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上川大臣、神対応なさらないで

麻生副総裁が、地元福岡県で、上川洋子外相について、女性蔑視の発言をした、という記事、あるいはテレビでその場面をみて、ああ、福岡の男ども、なんてことを言う、と思った。

まずは、麻生氏は副総裁ではあるが、現内閣にはポストがない。
だから、閣僚の名前をちゃんと覚えていない、というようなこともあるかもしれないが、名前を間違うなんていうことは、ましてや、外務大臣というポストの人なのに、なんというミスをしたのだろう。

また、最初の女性外務大臣、なんて、田中真紀子、川口順子(かわぐちよりこ)の2人がいたにも関わらず、その記憶というのか、知識が欠けているというのは、長く政治家をしているのに、と
麻生氏の記憶力、というか知性のなさを感じる。

知性のない発言は続く。
「そんなに美しい方とは言わんけども、英語できちんと話をし、外交官の手を借りずに自分でどんどん会うべき人に予約をとっちゃう」というのは、誉め言葉を言うつもりで、先の部分をちょっと脚色をいれたのだろう。

それに対して、上川大臣は、「様々なご意見やお声があると承知しているが、どのような声もありがたく受け止めている。国民に理解され、指示される外交を展開していくことに専念している」という発言(記者会見)をして、神対応をみせた、という。
神対応だろうか?
これが、立場の違う人からの発言だったら、いいのよ、ほっときゃ、ですむかもしれないが、政治家歴何年になるのだろう、首相も経験した麻生氏の発言なのだ。

「麻生副総裁、あなたの発言は不愉快です。謝罪を求めます」となぜ言わない!
失礼極まる発言ではないだろうか?
公共の場で、カメラもはいったところで、「大変礼を欠く発言をいたしました。深くお詫びを申し上げるとともに、あの一連の発言を撤回します」と言わせなさい!

こうやって、むにゃむにゃ、麻生氏の発言だから仕方ない、とか、老人のたわごとだよ、とか、中途半端に許容するから、こうゆう発言がまかり通るのだ。

と、一人、怒り狂っている。



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政治家とは

なんだか、この頃の政治家の発言にいらいらしている。
やたらと「させていただく」が多いのは以前からのことだが、「発言を控えさせていただきます」と言われると、「だれから控えろと言われたの?控えなくていいから」と言いたくなる。いっそ、「自分に不利になりますから、発言を控えます」とはっきり言えばいいものを、と言いたいのだ。

この政治家の「させていただく」多用は、この20年くらいのことだと思うが、謙虚なのか、人を見下しているのか、なんとも判断できない。

小泉元首相などの表現方法は、単語で切って、ごたごたがなくて最初は爽快に聞こえたが、なんのことはない、文章力がなかったせいらしい。
息子もその血があるらしく、外国でも、それを使って、記者との会話で恥をかいたことがある。

政治家の表現の中で、最も多用され、本当にそうなのか?と疑問に思うのが、会計責任者、あるいは秘書にまかせていた、という表現だ。
任せていたから、自分は知らない、ということだが、もしかしたら、そうかもしれない、という事象に遭遇したことがある。

もう何十年も前、まだ小選挙区ではない時代だった。
東京で選挙の手伝いをしたことがある。金・土・日の3日間、アルバイトである。
9時から5時まで、とはいいつつ、夕方はもっと遅くまで働いたけれど。
私の仕事は、事務所で電話を受けたり、文書の発送など、時には、よほど大切な後援者なのだろうか、毛筆で返事を、と言われ、代筆したこともあった。
その時、すべての指図は、事務長というのか、いつもの秘書たちではない人が現れ、選挙の一切を指図していたけれど、ある日、忽然と姿を消した。
事務所に現れなくなったのだ。私はアルバイトではあるし、仕事を指図してくれる秘書がいたから、別に困りはしなかったが、その理由を秘書に聞くと、ちょっとやばいことがあったから逃げてもらった、などと言ったのだ。やばいこと、その内容など、アルバイトの分際で聞けはしない。
候補者自体が著名人であったから、やばいことの内容は、暴力団との関係とかではなく、なにかお金に関することなのだろうと思った。

最近、「野中広務、差別と権力」(魚住昭著、講談社)を読んだ。
私の歳であれば、野中広務の名前を知っているだろうが、官房長官として、辣腕をふるった政治家である。
京都府の選出、地方の議会を経て国政に移り、官房長官まで上り詰めた、異色の政治家として有名だった。
私は政治にそんなに関心がなかったから、そういう存在がなぜ異色といわれるのか、そして官房長官というポストの重要性を知らなかった。

遅まきながら、しっかり大人という年齢の半ばすぎを過ぎてから、いくらかの関心が芽生えたし、その動きをチェックするようになったのだ。
日本の政治の未熟さを憂うとき、外国では、とすぐに外国を持ち出す外国信奉者であったため、日本の政治の悪いのは、中選挙区のせいだ、と思い、小選挙区制が取り入れられたときには、これで日本の政治もすっきりしたものになる、と簡単に思っていた。

しかし、日本は2大政党ではないし、選挙区には、2世、3世、まるで封建時代のような、家業としているところがいくつもある。
今住んでいる群馬県、わが選挙区は父親が元首相、そしてほかの選挙区にもそんな議員がずらっとそろっている。
高校時代まで住んでいた九州では、中選挙区の時代であるが、候補者(自民党に限るが)全員が大臣経験者で、大臣区と呼んでいた。
なんのことはない、この群馬県は首相県なのだ。

「なるべきしてなった」という表現からしてみれば、政治家の子供、孫が家業として継いでいくのは、かれらにとっては「なるべくしてなった」のかもしれない。
だが、かれらが政治家になるとは限らない。その程度によっては政治屋で終わるのかも。

ああ、何を書きたいのか、わからなくなった。

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子供ってだれのもの?

