SSブログ

母の人生は幸せであっただろうか?

自分自身が人生の終わりに、少なくとも終末期というような時期になったとき、先人、特に自分の母の生涯を思い起こしている。
「お母さん、あなたは幸せな生涯をおくれましたか?」と問うている。

母は大正元年に生まれ、亡くなったのは89歳と11か月だった。
最後の5,6年、もっと長かったかもしれないが、自宅を離れ、老健施設にはいった。
同居していた長男夫婦(長男は先妻の子)とあまりうまくいかず、自分で施設にはいることを選んでのことだった。

父と死に別れしたのは、60代に入ってすぐのころだったように思う。
当初は、自宅で一人、古い、造りもそうよくない家を、自分のセンスで住みやすく、来客も多く、楽しい生活をしていた。
兄夫婦が、故郷に引き上げて、家を建て直し、同居ということになったのだ。
家は土地、建物と兄が相続していたので、それは当然のことだった。
善意の人の共同生活であれ、生活の感覚が異なれば、それはそれで軋轢が生じる。
そんな中で、身体に不自由を感じるようになり、さっさと施設へ移ったのだ。

姉の家族や私との海外旅行を楽しんだのは、その単身時代のことであった。

母の生活はそうたやすいものではなかった。
戦後の混乱期、30代早々に妻を産褥で亡くした父の後妻になった。父には先妻との間に長男、長女がいた。次男の出産後に亡くなったのだ。次男もほどなく亡くなったのだそうだ。
父は一人息子で、地方の方言でいう、ジョンジョン坊やと大切に育てられた。

思い出すと、我が家は女系家族というのか、女ばかりが多かった。まず祖母(この人も後妻で父の実母ではなかった)、大叔母(祖父の妹?)、伯母(父の姉)、母、叔母とその娘、長姉(先妻の子)、姉、私と女は9人、男は成年では父と最年少の弟の2人だけだった。
兄は学校のため、常に不在で、私は兄がいることも知らなかった。もう一人、弟がいたが、4歳で亡くなり、いくらかの記憶は残っているが、ほんとうにはかない生命だった。

私は父に対して、肯定的ではない。私の知る父は、酒飲みで、目を三角にして怒る(酔った時)か、体をグラグラさせて、まともに歩けない、まさにアルコール中毒者であった。
なんで、こんな人が父なのだろう、と常に思っていたし、母がこんな男と結婚したのは間違いだった、と思春期には思っていたものだ。

しかし、父も若いころはきっと素敵な男性だったのだろう。
一度、深夜(でもなかったが)、座敷ですごす二人を盗み見(隣の部屋で子供は寝ていた)したことがあるが、火鉢を間にして、二人、タバコをくゆらしながら(当時、母も喫煙していた)、なんだか、とても濃密な雰囲気が漂っていた。幼い私が感じるほどの濃密さで、あわててそっとふすまを閉じたのだった。

戦後の生活にうまく順応できなかった父は屈折したものがあったろう。頭がいい、とかハンサムとか、けっこうちやほやされて育ったのに、家業はつぶす、中国から引き揚げ、家作は売り払い、と経済的にうまくいかず、長男がゆえに扶養家族は多い、兄は、父への同情を口にするが、小さな女の子だった私にはアルコールに逃げた父は許せなかった。

そんな中で、四人(一人は早世したが)の子をなしたのだから、夫婦仲も悪いわけではなかったのだろう。

私も大人になって、父の大変さを理解はしたが、いまだあまり好印象をもっていないのだ。

家族関係の苦労、そして経済的にも大変な思いを経験したであろうが、母はいつも肯定的な人生だったようにおもう。
晩年に基督教(新教)に入信、その関係で友人・知人にも恵まれた。
施設にはいっても、その関係の方たちが母を気遣ってくださり、遠くに離れている子供たちのかわりに常に訪問してくださった。

施設でも、俳句の会、合唱グループの伴奏(昔、幼稚園の先生なので、伴奏は上手だった)、自己流茶道、洋裁、趣味にもそれなりのグレードを保ち、幼稚園の教え子がまだ交際しているような、そんな魅力ももっていた。

最終的に母は、一人になってからの生活に、個人としての部分もたくさん持っていたし、憎む人、憎まれる人、そんな存在も感じられなかったので、きっと平和な人生の終末期であったのだろう、と想像するのだ。

時代も立場も違うのだから、母の生活を真似はできないけれど、娘の立場で、母の生活を肯定できるのは幸せだ。
姉と語り合う。”われらが母はえらかった!”と。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。