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私は生き延びた 母について(11)

母が亡くなって30年近くなる。遠く離れた関東に住み、実家にからむ遺品など、普通だとないはずなのに、たくさん残っている。
母は、長兄夫妻(母の実子ではない)が、実家を建て直し、同居することになったとき、家に残る家具のなかで、残しておきたいと思ったものを、当時、ちょうどセカンドハウスを建てたばかりの、何もない家に送りつけてきた。
タンス、水屋、長持ち、などが古臭いもので、新築祝いには、郷里の家具メーカーから、6人用のテーブル、いす、など、一台のトラックで送りつけてきたのだ。
新造のテーブル、いすは、つれあい入院中に処分したけれど、古いものが捨てられないでいる。

母の経済状態はどうだったのだろうか?
結婚して、父との生活のなかで、父だけの収入で暮らせた時期は短かったのではないだろうか?
結婚してほどなく、父が中国に職を得て、父と母だけで中国へ渡った。そこで終戦まで過ごした。
その時期のことは、とうとう詳しく聞く機会もなかったが、当時の状況を考えると、金銭的に不自由したことはないだろう。
しかし、敗戦になり、母は8月15日よりずっと以前に彼女にとっての長女をつれ、出産のためもあって、早めに帰国していた。
父は敗戦後、しばらく抑留されていたようだが、結局は身一つで帰国したようだ。

その後、現在の実家のある土地に家を建て、前にも書いた祖母なども引き取り、合計11人の大家族となる生活となった。
生活は父の手ひとつにかかったわけだが、小さな商事会社に職を得て、給料もさしたるものではなかったはずだ。
同居していた叔母は、昔はよかった、家作がたくさんあって、家賃収入もたいそうあった、などと、言っていたけれど、もうすっからかんになって、そんな話で腹ふくるるわけではない。

私が小学生のころ、母は幼稚園の先生として働き始めた。
おおきな工場があって、その企業が従業員の子弟のために、幼稚園を設立した。
もちろん、コネで雇われたわけではないと信じているが、当時、その会社に勤めていた長姉が推薦したこともあって、幼稚園の先生になったのだ。
そもそも、母は東京で幼稚園の先生の資格を得ていたし、結婚前も働いていたという。

そこの給料がいくらで、どう使っていたか、小さな私の知るところではなかったが、ボーナス時、母がまず、いくばくかを実家の母へ届けていたことを覚えている。子供のためより、まずは実母のために、とお金を用意することができて、とてもうれしそうだった。
実家は野菜の仲買業だったが、母へお小遣いを渡すというのは、そう豊かではなかったのだと思う。
実家の母へお小遣いを渡しても、きっとなにかを実家から得ていたのか、実家の兄嫁なる人から、一度、Mさん(母のこと)は、実家にくると、かまどの灰まで持って帰る、と言われたことが記憶にある。

母が働き始めて、給食代を数日後に払うということもなくなったし、ある時、その学期の成績がよかったから、といって、特別におもちゃ屋さんで買い物をしてくれた。その時選んだ、箱入りの「百人一首」は今も持っている。
ピアノ教師を自宅で始めた従姉の、サクラの弟子として通い始めた期間は、ピアノの月謝、それに交通費(バス)、そういったものへの出費は、すんなり出してくれていた。

親の生活費をみる、という体験が始まったのは、両親が年齢を重ね、もう体力的にも仕事をするのは無理、と、東京から実家に戻ったときからになる。
長い間、実家の経費、を援助してきていた兄から、私にも応分の負担をするように、と言われた。
両親が帰ることによって始めた一人暮らし、家賃をはじめ、生活費を自分でもつというのは初めての経験だった。給料もさしたる額ではない、当時は、奨学金の返済もあった。
とても無理です、とは兄には言えなかった。
できる金額でいいから、と兄は言った。兄は、就職したときから、結婚後も子供ができてからも、ずっと実家の経済を支えてきてくれた。
就職したばかりの弟ももちろん、負担するのだが、あの頃の貧乏生活、よくやれたと思い出す。
勤務先まで都バスを利用するのだが、歩いて通うことにした。しかし、歩きやすいように、とズックをはくと、ストッキングが破れてしまう。費用対効果、マイナスだ。
日本家屋、つまり昔風のしもたや、の2階を借りたのだが、風呂付が条件で、貧乏なわりに、毎日お風呂には入るという、アンバランスな生活だった。

