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実家の墓仕舞

今回の帰省で、自分の始末を弟と相談するはずであったが、やっぱり実家の行く末は気になる。
特に兄の体調が不安定となると、兄のみならず、そばにいる兄嫁も疲労甚だしそうだし、どちらががダウンすれば、老々介護も崩壊する。

なぜか、近所にもある介護施設などには断固はいらない、と兄夫婦は決心しているらしい。
どちらかの最後まで、自宅ですごし、一人になったら、東京(郊外も含む)にいる息子2人のどちらかの家庭に世話になる予定とか。
90,80になって、居住地を変え、ふだん一緒に過ごしたことのない世帯で暮らせるものか、疑問はあるが、そういうことになっている、と兄たちは言う。

家屋は処分がやさしいだろうが、墓となると、なかなかややこしいらしい。
今回、思いきって、兄に聞いてみる。
どちらか一人になって、東京に移るとき、お墓も移すのかとおそるおそる聞いてみる。

兄の顔色が変わった。ご機嫌を損じたらしい。痛いところをついたのだ。
「墓は守る」一言である。「誰が守るの?」と聞くと、兄自身で守るというのだ。そもそも兄が一番墓に近い距離にありそうなのだが。
2人の息子がどんな意見を持っているのか、聞いてみたいけれど、兄はそれ以上話をしない。
性格のやさしい弟が、自分が守ってもいい、と言い添える。弟は同じ菩提寺に、納骨堂を確保している。

甥2人、ともに配偶者はいるが、息子はいない。もし、男系で継承するものだとすれば、甥の代で終了だ。

兄との墓談義はそれで終わり。実家を出て、姉、弟、私と3人で菩提寺により、実家の墓に参る。
墓石に刻まれたご先祖、父の父、つまり祖父の名前は聞いている。その祖父がこの墓を建立しているのだ。
祖父の配偶者、つまり祖母の名も知っているけれど、その祖母は本当の祖母ではない。つまり父にとっては継母だったので、私たちにとっては継祖母となる。
わが実家は、どうも何代にもわたって、後妻を迎える伝統があったらしい。つまり、最初の妻が、若くして亡くなっている。
長兄と長姉の母親の名前もあるが、私たちの母の名はない。ここに埋葬されているわけではないからだ。

先祖伝来の墓、などと自慢するような名家ではないから、せいぜい3代が入っているだけだが、これからを考えても、お先真っ暗だ。
なんで、お墓がこんなに問題になるのだろう。家の問題と絡んでいるからだろうが、個人で墓を作る、あるいは、墓という存在をなくしてしまえば、実に簡単なのだが。

母の遺骨が入っている、母の所属していた教会の共同廟には2度行った。
1度は姉、弟、そして従兄夫婦とだ。それだけと思っていたが、友人の家を訪問したとき、友人がもう一度行こうよ、と言ってくれた。
私にとっては最後かもしれない。
弟が暇にまかせて、時折、訪れているとはいうけれど、弟の配偶者はこない。そして子供たちもだ。
つまり、われわれの代がいけなくなったら、もう母は忘れられる。

姉の連れ合いと私の連れ合いは同じ年に亡くなった。1か月義兄が先だった。
今年は満6年、つまり、仏教でいえば7回忌にあたる。
姉は義兄の遺骨を、東京の縁もゆかりもなかったお寺に収めている。つまり、今流行している、土地のつかない墓である。
もう東京へ行けないので、東京住まいの長男がお参りしてくれるだろう、という。
私のほうは、義理の娘たちがきちんと法要をしてくれるという。

ならば、ここで二人で追悼会をしよう、と、つまりはランチの席を追悼の場にするだけだ。
姉たちがいたアラビアにはとうとういったことがないけれど、私たちが住んでいた南仏には二人してきてくれた。
地中海沿岸をドライブしたこと、ブイヤベースを食べにいったこと、また、もっと以前には兄が母と私をギリシャに招待してくれたこと、楽しかったことは山ほどある。

