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記憶に残るクリスマス

昨夜来、雪が降り続いている。細雪というのだろうか、ボタン雪などとは違って、糸のように細い雪が、切れ間なく、風の動きに従って、右から左へ、下から上へと舞っている。
今日は12月24日、クリスマス前夜だ。
雪が積もっているからホワイトクリスマス、でも一人きりですごすからロンリークリスマス、気持ちはあまり盛り上がらないからブルークリスマス、しかし、とても静かだからサイレントクリスマス、と形容詞を考える。

さて、過去にすごしたクリスマス、いくつか思い出すものがある。
第一は、南仏に住んでいた時のクリスマスだ。
4月だったろうか、復活祭のとき、カトリックの洗礼を受けた。そして、最初のクリスマスイヴ、私自身の洗礼名にゆかりのある、洞窟でのミサに出ることにした。
つれあいは信者ではないし、深夜、寒い中、そんなところまでいかないという。友人夫妻が同行してくれる。
洞窟は、山のてっぺん近くにある。駐車場からそこまでは歩く。登山道には小さなろうそくがともされ、足元は危険はない。
とてもセレモニアルな生誕祭を期待していた。
ところが、あっさりしたものだ。ただ、真ん中に生誕の場、つまり馬小屋のしつらいがあり、そこに、ミサの行進時に赤ちゃんのキリスト像を運んでくる、というだけだ。
もちろん、ろうそくの数は普段より多いだろうし、神父様のお声も朗々として、洞窟の中に響き、荘厳さはあるけれど、苦労してきた割にはあっさり、さっぱりしていた。
ただ、ごミサのあと、そばにある司教館でのお茶に与ることができた。
南仏、マルセイユ周辺では、クリスマスの13のデザートというのが有名だ。
しかし、これもドライフルーツが主で、こってりした、手の込んだケーキが食べられると期待していたけれど、なんということはなかった。
ただ、聖体拝受は洗礼を受けたものでしかあずかれないし、洗礼名ゆかりの教会でのこと、とても感激だった。

次に印象深い生誕祭ミサは、アフリカでのことである。
12月24日、南緯6度にあるその都市は、夏まっさかりである。
アフリカに行って、初めてのクリスマス、毎日曜日のごミサは、近くにある修道院のチャペルに通っていたが、クリスマスは教会で、と決めていた。
徒歩20分くらいのところに大きな教会がある。教会の名前は忘れてしまった。
往路は歩いて、帰りはつれあいに車で迎えにきてもらうことにした。
一人ではとてもいけない。修道院にいらした日本人シスターが同行してくださる。

生誕祭だから夜、何時から始まるというのだったか、記憶にないが、6時か7時だったろう。
時間前に到着したが、あまり人は多くない。適当に席を得て、シスターと座って待つ。
真っ白のドレスに真っ白の手袋をつけた小学生高学年か中学生くらいの年頃の女の子が、ダンスを始める。
ごミサの前にアトラクション?と不思議で仕方ない。
それにしてもまだ始まらないの?とシスターに聞くと、もうすぐでしょう、といわれるが、席はまだたくさんある。
7時がすぎ、8時も過ぎた。時間厳守になれた私にとって、もうイライラだ・
シスターたちが、ここはアフリカだから、とおっしゃる。

結局、9時くらいに、人ががやがや、あっという間に広い教堂は満杯になる。人いきれがすごい。
神父様たちの行列が入場して、ごミサは始まる。
何か違う。アフリカのごミサは何か違うのだ。
どこがどう違ったか、もう記憶に残っていないのだが、違っていた。

帰りが大変だった。大教会にあふれんばかり、実際あふれていた人たちが一斉に帰るのだ。
まだスマホなどない時代、その当時は無線の電話があった。つれあいは自宅で電話を待ち、われわれを迎えにきてくれるはずだった。
迎えを待つ人はほかにも大勢で、車がきたり、あるいは徒歩で買えるひとたちの群れがあふれているし、街灯はなく、人の姿もはっきりしない。なにかがうごめいている、という感じなのだ。
運転が上手ではないつれあいが、どうにか来てくれたけれど、なかなか車までたどりつけない。
車に乗り込むまでも小一時間はかかった。つれあいは機嫌が悪かったけれど、シスターたちの前では我慢だった。
シスターたちを修道院へお送りし、自宅へ戻った。もう12時を過ぎていた。
もういい、来年はいかない、と宣言した。
その翌年、内乱がおきて、その国を離れた。最初で最後の体験だった。

救い主のご生誕を祝い、世界の平和を祈ることもう2000回は過ぎているのに、なぜ、平和にはならないのだろう。
もちろん、救い主と思うのは、クリスチャンだけだが、それでも一度くらい、キリストのおかげです、と全世界が、地球だけでいいです、平和を実感したい。
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