そこで、父と母、当時は、厚生年金はあっても制度的にきちんとしたものではなかった。
父の最初の仕事の定年は55歳であったし、その後、いくつもの仕事を経験したが、ちゃんと年金にはいっていたのやら。
母は父亡き後、初めて言ったけれど、どうも幼稚園の先生時代、厚生年金にはいっていたようで、月々、いくばくか、もらえていると言っていた。
それで生活全部を賄うにはほど遠いが、父亡き後も、兄、弟、そして私と、送金をしていたので、贅沢はできなくても、食べていくだけのことはできていた。

どこでどうお金を調達するのか、母はふしぎな財布があったようだ。
たとえば、私がテレビ局の仕事をやめたとき、海外旅行をする、といったとき、自分の妹から借りてのことだったが、100万円を用意してくれて、その返済を代行してくれた。
そして、ずいぶんあとになるが、しもたやの部屋をでることになって、借りると面倒だから、買う、と宣言したとき、いくらかのお金を用立ててくれた。
もちろん、それらのお金は生活費とは別に、母が死ぬまでずっと送金するということで、返済はしたのだが、その原資がどこから出るのか、不思議だった。
それに、姉の結婚式(ロンドンで)に出席のために、海外旅行に出かけたことで、その楽しさに目覚めたのか、その後は、私の海外旅行についてきて、当時は毎年、海外に出かけていたものだった。
私にその費用を負担する能力はなく、すべて割り勘、と宣言していたが、その通りにしていた。

旅行についてこられるのが面倒で、手続きなど、一切、手伝わなかったのだが(離れていることもあったし)、母は切符の手配、たとえば、大韓航空を選んだ場合、ソウルでの合流になるが、そのチケットも、また最初のころはドルを購入する必要があったけれど、それも自分でしていた。

子供たちからの送金で生活している人が、毎年、海外旅行をするなんて、と思われても、言われても、平気の平左、これが楽しみで生きている、と、私の渋い顔にも耐えて、「今年はどこにいくの?」と年が改まると必ず聞いてきたものだった。

私は、月々の生活費の一部、と借金返済分、かつかつの生活のなかで、出かける海外旅行、グループあるいは旅行会社が企画したもの、ではない、自前のプランであった。
ホテルはほとんど現地で手配、母の意向で、必ずバス付と高めになるのは仕方なかった。

パリを中心とすると、親しい、のちにフランスの両親と呼ぶようになったご夫妻の家、そしてその親戚が自宅に招待してくれたり、母は、外国語は話せないのに、大人気だった。
お金があるのなら、団体旅行で行きなさい、と私が言うと、あなたとの旅行は、現地の家に招待されたり、泊めてもらえたり、いろんな人と親しくなれて、とっても楽しい、と言うのだった。

フランスの両親の娘の結婚式に招待され、着物で出席して注目を集めたり、スピーチを求められると日本語で堂々と言って、私に通訳しなさいと、場慣れしたものだった。

ウインブルドンでの観戦、トルコ旅行、ちょっと変わった体験や、ずいぶん辺鄙な場所にも連れて行ったが、病気らしい病気もせず、いろんな人にお世話になっているから、と各地でお土産をたくさん買うのだった。
好奇心が強く、偏見のない人だったが、経済的な面でも、お金があろうとなかろうと、あまりくよくよしない人だった。