この頃、昔の常識、今の非常識、と思わざるを得ない現象に直面して、昭和から生きている人間の私としては、混迷の極みである。

今回は生殖の問題だ。
少子化の問題が日本のみならず、各国で問題視されるようになってきた。
隣国韓国然り、あの大人口をかかえる中国でも、一人っ子政策をやめたにも関わらず、子供の数が減り、一挙に老齢化が問題視されている。

今回、ショックを受けたのはフランスだ。
フランスは、昔は、カトリックの国だから、子供の数が多い、なんて言われていたけれど、それは政府が手厚い家族政策をとっていたこともあっての結果だった。
日本だと、貧乏人の子だくさん、という言い方もあるが、それも一つの真実をあらわしている。
どちらかというと、貧しいといわれる国、たとえば、アフリカやインド、今回のパレスチナでも、やけに子だくさん家族がいることがみてとれた。

その子だくさんの理由は、各自、考えることにして、フランスのケース、である。
フランスの家族を知ると、高学歴、高収入、という、恵まれた人たちが、けっこう子供数が多い。
そんな家族では、妻そして母という立場の人が、家庭に収まっているかというと、そうではない。
3,4人の子供がいることはごく自然なことだった。

それなのに、最近は、少子化で悩んでいる、というからびっくりだった。
そして、”子供を持つ”、あるいは、”子供を持たない”(中絶)、についての新しい動きをつきつけられている現実がある。

フランスで人工妊娠中絶(avortement)が認められたのは、1975年のことであった。
それまで、望まない妊娠をした場合、中絶をするのに、フランス国内で違法の中絶手術を受ける、中絶が認められている近隣諸国にいって、手術を受ける、の手段があった。
いずれにしても、国内では違法のことを受けるのだから、費用が高い、安全性が保障されていない、といった問題もあり、女性にとっては大変な苦労であった。

それからの紆余曲折、いろいろあったことと思うが、今度、憲法にも記されるかもしれない、という。
しかし、それは中絶ということだけではないはずだが、産むことについての自由と、いうのだろうか、"liberte garantie"という表現で、憲法に記されることになるだろう、という。
まだ憲法改正にまで至ったわけではなく、その可能性が強いということらしいが、憲法にまで記されることになるのか、とその動きに驚きである。

子を持つ、ということの、もう一つの驚くべき進化は、体外受精がある。
不妊で苦しむ人たち、不妊の原因が男性、女性、いづれにしてもだ、それが解決される道もできている。
正式に結婚しているカップル、結婚届けはしていないが実質的なカップル、そのカップルが不妊で苦しんでいるときの解決策なら、まだ旧世代も納得いくのだが、今では、不妊、単身であろうと、借り腹、あるいは、第三者の精子、卵子の提供を受け、かつまた別の女性の借り腹という形での出産もありうるのだ。

以前、調停員をしていたとき、夫婦の問題の調停で、子供をどうするか、ということがテーマになることが多々あった。
相調、男性は、必ず、子供を”愛の結晶”と言っていた。
私は、いささか冷めた観点で、愛の結晶というより、男女の性交渉の結果である、と解釈していた。

フランス人の父と呼んでいた人は、敬虔なカトリック信者で、75年の妊娠中絶法に反対していた。
受精の時から、それは命である、というのだ。
妊娠中絶を認める期間をどれだけにするか、ということでもめていたときである。
私は、受精のときから、というのには反論していた。
日曜日にも狩りにいく人をみて、なぜ、日曜日に殺生をするのか?と問うたとき、動物には魂はないから狩りをしてもいいのだ、という返事だったが、受精の瞬間から魂があるのだろうか?と疑問だったのだ。
それは、とうとう、私自身が子を産むという経験をしなかったこともあるだろうが、生命の神秘という、それは神聖なことだが、科学的な、あるいは母体を考えたとき、なにが正しいか、を問えば、答えは一つではない、という事実もあるからだ。

そして、いまでは、愛の介在しない、女性の欲求のみの妊娠も可能なら、タイで同時に多数の女性に妊娠をさせ、同年齢の子供を産ませたケースなど、恣意的な子づくりもあって、出産というのが、ただの生物的なことになってしまっている。

