で、スタッフとの誕生パーティがばれて辞任を余儀なくされた。

さあ、2度あることは3度ある、となるのかどうか。
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病院のパジャマ、LGBTに思いが至らなかった

2回の入院、その最初の入院では、病室で使うものについて、病院が契約しているサービスを利用することににした。
つれあいが入院したとき、全部自前でいたします、と決めたけれど、たとえば、お茶がくばられるときの湯飲みあるいはコップがない、とか、清拭はそのサービスにはいっていないとしてもらえない、とか、いろいろ不都合があったからだ。

まあ、短い入院ではあるし、頼まなくてもいいけれど、と思いながら、パジャマは頼んだ。
病院にいると、四六時中、パジャマ姿ということもありうる。自前のパジャマが、病院にそぐわない、と判断されても困るからだ。

私は女性にしては大柄である。したがって、パジャマはLサイズで頼んだ。
部屋に一式を運んできた人が、Lサイズじゃ大きいかもね、という。
男女の別がないのだそうだ。
まあ、大は小を兼ねるからいいですよ、としたものの、大きかった。

2度目の入院にはこのサービスは使わなかった。自前のもので十分、賄えることがわかったからだ。
自前のパジャマ、薄いブルーの、小さな水玉がちりばめられた、こういってはなんですが、高島屋で購入した高級品だ。
看護師(女性)が、今回はご自分のパジャマですか、とってもいいですね、とほめてくれる。
それに対して、「前回、男女共用というのがさえなかったからね」と余計なことを言ってしまった。

今、病院で、男女別々のパジャマを用意したら、LGあるいはQやAの人たちは、何を着ればいいのだろう。
男女共通のパジャマで、サイズだけが種類がある、というのは賢い方法ではないだろうか。

と思いつつ、Lサイズのパジャマがなんとも大きく、落ち着かなかった1回の入院時を思い出した。
男性用のものの使い心地の悪さを知っているからだ。
樹木希林さんではないが、私もつれあいが亡くなったとき、つれあいの衣類や下着類で使えるものは使いましょう、とSDGsを掲げているわけではないけれど、ほとんどを残したのだ。
実際、下着類を除いて、ほとんどを使っている。

しかし、下着やパジャマはどうも体にフィットしない。
パジャマの下、パンツ、開いているのが落ち着かない。
また、体形が男女では違うのだろう、なにかしら不快感がでてくるのだ。
病院のサービスを使わないから、と入院時に新しいパジャマを3着も買った。
しかし、結局、サービスを使わないと不便が多く、1着、2着、使って1度か2度か、洗濯したけれど、ほとんど新品という状態で残された。
つれあいに似た体形の人でも泊まりにみえたら使いましょう、ととってはおいたが、そんな泊り客はない。
それなりにいいものを買ったから、肌触りはいいのだが、体形が違うと、着心地も違う。

そんな経験から、さあ、サービスのパジャマはL、M,Sとサイズがあっても、そういう体形の違いはどう対処しているのだろう。
パジャマはゆったりしているものを着るけれど、さすがにLサイズは大きすぎて、ぶかぶか、落ち着かなかった。

病院のパジャマ、ここにもLGBT関係の問題が存在する。
差別や偏見を持たないように、と心がけているけれど、つい男・女の違いだけで判断してしまう固定した意識を改めて認識したのだった。
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入院して考えたこと

先月と今月、2度の入院をした。2度といっても、いづれも2泊3日、まったくのショートステイである。
病名というほどのことはない。白内障の手術を右、左の順番で受けたのだ。

日帰り手術もあるといわれるが、私がかかった病院では2泊3日でしています、と言われる。
この地は、選択の余地はない。仰せのとおりにいたします、である。

1日目、午前10時前に入院手続き、そして病室にはいる。
診察をうけ、午後、外来が終了したのち、手術になる。
1日の手術は、4人くらいなのだろうか。
一般にそう複雑な手術ではないそうだ。

この入院生活、自宅を離れて、自主ではなく、他主とでもいうのだろうか、主治医、看護師などの指示のままにすごす、というのは、日ごろの生活基準をゼロにすることだ。

病気という表現にはあわない。いくらかの不自由な部分はあったけれど、普通に生活していたところに、よりよい視力を、というので手術を受ける。
身体の状態は正常、ただ、目だけが制限をうけるのだ。

