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フリーランスへの危惧

「働き方改革」という制度の変更がなされたのは、いつだったろうか。
時間の制約をうけず、働きたいとき、働きたいだけ働く、といった言葉もでていたような気がする。
当時、私にとって、フリーランスという呼び名を使えるのは、特別な専門職の、高い能力をもつ人たちのことであった。
彼ら、彼女らが、特に女性だが、深夜労働の制約をうけず、自由に働けることはすばらしい、と思っていた。
しかし、だんだんにそれが実態ではないことに気づいた。

今、フリーランスというより、ギグワーカーという表現が使われているが、メインの仕事の空き時間に別の仕事を請け負うワーカーを言うらしい。
例えば、昔でいう出前、昔の出前であれば、お店の従業員としてお給料をもらう仕事の一部であっただろうが、今や、別の形態になっている。配達だけが分離しているのだ。

便利な世の中になったものだ。といってもこれは都会だけに可能なサービスであろう。
いままで利用したこともないお店に、スマフォの検索でこれはよさそう、と思えば注文して配達を依頼できる。お店も初めてなら、そこが依頼する配達員も、ギグワーカーとして登録している人の中から恣意的に(としか思えない)選んで、配達を依頼する。住所で検索すれば、おなじみである必要はない。
そして、以前だったら、後始末、たとえば食器の回収、集金などもあったけれど、今では使い捨ての食器、決済は携帯ですでにすんでいる、というように進行するらしい。

食のデリバリーというのは経験していないが、日常的な宅配便は利用しているし、今や配達される物品の範囲も大変なものらしい。

それよりも、その定職ではない(つまりきちんとした雇用契約を結んでの仕事ではない)人たちの将来が心配でならない。

また若いころの話になるが、語学を専門として働く立場にいた人間にとって、フリーランスというのは憧れだった。日給なんてものではない、時間給いくら、という単価がもう夢のような金額で、また右肩あがりの経済、まだ自動翻訳なんてこともあったかもしれないが、程度が低いし、まずは人的資源が大切にされていた。
一緒の職場に働いていたある人が、フリーランスになって、これだけ稼いでいるらしい、などと耳にすると、嫉妬のほむらがメラメラ、になるのだった。

しかし、自分にはそんな実力がないのだから、実力のない人間は、それなりのポジションで、実力を高める努力をすることだ、と嫉妬心を抑えて、地道に働いた。

華やかに転身した人たちのどれだけが、生き残れたか知らないが、そういうフリーランス化の波に後発で乗った人たちの、厳しい実態は、いろんな噂で知った。

今、仕事のやり方が大変変わっている。
親しい知人は、介護士をしている。フリーランスではなく、会社に所属し、社会保険にも加入している。しかし、労働に対する意識は、とても現代風といえるのかもしれない。
収入は、現在の生活を満たす分だけでいい、という。将来をみての預貯金はしない、年金が少ないこと、支給される年齢がだんだん高齢になっていることも承知。労働時間を増やして、給与や年金をふやし、のちのちに備える、のちのちがあるかどうか、わからないのに、備えはしない、という。

この考え方、現代では普通らしい。
なら、昔の私が、のちのちを考えて、しっかり貯蓄をしていたか、そんなことはない。
やっぱり、その日暮らしだったのだ。

いつまでもいるなと思う親と金、当時、親も貧乏、お金もなく、それでも若さで乗り切れる、あるいはケセラセラの精神で、自己責任、自民党の政治家が喜びそうな精神、でいた。
今や、大多数の人と同様、公的年金がたよりで、自己責任は健康管理だけである。それも、公的な年1回の健康診断や、予防接種、公的な援助にすっぽりはまってのことだ。

当時、フリーランスに転身して、きらきら光っていた知人たち、今も光っていてください。

そして今、フリーランスを選択している若者よ、いつまでも頑張れないかもしれない、ということをちょっと頭の中にいれてください。
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