子はどうなるのだろう。
親ガチャなど、ということばが流行っているが、子は親を選べない。

先日、フランスの女性が、人工的に授精をするのに、精子は選ばない、偶然の結果でいいのだ、と言っているのをテレビで見た。
デザイナーベイビーというのも、心情的に受け入れらないが、血液型、フィジカルな条件、なにも注文を付けない、というのは、出産、その後の成長の段階で、本当に問題は生じないのだろうか。
自由というのは、やっかいなものでもある。
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生活の進化が今では不便

地震から13日目、あすで2週間になる。
避難所、あるいは傾いた自宅での日々を垣間見ると、生活の変化を進化と思っていたけれど、それがいざ、災害となったとき、そうではない、ということに気づかされる。

それは昔に戻れというのとは同義語ではないけれど、昔の杵柄ではない、昔の名残が捨てられない理由も理解できるのだ。

まず、新聞紙、新聞ではない、あくまで新聞紙、これが捨ててはならないものの筆頭、とは言いすぎかもしれないが、避難生活の各所に登場する。
まず、保温効果だ。着の身着のままで避難した人たち、あわてて屋外にでたこともあり、外套さえ羽織っておらず、室内ですごしたままの衣服、という人々も多かった。
避難所といっても、暖房完備ではなく、当初は暖房もなかったところもあっただろう。
そんな中、衣服の中に、新聞紙をいれる、それで保温効果がありますよ、とテレビでその道の専門家がいい、テレビ局のメンバーがおおきくうなずく、という場面もよく見た。
新聞紙の保温効果は、そうなのだろう、と思う。
以前、よく見かけた路上生活者の皆さんは、その身、あるいは体の周辺に新聞紙をよくおいて、利用していたことを思い出す。
保温に使うというのは、新聞のある国では一般的で、最初に行ったころ、パリの路上生活者の手元に、ルモンド紙があって、フランスの路上生活者はインテリだ、と早とちりをしたことがあった。

しかし、この新聞紙、今や、希少物質となっているところもある。
わが家の周辺はそうである。
つまり、新聞を購読している家が減っているのだ。
人家の少ないところでは、新聞の配達サービスがないところもある。
我が家周辺は、以前は、下の集落まで毎朝取りに行っていたけれど(2キロあった)、それがだめになり、別荘の管理事務所にかわり、そしてそこもトラブルがおきてダメになり、郵便配達で受け取るようになり、その不便さにいやけがさして、つれあいはPCで読むからいいといい、私は下のコンビニまで6キロを車で買いに行く、ということになった。
読後の新聞、これは新聞紙という存在になるが、これをどうするか、たまればごみの日にまとめて出すこともあり、夏場にきた別荘族の人から少しくださいと頼まれることもあり、野菜の包装紙ともなり、冬場は友人のストーブ利用者が焚き付けにほしいと、束でもっていく、となかなか利用価値が多い。

テレビをみていると、入り口のところの靴脱ぎ場に新聞紙が敷いてあったり、中では包装紙として使っているような雰囲気もあったりだ。
地震後、新聞配達など、途絶えていることだろう。
そうなると、本当に新聞紙が貴重なものになる。(トイレットペーパー代わりには使わないだろうが)
新聞もペーパーではなく、ディジタル化で、スマホで読もう、なんて言われているが、紙の利用法がこんなにも多いのですよ、と前時代人として強調したいのだ。

我が家は電気にほとんど頼っているけれど、全電化ではない。
東日本大震災のおり、全電化ハウスに住んでいる人が、トイレの蓋があかない、というところから不平を言っていたけれど、玄関も開かない(顔認証の場合)、すべてに不便になったとか。
そこまではいかないにせよ、なるべく熱源の種類を一本化して、となると、ヒーターの類も、点火は電気である。
東日本のとき、計画停電の不便さから、脱電気ではないけれど、電気ではない、乾電池やマッチなどで着火するストーブも購入したけれど、それから10年以上たち、いつか、登場する機会もなくなった。

もう使わないだろうから、捨てようと思っていたものがいろいろある。
この冬は、湯たんぽもそうだ。早めに電気毛布(シーツ)を出したこともあるが、湯たんぽを使わないのに場所取りね、これ捨てなきゃ、と言っていたけれど、こんなとき、電気がこなければ、湯たんぽ利用しかない。お湯はボンベ式のガスコンロ、やはり、今は使わないヤカンも残してある。
炊事用具を、ほとんどIH仕様、そして少人数用、などに替えてきたが、そうではなく、直火可、というものも必要不可欠なのだ。

雨水をうけるためのバケツや洗面器、これもやっぱり必要な品だ。
昨日のテレビでは、外国人の避難者たちが、ボトルから直接水を顔に流して、洗顔していたけれど、ここに洗面器があれば、あんなに無理なやり方でなくても洗顔できたのに、と思った。

この頃、タオル、それも温泉などに泊まったときにいただく薄手のタオル、これを持っている人は少なかろう。
これがまたすごく役に立つ。
自然素材を使いたい私は、このタオルで体を洗う。拭いたりするのは、すこし厚手になるけれど、高価な刺繍いりのバスタオルなどは来客用である。
先日、村のお店で買い物をしたとき、お年賀です、とこのタオルを2枚いただいた。昨年、フランスへ出かける前、日本のタオルをお風呂やシャワーで使います、と言ったとき、お年賀の残りですが、と数枚いただいたのだ。その記憶から2枚くださったのだろう。