片目づつの手術である。手術を受けたあと、斜めにおおきな眼帯を張り付けられる。
その昔、時代劇で碧眼の剣士をいうのがいたけれど、彼の眼帯、衛生的にどうだったのだろう。
手術後、1時間は絶対安静、ベッドに横になって、じっと天井を見る。
見るという作業がけっこう大変だ。目をつぶっていることもできるが、つい、目を開ける。眼帯をしていていも目は開く。
体調が悪いわけではない。つい動く。

白内障の手術、このあと大変なのは、目薬の問題だ。

2泊3日、病院の中、スタッフの皆さんはとても親切だ。
入院階の真ん中にある、ナースステーションには、大勢の人が出入りしている。
自分の担当の人は誰だったのやら、名前を名乗ってくださったにも関わらず、覚えていない。
まず、看護師さんは、遠慮なくナースコールをしてくださいね、と言われたが、目以外はなんの異常もない身としては、どうも遠慮する。

どういう働き方になっているのかわからないが、特に食事タイムになると、食事を配ること、そして服薬介助とだぶったり、検温、血圧計測などとダブったりすることもあるのだろう。
私の場合、食事タイムに点眼するのがダブった。
自分でできますよね、などと言われると、できませんとも言えなかったり、5分おいての別の点眼、その目薬のチェック、きちんとアシストしていただく必要がある。
このところが、最初は自己責任で、というように放任気味だった。

病院食、消化器が悪いわけではない、ちょっと補助的に持ち込むこともできたかもしれないが、病院食だけでがんばってみることにした。
朝は8時、昼は12時、夕食は6時である。
朝は6時に点眼があるので起床する。それから8時まで、待つのは長い。
この病院、食事の選択はないらしい。メニューというのは配られない。
3食とも和食だ。朝食はごはんとみそ汁、昼、夕はお吸い物はつかない。
何十年と、朝はパンとコーヒーというやり方なので、ごはんとみそ汁のコンビはなつかしい。

この食事の内容、対象は大人ということなのだろう。もしかすると、老人食なのかもしれない。
ごはんの量だけ、大盛もあるのか、私は小盛である。
日頃、老人には何がたりない、野菜をもっととれ、たんぱく質をもっと、甘いものは控えて、いろいろ村の検診、あるいはテレビの宣伝などで言われるのを耳にしていると、ついつい、自分で作るものが多種、大量になることもあり、一人で消費するために、大食になりがちなのだが、この分量でいいのか?と目がさめる思いである。

もちろん、入院時にアレルギーの申告はしている(といっても鯖のアレルギーだけなのだが)。
病院食の栄養士さん、ご苦労だろうな、と思う。主婦なみだ。
なんせ、1日3食、土日、祝日なしである。
予算もきびしかろう。などと、作る人の立場で考える。
ほとんど安静状態ですごすのだから、おなかがすかないか、といえば、そうでもない。
朝はもちろん、昼、夕、待ちかねている。

デザートのないことが残念である。
またこの病院の方針なのか、入院費の金額の問題か、おやつはでない。
夕食にちょっと果物が添えてある。
しかし、果物なら朝食時にほしい。
などと、なにかと文句をつけながら、あっという間に食べあげる。
総量規制、糖質制限、学ぶことは多い。

2泊3日、病院生活、すでに満喫、もういい。
退院時に迎えにきてくれた友人が、甘いもの食べたい?と聞いてくる。
しばらく、病院スタイルでやってみるから、いらない、と返事する。

今後、通院はあっても入院の予定はない。でも、健康管理についての学んだことは多い。それを役立てなければ。
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国際郵便料金の高さにショック

今朝、勇んで郵便居へ行った。フランスの友人に本を送るためだ。
この頃、宛先は手書きではだめで、局でインプット、そして印刷されたものを使う。
前回は昨年秋、カレンダーを送ったときだ。
10月のことで、前回インプットしたデータは、6か月以内しか保存されないという。
改めて、データ入力、そして送付の方法を選択することになる。
EMS(書類と物品)、国際郵便、なにやらかにやら、いくつかの方法の中で、対象国に有効な送付方法だけライトがつく。

今日はEMSのほかに国際郵便もライトがついた。
選択肢が増えた。EMSというのはとても高い。国際郵便だともっとリーゾナブルかもしれない、と料金をチェックしてもらう。
ところが、ところがである。国際郵便の航空便はEMSより高かった。

