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母の海外旅行

過去の海外旅行を思い返していて、母と同行した旅行の思い出の濃さが感じられた。
そして、母の海外旅行はどうだったのだろう、と考えた。

もうなくなってずいぶんなる。
彼女は大正元年の生まれだった。9月23日が誕生日だから、生きていれば100歳越えはもちろんだ。

戦時中、といっても最後の数年を、父とともに中国で生活していたから、海外生活の体験はあるのだが、いわゆる海外旅行、というのは別物だ。

父が亡くなって、その翌年であったろうか、ロンドンで働いていた姉が結婚することになった。ロンドンで知り合った日本人男性とである。
結婚式はロンドンで、双方の両親(姉の場合は母のみだが)を招待してくれるという。
母はためらうことなく、はい、ありがとう、と出席を決めた。
好奇心の強い人で、なんでもトライ、ご招待というのだから、なんでお断りすることがありますか?という。
義兄のサイドはご両親に、当時フリーであったその弟が付きそうのだそうだ。
こちらの母も一緒に面倒みてもらいましょう、となり、また母には独身で年金暮らしの母の妹が同行することになった。

結婚式に出席のあとは、義兄の両親と私の母と叔母を、義兄の弟がガイドとなって、ヨーロッパ大陸の数国を旅行したはずだ。

2度目の旅行は、出産の手伝いだった。
これは単身での渡航となった。
イギリスの入国審査はきびしい。英語での応答をどうするか?私が模擬の応答モデルを作成した。
必ず聞かれること、聞かれそうなこと、想定問題を作り、英日の対訳、カタカナで発音、練習もさせた。
往路は、東京からで、羽田へ送っていったのだと思う。

母はあまりおたおたしない。人をこわがらない。だからであろうが、まことにスムーズに入国もすませたよ、と迎えにいった義兄からの連絡があって、ほっとしたことを覚えている。

それから、数年後にギリシャへのクルージングに私も同行しての姉の家族との旅行に、母ははまってしまった。
海外旅行のこつもわかったのだろう。
あるとき、冬のスキーにこないか、と誘われ、一人でスイスへ行ったことがある。日程の都合で、母の方が先に現地入りすることになった。
切符の手配、お金の準備などは私がしていたけれど、無事にホテルにはいれるか、とても心配したものだ。
しかし、”ハロー、こちらはお母さんよ”としっかり、国際電話をかけてくる母だった。

その辺から、姉の家族からの招待をまたず、私と一緒に旅行することをプログラムにいれたのだ。
私は東京で、やりがいはあるけれど、給料は高くない職場にいて、一人暮らしで貧乏だった。
ただ、休暇はまとめて1か月とれる職場であったので、その1か月を海外旅行にあてていた。
それに同行するというのである。

母も一人暮らし、迷惑をかけるひともいない。少ない年金と子供たちからの送金で、とてもつましい生活をしていたのだが、それでも海外旅行のためなら、貯金する、お金で面倒はかけない、という。
正直、私はいやだった。
別に旅行はごく普通の名所旧跡をたどるものだったが、母と一緒であれば、行動もある程度拘束され、冒険もできない。
しかし、周囲はみんな、母の味方で、同行を拒否すると、親不孝と言われる。

1回の旅行で、3か国を旅する、というようなプランであったが、母は、中国、パキスタン、トルコ、ギリシャの再訪、そしてヨーロッパ各国、をまわり、一度はイギリスで、ウインブルドンテニスも行った。
これは私の友人が招待券を手配してくれたのだが、オープニング2日目だったろうか、センターコートで、女性の前年優勝者のオープニングゲーム、ナヴラチロヴァだったような気がする、をコートサイドで見て、大感激していた。
帰国後に、女学校(私の卒業高校と同じになる)会報に、その観戦記を寄せ、自分一人で行ったような文章を書いていた。

のちにパリの両親と呼ぶようになった夫妻の娘の結婚式にも出席、母も私も着物姿であったが、母はスターのようにもてはやされ、大変にご機嫌であった。

九州と東京に離れ住んでいたので、海外に行く場合には、東京で合流するか、航空会社次第では、第一の合流地、たとえば、当時大韓航空を多用していたが、福岡からソウルへと一人できて、そこで合流することもあった。パスポートの準備、外貨準備、知り合いを訪ねる(泊めてもらう)場合のお土産の手配(ほとんど手作りで用意していた)、荷造り、そういったことを一人で可能だったから、一緒の旅行もできたのだが、60代から70代後半まで、実によく旅行していた。

私がそうであったから、母も一度も団体旅行というのは体験せず、姉の家族と一緒の旅行か、私と一緒であった。
それがどんなに面白い体験であったかを、そしてどんなに感謝しているか、を、施設にはいって、外出もままならなくなったころ、見舞いに帰った私の手をにぎり、しんみりと話したものだった。

トルコの田舎で、面白がって寄った絨毯屋さんで、母が乗せられて買う絨毯、持つのは私なのよ、と文句をつける私、自分で持つからと、どうしても買うという母、母子けんかのかたわらで、さっさと包装する絨毯屋、結局、船便で送ってもらったのだが、どうせ母のお金だから、だまされてもかまわない、と冷たくしていた。その後、数か月後に無事届いた。
トルコのイスタンブールでは、ガルタ橋のレストランで、バンドにはいって、タンバリンやら太鼓などを演奏したこともある。
あるときは部屋の中で、お灸をすえたり、ヨガ体操をしていたり。
ブルターニュでは海水温度が16度と冷たいのに、さっさと泳ぎだしたり、また外国人がしない、横泳ぎなどで泳ぐので、珍人扱いであった。

こうしてみると、私の場合、25歳が海外旅行のスタートであったが、母はおそらく65歳くらいであっただろう、スタートは遅いけれど、内容充実は大変なものだった、と誕生日を前にして、母と思い出話をしている。
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