コロナの初期、自分でマスクを作るのがはやり、母の残したガーゼがあったのを押し入れにしまっていた。こんなものも捨てられない。緊急医療品という中にいれられるものではないが、やっぱりガーゼも捨てられないものの一つだ。

こうしてみると、今年には捨てようと決心していたものが、何も捨てられなくなる。
ごみ屋敷になりそうだ。
そうしてとっておいても、今回の地震、あるいは東日本、阪神・淡路、どの地震をみても、その直接の被災者は、なにも持ち出すことなどできていない。

こんなものも必要だろう、といろいろ思っても、今は個人からのものは受け取らない。
まだ、水も電気もないところが多い、とのこと。ぬくぬくといることが心苦しい。

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トイレの次はトイレットペーパー

トイレというのは、便器だけですむわけではない。
シャワー式にすれば水は不可欠、それに旧式であれ、シャワー付きであれ、トイレにペーパーはつきものだ。
まあ、近代的トイレでは、ペーパーレス、扇風機方式というのか、暖かい空気を事後に出して、乾燥させるという方式もあるけれど、我が家などはその機能は不要です、と風なしを選んだ。

能登半島のトイレに暖風方式があるかもしれないが、ごく少数だろうと、それは無視することにして、さて、トイレットペーパーだ。
この地震後の、いかに不便、不足を補っていくか、というところに、暖気を体に保つため、新聞紙を利用する、というのがある。
新聞紙の利用の一つ、と盛んに言われているが、私の世代、新聞紙がトイレットペーパーとして使われていたことを思い出させた。
新聞紙のトイレットペーパー代用、これはレポーターたちのだれも口にしない。

そう、昔、汲み取り式だったトイレに、何と呼んでいただろう、塵紙(ちりがみ)というのが一般的だったと思うが、薄茶の紙の束がおいてあった。今のトイレットペーパーとは違い、けっこうしっかりしていた。
安価なものであったとは思うが、時々、それがないとき、「便所に紙がないよ」と叫ぶと、新聞紙1枚が差し入れされ、それを幾回もおり、お尻をふくのに適当な大きさに切り分けるのだった。
すこし、揉んで柔らかくしなければ、ちゃんとふき取ることはできない。
がんばってよく揉むと、手に印刷インクがついたものだった。

能登半島、昔風の生活をずいぶん守っている様子もあるけれど、トイレはちがうだろう。
流す水がないのも困るけれど、トイレットペーパーがない、というのも大困りだ。

日本では普通には、トイレットペーパーなら流せるけれど、これが世界共通のマナーと思ったら大変だ。
今回、人体からの排出物(大・小便)は水で流せるようだが、ペーパーなどは流さないで、別にごみ袋などにいれているようだが、このやり方、いろんな国でやっている。
私が旅行した先では、ヨーロッパではギリシャがそうだった。
友人宅に泊まっていたが、ヨーロッパの一国ではあるし、警戒もしないで、排出物と一緒に流していた。友人がそれに気づいて、便器のそばにある容器にいれてね、と注意してくれて、あ、そうだった!と気づいたのだ。
アジアではミャンマー、ラオス、ヴィエトナム、などがそうだったと記憶している。
アフリカでは、便器すらないようなところが多かったので、トイレットペーパーなど、自宅にはあったけれど、都市部の大ホテルはともかくとして、ペーパーがなかった。

トイレットペーパーというのは、特殊な仕様になっているのか、ほかのものではなかなか代用できない。たとえばティッシュペーパー、柔らかいのはいいが、お尻にくっつくし、トイレには流せない。
それ以外の紙というのは、長く代用したことがないので、使い心地などはわからない。
ただ、トイレットペーパーと銘打った紙以外は流せないことは確かだ。
拭くだけ、なら、もちろん、布でもできるけれど、この場合も流すというのはダメだし、まあ、ごみ袋にいれるのなら、代用にならないわけではない。

アフリカにいるとき、生活必需品として、トイレットペーパーは常にある一定量は準備していた。
国産品というのもあったようだが、トイレのことに神経質な私には論外、フランスからの輸入品を購入していた。

考えてみれば、私が購入していたトイレットペーパーは、つれあいと私、来客用のトイレ用、と限られた人数分だったけれど、現地のスタッフはどうしていたのだろう。今になって、その配慮をしていないことに気づいている。
家を出るときは、トイレットロールを1個、一応、準備して、出先でのトイレ使用時に持ち込んでいた。必要とする場合もあり、しない場合もあった。

というわけで、被災地の方々、トイレットペーパーも必需品として要望がでていて、至極もっともの感をもち、ああ、我が家の予備のペーパーを送れるものなら、と思ったものだ。

我が家にも準備している。我が家の”もしもの場合”、というのは、考えてみれば、太平洋岸の地震、津波で、海岸サイドの道路が使えなくなった場合を想定している。
つまり、話によれば、静岡県を中心に、関東と関西を結ぶルートが断絶、静岡には製紙工場がたくさんあり、ここが被災すれば、トイレットペーパーが品不足になるのは火を見るより明らか、というような説を信じているからだ。
そのほかの地方が被害を受けていないという前提のもとに、1,2か月分の紙製品を準備するように、という説を、自分自身に対する危機管理で、これで十分といえるかどうか、は別にある程度準備している。