財産というものもなく、最後は老健で迎えたが、その時々を楽しい側面だけみながら終えた(と信じている)母、そんな人生を過ごさせることができたのは、娘としての私を肯定している一つである。
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私は生き延びた(9) 母について

昨日(5月第二日曜日)はアメリカや日本では母の日、母への愛情や感謝を示す日だ。
母への愛情、感謝については、なんの抵抗感もない。

今年の2月、継母(ままはは)と呼んでいた方が96歳で亡くなられた。
私には3人の母がいた。というのも勝手に母と呼んでいただけなのだが、生母、そしてこのママハハ、それにフランスの母である。
生母は私を産んだ、生物学的な意味をも含めて、完全に母であるが、ママハハは、20代前半、知り合って、とても親しくなり、生母以上とも言えそうな愛情をいただいた。それゆえに、ママハハと称していたのだ。
フランスの母は、30代前半で知り合ったフランス人のご夫妻を、親しくなった証で、フランスの両親と称していたし、また彼らに、洗礼の代父、代母になってもらった結果、母と呼んでいた。

生母は平成14年、89歳で死去した。
フランスの母は2016年、92歳で死去、そして、ママハハが今年の2月である。
3人とも長寿だったことに感謝している。

幼いとき、母は実母だが、父は違うと思っていた。
母が後妻とよばれる立場にあることを知ったのは、小学校に入ってのことだったが、もしかしたら、連れ子かも?と思い、自分を納得させていたが、すぐ上の姉の存在や、その他の条件で、連れ子ではありえない、父は実父である、という事実を受け止めざるを得なかった。

当時、25歳までに結婚しないと、オールドミスと呼ばれる環境にあって、母は、きっとオールドミスだったから、寡夫である父と仕方なく結婚したのだ、と思っていた。
しかし、のちのち、いろんな状況を知ると、必ずしもそんなに惨めな環境での結婚ではなさそうだ。

母は4児を得た。姉、私、弟2人(一人は4歳で早世)、で最後の弟は、いわゆる40歳すぎた恥かきっ子だったけれど、今でなら、とても自然な出産だ。
大家族のなかに、そこに先妻の子が2人(長兄と長姉)がいて、継子の生育に苦労しただろう、と思っていたが、それも現実ではなかったようだ。
長男はすでに学齢、旧制中学、旧制高校、間に海軍経理学校があり、戦後は大学、と自宅にいたことがなかった。(私はずっと、兄がいることを知らなかった)
長姉は、4歳で母を亡くしたことになるが、父親が再婚する前も、その後も、祖母や叔母たちと一緒の生活をしていたようだ。

そして、詳しくは知らないのだが、父は母と結婚するや、中国へ渡った。
姉は中国生まれであるし、私は、母が妊娠後、日本に家族だけ引き上げた後に生まれている。
だから、おそらく、新婚生活などは、中国で、核家族で過ごせていたのだろう。

しかし、後妻である、というのは、いろんな意味での重圧というか、重し、であったことは確かで、私に対し、私が適齢期になったころ、そして、適齢期を過ぎても独身であったころ、縁談がくると、後妻はね、、、、と言っていた。
離婚の場合はいいけれど、死に別れの後妻にはいるのは、まあいろんな苦労があるからね、と言っていたのを覚えている。

父と母、年齢差は7,8歳、別に当時としては年が離れすぎではない。
そして、母と再婚したのは30歳代、男としてきっと盛りのころだったのだろう。といっても当時は平均寿命も60代みたいなものだっただろうが。
父が老齢になって(68歳で死去)、アルコール中毒っぽい症状も現れ、午前中からアルコールを飲む、ぐだんぐだんになって、会話がなりたたない、という状態になったとき、母ももういや、というような行動をみせることがあったけれど、私がずいぶん以前から、父に対する嫌悪感を隠さなくなっても、母は淡々としていた。

