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J'ai survecu 私は生き残った(2)貧乏時代

貧乏というのはどのくらいの生活程度をいうのだろう。
食べるに事欠く、あるいは食べることで精いっぱい、今の世で、100円の出費をためらう、そんな状態なのだろうか?
それなら、昭和の時代(昭和は長いけれど)の貧乏はどれくらいを言ったのか。

我が家は貧乏な家庭だったと思う。
なぜなら、大家族(12人)の中、稼ぎ手は父だけだった。そして父は引揚者として、私が事情が理解できるころ、小さな商事会社で働いていた。
12人の家族構成は、父と母、そして祖母、大叔母、伯母、叔母そしてその娘、父の先妻の子(兄と姉にあたる)、姉、私、弟だった。
長兄は私とは15歳の年齢差があり、生活は一緒ではなかった。ずっと、学生として、寮生活をしており、兄という存在があることすら知らなかった。

父の収入がいくらあったのか?
私の知るところではなかったが、これだけの家族を養うのはそうたやすいことでなかっただろう、というのは理解できる。

もしかしたら、我が家は相当貧乏なのか?と思った事実はいくつかある。
その一つは、この家族リストにいれていない、私の3歳下の弟が死んだときである。
病身に生まれついたのか、なにか線の細い、主張することのない弟だった。
4歳で亡くなった。病気がなんであったのかは知らないが、その葬儀というか、火葬にするときのことだ。
私は小さかったので、ほとんど覚えていないのがあ、遺体を火葬場に運ぶ、というとき、なぜか、父がリヤカーに棺をのせて、自分で運ぶといって、ほかの人たちから止められていた場面がいまも残っている。
周りの人から無理だと止められていたが、金がない、という事情が漂っていたことを感じた。
結局は、親戚が車を、もちろん葬儀屋のちゃんとした車ではなく、軽3輪みたいな車だったかもしれない、手配して、それで運んだのだろう。
その夕、叔母が、我が家には焼き場に運ぶお金もないのか、と泣いて愚痴っていたような気がする。
そこに、母がどう反応していたのか、きっと、納得のいく治療もできていなかったと思うが、母の顔はでてこない。

一時期、どうしてこんなに家族が多いのだろう、両親と子供だけなら、もっとすっきり、生活ができそうなのに、と思ったこともあったが、このような大家族は、当時は不思議なことではなかったので、食事などで、父(座敷でひとり食事する)、祖母、大叔母あたりの老人の食事、子供たちの食事、なにか差がつけられているのも受け入れていたし、献立というものが存在しない、なんせ、毎日、同じようなおかずが並んでいても、不平をいうわけではなかった。言える雰囲気ではなかった。

貧乏が自分に関係したのは、小学校入学時だ。ランドセルが買ってもらえなかった。3歳上の姉はランドセルだったと思うが、私はただの袋だった。洋裁をする叔母が作ってくれた、刺繍か飾りがついて、それなりにしゃれたものだったが、ランドセルは買ってもらえなかった。

しかし、私の時代は、ランドセルは必須ではなく、ランドセルを買ってもらえない子は多かった。
その子たちはやっぱり家が貧乏だと、子供たちの中でも理解していたが、私自身がその一員というのは
納得いかなかった。しかし、家で駄々をこねることはしなかった。

お米屋さんが集金にくると、10回のうち7,8回は、「今大人がいませんので、伝えておきます」という教えられていたセリフでおかえりいただくのも慣れていた。

しかし、中学入学には制服もおさがりではなく新調してもらえたし、高校入学もそうだった。
家から小、中、高校が徒歩圏内、というのはなんと恵まれていたことだろう。

ある時から、母が働き始め、彼女の収入から教育費が出るようになると、ちょっとした本を買うとか、学用品もちょっといいものになったりした。

我が家より、もっと貧乏な家がある、と知ったのは、母の義妹が夜おそく訪ねてくることがあったりしたときだ。
母の弟は、戦争で亡くなり、叔母は女の子2人を育てていた。当時、まだ軍人恩給など出ていなかったのではないだろうか。我が家を訪問する目的は、娘二人の給食費を貸してくださいという要件だった。
母は手元にお金があれば必ず貸していたが、時にないとき、私の貯金箱からお金をだしていた。
お小遣いなんてものはもらっていなかったが、時々、親戚や知人の訪問時に、お小遣いといって、小銭をもらうことがあったけれど、それをためていた私の貯金箱が流用されたのだ。
大家族の中の嫁にすぎない母、そもそもが現金などあまり持っていなかった、それがわかっていて、貸してくださいという叔母の状態を、母はよく理解したのだろう。

小さいときは、それこそ井の中の蛙、で、金銭とは関係のない中での生活だったし、3歳上の姉のおさがりや、よそからのまわりもので、そんなものだと思って、思わせられていたからだろう、今、思い返しても、惨め、という気持ちになったことはなかった。
のちのち、東京へでてきて、いろんな家庭状況で、いろんな教育を受けた人を知って、ああ、我が家は貧しかったのだな、と思ったのだった。

結局、自分で収入を得て、それで生活をするようになって、貧乏の実感が生まれたのだ。
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