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我が家の運勢を占うのは水晶球

我が家には直径10センチを超える水晶の球がある。
原産地はアフリカ、だからというのではないが、鑑定書がついているわけではないので、本当に水晶なのかどうか、一抹の不安はある。

しかし、我が家にいらした人たちは、絶対水晶よ、と保証してくださる。
その保証が信用できるかどうか、それも不安だ。

しかし、真正の水晶、とこちらが信じれば、話は簡単で、水晶が運勢を占う道具になるかどうかはしらないが、「鏡よ鏡、世界中で一番美しい女性はだあれ」と聞くように、「水晶さん、さあ、私の運命はいかに?」と聞くことは禁止されていない。

物事がうむくいかないとき、聞いてみる。「どうすりゃいいのさ、水晶さん、教えておくれ」と。
球の真ん中を覗いてみると、自分の顔の一部が歪んでみえたり、手にとっての手の変形が見えたりするだけだ。

一度ならず、占い師みたいなことをした。小学校で読み聞かせをしていたとき、この水晶を学校に持参し、6年生に見せたのだ。自分で覗いてごらんなさい、何が見える?別になんにもみえない?じゃあ、まだあなたの運命は決まっていないのよ、毎日を大切にすごしなさい。そのうちに運命が決まると、この水晶にでてくるかもしれない、などと言っていたのだ。

水晶に限らず、鉱石は好きだ。宝石とまではいかないが、いろんな珍しい石のコレクションをしていたことがある。
アフリカにすんでいるとき、道がでこぼこだったこともあって、足元をみての歩行だったが、でこぼこに注意するだけではなく、ダイヤモンドでもみつからないか?と探していたところもある。

自然のものは興味深い。貴石ならずとただの石ころを宝石みたいに大切に私に預けた幼稚園児がいる。
いまは小学生になり、別のところに住んでいるが、先日きたとき、あの石は?と所在を聞いてきた。ただの石だからと捨てるわけにはいかなくなった。

今日も不安なことがあって、ちょっと水晶さんに聞いたが、汗をかいた顔がちらりと見えただけだった。私もまだ運命不定らしい。
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ネイトーって何?

現在、ドイツでG7が開かれている。そのあとは、NATOの会議があるという。
このNATO、日本ではナトーと呼んでいるが、英語圏ではネイトーである。AはエイだからNが先にあってネイとなるのか、と気づいたのはトルコ旅行時であった。

もう何十年も前、外国語の知識はおぼつかないもので、毎日がはらはら連続の旅行だった。
イスタンブールのお土産屋さんで、店主といろいろ話をしているときだ。彼の口からネイトーという言葉が出た。何、それ?である。
彼との会話を続けているうちに、ネイトーはNATOであること、トルコもその一員であること、が分かった。
わかったけれど、理解したとは言えなかった。
イスラムの、まして半分以上はアジアにあるトルコがナトーの一員であるとは、それは嘘でしょう、といいたかった。
ホテルに帰って、何かで調べたか、店主のいうことがすべて正しかったことを知った。

G7についても、知っておかなければならないことが多い。
始まりは1975年、当時の仏大統領ジスカール・デスタン氏ガ提唱し、当時のエネルギー危機を打開するため、先進国のトップたちガ直接話し合おうというものだった。
それまで先進国の首脳が一堂に会する機会はなく、画期的な試みだった。
呼び名はConference au Sommet(アクセントの印がいれられない)、sommetが英語ではsummitなので、日本ではサミットと呼んでいる。
開催順序は、国力順みたいなもので、まず提唱国のフランスから始まり、アメリカ、イギリス、あとの順序は忘れたけれど、アジアで唯一の参加国に選ばれた日本は、サミットとなると気のいれかたが違う。

それはさておき、この4月からウクライナの地名が、ウクライナ語の呼び名に変わった。
それより前、ロシアの侵入が始まったときから、地名についてはいろいろ言われていた。
キエフKievというのはロシア語風表記で、ウクライナ語であればKyivとなるのだそうだ。
1995年より正式な名称になったらしが、イギリスは2014年からKyivを用い、アメリカは2019年からだとか。英米、英語ではキーヴと発音するらしい。
BBCやABCを聞いていると、キーヴと言っているのには気づいていた。
フランスの放送では今でもKievを使っている。これはきっとロシア語を使っているのではなく、フランス語ではこのように表記するのだろう。

