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劣化ウラン弾

武器の名前に詳しくはない。
ウクライナのニュースを聞くたびに、戦車や大砲、いろいろな武器の名前を、開設者たちはすらすらと口にする。
ナポレオン時代の、一発ごとに弾をいれかえる大砲ならまだわかるけれど、なん十発と連射できる銃のような大砲、あるいは無人で、遠隔で指示できる大砲、現代の武器についていけない。

そんな中、昔、耳にした武器が登場した。
劣化ウラン弾である。
イギリスがこの武器をウクライナに提供するのだという。

プーチン大統領は、その武器を核使用と同じに解釈しているようは論を貼っている。

どこで劣化ウラン弾を耳にしたのか、目にしたのか?

自問ではないが、なんだったか、まだ存在する武器なのか?
ニュースで知ったけれど、どうも消化しないまま数日過ぎた。

そして見つけた。
2001年、コソボで使用され、そのとき被弾した兵士が、外科的だけでなく、健康被害を生じたのだ。
この事実、今、読んでいる山口昌子氏のパリ日記第2巻「シラクの時代1」の2001年1月12日に記述がある。
これらの兵士たちは「バルカン症候群」と呼ばれる後遺症に苦しんだ、そうだ。

武器に人道的なものはない。戦争の結末は、領土をどれだけ侵略されたとか、建造物の破壊、人的損害そんなものでつくのかもしれないが、戦死の原因が、ただの火薬の砲弾であろうと、ウランが原因であろうと、その残酷さには変わりがないようだが、劣化ウランをもって「非人道的」と非難の声があがったのだ。

2023年の今も使われている。
そしてこの戦争の被害者でもあるウクライナがこれを使おうとしている。
戦争が人道的であるはずがないから、使うことに異論を言うこともないのだろう。

ウラン、ウラニウム、武器ではないけれど、日本でも原子力発電で同じような矛盾が生じている。

ウクライナを支援している。しかし、とこの劣化ウラン弾についての判断はできないでいる。
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認知度テスト

この頃、自分の認知能力について考える時間が多い。
第一の原因は、月末に免許証更新のための認知度検査を享けなければならないからだ。

前回、3年前にこんなテスト、平気の平左、と受けたのだが、頭の中がぽっかり隙間ができたり、時計で時間を表示するのに、長針と短針を間違ったり、結果、大きな減点にはならなかったけれど、自信はなくなった。

運転免許のための、認知能力テスト、なにかちっとも変化、進歩がないまま、実施されているらしいが、おかみのなさること、どうもそれを受け入れざるを得ないらしい。

自分が若いころ、といっても60代だったろうか、運転は70でやめる、と思っていたが、それが75歳になり、まあ、一応、テストにうかる時まで、などと、節度のないこと、自分でもいやになる。

認知能力、これはたとえば、数字、文学、音楽、いろんな分野によって、能力が欠ける部分、維持し続ける分野、差があるのだろう。

先日、95歳のご老女と電話で話した。
彼女は聴力がだめだ、補聴器を使っている、という話だった。
週に一回、お手紙を出している。新聞の歌壇のページをお送りしているのだ。
そのついでに手紙として、季節について書く。だいたい、庭の花だよりだ。

我が家はまだまだ花の咲く季節ではないが、ようやくフクジュソウが数輪咲いたくらいだ。それでまだまだ「春は名のみ」です、と書き添えたので、彼女は、電話の中で歌いだした。
「早春賦」である。
春は名のみの風の寒さや 谷のウグイス歌は思えど 時にあらずと声もたてず、時にあらずと声もたてず、私も途中から伴唱した。
彼女は2番も続ける。
氷解け去り葦は角ぐむ さては時ぞと思うあやにく 今日もきのうも雪の空 今日もきのうも雪の空

そこで止まった。あら、3番までお歌になれるのでは?と確か、去年、私は3番まで歌えるのよ、と自慢していらしたのが記憶にある。
今年はね、3番がどうしてもでてこないの、とおっしゃる。

私は1番しか覚えていないし、2番、3番はもともと記憶にない。
しかし、彼女が3番を思い出せないことで、彼女の加齢度を知ったのではない。
声の音域が狭くなったことだった。
彼女は高音まででることがご自慢で、この歌はけっこう高い音があって難しいのだが、きれいに歌われていた。
今回は、なんとミ、ファ、ソ、ラ、シの音域でしか声がでていない。しかし、彼女はきちんと歌っているおつもりだ。