送りたい本は2冊、単行本1冊と文庫本1冊だ。
国際郵便とEMSの差は200円、いずれにせよ、4000円に近い金額になっている。

本は友人からいただいたもので、本の代金は出していない。
だから4000円、出せばいい、のだ。

昔を知っている人間にとって、そう簡単に考えられない。
以前、どれくらい以前になるのだろう、は書籍の送料というのは優遇されていた。内容がすこしエロっぽくても、漫画(これを言うと差別になりそうだ)であっても、書籍と書けば、優遇された料金で送ることができた。
SALという制度もあった。

今、いつからか、はっきり記憶にないけれど、SALがなくなり、限定された送付の方法で、かつ料金は高くなっている。

送る相手は、フランス在住が長く、もうフランス語の書籍も日本語以上に読んでいるらしい。
だから彼女が読みたいかどうかはわからないのだが、私が読んでほしい本なのだ。
パリにジュンク堂があるらしいが、この国際情勢下では、書店の本も値上がりしているに違いない。
まあ、アマゾンで取り寄せなどもしているかもしれないが、自分が読みたいと思う本以外に、他人からのおすすめの本は、意外性にとんで、面白いこともある。面白くないこともあるけれど。

今日は送ることをあきまらめた。
しかし、車の中で考えた。
九州の兄に、小包を送ったけれど、1300円ほどかかった。
4000円弱の送料、九州とフランスの距離を考えれば、高いといえるだろうか。
この国際情勢で代金がアップしているのはわかっているし、郵便という制度そのものが効率の悪いものとして、衰退している。その中での配達までついたサービスを要求しているのだから、これを高いというのはどうなのだろう。
郵便局員の方は、高くてすみませんね、と謝っていたが、謝ることだろうか?

結論、明日、郵便局で送ることにする。
フランスの友人よ、楽しみにしていてね。
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母の日に感じること

5月第二日曜日は、日本とアメリカにおいて「母の日」である。
フランス語でもBonne Mamanという表現があるが、母は常に特別な存在だ。やさしい、慈愛に満ちた、懐の深い、絶対的な愛の存在だ。
それもそのはず、基督教においては、聖母マリアが絶対の存在としている。

フランスでは、それがなぜかはもう忘れたが、母の日は5月最終日曜日である。その他の国についてはししらない。ただ、日本ではアメリカを追随するから、第二日曜日が世界の母の日と思っている気配がある。

これから書くことは、いつものように私見であり、個人的な経験、知識に基づいたものだ。

私には子供がいない。だから、この母の日というのは、いささかうっとうしい。
その昔、母がいて、祝う立場のときはそうでもなかったけれど、祝われて当然の年齢になると、その日の迎え方がしんどい。
祝う立場にあったときからそうだともいえる。
私の母は、父にとって後妻であった。先妻は亡くなり、先妻との間には2児があった。長男、長女である。
母はその二人にとって継母である。
日本では、まだ家族制度がつよく残っていた時代だったので、継子についても腹をいためた実子、と同じように、差別しないように、などと気持ちの上での制約があった。
歳の離れた兄と姉、離れて生活していたので、母の違う兄弟姉妹だと、知りもしなかった。
そんな家庭環境にいて、また貧しい生活だったので、母の日のプレゼント、などと言われると困っていたものだ。
もちろん、お手伝い券、肩たたき券、お掃除券、そんな子供だましのことでもすむ時代だった、今も子供はそうだけれど、長きにわたって、母に対する感謝を、強制されるこの日がいやでならなかった。

フランスでは、今や、母の日、父の日、を学校教育の場では祝わないと聞いている。
家庭というものの構成が、昔と全く異なっており、LGBTqが公認されている今、また離婚、戸籍をいれないカップル、またfamille recomposee(再構成家族)つまり離婚、再婚、再離婚、再再婚、などと複雑化した家族が増え、子供にとって、だれを母と呼べばいいのやら、と言う時代になったのだ。

また、調停員をしていた時代、相調の男性ガ、子供は愛の結晶だから、というのに何とも違和感ガ抜けなかった。
今や、人工的ナ受精、出産も一般化している。その胎内から生まれたとしても、遺伝的に母と呼べない、ただ単に子宮を提供されただけなのかもしれないし、精子、卵子、ともに出所不明ということもありうる時代だ。

パリの両親、と呼んでいる家庭では、子供が二人いたが、実子ではなく、養子であった。
秘密出産accouchement Xと呼ばれる、両親の名前を秘密にしたままの出産で、実子に恵まれない両親は、まず女の子、そしてその数年後に男の子を養子に迎えたのだ。
その後、秘密出産であっても、子供がそれを望むとき、実の母を調べることは可能になったけれど、実の母にたどり着けるかどうかは確実ではない。

