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今年50年忌という父

九州に住む兄から手紙がきた。
携帯電話をもたず、固定電話のみの兄とは、なかなか連絡をとりあうことはない。
手紙というのは、年に1回、2回というところだろうか。

その手紙、亡き父の50年忌についてのものだ。
50年、気が遠くなるような数字である、それが亡くなってからの年数だと思ってのことだが。

つい先日、友人4人でのランチを楽しんだ。もとの仕事仲間、とうとう、4人とも配偶者をなくした、という境遇にある。
もっともはやくに配偶者を亡くした友が、お寺から17回忌の案内があった、という。
別の友が、13回忌まででいいんじゃない、もう17回忌はやらなくて、という。

私の場合は、昨年の12月、7回忌だった。墓守は長女に任せていたので、もう列席もしなかった。

兄の手紙によると、33回忌は兄弟姉妹、全員で行ったようだ。それから17年、まだ全員そろってはいるけれど、弟をのぞく全員が後期高齢者だ。
兄の判断は、もうやらなくてもいいだろう、ということだ。

明治生まれの父、昭和49年に死去している。
正直いって、母(大正生まれ、平成14年に死去)のことはよく思い出す。
まだ母の年齢はこさないけれど、立派な高齢者になっても、母は恋しい。
花好きだった母のために、ようやく咲き始めた庭の花を供える。そして母に毎朝話しかける。
母の写真の前では、おばあさんではない。若い娘に戻るのだ。

父にはあまり親しみを覚えなかった。こちらが物心ついたとき、父は社会人として、不遇な立場にあったのだろう。いつも苦虫をかんだような、苦虫とはどんな虫なのだろう、カメムシか?そんな顔で、夕食時にはかならずアルコール飲料を飲んでい。そういうとき、父になるべく近寄らない、というのが暗黙の行動だった。

同じ血をひく兄弟姉妹でも、父に対する印象というのは違うものだ。
父に対して、否定的な感情をもつのは私だけである。
なぜなのだろう、別に暴力的であったわけではないが、父のみせる酒に酔っただらしない姿がいやだった。他の兄弟はそれを目にする機会が少なかったのかもしれない。

世に父親っ子という存在があることを知ったのは、東京で生活を始めてからだ。
友人たちは、父親のことを尊敬の念をもって、愛情深く、近しい存在として話していた。
そういう父親が存在する、というのは私にとって想像もつかなかった。

父の生年を超えた今、父のおかれた立場も理解できるし、彼の弱さも仕方なかったことと受け入れられる。
理解はできるが、愛せるかといえば、やっぱり愛せない。
こんな感情ですごした50年だった。

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