墓前にまではいかないけれど、思い出をたどれば、すぐそこにわがつれあいも、義兄もいる。

さて、実家の墓はどうなるのか、私はどうするのか、まだ結論はでていない。
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故郷は遠きにありて想うもの

先週、4年ぶりに故郷に帰った。
用事があるといえばある、帰らないでも済ませられないこともない、でも帰ろう、とその気になってしまった。
関東から九州へ、新幹線利用であれば6時間ほどか、やっぱり飛行機だ。
と、9月末に予約した。そろそろ旅行も解禁になるだろう、その前に、という気持ちで日程を選んだのだが、ちょうど、旅行割引などが始まり、しっかりその恩恵に与ることができた。

いつもはJAL,今回はANA、会社が違うからか、この4年の間に、旅行の形態が変わったのか、すでに変化はあったのに気づかなかったのか、いろいろ戸惑うことが多かった。

まず、事前にスマフォでチェックインが可能なこと、スマフォにお知らせが来たけれど、画面が小さすぎて、フォローできない。
デジタル非反応年代の私は、当日、チェックインカウンターに並ぶことを選ぶ。荷物を預けもしないのに、カウンターに並ぶ人は少ない。とうとう、時間が迫っている、というので、係員が隣に来て手続きをしてくれる。
そして、搭乗口、チケットをみると、グループナンバーが記されている。
どうも1というグループが、以前のファーストクラス、あるいはプレミアムといわれるクラスらしい。
グループ2,3と進んで、4からはどうも割引で購入した口らしく、私などは、早めに予約したのだが、グループ5だ。
この差別は、金額の差別だから、資本主義の世の中、仕方がない。

機内サービスもそっけないものだ。ちょうど昼飯タイムだが、お昼ご飯を食べる時間も、空弁なるものを買う時間もなかったが、もしかしたら、機内で軽いサンドイッチでも提供されるのではないか、と期待したが、なかった。飲み物だけ、それもそんなに種類は多くない。ジュースなどは、リンゴのみ。

まあ、それも時代の流れ、以前はなにか出ていたのに、というのはもう10年以上も前の話だ。
ただ、往の飛行機では、化粧室が使えない区間があった。幸い、グループ5だったため、トイレには待ち時間の間に済ませることができたけれど、機内で、と思っていた人にとっては、地獄の苦しみを与えたのかもしれない。

空港から実家のある町まで、弟の車で移動する。いつもは空港バスを利用するけれど、今年から、弟が完全に仕事を離れ、家族の運転手業を始めたのだ。といっても無料奉仕だが。
途中の景色、たいした変化はない。
それでも何か変わった、と思うのは、こちらの心境の変化が作用している。

なんせ、暑い。寒いところから、それも朝早く出たので、着ているものが厚手だ。
弟との会話も、4年の変化なのか、あるいは、こちらの老け具合が激しいからなのか、以前は常に姉としての立場であったものが、今や、庇護者のようだ。

みんな背が小さくなった。老いた証拠だ。
声がかすれ、勢いがない。
お元気ですか?お変わりありませんか?と問えば、いやいや、と病気の名前がいくつか出てきて、かかっている病院、治療のやり方、病気の話が途切れることがない。

それはこちらもご同様。お変わりありませんか?と問われて、いや、まあまあです、とでも答えると、元気だと解釈される。

近いと思っていた菩提寺、歩けない。弟の車で行く。夕方で人気もない。
兄夫婦が外出できないので、墓参をする人もいず、花の影も、線香の残りもない。
同行した姉、弟と、なぜかいつ建立されて、だれがお墓に入っているのか、チェックしている。

姉も私も家を出ているので、この墓にはいることはない。弟は次男だから、やはり入らない。
こうした、墓のことなども気にする帰省である。
弟は、お寺の別館にある納骨堂に自分の家庭の分は確保しているという。
どっちが先にいくかわからないのだから、そこも見て行ってほしい、という。