パリの両親は、敬虔なカトリック信者、父親はきびしいところがあったけれど、とてもいい夫婦だった。
そういう事情を知らないまま、その家庭に出入りするようになったが、親子関係の異常さに戸惑った。
長女はパリ大学の学生で、自宅に同居していたが、長男は不在、あとで女中さんから、家出をしていると聞いたのだった。

フランスの母の日には、ちょうどフランスにいるときなら、やっぱり花束になにかプレゼントを添えて、感謝してます、とその意をみせびらかすように、表現していたが、母親は、淡々と受け取るだけだった。
養子の娘や息子からのプレゼントはなく、そういう年数を経て、きっと感情をしまい込んでいたのだろう。

子供がいない私は、時折、社会に貢献しなかった、というマイナスの意識をもつことがある。
私の時代には、婚外の子供を持つのはタブーだったし、まずは婚外の性交渉というものが罪悪ととられていた。
シングルマザーなる言葉、それが未婚であれ、離婚によるものであれ、肩身のせまい思いをしなければならなかった。
あの時代に、シングルマザーとなる勇気があっただろうか?
職場の環境はそれを許したかもしれなかった。
しかし、やっぱりその勇気はなかった。とくに生まれる子供に対して、お母さんの子で生まれてよかった、と言われるような母になる自信はなかった。
そして、まずは父親となるべき人にも出会わないのに、自分の都合だけで母になるのは無理だった。

亡くなった連れ合いの子供たちとの交流も、連れ合いの死去とともに消えた。
しかし、昨日、村の娘、と称する人からの母の日プレゼントが届いた。
プレゼントがあれば、それはそれでうれしいものだ。と、なんとも主義主張のない私である。
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5月8日、le 8 mai

今日は5月8日月曜日、フランスでは祝日だ。
なんの祝日か?第二次世界大戦の戦勝記念日だ。
フランスは戦勝国なのだ。

なにもそれに文句をつけるわけではない。ただ、あの世界第二次大戦に勝利した割には、この戦勝記念日はふつう、ル・ユイ・メ、つまり5月8日と実にシンプルに呼ばれている。

フランスに行って、この呼び方を聞いたとき、とても奇異に感じた。
そしてその祝い方がそう仰々しいものではないことにも驚いた。

もう年数もたったから変化があったかもしれないが、フランスでは、第一次大戦に勝利した日のほうが重きをお置かれている、というのだ。
第一次大戦勝利の日は、11月11日、これはFete de l'Armistice(アクセントの印が入れられない)と呼ばれ、勝利VictoireではなくArmisticeが使われる。

各コミューン(市町村)には、第一次大戦で戦死した、そのコミューン出身者の名前を記した記念碑が必ず(だろうと思う)建立されている。
その戦死者の数は、第二次大戦より桁違いに多く、それだけに国民の意識に残っているのだとか。

それにしても、第一次、第二次ともに戦勝という言葉を使っていないことに驚いた。

日本では、8月15日、歴然たる敗戦なのに、終戦ということばを使うごまかしがあるが、戦勝にも関わらずその語を使わない背景には何があるか、一度は納得できる説明を受けたはずなのに、もう記憶にない。

明日、5月9日はロシアでは戦勝記念日、多大な犠牲を払って得た勝利に、それが勝利という言葉では収まらないほどの戦闘を経てのことだろうが、ほかのヨーロッパ諸国と違い、9日になったのはどういうことなのだろうか、これもきちんと調べないままだ。

5月8日に、ドイツが降伏、イタリアはとっくに降伏していた。
なぜ、日本はこの日に降伏しなかったのか?ドイツが降伏して、日本だけでこの大戦を勝ち抜くことはできない、とだれもが承知していたはずなのに、と毎年思う。
第二次大戦終結後、長く国際政治のサロンには入れなかったが、このG7が始まって、これはフランスの当時の大統領ジスカール・デスタン氏が提唱したのだが、その一国に選ばれて以来、はしゃいでいる。順繰りの議長国、ドイツのあと、それでもイタリアより先、と満足している。
アジアでただ一国のメンバー国、と他のアジア諸国のリーダーみたいな気持ちを持っているようだ。

日本には戦勝記念日というものがない。第一次大戦には、日英同盟のゆかりでちょっと参戦したおかげで戦勝国となったが、とても11月11日に戦勝記念日なんて言えっこない。
なら、日清戦争?日露戦争?この戦勝の評価がどうもわからない。

