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職探し

山の中で隠居生活を送っていると、世の中の動きにうとくなる。
AIが一般化して、生活が変わった。
田舎にいても、政府が決めたというマイナンバーカードは持たされ、それでいて使えるところは皆無(とまではいかないが)に近い。

もう後期高齢者になって久しいから、今更働こうという気持ちにはなれないし、ヴォランチアの仕事にしても、もうご遠慮くださいという声がかかったのだから、就業の予定はない。
しかし、先日、アメリカから休暇で帰ってきた高校時代の親友が、まだ働いているというのに、ショックを受けた。本当に短時間のパートタイムではあるが、現業である。

仕事探し、就業、労働条件、給与、社会保障、人間が生活していく上で、若いときからの蓄積がどんなに大切か、この老後をすごす私にも見逃せない問題なのだ。
現代では、どういう形で仕事探しをするのか、とても関心があり、新聞の求人欄というのをみたりする。
ところが、新聞の求人欄というのがとても小さくなったのか、消えたのか、なかなかみつからない。

数日前、割と大き目の求人広告がみつかった。
それも私が若いころ、就職したいと思っていた出版社、それも正社員募集とある。
仕事内容、視覚、給与、諸手当、勤務時間、休日休暇、福利厚生、応募方法、と条件が詳細に記されている。まるで、ウン十年まえと同じ形ではないか!
資格というのをまずチェックする。年齢制限についての記載はない。会社の条件は、編集経験が2年以上、即戦力として働ける方、これは編集部門だ。業務経験が2年以上ある方(業界未経験者可)これは営業部門の条件だ。

うれしくなった。この頃、こういう形の求人広告というのはあまりない。みんなナビで検索するらしい。
実際、この出版社の広告以外は、マイナビ転職グローバル、女性のお仕事、エンジニア求人サーチ、といった職業紹介所の広告である。

もう昔むかしになる。職探しはどうするものか、わからないまま、大学卒業したのだが、大学に就職部なんてあったのだろうか。
たしか、新聞広告でみつけた朝日新聞西部本社の、新卒者求人の試験をうけた。
書くことが好きで、新聞記者はあこがれ、雑学に自信があったので、まあもしかしたら、という幸運をたよりに受けたのだが、見事に落ちた。
家を出たかったから、就職できないなら結婚、と安易な考えで、お見合いをし、婚約をし、それが中途でダメになり、東京へと出た。
いつまでも兄の家の居候もできず、仕事探すか、と新聞の求人欄を眺める日々。

親戚が働いている会社の求人広告があって、そこに応募したら、試験をうけ、面接でなぜ、この会社で働こうかと思ったのですか?という質問に、親戚が働いているから、信用がありそうで、と正直に答えると、求人担当の人があわててその親戚に問い合わせをしていた。
その日は交通費をいただいて帰宅。結果は後日、といわれたが、結局、縁故はダメだという断りの連絡があった。縁故で採用されようとはおもわず、試験をうけたのだが、と不満だった。
結局、新聞でみつけた銀座に事務所のある会社で、アルバイトで働き始め、数か月働いたところで、幼馴染の紹介で、テレビ局のアルバイトで雇用された。

テレビ局のアルバイト雇用期間が終わったあと、社員の人の紹介で別の会社に雇われた。
テレビ局もそうだったが、小さな会社だったけれど、社会保障はしっかりしていて、いわゆる失業保険(今の雇用保険)、健康保険、あとはなんだっただろう、交通費支給、など、一応、すべての条件は完備していたから、それはそれで、仕事とはそんな形でできるものだ、とのんびりしていた。

その小さな会社で働きながら、夜は学校に通った。フランス語の学校であったが、そこで掲示板に求人広告がでていた。フランス語ができる人を求人しているのは当然、ただ、その語学力の程度については別に指示がないところに電話をかけた。

電話にフランス人がでると、会話がなりたたない。ほとんど、あなたの会話力では無理ですね、と言われ、がっくりきたものだった。
しかし、一つの大使館が、履歴書を送ってください(日・仏で)、試験と面接の日は追ってお知らせします、というのにあたり、なにがよくてか、採用された。

きっとAI利用であれば、どこにもひっかからない、まずメカに弱い私には働く場が見つからなかっただろう、と思う。
その良し悪しは別にして、当時はコネという方法が、女性や中途採用の場合にははばをきかせていたような記憶がある。

今、この切り抜きを目に、もし30代だったりすれば、きっと応募するだろう、とか、ナビでの応募はできるだろうか、などと考えるけれど、これらの方法だと、最初のステップはどこで踏み出すのだろう。
つまり、ナビ求人の場合、仕事のビギナーについてはほとんど可能性がないようにも思う。

私の場合、時代がよかったのが一番だが、なんの保障もなかったアルバイトから、同じアルバイトでも一応テレビ局という名の通った会社で、保障がきちんとしているところで働き、外国の大使館はながいことなんの保障もない現地雇いであったけれど、仕事で学ぶことは多く、仕事なのか勉強なのか、自分でも毎日が学びの時間と自覚していた。

給与の面では恵まれない生活で、大使館時代には交通費も支給されないので、歩いて通えるところに住まいを探したり、毎日、財布を逆さにして、残額確認をするような生活だったけれど、充実して、友人はたくさんできたし、その時の友人が今も親しい、心を許した友人となっている。

昔だって仕事に恵まれない人は多かった。父は定年が50歳か55歳の時代で、定年になっても扶養しなければならない家族が8人ほどはいて(祖母、大叔母、叔母とその娘、それに教育年齢の子が3人いた)、貯蓄はなく、年金などない時代、長兄からの送金でしのいでいたけれど、大変な苦労をしたはずだ。
二人の姉は、とても進学はさせられないと、高校からすぐに就職したけれど、長姉などは大変に不満であったらしい。

時代、時代でいいこともあり、苦労なこともあるけれど、今の時代の厳しさは、山の隠居にもひしひしと感じられる。
今も、時々、明日までは食べられても、あさってから何を食べたらいいのか、途方にくれていた日々が夢にでてくることもあるのだ。
苦労は買いたくない。でも買わなくても出てくる。
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