仲がいいのか、悪いのか、いいとは言えないのだろうが、現在に熟年夫婦がみせる思秋期的、倦怠期みたいな、そんな光景はみなかった。
私が父母とは離れた生活をし、また帰省というのも、費用が負担になるので、数年帰らないということもあったし、いくばくか、子供としての責任として、長兄から言われた金額(私の収入からして、とても少額であったけれど)をきちんと送って、それでよしとしていた。

おそらく、性的にはうまくいっていたのだろう。でもなければ、いろんな制限(大家族同居)のなかにあっても、40歳の恥かきっ子もできたわけだし、人生がおもうようにいかなくなって、アルコールにおぼれた、私に言わせればみっともない父との生活が続いたのだから。

小学生のころだったろうか、まだ性というものを全くしらないころ、夜、目が覚めて、隣で寝ているはずの母がいなくて、びっくりした。
隣のお座敷と呼んでいた部屋のあかりがついている。父の寝室でもあった。母と姉、私、弟は隣の6畳間に寝ていた。そっとふすまからの隙間を覗いてみると、父と母が、火鉢を囲んで、タバコをくゆらしている。
母がタバコを吸うとは知らなかった。母はきっと中国で喫煙するようになったのだろう。
火鉢に体を傾けて、なんの語らいなのか、その雰囲気はとても特殊だった。
性に知識のない幼い私にも、何か声をかけてはいけない、と思わせる空気であった。

そのあと、何があったのか、幼い私はすぐに寝たらしく、なにもしらない。
姉にも話せないし、母にもなにも聞けない。
あとになって、ああ、あれは夫婦の時間だったのだ、すこし離れた部屋には祖母や叔母たちが寝ている、そんな環境のなかで、ようやくもてた夫婦の時間だったのだ、と思ったのは20代をすぎてのことである。

父が肝臓がん(これは死亡後の解剖で判明したのだが)で大学病院に入院し、ちょうど、ゴールデンウィークに休暇をとれて、帰省した。
大学病院がストライキ中で、新しい入院患者がいないということで、父は2人部屋に一人でいたが、母は泊まり込みで看病していた。
母に会うためには病院へ行かざるを得ない。
母は、病院近くを流れている川の川岸から、雑草の花を摘んできては飾るという、なんとも風雅な付き添いの時間を過ごしていた。
父はGW中に亡くなり、私はその死に間に合ったただ一人の子供だった。

悲壮感もなく、地味な花を飾って楽しんでいる母、父に対する献身もあったかもしれないが、そこまでの感情の移入はないような、そんな病室だった。

父と母の関係がどんなものであったか、それを考えるのは、自分自身の結婚生活について、いろいろ考えることがあるからだけれど、父の死後、母がメリー・ウィドウの生活をエンジョイしたこととの関連を考えるからだ。

父は、菩提寺に埋葬され、母は彼女が属していた基督教の集合墓所で眠っている。
ここには、母の強い拒否の意思が示されていた。
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緊急事態発生

昨夜、緊急事態が発生した。
何をもって緊急事態というのか、それはその個人の判断による。
事態というものが発生した時、これは自分で処理できるか、できないか、できなければどうするか?
瞬時というより、少しずつ、考えた。

まずは事態の説明からである。
お風呂上り、洗髪をしたせいか、耳の中に水分が入ったような気がした。
普段はバスタオルか小さいタオルでふき取る程度で納めるのだが、このところ、テレビの音量を上げるといった、年齢なみの問題が、耳に垢がたまったのではないか?と考えたのだ。
つい、洗面所の綿棒を手にした。

右の耳の穴をぐるりとまわす。別に、綿棒に垢がついてきてはいないが、一応それで済んだ。
次いで、左の耳、こびりついた垢もあろうか、と少し力を入れてぐいっと回す。
ぽきっという音がして、綿棒が付け根のところから折れた。