そうか、年をとると、声まででなくなるのだ。私自身がそうである。きちんと歌える歌はもうない。
高音をさけてオクターブ下げる、あるいは低音がでなくて、音程自体を変えてしまう、と無茶苦茶に歌っているのが現実だ。

もう2年前に90歳で亡くなられた女性がいる。クリスチャンで、時々、讃美歌を歌われた。
とてもしっかり歌われるのだが、音域が狭くなっていて、そのときはなぜだろうと疑問だった。
まさか、音痴? それではなかったのだ。

時々、テレビで往年の歌手が出演し、昔の持ち歌を歌われる。それなりに発声のレッスンをしていらっしゃるのか、頑張って歌われる。が、無理がみえていて、私には聞くに堪えない。

そうなんだ、年をとるのは、体のすべての部分なのだ。個人差があっても、何等かの加齢化現象はでてくるのだ。

願わくば、免許更新のための認知度テストの能力だけは残っていますように。
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どんな本を読まれますか?

読書が趣味というと、「どんな本を読まれますか」と読書の傾向を尋ねられることがある。
N'importe quoi、なんでもいいんです。活字であれば、と返事していた時代もあった。

今は選ぶ。というのも、読書に与えられている時間がきっと無制限ではない、ことに気づいているからだ。
といっても、厳密に選ぶことはない。どちらかといえば、友人たちが送ってくれる本、これはすでに読んだものでない限り、ちゃんと目を通す。
ジャンルは、友人たちの好みということになる。新刊書であれば、話題になっている著作、そうでなければ、彼女、彼の専門や好みのものだ。

小さいとき、それこそ、本というものに接したときも、好みはなかった。
我が家は貧しく、子供用に本を買ってくれるような余裕はない中で、どう本に接していたのだろう。
記憶にあるのは、少年少女用の世界名作全集などから読んだものだ。「若草物語」「アルプスの少女」「巌窟王」この3冊が最大の記憶に残るもので、「アルプスの少女」でスイス、「巌窟王」でマルセイユ、と必ず訪れたい場所を決め、そしてのちに行った。
「若草物語」は、4人姉妹のなかの2番目、ジョーにあこがれ、私も絶対物書きになるんだ、と美人になりそうもない自分に将来の可能性を示唆したのだ。

小さいとき、図書館というのを利用したことがなかった。市立の図書館はすぐ近くにあったけれど、我が家の大人たちが利用しなかったこともある。
どちらかというと、当時は貸本屋があって、家族で利用していた。
活字が大好きだったので、漫画は読まなかった。
母がどうして好きだったかは知らないが、時代劇が好きで、山手樹一郎という作家のシリーズを借りては読み、読んでは返し、を繰り返した。1回10円とかで、2,3日借りられるのを、母と私で急いで読んでいたように思う。
後年、参加していた短歌の結社に、山手樹一郎の娘さん(私よりずっと年長だが)がいらっしゃるということだったが、もうすでに彼の本は卒業していた。

乱読、というのがふさわしい、決して読書家とはいえない。
そして、本は買わない、こんな本好きなのだ。
買わないのではない、変えないのだ。

大学時代、本屋さんが毎週、御用聞きにきてくれるようなところに住んでいた。
自分で払わなくていい、というので、歴史や文学、詩などの全集もそろえたけれど、一度も箱から出さないものもあったりで、あの時は、本当に馬鹿なことをしていた。

今は時に専門書にも目を通すことがあるが、もっぱら文学、というのか小説である。
芥川賞の作品はあまり読まない。私の脳力では面白く思えないものばかりだ。
直木賞はもう売れた作家の作品だから、それなりに面白い。

好きな文体の作家は?といわれても、誰とすぐに名前がでないけれど、今風の文体は苦手だ。
オッス、とかなになにスー、などの会話、それも若い人たちの会話をそのままに書いたものは、読む気がなくなる。
「とんでもございません」などとあると、なんだこの作家は?と読み続ける気力をなくす。