すべての準備品において、能登半島の被害をみていると、準備しても取り出せるのか、おおいに疑わしい。
なんだか前提がすべて、とても楽天的で、被害はたいしたことはないような、そんな設定にしか思えない。

それでも、わがトイレには、スーパーから買ってきたまま、12ロールくらいがビニールでくるまれたまま、どんとおいてある。
上品に1個、2個で予備用、とはいかないのだ。それだけのロール数があって、直接目にふれることで、長い人生の不安要素をカバーしている。

避難所にいくときも、きっとロール数個を持参しなければ、と、その日のための必要物を頭のなかでチェックしながら、念押しをしている。

テレビの映像で、避難所を見るたびに、トイレは大丈夫?ペーパーはあるの?水は流せるようになったの?掃除はだれがしているの?一度に何分くらいいてもいいの?いろいろ心配している。

現場中継にはいったひとたちは、どこで寝泊まりしているのだろう?
トイレや休息、宿泊はどこでしているのだろう?などとも考える。
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災害対策(3) トイレ

災害が発生したとき、生き延びるためのことをまずは考える。
私の場合、その第一の優先事項は、トイレだ。

震度7以上の地震がおき、家屋やその他の建物が崩壊したとき、安住の場がなくなったとき、寝たり、休養をとる、そんな場所がなくなるのも当然、緊急の問題ではあるが、排泄の場がなくなるのも、すぐに必要とする。

今回の地震で、能登半島のトイレが100%とは言えないだろうが、その大部分がシャワートイレ化していることがわかった。
インタビューに応えているいる人々が、生活用水、つまりトイレ用の水がないと困るね、と発言しているのだ。
もちろん、インタヴューされていない人の中には、昔風のトイレを使っている、という可能性もあるだろうが、テレビで答えている人は全員、トイレを流す水を言う。

今、昔ながらのトイレを残しているところはあるのだろうか?

今住んでいる家は、1990年代に新築したものだ。もう30年近くになる。
階下に1つ、2階に1つ、トイレを作った。当然、シャワー式である。
山林の中の別荘地という関係から、下水道はなく、浄化槽へ流し、たまると、くみ出しをお願いする、ということになる。

おそらくは能登半島の、市街地は下水道ができているかもしれないが、山間地などは、各家屋に浄化槽をつくり、ためる、という方式なのであろう。
流せるということは、断水はしていても、流すほうはできるのか、とほっとした。
流すための水の調達も大問題だが、流せる、というのも同じく問題だからだ。

これまでのトイレに苦労した思い出がよみがえってくる。
多いのはアフリカだ。常に家を出る前に、思い切りトイレを済ませる、という努力をしたが、また、まだ今より若かったから、そういったコントロールもいくらかできた。
一度は、首都から2時間くらいの距離の部落に、井戸堀の援助をして、その井戸から水を汲みだす式典がある、というので出かけた。
式典を終わって、歓談していた時、トイレに行きたくなった。シスターも常住していらっしゃるところなので、トイレくらいはあるだろうと思ったからだ。
あるにはあった。それは庭の片隅に、囲いといえば囲いがされた場所で、深い穴が掘ってあり、板が渡してあった。臭いはぷんぷん、案内してくださったシスターが苦笑いをしていらっしゃる。
何も口にだせず、いちおう、その囲いに入ったものの、とてもではなかった。
出ようとしたものも、もう引っ込んだ。
息するのもやめて、すぐに囲いから出た。そこに待っていたシスターは、cava?と聞かれる。
Cava、と返事せざるを得ない。

まあ、これに似た経験は、アフリカでは何度もするのだが、もう今の私にはできないことだ。

村に生まれ、ずっと住んでいる方が、村がライフラインから断たれた場合、どうなるか?と話していたとき、みんな庭つきの住居だから、庭に穴をほってすればいいのよ、と言われたが、とても可能な話ではない。
もうしゃがめない。立ちしょん、など、それも不可能だ。
ちゃんとしたトイレでも、和式のトイレは使えないのだ。

そんなこんなを思い出し、考えながら、地震から10日、実態はどうなのか、というのが気になって仕方がない。
非常事態の最大のウィークポイント、ととらえている。
近代化というのは、便利だけではないのだ。
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災害対策(2)

まずは水である。
飲料水と生活用水。
飲料水は、今の世、ボトルにはいった飲料水が手に入る。
このボトルの水がない時代、飲料可の水は、どうやって入手していたのだろう?

