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フランス、シャトーめぐり

フランスの中央部分、ロワール川流域にはお城が散在している。
ロワールのお城めぐり、はフランス観光の目玉の一つとなっている。

最後になるかも、と思う今回のフランス旅行に、このお城めぐりをいれた。
というのもその中心地ともなるブロワには、長年の友人が住んでいる。
その友人が、フランスへ来るときは、ぜひ、我が家に滞在して、と言ってくれたからだ。

いつもはパリに来ていただいて会っていたけれど、先年、義母を亡くされ、失意の中でもあろう、と慰めにもならない私だが、長くブロワにも足を運んでいなかったので、お邪魔することにした。

今回の旅行は、たくさんの偶然に支えられたが、ブロワに行く前に、ソローニュにある従弟の別荘で週末を過ごした。ブロワは、ソローニュからパリへの帰途にある。従弟が送ってくれるというのだ。

ブロワの友人宅、以前、といってももう20年以上前のことである。お尋ねしたことがあるけれど、もう記憶も朧気だ。

3泊4日、友人はシャトー巡りに一つはChaumont、そしてChenonceauを勧めてくれる。
異論はない。それで決定だ。

このロワールのお城巡り、最初の海外一人旅でも実行したが、一人で、公共交通機関を利用して、というのは大変だった。
こうして、友人の車でほい、と連れて行ってもらえるのは、大尽旅行である。

まずはchaumontに行った。ここはお城そのものより、庭園が有名で、現在、Festival International des jardinsが行われている。広大な敷地のなかに、合計25のデザインされた庭が展開するのだ。
今回のテーマはjardin resilient(抵抗力のある庭)という。
それぞれの庭の入り口には、その庭のテーマがかいてあるのだが、11番目はJardin Kintsugiとある。
日本の金継ぎの技法を用いたものだという。ベルギーの造園家の作品であった。
13番目の庭の題名はDemain tout ira biendという。明日にはすべてうまくいくさ、というのだ。

最初は、造園家の意図をくみ取り、植物の種類を数えたり、希少性のあるものかどうか、を探ったりもしたが、なんせ25か所というのは数が多い。
あいにくの空模様で、雨のなかの見物となった。
しかし、友人にいわせると、それでよかったのだ。これで天気であれば、灼熱のもとでの見学になって、とてもすべてを見ることはかなわなかった、という。

造園というのは面白い。作者の思い通りにするには、相当の経験を要する。

造園家なんてものではないが、私の庭など、私の意図とはまったく別のスタイルになっている。

このショーモンの庭、その意図をどうやって表現できるようになったのか、造園家に聞いてみたいものだ。

このお城はまだ中にはいったことがない。
この日も、庭をみるだけで終わった。
ちなみに庭の見物料は20ユーロであった。
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シャワーの使い方

外国旅行の場合、お風呂の使い方というのも、ひっかかる問題だ。
映画に出てくるような、足つきのバスタブでなくても、バスタブの使い方もなかなか難しい。
シャワーというのも、われわれの世代(あきらかにはしないが)には難物である。

この頃、バスタブ(日本スタイルであれ)というのが難物になってきた。
支えがないと起き上がれないのだ。
ミャンマー旅行のとき、宿泊先のホテルで、苦労した経験がある。
ミャンマーは以前、イギリス領であったからか、バスタブがとても大きかった。
たっぷりのお湯をため、ゆっくり浸かったはいいけれど、起き上がれない。左右につかまるものがないのである。
焦った!前後左右、なにもつかまるものがない、というのは、水圧を利用して起き上がろうとしてもダメなのだ。
バスルームについている緊急電話は、バスタブのずっとむこうにある。どうやって人を呼べばいいのか、どうやって抜け出したのだろう。お湯を抜いたのか、もう忘れた。

自宅のお風呂にはつかまるものがついているけれど、よそでお風呂をいただくときは要注意というのを実感している。

フランスではシャワーのみにする、という心づもりであった。

パリで落ち着いた先、従妹の家では、夫婦のバスルーム、そして客用のバスルームがある。
もちろん、私は客用のバスを使うはずであったが、バスについているシャワーだけにするわ、と言ったとき、従妹がいう。シャワーだけにしても、バスタブの中で使うことになるから、バスタブに出たり入ったりに問題がでてくる、という。立派な、大きいバスタブだが、どこにも手すりがない。
だからバスタブが濡れている場合、出入りが危険なのだ、という。
私が言い出してからのことではなく、このバスタブ問題は、もう彼女らの懸念材料であったようだ。