以前は一冊の本を読み始めると、終わりまで読み通す主義だった。
今や、読書タイムのベッドサイドには最低2冊、ひどいときは3冊を用意する。1冊は小説、1冊は評論的なもの。図書館から借りた本などは、期日があるから先に読むけれど、内容、文章、ともに目にはいってこない本もある。そうすると、4,5ページで選手交代になる。
小説になると、1章のみ、と決めていても、ついついページがすすむ。

縁のある作家も数人いる。早川書房から探偵ものを出していた作家は、血はつながっていないけれど、親戚だ。高校の後輩では、箒木蓬生、東山彰良、などがいるし、その昔の有馬頼義は元藩主の家柄だ。

なんだかんだ、という人生ではあったが、1日24時間のうち、最低4時間は読書に使える現在の生活、なにものにも代えがたい。

今日は午後の時間を、友人たちからの本の整理にあてた。
文庫本、新書版、その他の単行本、に区別する程度の整理だ。

今読んでいるのは、「アルタイの片隅で」というモンゴルの話と、日本のポリスものだ。
気が狂いそうに本がたまっているけれど、1冊そして1冊、ローマの道も1歩からだ。

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本を読む

「舟を編む」というタイトルの本があった。三浦しをん氏著の、辞書編纂をテーマにした本である。
辞書編纂と「舟を編む」の表現がどう結びついていたのか、今になると記憶も残っていないのだが、「本を読む」というのは。なんの裏もない、本は読むもの、読むためのものである。

本を読む、読書、は今や、私にとって、食べることの次に大切なことになっている。
趣味というより、生きるための必要不可欠なことだ。
この読書があるから、変化のない田舎暮らしも耐えていける。
本という観点からいけば、生涯の中で、今ほど恵まれているときはない。

この10年ほど、読書した本のリストを作っているが、年間150冊から200冊を読んでいる。
これだけの冊数になると、何を読んだのやら覚えていられないので、リスト作成が必須なのだ。

この村には本屋はない。図書館もない。図書館がないというのは正式な図書館ということで、図書室というのはある。村の会館と称する建物の一室が図書室になっていて、そこにいくばくかの本が陳列されている。司書の資格をもった人はいないが、今、本の担当をしている人はとても優秀で、ツーといえばカーと答える、と表現していいのか、こちらの希望を理解してくれる人だ。

私の本の入手方法、それはこの図書室で購入希望を出す、図書館ネットワークを利用してリクエストで取り寄せる、という方法がある。
そのほかは個人的なものだ。
友人からのプレゼントである。
読書家の友人がいる。一人は神保町に住んでいて、たくさんの書店は我が家の書庫と呼ぶ(でもないか)ように、本屋を毎日巡回し、夫婦それぞれに本探しをすsる。
別の友人は、どういう方法で読みたい本をさがしているか、そこは知らないが、とても面白い本(好みが共通している)を新刊で買い、あっという間に読み上げて送ってくれる。
先日彼女のお母さまが亡くなられた。読書が趣味で、96歳で亡くなられるまで、本を身近においてらしたのだ。彼女は時代物もお好みで、私の手元にもずいぶん時代小説がまわってきている。

最近、友人たちが身辺整理を始めた。本は捨てられないものの筆頭にあがるものの一つだ。全集みたいなものはいらない、と言っているので、炭鉱本だけだが、一挙に本を送ってくる。
こんな本も出版されていた、とかこの著者の本は読んでいなかった、こんなエッセイがある、心理学、生き方入門、健康、宗教、ジャンルもいろいろだ。

これからの季節、外仕事が始まるのに、これだけの本を読んでいけるだろうか、本を並べるところもない。積み重ねておく場所すらなくなった。もう送られた段ボールにいれたままで、背表紙をみては、次の読書候補の順番をつけている。

そこで、我が家自体の本の処分も考える。
我が家は、小説といったものは買わなかったので、資料的な本がほとんどだ。
つれあいが生きている間に、一度は大整理をした。
だから、残っているものは、捨てるに捨てられない、なんとも重い思いの本なのだ。

たとえば、アフリカに関する本、ほとんどがフランス語だ。ほとんどはフランスで発行されたものだが、アフリカの出版事情を記憶している身には、貴重すぎて捨てられない。
といって、引き取り手はいない。いろんな特殊な図書館なども、もう所蔵スペースがないとかで、引き取ってはくれない。
つれあいが亡くなったときに捨てるべきだった。
しかし、私自身が捨てたくなかった。資料を読むことを職業としていた期間があったので、資料的に重要だろうものを、あえなく資源ごみで出すなんて。それなら、1ページずつ、読んだだけ焼いていったほうがいい、などと考えることもあるが、読まない。