アフリカにいたとき、自宅には、日本からの水なのか、富士、と印刷されたボトルがたくさんあった。
日本から送られてきたものだろう、と思う。
緊急時用であろう、と日常では飲まなかった。あれは有効期限もあるだろうから、飲んでいてもよかったのかもしれない。
普段には、Evian, Volvicなど フランス産の水が市販(フランス系のスーパーで)されていたものを、箱買いして、台所だけではなく、家のあちこちに箱でおいていたものだった。客を迎える部屋は除くが。

現地に長くいる日本人シスターたちは、ほかの地元の人と同じく、水道水をろ過器を通し、飲料としては、沸騰させてさましたもの、を飲んでいらしたが、我が家ではボトルで供し、ボトルに残ったものはお持ち帰りくださいというと、とても喜ばれたものだった。

水というと、そんな光景を思い出す。
そうやって、ボトル入りの水をキープして、と言われるので、数箱(1箱6本入り)は買い置きがあるけれど、さあ、家が崩壊すれば、そんなボトルを持ち出すのか、いくつかの場所に散らして保存、といわれて、台所以外にも、寝室、客室、座敷と1箱ずつ置いたけれど、いつしか、掃除のときに面倒と、片付けてしまった。
ガレージにもおいておかなければ、と思うが、家がつぶれたとき、きっとガレージは最初に壊れてしまいそうだ。それに普段からガレージの中だと、埃っぽいことや、いろんなものに交じっての汚れが箱について、飲む気になれるか、不安である。非常時には飲む気の有無など問題ではないだろう、と思うけれど。

またアフリカの話になるが、ある国で、青年の自宅を訪問すると、廊下にずらっとボトルが並べられている。50本ではきかなかった。
ちょっと水に色がついているので、ここでは飲料水も色付きなの?と聞くと、いや、これは生活用水です、顔を洗ったり、体を洗ったりするときのためです、という。
緊急時のためというより、ごくごく日常的に断水が発生するので、必要不可欠なんですよ、という。

日本ではこういう形での水の準備は、非日常、緊急時のための準備であるけれど、アフリカ(とひとくくりしてはいけないのだろうが)では、それが日常なのだ、と思ったことを思い出す。

1日以来、お風呂の水は流さずにいる。足を延ばして入れるバスタブで、容量は大きい。
入浴後すぐに流せば簡単なのだが、翌日まで持ち越すと、バスタブも丁寧に洗わねばならない、と面倒なのだ。
しかし、昔、というのは私も若かった時代、年長者(しっかりおばあさんだった)から言われたのが、お風呂のお湯はおとさない、やかんに一杯の水、できれば一度沸かしておいて、を残して就寝すること、と言われたことを今更に思い出すのだ。

アフリカ時代(緊急事態が日常だった)と日本でも公的援助が整備されていたなかった時代、こうしなさい、と言われてきたことを、思い出している。

別荘地のはずれには小川が流れている。この地を生活の場として求めたとき、よし、何かあったら、ここに水を汲みにくればいいのだ、と思ったのだ。
ああ、あの時、私は若かった!

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災害への準備、私は大丈夫?

カメの甲より年の功、とは言うから、戦争経験者ではないけれど、水害は実体験、見聞した災害は数多い。。
それに、アフリカでは滞在地で内乱がおこり、つれあいを残して、先に出国、1年近く戻れなかった経験がある。
ということで、いくらかの災害準備をしているつもりだった。

ところが、災害はTPOを心得ない、TPOどころか、新年早々、というケースもあれば、なんでこんな時ということだってある。
今回の能登半島地震は、まだまだ進行形であるが、いくつものことに気づかされた。

地震対策については、阪神・淡路大地震、そして東日本大地震もあって、公的な機関も、住民の多くも、準備万端とはいわなくても、それ相当の対策を持っているものと思っていた。
ところが、そうではないことがわかってきた。

そこで、自分はどうなのか、というのを見直してみた。
今回の能登半島地震と、我が身の置かれた状況を比較してみると、もうぬけぬけ、ばかリが出てくる。

今回の地震の被災者が口にするのは、停電、断水、情報不足、これが3大問題と思える。
それに対して、自分はどんな対策をしているか、であるが、何もしていないことに気づくのだ。

自然の条件については、わが住居は、海に近い、あるいは半島という場所ではなく、本州の真ん中、日本のヘソを称する渋川とも近い、といって何山脈というほどではない、が山々山、の中にある。
道路事情は能登半島の山間部と同様だ。山を縫っての道路、すぐに山崩れが発生し、道路は通行不能に陥る場所ばかりだ。
この道路事情というのは、とても個人で解決できる問題ではない。
2019年の19号台風で被害をうけた道路が、まだ回復しないで工事中、まだ片側通行という場所もある。そこは今回の能登半島地震の最初の大揺れで、片側通行もダメになり、通行止めになってしまっている。

道路は崖沿い、そして根本の緩さが気になる山林が、崖を補強して存在する、という状態だ。
山肌は荒れていて、倒木は多い。それらが、揺れや雨などの影響で、いかにも崩れる準備はできています、という様相をみせている。
だからといって、私の手に負えるものではないから、この問題はさておいて。

電気:これは危うい。台風や大雨で、山間部の枝が電線にひっかかっている、というだけで、停電になる土地。それだけではなく、送電のための電柱が倒壊したりの可能性もでてくるのだから、停電になるのも当然だろうし、ともうあきらめだ。
それならば、当然、代替えの電源を考えるべきで、近所には太陽熱利用のパネルがたくさんあるけれど、それに接続していない。それなら、家庭用の太陽熱パネルを設置して、蓄電池をおいて、となるべきだが、やっぱりそこまでの危機感がないのだ。