国名、都市名、地名の発音は難しい。日本ですらにほんなのかにっぽんなのか、よくわからない。
河野太郎氏の「日本を前に進める」という本を読んだ。
その46,47、48ページに彼が総務代診政務官にあったときの改革が書いてある。
外務省流の国名、地名表記の全面改定したのだそうだ。(2002年1月任命)

当時の書き方では、ヴィエトナム、トゥヴァル、ニュー・ジーランド、連合王国、ロス・アンジェルス、ニュー・ヨーク、などの国名を・都市名を日本風に書き改めさせたのだそうだ。
ベトナム、ツバル、ニュージーランド、ロサンゼルス、ニューヨークなどに替えられたのだそうだ。
連合王国については、どう変えられたか、文中にない。

この変更、ヴァをバ、など表記をシンプルにという動きの一環もあったときかもしれないが、彼はそれによる不便さを意識していない。
連合王国は、イギリスのことだが、イギリスはイングランド、スコットランド、北アイルランドなどが連合した王国、英語ではUnited Kingdom, フランス語であればRoyaume Uniとなり、普通UKの略号で知られている。
これで昔は苦労した。イギリスなんて呼び方は江戸時代、エゲレスと呼んでいた流れの呼称ではないか。イングリッシュなんて言っても、英語はそう言えるけれど、国名をいう場合、UKと言わねば通じない。正式名称はもっとややこいけれど。

ニューヨークにしても、ニューとヨークの合体したもの、つまりは新しいヨークだとわかるためには中ぽつがあったほうが分かりやすい。
もう改称されて20年、新しい呼び方にならされてはいるけれど、日本の常識、世界の非常識というように、日本語で覚えた外国の地名がどれだけ通じるものか、彼は実際を知っているのだろうか?

国際組織(特に国連関係)のほとんどは英語とフランス語での名称がある。
NATOはOTAN、WHOはOMS、といったようにだ。
国連のOUN(Organization of the United Nations)はONU(Organisation des Nations Unies)、

5歳の幼稚園児が、世界の国旗を覚えている途中だ。そこに国名を正確に、と注文をつけている。
英語も勉強中なので、国名は英語でも覚えているらしい。がんばって!

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Il faut lever son verre

今朝、起きると同時にひらめいた。
今日は飲むぞ!

この頃の生活はひらめきで展開している。昼、夜、何を食べるか、今日は何をするのか、ひらめくとその日がスムーズに運ぶ。

今日、飲むぞ、と思ったのは、数か月前に買ったワインだ。
ジョージアワインである。
一人飲み用に買ったのだけれど、ひらめきがなかった。

久しく一人のみをしていない。1年以上かもしれない。
もちろん、夏場、庭仕事などで汗をかけば、夕食時にビールなどを飲むこともある。
今日のひらめきはそれとは別物だ。

ポーランド人の友人から勧められたワインだ。ジョージアワインは初めて飲む。
ワインを飲むからにはそれなりの準備がいる。まずは心構えだが、それは朝からできた。
物理的準備だが、それがちょっとあやしい。
ワイン向きの食事が準備できるかだ。

昼間、散歩をしていても、庭仕事をしていてもルンルン気分だ。
物理的準備にはばかばかしいこともある。
つまり、入浴を食前にするということだ。

冬場、入浴後、すぐにベッドにはいって、熱をキープする、という習慣があった。
さもなければ、体、特に足が冷えて、安眠できない。
その習慣がまだ続いていて、入浴は食後に、と決めていた。

生活手順が今日から変わる。

さあ、楽しみの食事がスタートする。
ワインにあうような前菜はどうにかできた。
ジョージアワイン、面白い容器に入っている。ガラスのびんではない。茶色の焼き物にはいっている。

自分でオープナーを使って開けるというのは久しぶりのことだ。ワインは一人のみするものではない、というのが信念だったのだが。

うーん、おいしいのかおいしくないのか、判断ができない。まずい、とは思わないから、おいしいほうに分類できるのだろうが、とてもおいしい、と言えるのか。
先日、友人宅で開けたボルドーはおいしい!と思わず声が出たのだが。

評価を分かち合う友人がいない。
張り切って大き目のワイングラスについだので、一杯で十分だ。

今朝のひらめきが否定されたわけでもない。
今日の一日、とてもいい日だった。
庭仕事、午前と午後とした。午前は主として満開のバラの手当、午後は花が終わったマーガレットを片付けた。散歩もできた。