今日、フランス大統領は凱旋門の下にある無名戦士の墓を訪れるだろう。

外国とであれば戦争、国内であれば内乱、こういう悲惨な事実の記念日などもちたくはない。

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年金で生活はできない

昨日、夕方、あるテレビ局が年金について番組をくんでいた。
「年金しらべてみたらSP、職業別の年金を調査」とある。
年金生活者として、職業別、というタイトルに興味をもった。

職業別に年金が異なるのか?初耳だった。
現況にうといのだが、私が年金を意識したとき、厚生年金、共済年金、そして国民年金、があった。時々、軍人年金というっより、これは軍人恩給で、加入することはできず、給付だけになっていたけれど。

街角で、高齢者をつかまえて(つかまえては表現がよくないが)、月々年金はいくら受給しているか?職業はなんだったか?を問う。
年金は2か月に一度、偶数月の15日に支給されるのだが、2か月分だからそれを2で割った数字を言ってもらっている。
だいたいが、国民年金の方々で、月に5万だ、という人はいい方だ。
少ないですよね、これじゃ食べていけませんよね、という声が必ずでる。
それに対して、インタヴューをする人は、同感の意を表現する。
国民年金の最高額が月額6万8000円で、これは満期納入した人が対象だ、ということに触れることもあるが、インタヴューの相手に対して同情的である。

80歳で現役の理容師、それでも3万程度の年金、という。
しかし、よく聞いてみると、45歳くらいから理容師の免許をとって、それ以来の仕事という。
それ以前は配偶者が理容業をなんさっていたらしいが、突然亡くなられて、跡を継がれた、という。
それにしても、国民年金は、個人単位だから、配偶者が生きていらしたときも別々に入っているべきだったし、そうしていれば、65歳から満額が受給できたのだ。

年金だけで生活できるか?
その番組で、最高額を受けているのは、もと教師、最後は校長先生をされたということで、管理職みたいな加給があったとかで、けっこうな金額をうけていらっしゃる。
しかし、どれだけ受けていようと、現役時代のような金額にはならず、生活を締めていかなければならないのはだれしもだ。

公務員は年金がいいから、と言われる。いまは共済年金と厚生年金は合体したというが、計算方法が共済年金は有利にできていたのだろう。
この二つの年金が別々に存在していたとき、友人の一人は、私立大学で18年勤務、そして国立大学に映って、定年までやはり18年程度の勤務、合計36年の勤務をしているにもかかわらず、一つの制度で20年とか25年とか働かないと、支給される金額がすごく低くなるのだ、という制度の欠陥に陥っていた。

友人のなかに、年金だけで優雅に生活している人はいないけれど、知人としてちらりと聞くに、余裕綽綽の生活をしている人は、現役時代に投資もし、その利益を受ける、会社が企業年金を支給する(大手の金融機関など)、個人年金にもしっかりはいっていた、などとそれぞれに若いときから、きちんと考え、実行している人たちもいる。

私の場合はいい加減だったことを反省している。
若いころは、年金には頼らなくていい生活をする、と年金をおろそかに考えていたけれど、まずは20歳になったとき(大学生)、母が国民年金に加入してくれ、その費用を払ってくれていた。
アルバイト雇用ではあったが、テレビ経では社会保険に加入だった。
一番長く働いた外国機関は、当初、なんの保障もない、手当もない待遇だったが、最後の数年間は、日本の社会保障にすべて加入することになり、厚生年金を再開できた。

なにごとも加入期間といくら収めたか、それが問題なのだ。
自分だけの年金では、国民年金を満額受けているのとそう変わらない。
母が母の友人が保険のおばさんをしていたとき、成績向上月間の手伝いに、と私を強引に加入させた個人年金、今ではもっと高額に加入しておけばよかったと、後悔しているが、当時は高額な毎月の支払に母の顔をたてたことをうらんでいた。

現実、今働かなくても受けている年金、たよりにしている生活だが、さて、20歳に戻れるとして、もう一度、お金をどう使うか、と考える時、将来、年金をたよりにしなくてもすむように、収入の2分の1,あるいは3分の1を貯蓄にまわしていけるだろうか?
やっぱり、年金を払っていたほうが最後はいいのかも。

しかし、国民年金にしか加入できない勤務をしている人、その金額を納入するにも苦労する人。たちの老後を考えると、何かの方法を講じなければ、貧困からの脱出はできない。
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