それでいて、当地も冬は厳しいところだ。今朝はマイナス15度にもなった。熱源はどうしても必要なところなのに、すべて、電気を必要とする。
東日本大震災のとき、計画停電ということがあり、3月まだ極寒ともいえる気温に、基本の暖房が電源を必要とするので、灯油のストーブで、電池で着火する、というタイプを購入した。
でもそういう必要がなくなると、灯油をいれなければならない、といった面倒があって、いつしか使わず、1台は処分、もう1台は残っているものの、もう何年前のものかわからない灯油が中に残っている。
暖房機はあとは電気ストーブとか、電気のパネルヒーターとなって、電気がなければお手上げだ。
台所も電化というか、年齢的にガスは危ないというので、ずいぶん前に電化している。
なにしろ、停電になれば、お手上げなのだ。
もちろん、テレビやラジオ、電気がなければ、邪魔な存在でしかない。

水:断水ともなれば、これも飲料水、生活用水、どちらもない。
つくづく思ったけれど、能登のように、家が崩壊すれば、いくばくか、どの家だって、ペットボトルの水を準備してあっただろうに、と思うが、それを取り出すこともできないではなのだろうか。
我が家は台所に2箱のペットボトルをおいている。そのほか、2階の寝室に10本ほど、しかしそれを飲めるような地震の被害であればいいのだが。

ひとつひとつをあげるまえに、我が家の地震あるいはほかの災害での備えというのは、ほかで大きな被害がおきて、我が家にはほとんど被害はないけれど、いろんな生活手段がストップしてしまう、ということしか想定していないのだ。

たとえば、停電・断水などはせいぜい2,3日が限度で想定している。
だから、そのくらいなら調理はしなくていい、水もボトルから、トイレ用は、使用済みのペットボトルに水道水をいれて、トイレの片隅においてある、1,2日の使用については、使用済みのペーパーを流さなければ、それらの水でどうにか保てる、と一人暮らしがゆえに、余裕があるのだ。
だが、予想と現実は違うのだろう。地震の現場をテレビで写されないところに真実、現実があるはずだ。
臭いは?流れなかった場合はどうする?なんだか自宅のトイレを使えるかどうか、否定的になる。

(以下、明日に)
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能登半島に原発、大丈夫なのですか?

今回の地震で、初めて能登半島の地図を注意してみている。
能登半島には一度、自分の車を運転して行ったことがあるけれど、運転に集中して、目的地の輪島は最先端にある、と思っていたし、途中の町村名など、気にもしなかった。
今回の地震で、いろんな地名がでてくるが、特に志賀町が気になった。

最初はその発音である。福岡県出身者の私にとって、志賀とあれば、志賀島となって、志賀町となるのが不思議であった。
そして、そこに原発がある、というのがまた、不思議の一つである。
輪島に行ったときには、そこに原発はあったであろうに、まったく気にしていなかった。

そして、現在、その志賀町も多大な被害があったにもかかわらず、あまり原発について報道がない。
原発に異常が認められないから、報道されないのか、その可能性もある。
しかし、あまりにもメディア、それが映像であれ、紙であれ、であるが、表にでてこない。もしかしたら、メディアが故意に出さないのかも、と私は疑っている。

私はどうしても原発というのに、否定的な意見を持っているから、志賀原発にふれたニュースがないのを、メディアに規制がかかっているのでは?と疑いを持つのだ。
メディアも、ジャーニー氏事件から、忖度をすることなく報道します、という反省はあったけれど、それがすべてに適用されるかどうか、疑問を持っている。

たとえば、今回の政治資金問題にしても、ずいぶん以前からあったことなのに、今回、関西の大学教授が訴えた、というので、急に浮上するなんて、あんたたち、何やってたのよ、と言いたい気分になるのだ。

この志賀原発に注目したのは、テレビ、どの放送局だったか、覚えていないのだが、当初に一度、原発内の写真がでて、変圧器から漏れた油、について報道していた。2号機の、外部電源を受けるために必要な変圧器から漏れた油の量、とかで、油がたっぷりあった。
その量は、多いのか少ないのか、いづれにせよ、危険のない、心配のない量である、という報道だった。

それから、紙(朝日しかないが)、テレビ(NHKほか民放5局をザッピング)を見ていても、この原発にめぐりあうことはない。
そして、6日、朝日新聞にごくごく小さな記事がでた。
見出しは「志賀原発 漏れた油 発表の5倍超」というのだ。
当初発表とは2日に北陸電が漏れた量として推定約3500リットルとしていたのが、約1万9800リットルだというのだ。
この油というのが何のために使用され、どれだけが適量なのか、まったくの知識のない私が、これだけで心配だ、心配だ、というのは適切ではないかもしれない。
が、この記事の後半に、「地震の影響では、敷地内の水槽での水位変動についても訂正。運転員が変圧器の保護装置の音を「爆発音」と誤解したことなどから政府が火災発生と発表し、北陸電が釈明する事態もあった。5日に会見した北陸電の中田睦洋・原子力部長は、帝政などが相次ぐことについて、「教育などを地道にやりたい。数字をする場合は、軽々に出してご心配をおかけすることがないように対応したい」と陳謝した、とある。