そういえば、この帰省は、そんな問題を弟と話し合うための目的もあった。

到着一日目は、実家の墓参、明日は母の墓に行く。そうか、今回は墓参り帰省でもあるのだ。
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葬儀のあり方:私はこうしたい

先日、昔働いた会社の友人から電話があった。その会社に入社できたきっかけは、小学校時代、隣に住んでいた男の子が、その会社に入っていて、同期が人事課にいたからだった。
友人はその会社のOB会で、退職者の情報交換をしていた。
ウン十年前の男の子、先日亡くなったという。幼馴染ともいえる人の死、といってももうウン十年も連絡をとっていない、配偶者との交流もない、哀悼の気持ちも自分だけで納める。
そして、その葬儀が一日葬と呼ばれる、通夜と告別式、あるいは火葬後の儀式もすべて1日で納めるスタイルだったという。

今、そういう形が一般的になっている。葬儀自体、昔のように、大がかりにはしない。
昔であれば、樒がいくつ並んでいた、とか、弔問客のための受付が机何台でた、香典袋が積み上げられて、ボストンバッグが必要だった、などと、式の盛大さを自慢する年寄もいたものだ。

今や、家族葬、身内のみで行いました、というご挨拶を事後にいただくことが多い。

私が葬儀というので思い出すのは2018年に亡くなったパリの父の葬儀である。
彼は2014年に娘と息子(いづれも養子縁組)に書き残した。
紙1枚の葬儀に関する遺言だ。
「いつも通っている教会において、葬儀のミサを行ってほしい。できるなら、オルガン奏者にバッハの曲を演奏してほしい。埋葬ではなく、火葬を希望する。遺灰は母方の家族が葬られている墓地にいれてほしい。父親はまた別の家族墓に葬られている。希望する墓地には、もう妻の遺骸の場所しかない。
葬儀に、花もなにもいらない、ただ、棺の上にレジオン・ドヌール勲章をおいてほしい。」

フランスでは葬儀の案内は、フィガロ紙に掲載する。
彼は2018年3月11日に亡くなり、3月15日の新聞にその死亡広告が掲載された。そしてミサは3月20日、彼の希望する教会で執り行われた。
死亡のお知らせには、彼の希望する、花も飾りも必要ない、その費用は慈善団体へ寄付してほしい、と書いてある。

96歳で亡くなった彼は、成功者であった。引退後もいろんな慈善活動に参加し、人の面倒をよくみて、人望もあった。
それなりの人が参加したけれど、彼のいう通り、花も飾りも持参されなかった。
カトリック信者には火葬はなじまない。
なぜ、彼は火葬を希望したの?と私に聞いてくる人もいた。
火葬が普通の日本人にしてみれば、火葬にそう抵抗感はないのだが、私にしても、古いタイプと思っていた彼が、火葬を選び、それを彼の子供たちがすんなり受け止めていたことは印象的だった。

ミサのあと、葬儀会社が経営する火葬場に移されたのだが、親族の中にも、火葬場に同行するのは嫌だ、と同行を拒否する人がいた。
子供や極近い親族、知人が火葬場に同行したが、火葬にとても時間がかかるというので、途中で退席、遺灰はあとで子供が受け取ることになった。
そして、翌日、パリ近郊にある墓地にある家族の墓に埋葬された。
そこに集まったのは、彼の娘、息子、そしてその子供たち、甥、姪、名づけ子(私もそうだが)たち、20人に満たない人が集まり、聖書の一部を読み、また甥の一人がお別れの言葉を述べた。
あっさりとしたものだった。厳かという雰囲気はない。そこにも花も飾りもなく、厳かに、というには私語は多いし、3月のまだ寒い中で、がやがやと送ったのだった。

この頃、以前のこうあるべきだ、というスタイルが全否定されてきた。
一部の人にだけかもしれない。しかし、これまでのスタイルがあまりにも儀式っぽく、お金をかけ、葬儀屋の戦術にはまりこんだようなものが多かったなかに、コロナ効果なのか、「小さなお葬式」ばかりになってきた。
国葬儀は別物だが。