今日は飲むぞ!というひらめき、このワインを飲み上げるまでは続かなければならない。
La vie en rose、昼間に切ったバラに囲まれて酔い心地満点だ。

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体験した最高温度

昨日、今日と暑かった。1000メートルはある高地だが、最高気温は30度を超えている。
それに熱風が吹いた。緑の木々に囲まれているから、風はだいたい涼しい。だが、まるで、アフリカ、佐原砂漠から吹いてくるシロッコのように、熱をもって、周りの気温をあげていた。

今日は6月で40度を超えたところがあった。夏の暑さで1,2を争う伊勢崎だ。
そこと競う気持ちはないけれど、思い出の最高温度を引き出す。

エジプト旅行をしたときのことだ。アスワンというナイル川上流の町で、50度近くあった記憶がある。
しかし、気が遠くなるような暑さではなかった。それよりはよほど低いカイロのほうがよほど暑かった。湿度の違いだったのだろう。近くにはアスワンハイダムがあったりで、水気はあるのだが、それ以外はからからに乾いていた。

次に暑かったのは、やはりアフリカのコンゴだった。赤道直下ではない。南緯6度とか7度?、ほとんど赤道だったけれど。
したがって、温帯のような四季はなく、乾季と雨季だけ、乾季は暑く、雨季は涼しいといわれていたが、雨季も暑かった。
住まいに冷房はあったけれど、電気の供給が気まぐれで、すぐに停電するし、停電がどのくらい続くのか、神のみぞ知る、ような状態で、当時は発電機もつけていなかったので、うちわ片手に凍らせたペットボトルを膝にのせたり、体のあちこちにくっつけたり、そんなことでしのいでいた。

そんな当時のお思いでをたどると、いま電力が足りなくなりそうで、節電、節電とお経の一部のように唱えているのがおかしくなる。強制停電にしてしまえば、問題解決、と乱暴なことを考えるが、今ではすべてのものを電化している生活なので、停電だけは困ります、となっている。

そういえば、とまた別の思い出がでてくる。アフリカで生活している人、アフリカの人だけでなく、その地に移り住んでいるひとも含めて、だれもが湿った肌だった。
今思えば、常に汗をかいた状態で、その汗が蒸発することで、体温をさげていたのだろう。
握手しても、女性の間で、アンブラッセというほっぺをくっつけあう挨拶をしても、相手の肌が湿っぽくて、最初は気持ちが悪かった。しかし、その機能に気づくと、自分だって湿っぽい、とタオルで神経質にふき取っていたことをやめた。

何年のことだったか。フランスで夏の高温が社会問題になったことがあった。7月か8月のヴァカンスシーズンに猛暑がおそい、パリに住んでいる高齢者が、孤独死をしたり、瀕死の状態だったりで、見つかったのだ。
その家族たちは、ヴァカンスに出かけていて、連絡がつかなかったり、ついた家族でも、ヴァカンスが終わったら帰りますから、そちらで葬儀までしておいてくださいというようなケースもあって、孤老という問題がクローズアップされたのだ。

その当時まで、パリの夏は涼しい、という定説があった。緯度からいえば、北海道の室蘭あたりらしい。だから、冷房は必要なく、暑いときにはデパートやスーパーにいけばいい、というのが常識だった。

いまや、それは非常識になっている。いくら7,8月は別荘に出かけて、パリにいないから、といっても、もう5月、6月から暑い日はある。
早朝に窓をあけ、冷気をいれたら、あとは鎧戸を閉めて日光を遮るのが、夏の暑さを避ける方法よ、と言っていたご婦人、今はそれは通じません、と教えてあげたい。

暑くない夏、冷夏も問題だけれど、もう亜熱帯に分類されてもいい日本の気候を考えると、昔の常識、今非常識、となるようだ。
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文明の利器とはいうけれど

アフリカの資料を整理していたら、当時、宣教でいらしていた日本人のシスターからいただいたアフリカの讃美歌をいれたカセットテープがでてきた。
毎日曜日、住まいから10分ほど歩いたところにある女子修道会のお御堂でのミサにあずかっていた。
もともと、そんなに讃美歌を覚えていなかったけれど、そこでは半分がアフリカの音楽だったように記憶している。
シスターがご自分でまとめられたのか、カセットをくださったのだ。

なつかしい、聞きたいな、と思ったが、もうカセットを聞くための機器がない。
ああ、カセットとCDを両方聞ける携帯ラジオがあったはずなのに、それも2台、と思ったが、もうとうに処分している。
現在使っているラジオは、FM, AM、AUX, USB, PC, Network、CD, BLUETOOTHと変えられるようになっているが、カセットを聞ける機能はない。これで聞いているのはFMだけである。