それならどうするか、自分たちのバスルームには、独立した、平たいシャワールームがあるから、そこを使ってくれればいい、という。
寝室についたバスルームだ。
彼女らのきわめてプライヴェートなところに入るのは、とても気兼ねであるが、そうすることにした。

南仏に住んでいたときも、バスタブについたシャワーでは不便だと、別にシャワールームを作ったけれど、今は、こういう独立したシャワールームが多いようだ。

どういうふうに使うのがいいのだろう。
以前は、シャワーは頭より上にある固定したシャワーしかなく、顔や下半身を洗うのに、とても不便だったけれど、今は手で扱える可動のシャワー口もついている。
それでも、使い勝手が悪い、というのは私だけなのだろうか。
シャワーの噴射口はとても大きくなり、水量もそれにあわせて増えたのだろうが、どうも集中しない。
我が家の小さなシャワーがとても恋しい。

大きいだけに噴射も広範囲、しかし、噴射力は弱い。
顔を洗うときは、手にお湯をためてすすぎたいのだが、顔に直接噴射するよりほかはない。
下半身については、手持ちのシャワーがあるだけ、少しは便利になったけれど、大きすぎて、どうもっポイント噴射ができない。

こちらの夫婦は、なんで体を洗っているのだろう。そういう素材になるものがなにもない。
もちろん、あったとしても使うわけではないが、スポンジなどがなにもおいていない。
噴射口を必ず体に向けて、を心掛けたけれど、あちこち、濡らしてしまう。

スポーツセンターなどを利用していれば、シャワーの使い方にもなれるのだろうが、この数十年、それを利用することはなくなった。
シャワールームの外側においた、これまで身に着けていたもの、これから身に着けるもの、忘れ物がないように、細かくチェックする。

シャワールームの外側におかれた足ふきマットも、もう使ったままだ。
排水溝にたまった白髪の名残をとって、ごみ箱にいれる。

シャワールームの使い方、なるものの講習をうけておくべきだった。
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Canicule, 猛暑または酷暑

今、地中海沿岸地方は、猛烈な熱波に襲われている。最大はギリシャ、夏の猛暑は、地中海沿岸では火災を招く。
その着火の原因が何かは別として、油性の松など、燃えやすい木々がおおく、夏の火災は一つの風景にもなっている。
ギリシャでは、連日の猛暑で、首都アテネでも、アクロポリスが閉鎖されるなど、観光への影響も大きいという。

イタリア、南仏、スペイン、と地中海沿岸は、軒並み、35度超えの暑さに苦しんでいるという。

フランスで最初に猛暑という言葉を目にしたのは、1990年代、96年のことだっただろうか?
夏休みの真っただ中、パリ(だけではないだろうが)で暑い夏となった。
気温としては35度程度であったかもしれない、それがなぜ、問題であったのか・
それは、パリあたりは、日本でいえば北海道の室蘭の緯度に等しいときいている。
したがって、それまで、パリなら夏でも涼しい、冷房はいらない、という評判であった。
実際、空気は乾燥しているので、カラリとした暑さは、かえって気持ち良いものでもあった。
冷房を備えているのは、デパートやスーパーだけ、本当に暑けりゃ、そんなところにいけばいいよ、なんて言われていた。

ところが、予期せぬ猛暑、なぜ問題視されたか、それは孤老の死去が多発したからである。
当時、われわれの知識では、フランスは個人主義、若い家族は老いた親とは同居しない、であった。
実際、そのとき、もう夏休みになっていて、若い家族はバカンスにでかけ、パリには孤老が残っていた。そして、なすすべもなく、暑さの中で孤独死していったのだ。

フランスの暑さ対策は、個人単位でいえば、とても単純だ。朝の涼しい空気を部屋にいれ、10時くらいになると、部屋を密封して、窓には鎧戸を閉め、太陽を遮断、そしてその涼しさを夕方までキープする、というやり方が、今でもとられている。
締められた鎧戸、これは暑さを避けている人もそうなら、ヴァカンスに出かけて不在の人もいる。その区別はしにくい。
そして、当時は孤老の人を定期的に尋ねるといったことも、そう頻繁ではなかったようだ。