私はこのパリの父のように、花も飾りもない、そんな葬儀をしたい。
参会者もいなくていい。
といって、家族葬にするのか、とはならない。家族がいないのだ。
孤独葬、とでもいうのか。せいぜい弟が間に合えばいい。

パリの父は、子供への手紙を死亡より4年前に書いているけれど、どんな気持ちで書いたのだろう、と今でも考える。花も飾りもいらない、ni fleurs ni couronnes、悲しいけれど、いい言葉だ。
これを言う人は父だけではないけれど。
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夫の墓には入りません!(垣谷さん風)

「夫の墓にははいりません!」というと、垣谷美雨氏風のタイトルになるが、お墓の問題が身近になってきた。
ちょっとした健康問題がきっかけとなり、さあ、老後どころか、死後はどうなる?という問題がでてきた。
ちょっと友人に話してみれば、この問題、けっこうみんなが内蔵した問題であることがわかる。
女性だけではないかもしれないが、女性には婚家の墓というのがまたからんでくるケースもある。

女、3界に家なし、とはいうけれど、死後もそうなりそうだ。墓なし、というより、その墓には入りませんよ、と能動的な意思なのだが。

私が夫(数年前に死去)の墓にはいらないのには、3つほど理由がある。
1)お寺さんにお墓があること。
2)夫の先妻、およびその先祖が入っている墓であること
3)もう満杯らしいこと
つれあいの生前、このお墓問題については話し合ったこともある。
お寺さんから無宗教の霊園みたいなところに移そうと。しかし、つれあいは否定的であった。
彼にとっての不都合はなく、私に対しては「入れてあげるよ」、「入ってもいいよ」的な態度であった。
その時、あの世での絶縁は決定的となった。

さて、我が身はどうするか?
墓事情を調べる。なんだか、変な規則で、実家(菩提寺)の墓に、嫁いだ女は入れないのだとか。こちらも入る気なし。父は入っているけれど、母はいない。
母はいずこにありや?母は所属していたプロテスタント教会の共同墓にはいっている。
キリスト教徒という点では一致だが、そこには入れない。

我が身のみの単位で考え、準備しておかねばならない。

死後に意思表示はできないから、生きている間に調査して、選択し、我が身の後始末をしてくれる人に伝えておかねばならない。
ぼんやりしていた日々が急に、昔の調査意欲をかりたてる。
葬式については、葬儀屋さんに希望を伝えておけば、その営業内容の中で処理してくれるだろう。
そのあと、が問題なのだ。

希望は散骨だ。が、まずは死後、どんな方法があるのか、まずは地元調査からスタートだ。
役所にいって、住民課に質問する。
1)山に散骨、わが県には海がない。したがって他県に行く前に山に散骨可能かどうか、聞いてみる。
答え:山に散骨、できません、場所も設けていません。樹木葬もしていません。
2)単身で住んでいる方も、遺骨はご家族が引き取られることを前提としてます。
 その家族がいないひと、家族が引き取りを拒否、あるいは無視している人はどうするの?
3)村に共同墓地があります。無宗教で、お墓の形状にも制限はありません。
 2か所あって、どちらも空きはあります。使用料として一括30-40万円を支払い、管理料は年1000円プラス消費税、という。
 お金を支払う人がいなければ、お引き受けはできない。
 そこに墓を作らない、引き取り手もいないとなると、あるお寺さんが無縁仏として引き取ってくれる。

 私は仏さんになるのではない、お寺さんにはいきたくない、この世に痕跡をのこしたくない、という意思は伝わらない。

 ナポレオンを思い出す。彼は彼の遺灰がセーヌ川に流されることを望んでいた。
私もセーヌ川、とフランスびいきが顔を出すが、ナポレオンでもかなわなかった願い、わが願いなど無視されて当然だ。
 歌のタイトルを思い出さないが「千の風にのって」?か、あの歌の流行から墓の価値がぐんと下がったような気がする。
 子孫がいなくて、年齢から友人だって墓参りなんぞしてくれない、誰も訪ねてくることもない、そんな墓、作るだけばかばかしい。
 やっぱり散骨、調査を続けなければ。(続く)
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フリーランスへの危惧

