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J'ai survecu 私は生き残った(1)

J'ai survecu この言葉は、フランス革命、ナポレオン帝政のあと、王政復古時の宰相として、当時の欧州の混乱を収めるため開催されたウィーン会議に出席した、タレーランが、会議後に感想を求められて発した言葉、と言われている。
その昔、大学の史学科で学んでいたとき、西洋史の教員から講義の中か、そのあとの雑談ででたのか、思い出さないのだが、この言葉がこの頃しきりと脳内を駆け巡る。

生き残る:という言葉を使うほど、波乱万丈の人生でもないし、大災害、あるいは戦争などに遭遇したわけでもないが、後期高齢者ともなれば、もう残りがどのくらいあるかは別として、毎日、ああ、今日も生き残った、という思いがでてしまう。

そして、過去の思い出がよみがえってくる。その思い出は、決して楽しい、ほんのりとしたものだけではないにも関わらず、なぜかただただ、”なつかしい”思い出になっている。
自分勝手ながら、そんな自己中心的”なつかしい”思い出の数々を記していきたのだ。

昨日、横浜へ行った。なつかしい人たちにあうためだ。
その人たちこそ、”生き残った”と言えるような経験をしてきたはずなのに、そんな悲壮な気配は全くない。
お会いしたのは、二人の修道女、お二人とも80代になられている。

30年ほど前、アフリカで一時期、同じところに住んでいた方たちだ。
赤道をまたいだ国、日本では一年には四季があります、なんて春夏秋冬をやたら口にするが、そこでは2季しかなかった。雨季と乾季だ。
日本で培った常識は、ほとんど捨てて生活しなければ、とても生きていけないような環境だったけれど、私は3年くらいですませたところに、彼女たちはとても長くいたのだ。
内乱、天災、食料危機、盗難、日本だったら、”あってはならない”というようなことが、いわば日常茶飯事、という土地だった。
夜、ベッドにはいって、今日は生き延びた、と思いながら眠りにつく、その眠りを、銃弾の放たれる音で目が覚めたり、上からぽとりと虫が落ちてくる、というようなことで覚まされて、ああ、生き延びたけど、平安な眠りは得られない、と思う日々だった。

私にとっては、今でこそ、笑い話にできるけど、ああ、絶えられない日々、と涙したこともあったのに、彼女らは、何事でもなかったように、楽しかったわね、と言われる。
そう言われれば楽しいことも思い出す。
例えば、毎日のように、彼女らの住む修道院を訪問して、彼女らが仕事していた事務室、日本人は真面目で正直、会計などの仕事を任せられていた、に行っては、持参したお菓子などつまみながらおしゃべりに興じた。
日本語で、プロトコールも意識せず、善意だけの会話、ストレスのない時間だった。

私は結局、内乱時に日本に帰国せざるを得なかったけれど、彼女らは残っていた。
どんな状態であったのか、もともとが混沌の国だったから、まあ、そんなに変わりのない生活でしたよ、と銃をつきつけられた体験も、長い停電や断水の日々も、まるで日常のように言われる。

そんなものなのだ。この70年以上の日々、といっても思い出せるのはどんなに頑張っても5歳以上のことなのだが。
生き残った人生を、暇にまかせて、思い出してみよう。
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