そして孤独に死んでいった老人が多数に及んだ。
そこで、もう一つの問題は、亡くなった老人の家族に連絡すると、休暇を終えてから帰るから、そちらで葬儀はすませておいて、という返事が多々あったという。
親を置き去りにして、若いものだけで休暇に出かける、というのも、当時の日本的感覚からいえば論外であったし、まして、死亡がわかっていてかえってこない、というのはなんという親不孝!という論評などが日本の新聞ではみえたものだった。

今年の熱波はそれ以上のものなのだろう。40度という数字ももう驚かない。
その熱波も広域であるのは、世界的気候異常の故でもあるのだろう。

フランス語でいえば、canicule、辞書でみれば、cが大文字であれば天狼星(Siriusの旧称)とあり、土用(天狼星が太陽と出没を共にする7月22日ー8月22(23)日の期間、(土用の)猛暑、真暑、盛夏、とある。
しかし、この言葉、この辞書による期間ではすまなくなっている。5月、6月から出てくる30度以上の暑さでは、このcaniculeが使われている。

それにしても、フランスでは個人宅で冷房を備えた家は少ない。
相変わらず、午前中に鎧戸を閉め、暗い中で、じっと暑さを耐え忍ぶ、そんな避暑がまかり通っているのだ。

パリに着いたとき、暑い日々だった。
従妹の家には冷房はない。しかし、高層階の部屋であったので、窓を開けたまま寝てもいいわよ、と言ってくれた。あかりを消せば、虫も大丈夫、という。
蚊はいなかった。が虫はいた。
テラスから見えるエッフェル塔、このためにも窓は閉められない。
滞在中、暑くて眠れない、ということはなかった。かえって、涼しい日があって、シーツだけのベッドでは寒かった。
仕切りのない空間だったから、暑い夜も耐えられたけれど、これから、パリでも7,8月を冷房なしで暮らせるのだろうか?
と、心配しながら帰国、帰宅したが、我が家にも冷房はない。
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フランスの電力事情、私見

電気代が高くなった。
といっても、どこがどう変わって高くなったのか、果たして、ロシアのウクライナ侵略だけに原因を押し付けていいものか、わからないでいるのだが、世界中、電気代が高くなった、と言っている。
フランスはどうなのだろう?

といって、フランスの知人、友人に電気代の詳細まできくことはできない。
発電についても、どう変化しているのか、気になっている。

フランスの田舎、つまりパリを出て、農村部にはいったとたん、目につくもの、それは風力発電装置だ。
いくらかの起伏があるにせよ、フランスの大部分を占めるのは、平原である。
そんな中、あちらこちらに風力発電の塔が建っている。
3枚の羽根、そのほとんどが動かないままだし、動いていても、ゆるゆると回っている程度だ。
これで、発電量はどの程度あるのだろう。

山間部はどうだか知らないが、日本に比べて、太陽光発電の装置はあまり目につかない。
太陽光発電で、思い出すのは、最初に太陽光を利用しての発電装置というのは、スペインとの国境近くにOdeilloというところがあって、そこに設置されたものだった。
今のパネルを並べたものではなく、太陽炉と呼ばれる大きな反射鏡があって、それに太陽光を集中させての発電だったように記憶している。
太陽光を利用しているのは個人が多いのだろうか。
思いがけないところで、太陽光発電が出てきた。
最初の週末にいった従弟の別荘である。
テニスコートのそばに16枚のパネルを設置していた。ここの発電で、この別荘の電力を賄っているのだという。ただし、それがぎりぎりの発電量なので、フランス電力(EDF)からの電力も購入しているという。

フランスは原子力発電も稼働している。
日本では海岸に多いけれど、フランスでは川沿いのケースが多い。
パリから地中海地方へと下るとき、煙を出している原子力発電基をみかけた。稼働中なのか?と思ったけれど、どうなのだろう。
一時は電力の80%以上をカバーしていたと思うが、今ではそのパーセンテージは少なくなっているはずだ。
しかし、フランス人はあまり原子力発電にアレルギーはないようだ。
非常に理性的な従弟は、カーボンニュートラルを目指すとき、原子力発電は避けて通れない発電である、という。
どちらか、というとき、原子力を避けたいという私とは立場が異なっていた。