「働き方改革」という制度の変更がなされたのは、いつだったろうか。
時間の制約をうけず、働きたいとき、働きたいだけ働く、といった言葉もでていたような気がする。
当時、私にとって、フリーランスという呼び名を使えるのは、特別な専門職の、高い能力をもつ人たちのことであった。
彼ら、彼女らが、特に女性だが、深夜労働の制約をうけず、自由に働けることはすばらしい、と思っていた。
しかし、だんだんにそれが実態ではないことに気づいた。

今、フリーランスというより、ギグワーカーという表現が使われているが、メインの仕事の空き時間に別の仕事を請け負うワーカーを言うらしい。
例えば、昔でいう出前、昔の出前であれば、お店の従業員としてお給料をもらう仕事の一部であっただろうが、今や、別の形態になっている。配達だけが分離しているのだ。

便利な世の中になったものだ。といってもこれは都会だけに可能なサービスであろう。
いままで利用したこともないお店に、スマフォの検索でこれはよさそう、と思えば注文して配達を依頼できる。お店も初めてなら、そこが依頼する配達員も、ギグワーカーとして登録している人の中から恣意的に(としか思えない)選んで、配達を依頼する。住所で検索すれば、おなじみである必要はない。
そして、以前だったら、後始末、たとえば食器の回収、集金などもあったけれど、今では使い捨ての食器、決済は携帯ですでにすんでいる、というように進行するらしい。

食のデリバリーというのは経験していないが、日常的な宅配便は利用しているし、今や配達される物品の範囲も大変なものらしい。

それよりも、その定職ではない(つまりきちんとした雇用契約を結んでの仕事ではない)人たちの将来が心配でならない。

また若いころの話になるが、語学を専門として働く立場にいた人間にとって、フリーランスというのは憧れだった。日給なんてものではない、時間給いくら、という単価がもう夢のような金額で、また右肩あがりの経済、まだ自動翻訳なんてこともあったかもしれないが、程度が低いし、まずは人的資源が大切にされていた。
一緒の職場に働いていたある人が、フリーランスになって、これだけ稼いでいるらしい、などと耳にすると、嫉妬のほむらがメラメラ、になるのだった。

しかし、自分にはそんな実力がないのだから、実力のない人間は、それなりのポジションで、実力を高める努力をすることだ、と嫉妬心を抑えて、地道に働いた。

華やかに転身した人たちのどれだけが、生き残れたか知らないが、そういうフリーランス化の波に後発で乗った人たちの、厳しい実態は、いろんな噂で知った。

今、仕事のやり方が大変変わっている。
親しい知人は、介護士をしている。フリーランスではなく、会社に所属し、社会保険にも加入している。しかし、労働に対する意識は、とても現代風といえるのかもしれない。
収入は、現在の生活を満たす分だけでいい、という。将来をみての預貯金はしない、年金が少ないこと、支給される年齢がだんだん高齢になっていることも承知。労働時間を増やして、給与や年金をふやし、のちのちに備える、のちのちがあるかどうか、わからないのに、備えはしない、という。

この考え方、現代では普通らしい。
なら、昔の私が、のちのちを考えて、しっかり貯蓄をしていたか、そんなことはない。
やっぱり、その日暮らしだったのだ。

いつまでもいるなと思う親と金、当時、親も貧乏、お金もなく、それでも若さで乗り切れる、あるいはケセラセラの精神で、自己責任、自民党の政治家が喜びそうな精神、でいた。
今や、大多数の人と同様、公的年金がたよりで、自己責任は健康管理だけである。それも、公的な年1回の健康診断や、予防接種、公的な援助にすっぽりはまってのことだ。