テレビはカセットとディスクの両方を見られる付属機器をつけたけれど、結局、カセットは1,2度見たか見ないかである。

多機能の機材を買っても利用しない我々を、若い人たちは軽蔑したものだ。

ラジオ、テレビだでけはない。このパソコンもしかり、スマホもしかり。

でも生きている。どんなに機能がついていても、人間の使える時間は限られている。テレビでは与えられたプログラムの中から気に入っている番組だけを見るし、そんな番組がない時間は消している。
ラジオもそうだ。クラシック音楽の時間にはラジオをつける。もし好きではない音楽であれば消す。
無音の時間もいいものだ。

そんな私のために、友人がiPadなる機能をいれてくれた。好きな音楽を好きな時に、好きなだけ聞けますよ、と言われた。それは便利ね、と言い、姉がいつもそれで音楽を流しているのは知っている。
しかし、結局、スマホでそれを聞いたことはない。

友人はとても歯がゆい、という。高いお金を出して、多機能の機器を持っているのに、それを利用しないのは、そんな機器を軽視することだと。

しかし、そんなに多機能を24時間使っていたら、目や耳を休ませる時間はないし、好きなものだけに囲まれることになる。一種の自発的囲い込みだ。
ラジオでクラシックの番組から、好きな音楽が流れれば、ああ、今日は幸せ、と思い、テレビの映画で、昔懐かしの映画、それも思い出深いものが放送されると、そんな時代もあったっけ、と郷愁に浸れる。浸りっぱなしよりはたまにのほうがいい。
新しい発見もあったりする。同じ曲でも演奏家の違い、オーケストラの違い、映画も最近もものもみられることがあるし、そんな程度の満足度で十分だ。

先日、90歳を超えた知人の女性が、古い手紙を送ってくださった。私が初めて海外旅行、それも6か月、お金がなくなるまで、とヨーロッパを放浪したとき、パリから出した航空書簡という定額の手紙である。「もうお金がなくなったので、帰ることにしました。この航空書簡が最後の手紙です」と書いている。
今も航空書簡というのはあるのだろうか?
この頃は、もう外国からも手紙は出さない。スマホで、無料の通信も可能なのだから。
レトロな手紙、カセット、当時はそれでも先端だったのだ。
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ついでに電話機も

パソコンと同時に電話機も購入した。
というのは、パソコンと同時期なのか、もっと以前からなのか、以降なのか、もうわからなくなっていたが、固定電話の親機も子機も調子が悪かった。親機のファックスは機能せず、子機の液晶は消えてしまい、かろうじて、会話ができるから使っていた。

電話機について、パソコンほど複雑ではなさそうだったので、別の電気店に何かの部品を買いにいったとき、店員さんに問い合わせたこともあった。そのとき、半導体不足で在庫がなく、半年ほどお待ちいただくことに、と言われ、断念したことがあった・

パソコンをパッキングしてもらいつつ、そんな話を持ち出して、電話機も必要なんですが、と聞くと、在庫はあります、という返事。一緒の友人も、一緒に買っちゃえば?そのセットもしてあげるから、と言ってくれる。
話はとんとん、いくつかの機種があったけれど、親機と子機1台の組み合わせで購入する。
今回は、録音装置、あるいは番号チェックもできるものにする。

電気製品に限らず、なにかちょっと大きいものを買うとき、ついでに、とほかのものもセットにして買うことがある。
今回、パソコンと電話機を一緒に買っても、何かの特典がつくというわけではないが、自分でセットしなくていい、というのはなによりの利点っである。

この年齢になると、すぐに電話の歴史を思い出す。まさか、エジソンの時代から知っているわけではないが、わが実家に電話がつけられたときはいつだったか、おもいだそうと記憶をたぐる。
もちろん、真っ黒の電話機、壁掛け式だったっけ?思い出せない。
しかし、当時、子供の私に電話をかける権利はなかった。
市内電話はダイヤルで、市外通話は交換手に申し込むのだったような。

自分の電話をひいたのは、白金に住み始めたときだった。
権利金みたいなものが必要で、30万円ほと、大金だった。
当時、外国駐在だった姉の一家が、夏休みで帰国、引越してすぐのわがアパートに滞在する、というとき、電話がないと不便だから、とその権利金を貸してくれた。

