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母の日に感じること

5月第二日曜日は、日本とアメリカにおいて「母の日」である。
フランス語でもBonne Mamanという表現があるが、母は常に特別な存在だ。やさしい、慈愛に満ちた、懐の深い、絶対的な愛の存在だ。
それもそのはず、基督教においては、聖母マリアが絶対の存在としている。

フランスでは、それがなぜかはもう忘れたが、母の日は5月最終日曜日である。その他の国についてはししらない。ただ、日本ではアメリカを追随するから、第二日曜日が世界の母の日と思っている気配がある。

これから書くことは、いつものように私見であり、個人的な経験、知識に基づいたものだ。

私には子供がいない。だから、この母の日というのは、いささかうっとうしい。
その昔、母がいて、祝う立場のときはそうでもなかったけれど、祝われて当然の年齢になると、その日の迎え方がしんどい。
祝う立場にあったときからそうだともいえる。
私の母は、父にとって後妻であった。先妻は亡くなり、先妻との間には2児があった。長男、長女である。
母はその二人にとって継母である。
日本では、まだ家族制度がつよく残っていた時代だったので、継子についても腹をいためた実子、と同じように、差別しないように、などと気持ちの上での制約があった。
歳の離れた兄と姉、離れて生活していたので、母の違う兄弟姉妹だと、知りもしなかった。
そんな家庭環境にいて、また貧しい生活だったので、母の日のプレゼント、などと言われると困っていたものだ。
もちろん、お手伝い券、肩たたき券、お掃除券、そんな子供だましのことでもすむ時代だった、今も子供はそうだけれど、長きにわたって、母に対する感謝を、強制されるこの日がいやでならなかった。

フランスでは、今や、母の日、父の日、を学校教育の場では祝わないと聞いている。
家庭というものの構成が、昔と全く異なっており、LGBTqが公認されている今、また離婚、戸籍をいれないカップル、またfamille recomposee(再構成家族)つまり離婚、再婚、再離婚、再再婚、などと複雑化した家族が増え、子供にとって、だれを母と呼べばいいのやら、と言う時代になったのだ。

また、調停員をしていた時代、相調の男性ガ、子供は愛の結晶だから、というのに何とも違和感ガ抜けなかった。
今や、人工的ナ受精、出産も一般化している。その胎内から生まれたとしても、遺伝的に母と呼べない、ただ単に子宮を提供されただけなのかもしれないし、精子、卵子、ともに出所不明ということもありうる時代だ。

パリの両親、と呼んでいる家庭では、子供が二人いたが、実子ではなく、養子であった。
秘密出産accouchement Xと呼ばれる、両親の名前を秘密にしたままの出産で、実子に恵まれない両親は、まず女の子、そしてその数年後に男の子を養子に迎えたのだ。
その後、秘密出産であっても、子供がそれを望むとき、実の母を調べることは可能になったけれど、実の母にたどり着けるかどうかは確実ではない。

パリの両親は、敬虔なカトリック信者、父親はきびしいところがあったけれど、とてもいい夫婦だった。
そういう事情を知らないまま、その家庭に出入りするようになったが、親子関係の異常さに戸惑った。
長女はパリ大学の学生で、自宅に同居していたが、長男は不在、あとで女中さんから、家出をしていると聞いたのだった。

フランスの母の日には、ちょうどフランスにいるときなら、やっぱり花束になにかプレゼントを添えて、感謝してます、とその意をみせびらかすように、表現していたが、母親は、淡々と受け取るだけだった。
養子の娘や息子からのプレゼントはなく、そういう年数を経て、きっと感情をしまい込んでいたのだろう。

子供がいない私は、時折、社会に貢献しなかった、というマイナスの意識をもつことがある。
私の時代には、婚外の子供を持つのはタブーだったし、まずは婚外の性交渉というものが罪悪ととられていた。
シングルマザーなる言葉、それが未婚であれ、離婚によるものであれ、肩身のせまい思いをしなければならなかった。
あの時代に、シングルマザーとなる勇気があっただろうか?
職場の環境はそれを許したかもしれなかった。
しかし、やっぱりその勇気はなかった。とくに生まれる子供に対して、お母さんの子で生まれてよかった、と言われるような母になる自信はなかった。
そして、まずは父親となるべき人にも出会わないのに、自分の都合だけで母になるのは無理だった。

亡くなった連れ合いの子供たちとの交流も、連れ合いの死去とともに消えた。
しかし、昨日、村の娘、と称する人からの母の日プレゼントが届いた。
プレゼントがあれば、それはそれでうれしいものだ。と、なんとも主義主張のない私である。
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