軽々に出す、のが悪いのか、出さなければ時間もたくさんとったあとで、隠蔽ともとれる調整がとられた、と解釈されることもあるではないか?
2日前?だか、志賀町あたりが中心の地震で、周囲は震度3以下であるのに、志賀町だけが6となって、この数字はおかしい、地震計が狂っている、という判断で、東京から気象庁の専門家が出張し、機器をチェックしたが、異常は認められなかった、という。
志賀町だけが震度6と突出しているのは、おかしいかもしれない。しかし、あり得るのかもしれない。

こういう変な数字あわせやヒューマンエラー的な言い訳のとき、背筋が寒い。
東日本大震災、このときもどんなに発表にインチキというか、隠蔽があったことか。

この記事と同じ6日、朝日川柳には、東京都の三神 玲子氏の投稿で、「珠洲原発」出来ていたらと背筋寒 という句があった。
「珠洲原発」は幸いないけれど、「志賀原発」はもう存在しますよ、とお知らせしたい。
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「動くとき、動くもの」と地震

何という偶然だろう。
元日に能登半島地震がおきて、ちょうど1週間、毎日が気分落ち着かず、何もできない状態だった。
読みかけの本を読み上げねば、ととりあげたのが、青木奈緒著「動くとき、動くもの」だった。
著者は、幸田文の孫、祖母幸田文の「崩れ」という著作の後追いをしながら書いたのが、「動くとき、動くもの」であった。

砂防という事業でカバーされる今、祖母が注目し、訪れた日本の崩壊地を、孫娘が再訪する、という内容で、扱われた場所は、桜島の竜ヶ水、六甲・田上山、立山カルデラ、小谷村・牛伏川、有珠山、日光・芦尾、雲仙普賢岳・長崎市、大谷崩れ・安倍川、富士山などの崩壊の場所、それはすべて祖母が訪ねた場所だが、そこを訪問しての記録である。
その中に能登半島はない。
しかし、能登地震の被害の土地をテレビなどの映像でみていて、この本を読み上げねばと思ったのだ。

最後の部分にある文章がとても沁みたからだ。
分量が紹介としては多いかもしれない。どこまで許されるのかわからないのだが、あの能登の崩壊した状態をみるにつけ、それを否定も肯定もなく、この文章を読んでいただきたいからだ。

「日本は豊かな自然に恵まれている一方で、自然による災害も起こりやすい。日本の対部分を山地が占め、その中には活火山も多い。地層が複雑に入りくみ、大きな断層がなん本も走っている。地震も起きる。雨も多いし、流れる川も急峻である。災害が起きて不思議はない。
 そのとき、相手は自然である。いつどこにどんな豪雨が降り、地震が起きるか、徐々に予測のつく時代にはなっているが、雨も地震も未曽有の規模で起こってはいけないとは言えない。計算してしつくせるものではなく、人が頼れる「絶対」がない。
あたりまえのことながら、そのことをつい忘れて過去の統計で未来も予測できると思ってしまう。
 未曾有の大災害が起こり得ることも頭の隅に留めながら、その一方で対策は進めれば進めたなりに効果はあるだろう。災害は少なければ少ないほどいい。ほんの些細なことながら、たとえば真夜中に地震が起きたとき、枕もとに靴下一足あっただけで大きな違いがでると聞いたことがある。確かなことだと思う。
 しかしいくら備えあれば憂いなしといったところで、日本中が災害からまもられるほどに建造物で備えようとしても、それは不可能である。国が指摘している土砂災害危険箇所は全国で約十八万カ所にも及ぶとか。それらすべてで必ず災害が起きると決まったわけではないけれど、現在、整備のすんでいるところはそのうちの20パーセント台に留まっている。このまま安全のためすべてに対策工事を行うとなれば、おそらしい時間と費用がかかってしまう。その間にも市街地は拡大して新たな危険箇所が増える。決して追いつくことのない「いたちごっこ」であり、財政難の世に砂防を工事だけ、つまりハード対策だけで進めることはできない」

このあとの文章も示唆に富むのだが、そうなのだ、と腑に落ちた部分である。
行政の無策、この能登半島、もう3年来、地震が多発していたというのに、この大地震は予見していなかったのか?とか、11年の東日本大震災の教訓で、地震が起きたときの被災者の救済のやり方がなんでこんなに遅いのか、いろいろ言いたいことが山積になって、胸が苦しくなってきたときに、逃げ道をみつけた気がしたのだ。

自然災害、特に地震は予想が難しい。
南海や東海で地震があるだろうけれど、20年うち、30年うちに、起きるでしょう、という予想、まさか、3年前からいくつもの地震があったからといって、24年の元日に起きるなど、ぴったりの予想はできない。

でも、でも、でも、と私は言いたい。何かもっとできるでしょうに、と。

青木奈緒:「動くとき、動くもの」講談社文庫、2005,から引用しました。
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