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懐かしのウインブルドン

今朝3時過ぎ目が覚めた。ずっと睡眠状態がよくなから、時々そんな時間に目がさめるのだが、時間をみるためにテレビをつける。
画面に出たのは、おおなつかしい!ウインブルドンではないか。
男子シングルスが試合中だ。

うーん、これは見るべきか、見たら眠れないのがもっと眠れなくなる。3時というのが微妙だ。5時ならそのまま目を覚ましたままいることも可能だが、3時、4時というのはそうはいかない。

ちょっとつけたままにした。試合はジョコヴィッチと誰か。この頃、選手名が覚えられない。昔ならランキング20位くらいまではちゃんと覚えていたのに。
なんと、ジョコヴィッチが2セット先行されている。
3セット目で勝負が決まるかな?ちょっとみてみよう、と思ったのがよくなかった。

画面がなつかしい。選手の着ているものは全部白、これがウインブルドンの決まりだ。
昔はボールも白だったが、黄色のほうが見やすいというので、ある時から黄色のボール(今やこれしかないけれど)になったのだ。
芝生のコートといっても、芝はもう擦り切れている。

ウインブルドンの大会は、3-4回観戦したことがある。相当昔の話だ。
いずれの回も、どうやって行き、どうやって帰ったか、記憶にない。
センターコートの、招待者席のチケットを入手していた。
午後2時から始まる。なぜ?と不思議でならなかった。午後2時から、日没まで、となると、終わりの時間は9時くらいになる。そんな時間まで明るいから、時間の感覚で、帰宅がこわいということはない。

試合の運び方、現場のスタッフ、例えば案内係やボードの点数を変えるとか、そんな仕事が全部ヴォランチアであること。警察や軍人などのヴォランチアは制服姿で、実に大勢のスタッフをそんな人たちで執行されていた。
センターコート、No 1コートは指定席、そのほかのコートは早い順、指定席券を持っている人が、もう見ない、帰るというときは、スタッフの人にチケットを渡す。そうすると、そのチケットは再度売りに出されて、もう一度価値を生むことになる。

私はそのやり方がとっても素敵とは思ったけれど、試合は最後の最後まで見ていくぞ、と寛容な人にはなれずにいた。
日本人女性としては身長があり、まだ若かったからだろう。そしてその時、トレーナーを着て、いかにも選手っぽい服装をしていた。
交通機関を待っていると、ラッキーな日だった?と声がかかる。選手と間違えているのだ。
おう、そんな雰囲気あるのかな?とうれしくなったけれど、肩をすくめると、またチャンスがあるわよ、と言ってくれる。

結局、このウインブルドンの切符が入手できるときは、勤め先の休暇をこれにあわせた。7月初めだ。
2回目か、3回目の時だ。ちょうど、パリの知人の娘の結婚式と重なることになった。
母も結婚式に招待されていた。母に、結婚式のあと、一人で日本に帰れる?と聞くと、あなたはどうするの?と聞いてくる。正直にロンドンに渡って、ウインブルドンを見る、というと、お母さんも行きたい、という。
チケット入手の難しさなどちっとも気にしていない。
チケット入手を依頼している人に無理を言わなければ仕方ない、と母も同行することになった。

その時は、もっと大変になった。孫娘、私にとっては姪になるが、ちょうどイギリスのどこかに夫の転勤で住んでいた。おばあ様がロンドンにいらっしゃるのなら、会いにいきます、という。その姪はテニスを大学でもしていて、いわば私以上にテニス狂。どうにかしなければ、と3枚目を嘆願することになった。
試合はオープニングから2日目で、センターコートの第一試合は、昨年の女性優勝者、ナヴラチロヴァであった。まだ人が少なく、第二セットからコートサイドに席を移して、しっかり近くで観戦する、という、当時ののんびりした雰囲気に、母は大感激だった。

最終回の観戦は、姉とだった。姉はクウェートに、私は南仏に住んでいた。チケット2枚を入手できる、と言われたとき、日本から友人にきてもらうのも大変、クウェートの姉なら、やっぱりテニスをしていたし、子供たちは寄宿舎にいれているし、これるかもしれない、と声をかけると即、のってくる。
ロンドンで待ち合わせだ。チケットは雨天中止を警戒して、2日連続でとれた。
なんという幸運。試合はちょうど、シュテフィ・グラフと伊達公子の準決勝戦の日となり、1日目は雨で試合が後にのび、順延となった。その日、伊達公子のリードで終わっていたので、日没順延で、会場から出ると、出口近くで、日本のメディアがインタヴュー相手を探している。

翌日、試合の再開を待ちながら、公衆電話で九州に住む母にかける。姉が「今、どこからかけてるかわかる?」と問うと、あっさり「ウインブルドンでしょう」と答えている。
もう日本のテレビでインタヴューが放送されていたのだ。姉の友人がそれに気が付き、ヴィデオにとって、母のもとへ知らせてくれたのだとか。
伊達公子は結局、敗退したのだが、当時女子ナンバーワンだったグラフに、一時はリードしたという実績をあげ、日本人ここにあり、みたいな気持ちをもった。
外国にいると、やっぱり日本人の活躍がうれしいのだった。

当時、試合中に上空をコンコルドが飛ぶこともあった。
だいたい、第一週のチケットだったので、貴賓席に王族が表れることはなかった。

試合の合間に、グッズを買いにいったり、ウインブルドンがはしりであるという、ストロベリー&クリーム(日本と季節感が違う)を食べたり、コート外の見物も楽しかった。
センターコートすら露天で、しょっちゅう驟雨があって、そのたびにボールボーイたちが息をあわせて、コートにカバーをかけ、また雨があがってしばらくすると、審判などがあらわれ、ボーイ(ボーイだけに限らず、ガールもいたが)、カヴァーをしまう、そのきびきびした動作を見るのも楽しみだった。

なにもかもが今は昔、でも、今でもナイスプレイには拍手を、というのは変わらないようだ。しかし、ブーイングも多くなったような気がする。
テニスから縁が遠くなってから、関心も薄く、今や、選手にはどんな人がいるのか知らない。選手をしらないと、テニスも興を感じない。グランドスラムといっても、フランス、イギリス、アメリカともなると、時差の関係でうまく見られない。

一度同行した姪がいう。今や、ウインブルドンのチケットはプラチナを超えています、と。
あの時が一生の思い出です、ともいう。
母もよく自慢していた。あたかも自分の力で行ったように。
私も、僥倖ともいうべき、友人の力でチケットを入手していたが、いまや宇宙との距離も同様の遠さだ。
それをなつかしんで、ジョコヴィッチが2セットダウン、そして3セット取り返して逆転勝利、を見ているたら、今日は一日、ふらふら、よろよろ、明日からは、新聞テレビの結果報道だけで満足せねば。

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