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私は生き残った(9)母のことなど

私は父と母の間の次女である。
母はいわゆる後妻で、父には先妻との間に一男一女があった。
母との間には、姉になる長女、私、4歳で早世した弟、5歳下の弟が生まれた。

小さいとき、あまりにも大家族で、父のこともお父さんと呼んではいたけれど、父親としての認識は薄かった。
母については、しっかりお母さんだった。
母の年代の女性が3人も同居していて、伯母ちゃん、叔母ちゃんと呼んでいたが、どうしておばちゃんなのか、その関係はわからないでいた。
その中で、お母さんはお母さん、一人しかいなかった。

生まれた地方では、その当時、こどもをからかうのに、捨て子だった、とかもらい子だった、と言っていた。いまであれば、虐待の一種である。
姉は中国で生まれたらしいが、橋の下で、石炭箱にはいって捨てられていたのを拾ってきた、だから色が黒い、などと言われていたし、私は疎開先の夏豆畑(こちらでいうソラマメのこと)で拾われた、というのだった。
私は信じていた。真の両親は、きっと、もっといい人たちに違いない、なにかの手違いで、私を捨てることになったのだろう、いまではきっと、探しに探しているはずだ、いつ、彼らが現れても、そうです、この子です、と言われるように、身ぎれいに、賢くあらねばならない、と心がけていた。

しかし、もし本当に拾われっこなら、母はどうなる?今のお母さんは、私のお母さんだ、と母の存在を否定できず、肯定するときにでてくる矛盾を、幼い私は解決できなかった。

この話が出てくると、拾われっことからかいながら、おとなたちは、あなたの団子鼻は父親から、顔のr輪郭は母親から、とこの家の子であることを強調するのだ。
弟たちは、そのときの家で生まれているので、もらいっこだの、拾われっこだの、からかわれることなく、成長していったはずだ。

父の先妻は、第3子(男児)を産み、産後の健康が悪くて、亡くなったのだそうだ。
その第3子も、そのあと割とすぐに亡くなったらしい。
まだ、30代前半だった父が再婚することになったのは、まあ、当時とすれば当然であったのだろう。
母は初婚だった。

祖母、大叔母、伯母、叔母とうるさいような女がたくさんいて、母は苦労したと思う。
私にとって、父もそう魅力的ではなかったので、母がこんなに面倒な家に嫁いだ理由がわからなかった。
当時、若い男性は軍隊にいれられていたから、残る男が、2人の子持ちであろうと、累系がうるさそうであろうと、母にはあまり選択枝がなかったのだろう。

「なんでお父さんと結婚したの?」といくつの時か、聞いたことがある。
母がどこまで真面目に答えたのか、そこははっきりしないが、「お父さんのほうが、ちょっとだけ、背が高かったから」という返事だった。
母は当時としては背の高いひとだった。160センチ以上あったと思う。
父は164センチくらいだっただろうか?

母から生まれた子供は、母の遺伝子なのか、背が高い。先妻の2児はどちらかというと低いほうだから、身長については、父の遺伝子を受け継いではいなさそうなのだが、その返事に、そんな選び方があるものか?と意外な思いがした。

父と母がどういう経緯で結婚したのか、結局はわからない。
母は結婚前、幼稚園の先生をしていた。その幼稚園に、先妻の娘が通っていて、とても母のことを好きになり、お母さんになる人はこの人だ、みたいなことを言ったから、という説もあり、長姉にそれを聞いたところ、それはない、という。
となると、どこに接点があったのやら。

それは不明のままにしても、その当時から、わさわさ大人数で過ごしていたわけでもないらしい。
父は母とともに、中国へ渡り、そこで、母にしては最初の子(すぐ上の姉)を産み、戦争終了を前に、おなかの中に私がいる状態で、父を残して帰国。疎開先で私を生んだ、ということらしい。

疎開先の農家の納屋か倉庫のなかで生まれたのか、と思えば、長姉にいわせると、あなたは病院で生まれたのよ、当時はお産婆さんの手で生まれるのが普通だったのに、病院で出産するそうな、と、みんなはあきれていた、と言う。
逆子であった、と聞いているから、用心のために病院での出産となったらしいが、母のそういう先進性が、家族には意外だったとか。

その後にもみえる、母の合理性、先進的な考え方、私の出産についても出していたのか、と感心する。
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