消費サイドではどうなのだろう。
フランスの家庭で、冷房装置を持っているところは少ない。しかし、暖房は電力がほとんどだ。
電化は進んでいる。台所をみれば、レンジは電気、食洗器は必須だし、とても大型である。
洗濯機も、パリのアパート住まいなどでは、乾燥機も大型のがついている。

この異常な気候になって、パリでも冷房が必要になってきている。
しかし、パリのみならず、ほかの都市に暮らす友人宅で、冷房装置のある家はなかった。
例外は、先述の従弟宅で、パリのアパートはしらないが、別荘では冷房がついていた。
いつまで冷房なしで生活できるのか?
これは慣れの問題なのだろうか?冷房なしながら、扇風機を買ったから、という友人もいる。

パリでの日々をすごした従妹宅では、メゾネットスタイルだったが、階の移動は専用のエレベーターであった。
どのくらいの電力を消費するのだろう。なるべく回数を少なく、と思ったけれど、階段が併設されていないところで、何度利用したことか?もし、電気代がべらぼうになったら、それは私のせいです。

エッフェル塔のイリュミネーション、華やかで、毎晩10時の点灯を楽しみに待ったけれど、これも本当はもっと長時間点灯されているはずであった。
10時点灯で、何時に消灯されているのか、チェックしなかったが、相当早めに消されているはずだ。
正時のキラキラも、11時、12時、1時くらいのものか?
省エネを実行しているのだという。

夜の外出はまったくしなかったので(街灯がともるころまで、となると、10時までは明るい)、今回、シャンゼリゼの照明も、リヴォリ通りのあかりもみていない。
ミニュットリーというのだったか、数分間点灯されると自動的に消える廊下の照明、こんな倹約のスタイルもフランスで学んだのだが。

冷房のない生活、これもフランス的なのだ、と自宅に帰って、暑さを耐えているが、フランスもいづれ変わる、我が家も来年は冷房導入だ。
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トイレの話

前回、LGBTに関して、トイレを話題にいれたが、今日はトイレそのものがテーマである。
外国に限らず、自宅を離れる時、トイレ環境はとても気になる。
何時間もトイレを我慢できた若い時代はともかく、現在ではいった先からトイレ、トイレと気にしている。
飛行機の中でも、離陸して、ベルトサインが消えるとすぐ、席をたっていた。飛行機に乗る直前にトイレをすませていてもだ。

フランスは先進国ではあるが、トイレが完備しているとは言えない。こちらの人は、トイレにあまり行かないのか、外出した先でのトイレの設備が少ないのだ。
そして、シャワーがついていないのは当然としても、とても清潔とは言えないのが普通である。

出かけるたびに、今日の行動予定のなかで、どこでトイレをすませるか、これは常に頭にあった。
たとえ、トイレがあっても、その設備が使えるのかどうか、常にその心配がよぎる。

たとえば、こちらのトイレには便座がついてないものがある。便座なし、陶器のトイレそのものが不潔でなければ、それで結構なのだが、冷たい陶器にお尻をおろす、というのはなかなかだ。
もちろん、便座がついていても、まずはペーパーで拭くのだが、陶器とプラスティックの差、どっちがいいとは言えないけれど、便座なしは、やっぱり手抜きというか、設備そのもののが足りないような気になる。

利用者の多い、ナショナルの道路沿いにあるサービスエリア、ガソリンスタンド、など、男女の別があるだけいいけれど、便座なしということが多い。
トイレットペーパーの質の悪さも問題だ。大きな丸いべーパー容器から引っ張り出すのだが、なかなかでてこないときもある。
その昔は、こういうペーパー容器ではなく、重なり合った紙の容器であった。
紙の質もあまりよくない。

その昔、母を海外旅行につれていくとき、母はスーツケースの半分にトイレットペーパーを持参していた。特に開発途上の国ではそうで、こっちの紙は拭けないからね、などと言っていたし、また、持参のペーパーが役にたつこともあった。

こんな状態で、来年のオリンピックは大丈夫だろうか、などと、パリの市内でも、あまりよくないトイレを使いながら考えてしまう。
まずは数が問題だ。
これでは絶対、たりそうにない、とトイレ学の研究者として、まずは質よりも量の観点でマイナス点をつける。

