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16年の介護生活

友人の一人が、つい先月、母親を亡くした。
2年ほど前に父親を亡くしていたので、一人娘の彼女は天涯孤独の身となった。

聞いてびっくり、父・母の介護生活は、16年に及んだのだそうだ。
母親が少し(あとではとても希少な難病とわかったけれど)難しい病気になったので、働くことをやめる、といったとき、彼女は中年であった。
いまや、立派な高齢者となっている。

介護生活がスタートしたときは、まだ父親は健在で、年齢はいっていても、介護は二人であたったようである。しかし、徐々に高齢化の印も現れ、結局、彼女一人の肩にかかった。
もちろん、途中からは公的な介護支援もうけたようだが、母親はがんとして長期の入院および、専属の看護師を雇うというようなことを拒否し、ただただ彼女を頼った、とか。

私にはできない。
たとえ1年でも。
まだ働き盛りで仕事を離れ、つまりは収入も断たれ、看護・介護に徹する、これは無理だ。
でも彼女はそれをした。そしてそれについて後悔はしていない、という。
幸い、彼女は一人娘(それが幸いだったのか、介護を他と分けあうことができないという点で、不幸だったのかはわからない)、相続に問題はなく、また彼女が一人、人生を全うするだけのものは、残っているらしい。

それだけは幸いだったが、16年、介護に明け暮れ、社会との接点が最小限であったがゆえに、この解放されたあとの生活が、まるで新入生、新入社員のように、目新しいのだそうだ。
地下鉄やJR,バスなどに、スイカやパスモができたこともしらず、街の景色も変わっている、道に迷うなどと言っている。

えらい、と思うけれど、こういう生き方を選べる人はごくごくまれであることを言いたい。
彼女は自己犠牲であった気はない、というけれど、これは犠牲そのもの、だ、強制されていなくても。

私ならどうする?だ。
我が家は割り切りがいいのか、父は早くになくなり、母は89歳まで生きたが、ある年齢のとき、さっさと介護付きの施設を自分で探して(医者をしている親族のたすけもあったが)、移り住んだ。
施設は途中で変わったけれど、最後は施設で亡くなり、その間、さしたる不平不満は聞かなかった。
九州と東京、離れていたので、年に2,3回帰省して、その間、見舞いに2,3時間行くというだけで、しっかり親孝行の気分でいた。

もし、母親が自宅での介護を望んだら、東京から戻って面倒をみただろうか? それはない。
この点では、家族にも全員、共通の考えであったのだろう、だれが引き取る、ということも言い出さないし、それを冷たいとも思わなかった。母自身も、住み慣れた町から移るというのは考えていなかっただろうし、また施設では、いろんな友人・知人がひっきりなしに訪問し、寂しいことはなかったようだ。

連れ合いについても、入院後4か月で亡くなったけれど、当初、病気が悪化するつもりがなく、でも、退院後は自宅は無理だ、介護設備のついた施設に入りたい、と本人も言っていたし、それで当然なのだろう、と思っていた。
冷たかったのかな?自宅で療養したかったのかな?

16年は別格だが、6年間、親を看病・介護した、という友人もいる。
もう介護しなければならない、義務を負う人はおらず、これから、こちらが介護されそうな環境にあるが、私を看る義務のある人はだれもいない。
ヤングケアラーの問題もあるけれど、介護離職や介護離婚、介護にまつわる問題は多い。

自分に言い聞かせる。美談はケースが少ないから美談なのだと。
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