本棚は物置化している。本はジャンルごとにプラスティックのケースにいれて、いつでも処分はできる状態にはなっている。
でも捨てられない。と言いながら、また別に捨てられない本の山がある。山という量ではないけれど、ある程度の分量だ。

わが著書である。
現役時代に出版した本を数冊ずつストックしている。今や需要はない。
なぜストックしているのか。
もしも、の場合のためである。つまり天変地異、何かのこことが起きて、電気、石油、いろんなものが入手できない、しかし、極寒の季節である、となったときの用意だ。
物語の題も思い出さないが、旅人をもてなすため、いろりに秘蔵の松の盆栽をくべた、という話にあやかって、そんなもしも、の時の燃料にでも、というわけだ。
ほかの本は、燃料などにするのは申し訳ない。自分の書であれば、なんのためらいもなく(おおいにためらうけど)、焚き付けにする、という意図だ。

今日はリクエストしていた本が2冊届いた。
テーブルの上には、読むべき、読みたい本が並んでいる。期限のある本は、有線順位が高くなるけれど、読みたい読みたい、と思う本との順位をどう折り合いつければいいだろう。
ああ、焚書坑儒の時代でなくてよかった!
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先祖の年齢チェック

わが生家は後妻の家系?なのだろうか。
先日、10歳年長の姉と4歳下の従妹と会った。
従妹の母親が、われわれの父親の妹である。
したがって、わが生家が、彼女にとっては、母親の実家となり、彼女の血の2分の1を占める。

そんなことで、家族の系譜の話が出た。
長兄が作成してくれた家系のメモを持参していたので、それで家族をたどっていく。
この家族系統図、家系図というほどのいかめしいものではなく、あくまで兄が作成した一覧表だ。
戸籍の原本をたどればこういう図も作成できるのだろうか、まずは私たちの3代前から書いてある。

曾祖父と曾祖母、そして祖父、この祖父が葬祖父母にとって次男となっているが、これは長男が死亡したのだろうか?
祖父は2度結婚している。最初の結婚で私たちの父が生まれ、最初の妻の死亡後結婚した、私の記憶で祖母と呼んでいた人との間に、従妹の母が生まれている。
この表にみる後妻NO1である。

次いで、父は最初の結婚で2男一女を得るが、妻は29歳で死去、次男のお産が原因らしい。姉の母である。
何年後になるのか、父は再婚、私の母ということになるが、母との間には2男2女が誕生したが、母との間の最初の男児は3歳で死亡している。私にとっては弟だった。

こうっしてみると、早死にの人が多く、それが女性の場合、男性はだいたい再婚している。
また幼児での死去も多い。
妻の場合、祖父の最初の妻は24歳で亡くなり、父の最初の妻は29歳で死去している。

子供では父の兄にあたる人が6歳、母を異にする弟は3歳で死亡、父の子供の段階では、先妻の子が0歳で、私の弟が3歳で死亡している。

当時は、こうして大人も子供もあっけなく死亡していたのだろう。
しかし、生き残った人たちは、なかなかに長命で、本当の祖母ではないが、継祖母は89歳、伯母は100歳、母は89歳だった。
そして今や、高齢者ぞろいとなり、家族の中の最高齢であった伯母の100歳を超えてみせる、という長兄もいる。

小さいとき、同居している家族の中の正体不明の人間が、どういう関係であったか、というのがこの図でようやく理解できた。
大ばあちゃん、と呼んでいた人は、本当の祖母ではなく継祖母であったこと、小ばあちゃんと呼んでいた人は、大叔母であり、正体不明な存在であった女性は、父の姉、また、小さいころは関係不明の人たちが兄と姉であったこと、など、この図でみれば一目瞭然だ。

異母兄弟、異父兄弟、もちろん姉妹もそうだが、そういう尊大を半分の姉妹、兄弟とフランスでは呼び、父、母を同一にする兄弟姉妹とは別にする。
東南アジアあたりだと、その表現がきちんとされる。つまり、異母の兄弟姉妹が多いので、そこをはっきりさせるのだ。