もちろん、オリンピックのときは、特設のトイレも設けられるだろう。

トイレの水洗設備も時に問題だ。うまく流れないときなど、あとに来る人にどう思われるか、気になるが、どうしようもないときがある。
カンヌからマルセイユへと移動につかった列車のトイレがそうだった。
水洗が使えない。
前使用者が、そそくさと立ち去った理由がわかった。流せないのだ。
私もそうせざるを得なかった。
洗面台の水もでない。
幸い、ハンドバッグに濡れティッシュを用意していた。

マルセイユでは、新しいショッピングセンターのトイレは便座がないスタイルだった。
こんなに新しい、お金をかけたショッピングセンターですら、とショックを受けた。

フランス滞在中、外出先でも、宿泊先でも、トイレにはいり用をすませると、つい右側にシャワーの設備を探す。
その癖はとうとう、帰国まで治らなかったけれど、JAL便では、トイレにシャワーがついている。
東京―パリ便では当然として使ったけれど、帰国時のパリからは、その設備がついていることをわすれていた。

そういえば、たしか、カンヌの映画祭が行われるあの丸い建物のトイレには、シャワーがついていたような思いでがある。そして、便座は回転式ペーパーがカバーしていたような。
さすが、と思った記憶があるのだが、どうだろう?

いつもドキドキ、はらはら、トイレについては不安ばかりもって旅行にでるのだが、どうにかセーフで帰宅することができた。
ものをがちゃがっちゃおいて、すっきりしたトイレとは言えないけれど、自宅のトイレにしくものはなし、だと実感する。

フランス人のだれもが、日本のトイレをほめたたえている、本当に日本のそういう施設の清潔さ、その意識の高さ、やっぱり捨てがたい。
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LGBTq、フランスでは?

今回のフランス旅行、トイレのことがとても気になった。
シャワー設備がないことはわかっているし、それはそれで納得している。
しかし、LGBTに関連してのトイレはどうなっているのか、24年にパリオリンピックが予定されているだけに、大幅な変化が生じているのか、とても関心、あるいは心配をしていた。

昨日の朝日新聞に、戸籍上は男性だが、女性として暮らすトランスジェンダーの経済産業省の職員が、省内での女性トイレの使用を不当に制限されたのは違法だと国を訴えた訴訟で、最高裁第三小法廷は11日、この制限に問題はないとした人事院の判定を違法とする判決を言い渡した、という記事があった(7月12日朝刊)

この性をどう判断するか、とても難しい。
パリの空港について、利用はしなかったが、ちょっと見でのトイレの表示は、相変わらず、男性と女性のサインだけである。

例外的だったのは、パリ郊外にあるマルメゾン城である。
この城、こじんまりしていて、ナポレオンの最初の妻、ジョゼフィーヌが離婚後の日々をすごしたことで知られている。
デファンスからバスで15分くらい、とても簡単に行ける。

年齢をくわえるごとにトイレの回数が増え、出かける直前にトイレにいっているにも関わらず、次の交通機関を待つ間にトイレへ行きたいと思うようになった。
このお城には数回きている。
バス停からお城までの道を歩みながら、まずはトイレ、と心の中で確認する。

門の前には3台の大型バス、悪い予感がする。
門の内側にある発券所でチケットを購入。構内の配置図をみると、お城の入り口の直前にトイレの印がある。
よし、トイレをすませて、ゆっくり鑑賞しよう、とトイレに行ってびっくりだった。

団体のバスの客であろう、男女が長い列を作っている。
ここのトイレは男女の別がないのだった。そして、この観光客の多い施設にも関わらず、トイレの数は2,それに障碍者用のボックスがあるだけだ。
なんてことなの!!!!別にあせってはいなかったが、行列の長さと2つしかないトイレ、所要時間をすばやく計算する。
答えは出ない。行列に並んだ人たちも、納得のいかない表情だ。

なぜ、男女共用がいやなのか。
男性が使ったあとのトイレは、男性が小用の場合、便座をあげて使用したか、便座をしたまま、座ってしたか、使用後、状態をチェックして、清潔にして出たか、など、気にするべきことが多い。

とトイレのことについては、また別に書くつもりなのだが、ここが男女兼用である、ということは、もしかしたら、相当の場所がそういうふうに変わっているのだろうか?と思ったのだ。

実際はそうではなかった。
外出したところで、必ずトイレを利用するわけではない。
なるべくしないようにしている。

男女共用にしているのは、このマルメゾンだけだった。
どこでも、男性、女性の別だけで、LGBTを意識したトイレはなかった。
あと1年でオリンピックになるのだが、どうするのだろうか?

