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私は生き残った(5)独身で

ようやく、この冬の寒さをしのぎきった感のあるこの数日だ。
シーツの下の電気敷布が気分を損ね、また上の掛布団の重さが我慢できなくなった。

こうして生き残った感を感じているなかで、母の妹のことを思い出している。
母の兄弟は数が多いのだが、この叔母は、終身独身のまま、生涯を終えた。
記憶していることでは、この叔母は戦時中、結核を患ったとか?それで結婚とは縁がなく、私が知っているときには、生協のような組織の事務員をしていた。
当時は、この叔母は実家で暮らしていたようだが、勤務先と我が家が近く、時々、我が家に寄ることがあった。
生協という勤め先のおかげか、当時、価格が高くて、買うのもぜいたく品になっていた砂糖や、その他の食料品、そして、子供たちにはうれしい、駐留軍からのお菓子などが手に入ったとき、我が家にもってきてくれていた。

いつも地味な、まるで事務所で着る、当時は労働着などもあったと思うが、紺色の木綿の上下を着て、およそおしゃれとは縁のない恰好、化粧っけも全くなかった。
冬には、我が家のサンタクロースになって、子供むけの(当時は姉、従姉、私、弟)の遊び道具などを持ってきてくれたものだ。
クリスマスを祝うとか、クリスマスプレゼント、といった行事は、まったくない時代だったのに、なにか、少し、華やぎがあったのは、この叔母のおかげだった。

この叔母は、こういうふうに、我が家、とくに子供にとって、神様みたいだったけれど、なぜか、夕食の席を一緒にすることもなく、家のなかに上がるということもなかった。
なにかしら、便利な存在、といった扱いが感じられた。
それが、独身、つまり当時は嫁かず後家、と呼ばれていたが、そういう軽く扱う気持ちが、特に父の系統のなかにあったような気がしていた。

この叔母は、身を飾ることもせず、一切、無駄遣いをしない人だったが、気前がよかった。
私がピアノを習った従妹は、音楽大学を卒業したとき、就職しないで、自宅でピアノを教えるという道を選んだとき、この叔母がピアノを、それも新品を贈ってくれた。
当時、ピアノの価格というのは、ずっと変わらず88万円だったと覚えている。当時の88万円というのは一財産であった。

その後もいろんなところで、お金を融通してくれたり、プレゼントとして与えてくれたりしたようだ。
私については、ヨーロッパ周遊を計画したとき、母が100万円を準備してくれたのだが、母曰く、この叔母から借りたのだそうだ。とりあえず、母が借り、返却もしていくから、私は母に返していけばいい、ということだった。

この叔母は渋ちんではなく、これは!と思うとき、お金を使うのだった。
姉がロンドンで結婚式をあげることになったが、その時、母の費用は姉とその結婚相手が出してくれるというのだが、ほかに自費で出席できる人はいなかった。
そこに、手をあげたのがこの叔母である。
結婚式ついでに、ヨーロッパを少し回りましょうよ、と、義兄のサイドの両親ともども、フランス、スイス、イタリアなど、初の海外旅行をしたのだ。

その旅行がきっかけで、母が海外旅行に目覚めたのは当然で、海外に住む姉たちが毎夏休みに、帰国前に立ち寄るところに、日本から参加していたが、この叔母もそういうチャンスがあればぜひ、と思っていたようだった。

ある時から、私が毎年、海外へでるときに、母が同行することが常となっていたが、ぜひ、つれていってほしい、という話になった。
結局、母は体調不良で参加できず、それなら、この叔母も遠慮してくれないか、と思ったが、ぜひに、というので、フランス、チュニジアという旅行をした。

相変わらずのさえない恰好、当時、すこし、フランスかぶれの私としては、もう少し、しゃれていてほしかった。
そして、背中をのばして、せめて歩く姿くらい、しゃっきりしてほしかった。

パーキンソン病が始まっていたとは、まったく知らないで、チュニジアの遺跡を歩くときも、もっとしっかり歩いて、とはっぱをかけたりしていた。
この旅行が叔母にとっては最後になった。

叔母は叔父(彼女にとって弟)の家族と同居していて、そこで最後まですごしたのだが、最後まで地味で、堅実な生活だったらしい。

実家や兄弟姉妹を頼ることなく、自立して、時には兄弟姉妹のみならず、その子供たち、つまり甥姪たちを援助して、とても潔い人だった。
恩を受けるだけで、なんら恩返しもしないまま、感謝の気持ちを伝えることもなく、と今になって思いも強くなる。

生き残るためには、こういう人の情け、援助を数知らず受けている。
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