当時、フリーランスに転身して、きらきら光っていた知人たち、今も光っていてください。

そして今、フリーランスを選択している若者よ、いつまでも頑張れないかもしれない、ということをちょっと頭の中にいれてください。
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年齢を重ねて感じること:週刊誌

毎週木曜日、新聞を読むのが楽しみだ。特別、木曜特集というのがあるわけではない。
お察しの通り、週刊新潮と週刊文春の発売日で、この日の朝刊(この地では朝刊しかないが)に広告が載っている。
この広告が結構記事の内容をほのめかすタイトルで満たされていて、半分ほど、記事を読んだ気分にさせる。
時には読んでみたい、という気分にさせるが、もう一度、片道6キロをコンビニまで行く気までにはならない。

この週刊誌の広告というのは、曜日を知るいい方法なのだ。
以前は、月曜日に週刊現代と週刊ポスト、火曜日が週刊朝日とサンデー毎日、水曜日はなくて、木曜日が上記の新潮と文春、金曜日はフライデー、と記憶していた。

ところが、この頃(ずいぶん以前からになるが)、月曜売りの現代とポストの広告が金曜日に載っている。
昨日木曜日にフライデーの広告があって、木曜日なのか金曜日なのか、わからなくなった。

そういえば、昔、我が家ではサンデー毎日を購読していた。これが火曜日に届く。
親に聞いたわけではないが、私は勝手にサンデーとは火曜日と信じ込んでいた。
中学校に入学して英語を学び始める。なにかの試験のときSundayは何曜日か?という質問がテストの中にあった。
私はもう得意げに火曜日と書いた。間違いで、バツ印がついていた。
納得できない。職員室に文句を言いにいった。先生は、サンデーは日曜日だよ、と教えてくれたが、納得できない。
頑固に言い張った。なぜ、私が言い張るのか、先生は我が家に電話をなさった。
親も当初はなぜ私が言い張るのか、わけがわからなかったようだ。そこで、私が泣きながら、サンデー毎日は火曜日に届く、といったことで親は理解した。

先生も理解してくれたけれど、私は私の常識が覆された思いで、我が家に戻ってもなきに泣いた思い出が今でも残っている。

当時はそんなに週刊誌がなかったし、現代やポストなどはいつ頃から登場したのだろう。
たしか、サラリーマンという職業で呼ばれる階級ができたころだったろう。

田舎に住んでいると、週刊誌の記事も広告も別世界のような気になる。

先日、テレビで「跳んで、埼玉」という映画を見たが、埼玉と東京の間に関所があって、そこを超えるには手形が必要、という映画である。
こちらは埼玉より、もう一つ奥にある群馬である。
そういった文化や生活の面での差は、週刊誌の広告は、こうして新聞でもみないとわからない、電車のつり広告というわけにはいかないのだ。
しかし、そのつり広告というのも廃止になったとか。

だんだん、曜日も混乱し、週刊誌自体が発行されなくなる時代も来るかもしれない。
週刊誌1冊が500円近い値段だ。これは単行本、せめて文庫本の価格ではないか!と思おうと、文庫本はもう1000円の手前らしい。

週刊誌を読むのは、医院の待合室、と決めていたけれど、コロナ以後、待合室に週刊誌はなくなった。
買うよりほかはないのだが、週刊誌を買うというのは、1週間で旬をなくすのに、という意識が邪魔をする。
女性誌は全く買うということがないけれど、皇室ネタなどは女性誌が強い。
表紙だけでも見ようと思っても、週刊誌は割とコンビニでも奥のほうにおいてある。新聞をとって、週刊誌まで足を延ばさない。

週刊誌情報というものが、情報源にはいらない、というのも、都会度をはかる基準になるのかも。
山本知事にそのこともお伝えするべきか。(彼は別に群馬県を都会化しようというのではなく、人気をあげようというだけだけど)
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