まずはトイレを書いてみたが、日常にはLGBTは浸透しているように思われた。
Lは目立たないが、Gの存在は以外と外に見えるものだ。
男性2人で手をつないでいる、体を密接させている、相手の男性をとろんとして目で見つめている、なにかしらの空気が漂う。
ある日、メトロの入り口で、キスをかわす男性2人がいた。
男女のキスシーンはまたか、と思うけれど、男性同士の場合、おやっと思ってしまう。
まだ見慣れないからであって、これは仕方のないことだ。
どう呼び合うのだろう。mon copin, mon partenaire, mon ami, そんな形で紹介するのだろうか?

少数の存在を多数の中で認証させるというのは、やはり大変などことだ。
フランスは同性婚も認められているし、進んではいるけれど、宗教のなかでも受け入れられているか?
私の友人の一人は、同棲まではいいけど、結婚する必要はないんじゃない?という人もいる。
夫夫と書いて、ふうふ と読むべきか、婦婦とかいてもふうふと読むべきか、

フランスでは名詞に男性、女性があって、それを覚えるにに苦労したものだが、例えば男性名詞とされていた大臣ministreはつねにle ministreであったが、今やla ministreも存在し、その書き方で時代がわかるし、しかし、過去についてはle ministreとあっても女性かもしれない、という翻訳家なかせのことになっている。

例えばLGBTの人たちを表現するのに独特の表現方法ができるものか、トイレという問題に限らず、注目すべきところは多すぎる。

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感激!カンヌの花火

エッフェル塔のきらきら照明の次に感激したもの、それはカンヌの花火である。
花火があがるとは知らなかった。

知らなくて当然なのだ。別に有名な花火大会でもなんでもない。
なんで上がったのか、長くカンヌに住む友人すら知らなかった。

しかし、私が滞在した、たった2夜のその1夜に花火があがったのだ。
ここでお礼を言いたい、Merci David、ダヴィッドというの市長の名前だ。
別に彼があげてくれたわけでもなのだが、とりあえず、お礼を言っておきたい。

単に平日の夜、気まぐれにあがったような、数分間の花火、友人の住むマンションのベランダが、地中海そのものに面していて、カンヌの海岸を一望する。
右側には湾が突き出ているが、そこから花火があがったのだ。
夕食を終え、歯磨きなどしていると、「花火があがっているわよ」と友人から声がかかる。

今年初めての生花火だ。ハワイに旅行した友人が、ホテルの窓から撮ったという花火を動画で送ってくれたけれど、直接、生で、というのはこの4年、見たことがなかった。

何で花火があがってるの?今日は特別なイヴェントがあったの?
カンヌの映画祭は終わり、もう街中は夏のシーズンのにぎやかさは見えても、特別なイヴェントがあるとは聞いていない。
友人が一呼吸おいていう。「今日はあなたの誕生日だから」

「えっ!!!まさか、私のために?」
「まさか、まさか!!!」
なんのために上がった花火なのか、彼女も知らないという。
すぐに携帯を取り出して、私なりに映像をとる。長くボタンを押して、動画にする。

体が震える。誕生日であることは確かだが、もう、なんのお祝いも必要ない、と心していた。
それでも、カンヌの友人がバースデーケーキとシャンペンを準備していてくれたし、時差のある日本からのおめでとうメールもたくさん入っていた。
実に個人的な感激なのだが、この感激を伝えたい、日本との時差も考えず(考えたけれど、かまわず)動画を送る。

友人宅のWi-Fiは強力なのか、すぐに送れた。
ピン、ピン、とすぐに反応があったのは、フランス在住組みからだ。
そして、日本は早朝5時ころにも関わらず、返信がくる。

カンヌにいるとは知らない友人たち、どこですか?なんの花火ですか?と問われる。

生まれて幾年、フランスのみならず、外国で誕生日の経験はある。
しかし、花火付きとは初めてだ。
もう、誕生日をおめでとう、という年齢でもないし、カンヌの友人にもそうだ、とは言わなかった。
しかし、こうしてシャンペンで祝い(ずっと禁酒の生活なのに)、カンヌの市長が花火をあげてくれるなんて、と勝手にカンヌの市長の名を持ち出す。

年齢からいっても、これが最後のフランス旅行になるだろう、と思っているところに、こういうことがおきるとは!!!!!