先日、姉が88歳、米寿を迎えた。その時、自分の人生を文章にしたという。
口述で聞いたのだが、「幼くして母に死にわかれ。。。。」といった文章で始めたとか。
そのとき、そうか、母というのは、私が母と呼ぶ人とはちがったのだ、と思った。

ふつうに会話するときは、私の母を彼女も母と呼ぶけれど、戸籍の上でも母ではなかった。

去年、帰省して、菩提寺の墓に参った。その時、墓石に記された名前のほとんどを知らなかったけれど、若死にした先祖だったおのか、と納得したのである。
先祖の名前を知ったところで、ファミリーヒストリーをフォローするわけではないが、ようやく、なぜ我が家には後妻が多かったか、の理由もわかった。

ちなみに、1947年の平均寿命は、男性で50,06歳、女性で53,96歳であったとか。
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3月10日

今、3月10日は何の日?と聞かれて、その日がなぜ特別な日なのか、答えられる人は少ないだろう。
3月3日、朝日新聞のオピニオン&フォーラム(投書欄)に、三重県の伊藤氏が書いている。
「3月10日といっても、今ではピンとこない人が多いだろう(略)しかし、私は忘れない」
作家早乙女勝元氏の言葉であるとか。

申し訳ない。私も知らなかった。
50年来の友人は3月生まれである。彼に3月何日?と問うと、あの3月10日だよ、返事した。
あの、と言われても通じない。
彼は驚いた。知らないの?僕は1945年3月10日に生まれたんだよ、あの日だよ、という。
終戦5か月前、と思うがピンとこない。
東京大空襲の日なんだよ、知らないなんて、8月6日は知ってるだろう、それと同じくらいに重大な日なんだけど、と重ねて言われる。

ああ、そうだったの!大変な日に生まれたのね、ようこそこの年まで生き延びたんだ、と冗談にしてしまった。

そして、この投書を読んで、さあ、どれだけの人が3月10日を知っているか、数人の友人に聞いた。聞いた人たちは、戦後の生まれである。そして今は東京に住んでいるが、生まれは地方だ。
全員が知らなかった。

戦争を敗戦へと舵をきらせたのは、この帝都への大空爆が大きかった、と歴史書では書いてある。
その空爆のものすごさ、火事、逃げ惑う人たちの焼死、川に浮かぶ人々、悲劇の詳細が書籍に、映像に、文学書に、回想録に、いろいろな形での表現を通じて、多くの人が知っている。
そういわれれば、日付はともかく、私だって大空爆の事実は知っている。
沖縄の悲劇と肩を並べるような悲惨きわまる事件だった。

沖縄はまた別格の悲劇であると思っているのだが、規模として、死者、あるいは被災家屋の数からいえば、この首都への空爆とは比較にならないかもしれないが、日本のいろんなところでこの空爆はあった。
私の故郷の町も、陸軍の基地があったこと、いくつかの軍需工場もあったからか、アメリカ空軍の攻撃の対象となった。
叔母にいわせると、8月12日(正確に覚えていない)だったらしい。あと3日、米軍が待ってくれれば、家は焼かれないですんだのに、である。
自宅もすべての貸家も焼け落ちた。これが我が家の没落の原因だ、と叔母はよく口にしていた。
私はそんな日には生まれていないし、物心がついたのは、戦後もうずいぶんたってのこと。

3月10日生まれの友人Hさん、彼が関東のどこで生を享けたのかは聞いていないが、それは記念すべき、記憶に残る日だのだろう。

2022年2月24日、ウクライナにロシアが侵攻した日。この日を誕生日とするウクライナの子は何人いるのだろう。

日本ではこういう誕生日はもういりません、なんていうデモでもしませんか?と彼に提案したが、却下された。
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姉との共通項

来週、姉と会う。これまでの人生を語りたい、という彼女の希望だ。
さあ、姉とどんな会話をしよう、と思うとき、われわれの共通項を考えた。

それは父である。母が異なるということは、われわれ二人の遺伝子の共通項は、父の存在となる。

姉と一緒の生活は短かった。彼女が高校生のころ、同居したような気がする。
それ以前は、姉は祖母、叔母とその娘、と一緒に生活していた。
どういういきさつがあったのか、幼い私に知りようもなかったけれど、父と母、そして実姉と私、それに弟が済んでいた家を増築し、姉、祖母、叔母にその娘が同居した。
いや、もっと家族がいた。いつからなのか、いつまでなのか、大叔母、それに父の姉である伯母もいた。