さて、これが事態である。
どうやって耳の中の綿棒を出すか?
隙間になにかを差し込んで、綿棒を掻き出す、何をもって掻き出すか、と竹の耳かきを持ち出した。
耳の中には入るけれど、掻き出すことにはいたらない。

そこからが緊急事態と、緊急がつくことになった。緊急なのか、重大のほうが適当なのか?
言葉より、耳に残った綿棒が、どう作用するのか、それが気になる。
耳をふさいで、左耳が聞こえなくなるのか?もっと奥へ侵入して、鼓膜などにいたずらするのではないか?疑問は出てくるが、それにこたえてくれる人はいない。
携帯でリサーチするか?まず検索ができないのに、こういう問題に解答が得られるかどうかわからない。

だれかに助言を頼もうか、と思うが、事態を説明するのが面倒だ。
結局、夜間にも受け付けている病院を探すことにする。
耳だから、耳鼻咽喉科の先生が望ましいけれど、この程度のことなら、何科の先生でも処置可能、と判断した。
車で1時間ほどかかる赤十字病院に電話する。時間は7時過ぎだ。
いわゆる夜間受付に通じたのだろうか?看護士のかたが応対だ。

親切に聞いてくれる。
当院でも応対できるか、聞いてみますが、もっと近くの病院のほうがいいのでは?とアドヴァイス、そして、今晩の緊急担当病院はこの病院です、と病院名を教えてくれる。
週末には担当病院というのがあるのを知っていたけれど、平日もそういう担当が決められているというのは知らなかった。
車で20-30分でいける病院が今夜の担当だ。

その病院へ連絡してみます、と言うと、もし、ダメな場合、こちらでできるかはわかりませんが、お電話ください、と本当に親切な対応だ。
担当病院の電話番号も教えてくれる。

担当の病院へ電話する。普通に内科、小児科、それに外科も含めた、平均的な病院、耳鼻咽喉科はない。
そこも看護師の人が電話に出て、一応のことを聞いてくれる。
受付します、ということになり、その病院へ行くことにする。

夜の運転はずいぶんしていない。といって、病院までの送迎を急に頼める人はいない。
それは覚悟だ。これが目が問題であれば運転もできないが、耳で、電話もできたし、運転に不都合はなさそうだ。
7時半すぎ、家を出る。専用道路のように、対向車もない。
しかし、運転しなれた道ではあるが、昼と夜の風景がまったく違う。
ビームにして、なるべく視界を広げ、対向車がくる気配があれば、ビームをやめる。
道は登ったり、降りたり、ギアもDからSに、と割と頻繁に変える。
GW中でなくてよかった。

初めて訪れる病院、田舎の雰囲気の残る受付、平日の夜には病人が出ないのか、無人だ。
先生が、ピンセットでさっと抜き取ってくださった。
かき回さなかったので、傷もないらしい。

済めば簡単なことだ。しかし、一人ではどうしようもない。
思いもかけない事態だった。でもこれはアクシデントではない、インシデント程度だろう、と判断するけれど、やっぱりプロにお願いするのがよい方法だろう。

用心ぶかく生活しているつもりだけれど、転倒など、いつ、どこで起きるやら、庭仕事中に目に虫がはいるかもしれない、蜂に刺されるなど、とても可能性のたかいことだ。
その時、そのケースに合わせた対処ができるかどうか、まったく自信がない。

ゆっくりお休みになれますね、と看護師の人は言ってくださったが、体は冷え切り、興奮は収まらず、なかなか安眠とはいかなかった。
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私は生き残った(9)母のことなど

私は父と母の間の次女である。
母はいわゆる後妻で、父には先妻との間に一男一女があった。
母との間には、姉になる長女、私、4歳で早世した弟、5歳下の弟が生まれた。

小さいとき、あまりにも大家族で、父のこともお父さんと呼んではいたけれど、父親としての認識は薄かった。
母については、しっかりお母さんだった。
母の年代の女性が3人も同居していて、伯母ちゃん、叔母ちゃんと呼んでいたが、どうしておばちゃんなのか、その関係はわからないでいた。
その中で、お母さんはお母さん、一人しかいなかった。