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エッフェル塔の歓迎うけて

6月21日、夏至の日、フランスでは音楽の祭典の日でもある。
詳細は忘れたが、パリ(に限らず全国で)では、市内の各所で、夜を徹して、音楽が奏される。
プロもアマも、一人も多人数も、と始まった当初はとても自由なものであったと思うが、現在がどういう仕組みか聞いていない。
日本の歌を歌う合唱団も参加する、という話もあって、最初はそれを聞きに行きたいと思っていたが、参加はないということで、この日、夜にパリをうろつくことをやめた。
当日、地方からパリへ戻ることになっていて、夜にまた出かけることが面倒に思えたこともある。

さて、別にこの日に限ったわけではなく、毎日エッフェル塔の照明は行われるのだが、この日、夕食を終えて、宿泊している従姉妹の家の自室に戻った。
広いベランダがついていて、そこから、エッフェル塔が見えるのだ。
頭の先だけが見えるのではない。底辺部からとも言えないが、ずいぶん下の部分からトップの展望台まで、ほとんど全貌というくらい、見えるのだ。

従姉妹のマンションのどの部屋からも見えるのか、それはわからないが、最上階のわが部屋のベランダからが最も見えることは間違いがない。

点灯は10時、遅いようだが、その時間までまだ明るく、点灯されても効果は少ない。
徐々に塔が赤みを帯びてくる。そして5分もすれば、通常のライトアップとなる。
そして、1時間後、11時ちょうど、突然きらきらが始まる。白い閃光が塔の全体から放たれるのだ。

このきらきらを初めて見たのは数年前、もちろんコロナ以前である。
それも12時ちかく、急遽泊めてもらうことになったこの部屋で、エッフェル塔がようこそ、と言わんばかりに輝き始めたのだ。その時のショックは、エッフェル塔が私のために輝いている、と信じ込むものだった。

もちろん、私のためではなく、単にエッフェル塔のイルミネーションなのだが、あまりのタイミングに驚いたのだ。

今、エネルギーひっ迫の折、このきらきらは、11時、0時、そして1時くらいまでなのだろうか、限定されているという。
私は11時をみて、可能な限り0時まで起きて、それを見たのち就寝するようにしていた。

東京から引っ越してずいぶんときが過ぎた。いまや、東京タワーだけでなく、もっと高いタワーがあって、その照明も美しいらしい。
しかし、このエッフェル塔の照明の見事さ、やっぱりパリなのだ。

パリの高級なホテルに宿泊しても、この展望は得られまい。
ベランダに椅子を置き、夜風を肌に感じながら、きらきらが始まるのを待ち受ける。
この日は、夜を徹しての音楽のお祭り、11時などはまだ宵の口だ。
一人で見ているのがもったいなくて、携帯で写真をとる。そして友人たちに送った。

6月21日を音楽の日としたのは、その昔、社会党政権時のジャック・ラング文化大臣だったように思う。
このエッフェル塔きらきらのアイディアはだれのものなのだろう。

私はこんな贅沢をしています、と叫びたい。
従姉妹たちは慣れてしまっているのか、私の興奮に付き合ってはくれない。

パリを去りがたくするのは、このエッフェル塔があるからだ。
もうパリを再訪することもあるまい。最後の夜は見納めと、11時、そして0時ときらきらを楽しんだ。
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fフランスへの旅

4年ぶりにフランスへ行った。
飛行機でご一緒になった人たち、旅先で出会った人たち、だいたいの人たちが4年ぶりなんですよね、と口をそろえて言う。
海外解禁、さあ行こうフランスへ、という標語ができたわけではないけれど、みんなの顔にはそう書いてある。

