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私は生き残った(4)当時の娯楽

11人家族の下から2番目、なかなか生きづらいものがあった。
いじめられたり(心理的にはあった)、疎外されたりはなかったけれど、生活は祖母を筆頭とする、年長者最優先、もし、子供が主役になるとすれば、男児たる弟が最優先だった。

小学校の時代、集団登校はないけれど、近所の児童と誘い合わせての登校だったけれど、下校となると、学年によって差はあるし、下校してから、近所の子たちと遊んだ記憶があまりない。
帰れば、家の中には年寄、それも女ばかりがたくさん、口うるさいだけで、遊びの相手ではない。
では、どうしたか、家の中で遊ぶこともあったが、隣家の子供、それが男の子ばかり3人だった。一番上の子は、私より1歳、2歳上、2番目は2つほど下、3番目は弟と同い年だった。
隣家と我が家のあいだに空き地があって、外遊びの場所になっていた。何をしたのだろう。まったく覚えていない。
しかし、遊び道具などもないなか、ごはんですよ、という声が、隣家か我が家からかかるまで、走り回ったり、しっかり体を動かしていた。

家に入れば、テレビはない、ラジオは1台あったけれど、子供の聞くものではなかった。
きっと夕食までの短い時間に宿題をやっていたのだろう。
夕食後、何をしたか?これも覚えがない。

今、思い出すのは、夕食後に映画館に時々行っていたことだ。
当時は2本立て、3本立てというのが普通で、夕食後、最後の回は、2本か1本か、安い料金で見ることができた。母が映画好きで、その割引料金にそろって行っていた。
最初のころ、小学校にあがっているのに、幼稚園生と無料で入るようなごまかしもしていたが、私はそもそも成長がはやく、大柄だったので、1,2回でそれは無理と、子供料金を払っていたようだ。

東映の時代劇が多かった。中村錦次郎?や大川橋蔵、などが主演した映画をよく見ていた。
当時はそうとう時代劇が流行っていたようで、貸本屋さんから借りてくる本も、山手樹一郎?という作家の本が多かった。
世の中は狭いけれど、大人になって、ある短歌の結社に加入したとき、その主要メンバ―の女性が、山手樹一郎の娘さんであった。

ゲームもなければ、なにもない時代、トランプやかるた、などはあった。
トランプゲームは、ババ抜き、七並べ、神経衰弱、ナポレオンやなんとか富豪などのゲームをしたのは、高校生になってからだ。
頭を使うのは年長者にかなわなかったが、神経衰弱は、同じカードをみつける遊び、記憶力のよかった私はよく勝っていた。

のちに、母が勉強をがんばったご褒美に、と百人一首を買ってくれた。これは今でも持っている。
箱入りの豪華版、といっても箱はプラスチック、高価なものではなかったけれど、私のもの、というので、うれしくて、百首覚えた。
私に勝てるのは、母と長姉だけだった。しかし、今は昔、もう数首しか覚えていない。

引揚者の家庭で、昔からの蔵書などはなく、子供用に新しく買うという余裕もなかった。
しかし、母がどこからか手に入れたのか、借りてきたのか、私が本好きだったので、若草物語、あしなが伯父さん、アルプスの少女、など夜、寝る前によんでくれたりしたものだった。
若草物語のジョーが憧れで、あるいはアルプスの少女のハイジみたいな生活も悪くないな、と思っていたが、大人になって、ヨーロッパ一人旅をしているとき、アルプスの宿から、母あてにハイジ、と名うってカードを出したり、マルセイユからは、巌窟王の牢獄にきています、と現場報告をしたものだった。

麻雀も家族ではしていたらしいが、それは年長者の遊びであって、子供は先に寝かされていた。
10歳年長の長姉は、やはりそれより上の母方の従兄・従姉たちが来て、卓を囲んでいたものだ、と言うが、まったく記憶にない。

夏休みには1回だけ、海水浴に連れて行ってもらっていた。それが限度の経済状態だったようだ。
あとは、学校のプールがあれば、そこで泳ぎ、あるいは市民プールみたいなところにも行った記憶があるが、バス代がかかり、またちゃんと泳げなかったので、そんなに行きたいと思わなかった。

なんともつましい生活だった、と思い出すが、大人になって、それでも恵まれていたのだと知ると、その時代の貧しさが思い出される。

そういえば、クリスマスプレゼントで、バドミントンのセットをもらい(子供全員に1セット)、隣家との間の空き地で対抗戦をしたり、したことも思い出した。
だれからのプレゼントだったか、次回に記す。

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