生まれた地方では、その当時、こどもをからかうのに、捨て子だった、とかもらい子だった、と言っていた。いまであれば、虐待の一種である。
姉は中国で生まれたらしいが、橋の下で、石炭箱にはいって捨てられていたのを拾ってきた、だから色が黒い、などと言われていたし、私は疎開先の夏豆畑(こちらでいうソラマメのこと)で拾われた、というのだった。
私は信じていた。真の両親は、きっと、もっといい人たちに違いない、なにかの手違いで、私を捨てることになったのだろう、いまではきっと、探しに探しているはずだ、いつ、彼らが現れても、そうです、この子です、と言われるように、身ぎれいに、賢くあらねばならない、と心がけていた。

しかし、もし本当に拾われっこなら、母はどうなる?今のお母さんは、私のお母さんだ、と母の存在を否定できず、肯定するときにでてくる矛盾を、幼い私は解決できなかった。

この話が出てくると、拾われっことからかいながら、おとなたちは、あなたの団子鼻は父親から、顔のr輪郭は母親から、とこの家の子であることを強調するのだ。
弟たちは、そのときの家で生まれているので、もらいっこだの、拾われっこだの、からかわれることなく、成長していったはずだ。

父の先妻は、第3子(男児)を産み、産後の健康が悪くて、亡くなったのだそうだ。
その第3子も、そのあと割とすぐに亡くなったらしい。
まだ、30代前半だった父が再婚することになったのは、まあ、当時とすれば当然であったのだろう。
母は初婚だった。

祖母、大叔母、伯母、叔母とうるさいような女がたくさんいて、母は苦労したと思う。
私にとって、父もそう魅力的ではなかったので、母がこんなに面倒な家に嫁いだ理由がわからなかった。
当時、若い男性は軍隊にいれられていたから、残る男が、2人の子持ちであろうと、累系がうるさそうであろうと、母にはあまり選択枝がなかったのだろう。

「なんでお父さんと結婚したの?」といくつの時か、聞いたことがある。
母がどこまで真面目に答えたのか、そこははっきりしないが、「お父さんのほうが、ちょっとだけ、背が高かったから」という返事だった。
母は当時としては背の高いひとだった。160センチ以上あったと思う。
父は164センチくらいだっただろうか?

母から生まれた子供は、母の遺伝子なのか、背が高い。先妻の2児はどちらかというと低いほうだから、身長については、父の遺伝子を受け継いではいなさそうなのだが、その返事に、そんな選び方があるものか?と意外な思いがした。

父と母がどういう経緯で結婚したのか、結局はわからない。
母は結婚前、幼稚園の先生をしていた。その幼稚園に、先妻の娘が通っていて、とても母のことを好きになり、お母さんになる人はこの人だ、みたいなことを言ったから、という説もあり、長姉にそれを聞いたところ、それはない、という。
となると、どこに接点があったのやら。

それは不明のままにしても、その当時から、わさわさ大人数で過ごしていたわけでもないらしい。
父は母とともに、中国へ渡り、そこで、母にしては最初の子(すぐ上の姉)を産み、戦争終了を前に、おなかの中に私がいる状態で、父を残して帰国。疎開先で私を生んだ、ということらしい。

疎開先の農家の納屋か倉庫のなかで生まれたのか、と思えば、長姉にいわせると、あなたは病院で生まれたのよ、当時はお産婆さんの手で生まれるのが普通だったのに、病院で出産するそうな、と、みんなはあきれていた、と言う。
逆子であった、と聞いているから、用心のために病院での出産となったらしいが、母のそういう先進性が、家族には意外だったとか。

その後にもみえる、母の合理性、先進的な考え方、私の出産についても出していたのか、と感心する。
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