前回の渡仏は4年前のクリスマスだった。たったの1週間、クリスマスを一緒に、と誘われていったのだ。
今度は、4年ぶり、もう少しは長くいたい。
航空機の代金も高いし、飛行時間もロシアのせいで長くなった。
なんだかんだと、理由をつけて、3週間の日程を組んだ。
いつものとおり一人の旅である。

コロナ前とコロナ後(完全に後といえるわけではないが)、大きく変化したという。
物価も世界各国、上昇している。フランスもその例外ではない。
プラス、円安、対ユーロが特にひどい。
予算(なんてたてないが)の金額ですむだろうか、不安は健康、費用、各面で次々と出てくる。

定刻にCDG空港にランディング、バゲージクレームへ降りるエスカレーターが動かない。そんなことも、「フランスへ来た」という感を覚える。
老体にエスカレーターが動かないというのはダメージだけれど、これもフランス。

荷物は無事にラインを流れてくる。スーツケースの角にテープが張ってあるが、気にしない。
これは出発前、パッケージをしているときにじっくり見ると、壊れているのだった。
大きいスーツケースとガラガラと称する小型の車輪付きのケースをシャリオに乗せ、タクシー売り場へと行く。このルートは変化なし。
タクシー乗り場に行列はなかった。車もそれなりにある。ただこの車に、とガイドしてくれる人がいるのかいないのか、
自分の番だ、と主張する運転手のところに荷物を運ぶ、

後ろのトランクに大きいスーツケースは入れてくれるけれど、あとのシャリオは私が自分で端っこまでもっていく。
フランスは日本と違って、右側通行、運転手の座席も、私のために開けてくれているドアもサイドが違う。

この円安の中、タクシー代はいくらになるのだろう、と心配してきたが、空港から、あるいは空港へという料金はずいぶん以前に定額制になった。4年前がいくらだったか、記憶にないけれど、今回は55ユーロと出ている。
日本円にすればいくらになるか、もう面倒だから計算しない。
パリ市内であれば、55ユーロでいいのだ。

最初はスムーズに、そして途中から渋滞にひっかかる。これはいつものこと。ペリフェリックとよばれる、パリを一周する道路はどこかが渋滞だし、空港からの道はそれが常態だ。

携帯電話は電源を切ったまま、フランス仕様にはしていない。だから、ついたことを宿泊先の従姉妹に連絡することもしない。
パリはそう変わっていない。4年来ない間にきっと大変容しているのでは?私は浦島花子みたいになるのではないか?などと恐れていたが、道路沿いにある建物、見慣れたものもある。

運転手は大きな画面で、ロードマップをつけている。どのルートで何分、といった画面が目まぐるしく出てくる。
宿泊先は一方通行で、ちょっとわかりづらいけれど、今や、すべてこのガイドに任せれば最短の時間で行けるようになっている。

従姉妹の住むマンションに到着。55ユーロに5ユーロをつけて60ユーロを払う。このチップは必要だったか、金額的に相応か、いろいろ思うけれど、まずは無事にここまで来たという安堵感から気前がよい。
このタクシー、普通の乗用車をタクシー仕様にしている。なかなか高級感があった。
Uberというシステムが10年前?くらいから認可され、タクシー業界も苦難の道を歩んでいるようだが、空港ではタクシー乗り場がきちんと残っているので、Uberを使えない私も安心できる、という安心料もある。

あて、従姉の家の入り方は2重、3重になっている。
まず最初と2番目のドアは、工事の関係者がいて、無事に入れる。
2番目のドアを入る前に、呼び鈴は押したが、ちゃんとした返事は聞こえなかった。が、私よ、と言って工事の人が開けたままにしているのを幸い入る。
ところがだ、それからが問題である。
次にエレベーターに乗って、彼らの住まいのある10階を押すのだが、エレベーターが動かない。みれば、10までの数字の表示が別にある。コードを押すらしいのだが、前回来た時にはなかった。
そんな数字のことは聞いていない。
何をどうすれば10階にたどり着けるのか、もうパニックになる。
そうだ、荷物用というのか、配達人や家事の手伝いをする人たちが利用するエレベーターが使えるかも、とそちらへまわり、10階をおした。
無事、10階までたどり着いた。といっても部屋に直接入れるわけではない。
ブザーを押すと、従姉がドアを開けてくれた。ようやく、パリ到着!

(以下、次号)
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