ときは前後していただろうが、伯母はあるとき、縁あってある男性の後妻として嫁いでいった。
その嫁入りの日、家族のなかの女たちはみな留めそで姿であった。一瞬、母がどこかへ行ってしまうのか?と思ったことを覚えている。どこかへ行ったのは伯母であった。
伯母がいなくなって、私は母がずいぶん楽になったのだろう、と子供心に思ったことも記憶にある。

そのとき、姉がいたのかどうかは覚えていない。

同居し始めた姉は、こわい存在だった。高校生で反抗期であったのだろう。まず、口をきかない人だった。制服姿で、与えられた増築部分の自分の部屋からあまりでてこない。
私とどういう関係にあるか、など、だれも教えてくれず、姉から声がかかることもなく、私が何か言うこともなく、こわい存在だった。
特に母との会話がないことには気づいていた。母をきらっているのだな?と思う雰囲気があった。

しかし、あとで聞いた話、姉から直接ではないが、父と母が結婚する話のきっかけは姉が作ったのだとか。姉が幼稚園生のとき、母がその幼稚園の先生をしていて、姉が慕っていたのだとか。
それで父親に再婚の話がでたとき、幼稚園の先生である母を推薦したのだという。
反抗して、口もきかない姉が、実は縁談のきっかけを作ったとは!と驚いたけれど、話は微妙に違うらしい。

母を異にする我々、姉は決して母を悪くは言わない。母と生活を共にする期間が短かったこともあるだろう。
不思議なことに、共通項の父に対しての発言もお互いにしない。
父に対する思いがまったく異なっているのかもしれない。
姉にとって、父は若い男性だった。もちろん、だんだん年齢は加わっていったけれど、私にとっての父は中年から老年の記憶しかないけれど、姉にとっては青年期からの記憶があるのかもしれない。

姉の母は、姉にとって弟になる子を出産し、その産褥の問題で死亡した、という。
父はこの先妻について、どんな感情を抱いていたのか、後妻の子である私にそういう感情をみせたことはない、と言いたいが一度だけある。
それはあるとき、私の不注意で、姿見を壊したときだ。
割と立派な姿見で、鏡も上質、茶の間の小さなタンスの上に置かれていた。
ある日、私がバランスを崩して、その鏡が落ち、割れてしまった。
父は怒りっぽい人だった。目を三角にして怒る、と怖くてならなかった。けっこう些細なことでも怒るので、私は父がこわくてならなかった。

そのとき、叔母が、まあ、何々さんの形見の品を!と叫んだ。その何々さんがだれなのか、私は知らなかった。
父が座敷から現れた。目が三角になるか、どんな叱責をあびるのか、体罰はしない人だったが、些細なことでも怒る人だったので、もうこれだけの失策をして、どんなに怒られるのか、こわかった。
意外や、父は黙っていた。そして叔母に片付けを命じて、また座敷に戻った。

祖母に叔母が、そのあと、私に向かって、亡くなった先妻の形見なのに、と何度も何度も繰り返し文句をつけた。その時、母はどんな反応をしたか、記憶にない。
この事件のとき、姉は同居していただろうか?これも記憶にない。

小さいとき、姉を姉ともしらなかったこともあるし、ある日突然(でもないのだが)、嫁いでいったので、姉とのこれという記憶がない。
そして、不思議と父との思い出もないのだ。

この頃は、父のことも、母(先妻も後妻も)も、名前で呼んでいる。
親に対して、尊敬の念が亡くなったわけではないが、もう父の亡くなった年は超えているし、私は父に対して、あまり感情がないのかもしれない。

先妻の子である兄と長姉、そして後妻の子である次姉、私、弟、今5人の兄弟姉妹だが、とても仲がいい。というより、もういさかいをするような案件もなく、おだやかにそれぞれの家庭での生活のプラスアルファとして、兄弟姉妹がいる、状態だ。
死を近いものと考えたとき、生を得たときからのことを知りたい、というのも面白い現象だ。
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