黒い電話機、ダイヤルをまわすスタイル、電話機をもってかける、というようなスタイルを映画でみて、電話線はとても長くし、玄関からベランダまで電話機をもってうごけるようにした。
今のように、電話機にコードがついていない時代ではなかった。

今、固定電話を持っている人は少ない。電話が世帯に1台、という時代ではないのだ。
若い人はもちろん、高齢者だって個人で持っている。
そして、顔をみながら電話もできるし、外国にだって、自在にかけられる、というと、私の祖母、もちろんもうあの世に住んでいるのだが、「おだんもいやいや、じょうけにおよばん」(おだん:自分のこと、じょうけ:条件)(筑後地方の方言、驚きをあらわす)と言いそうだ。

携帯電話が普及し始めたのはいつ頃だったろう。南仏にいるころは電話はファックスがついているのが進歩の最先端で、外国へ電話するのに交換手はもういなかったけれど、その程度の進歩だった。
そういえば、車に電話がつけられていた。外出先のつれあいに連絡をとりたいとき、車にかけていた。

アフリカのときは、車に電話はなく、衛星を利用したケーブルなしの電話だった。
すごく高価だったようで、私には与えられず、ある夫人たちの会合に出席していたとき、動乱発生、そこにいる婦人たちの電話がその連絡ですべて鳴り出した。私一人が状況がわからず、ぽかんとしていたことを覚えている。

つれあいも古い世代の人だったので、携帯を持ち始めたのはとても遅かった。最初は夫婦で共用、外出する人が持って出る、というような使い方だった。
世代が古いからか、電話というのは、緊急に使うもので、長電話はしてはいけない、とつれあいからしょっちゅう言われていた。
今のような、かけほ(かけ放題)だから、というのはなかなか電話マナーにあわないのだろう。

などと、いろいろ電話のことを考えながら、どうしても固定電話にこだわる私自身、古い人間だと自覚する。
電話は自宅で、落ち着いてかけるもの、相手からの電話も、自宅で受け取る、それが原則だ、とつれあいに言われなくても、しみ込んでいる。
また、固定電話にこだわらるのは、実家の兄夫婦、そして何人かの超高齢者たちが、固定電話にしかかけてこないこともある。

固定電話が遺物となりつつある現在だが、25年にあるという太陽フレアなどで、通信機器が混乱するというとき、きっと役にたつのではないか、と一応それまではと思っている。
2011年の東日本大災害のときでも、有線の公衆電話は機能したのに、携帯はトラブったではないか、とか、自分なりに納得の理由をさがいしている。

年齢を重ねると、古いものも大切に、いつかきっと役に立つこともある、と言い聞かせながら、ちっともならない電話をみつめている。



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最初のパソコン

今回入手したパソコンが最後になるかどうか、それは確言できないけれど、最初のパソコンははっきりしえいる。

もう何年前になるのやら、まだパソコンは今ほどに普及しておらず、値段も高かった。機能自体もまだあまりなかったように思う。
友人の一人が、パソコンを買い替えたいのだが、今までのパソコンも十分使えるものだし、下取りしないか?と言ってきた。

当時、私の職場では、ワープロは支給されていたが、そろそろパソコンに変えようという機運はあったものの、やはり一人一台というには高価すぎて、先に進んでいなかった。
ワープロもちゃんと使いこなしていない私としては、時流に乗り遅れるのもこわいし、レッスン付きという彼の勧誘に乗って、personal computer、フランス語ではordinateurと言っていたが、を入手したのだった。メーカーは東芝だったような記憶がある。

機械に弱い私のこと、教えてもらっても使いこなせなくて、かろうじて、ワープロ、つまりは書類作成あるいは資料作成、文章を作ることはできるようになった。

そのパソコン、いつまで使っていたのだろう。
南仏に住んだとき、当時流行していたピーター・メイルのプロヴァンスものに刺激をうけ、日本のプレスに生活エッセイを送っていた。
しかし、パソコンから直接送っていたとは考えられない。というのも写真付きで送るのに、添付などできず、紙焼きの写真を添えて送っていたはずなのだ。

アフリカでも同様だった。アフリカに関する日本語資料は少ない、と現地で発行されるものはあまりなかったけれど、旧宗主国での発行物などを入手しては、やたらパソコンに入力していた。
内乱がおきて、避難せざるを得なくなったとき、パソコンが重いことと、変にまた戻ってくる誓いの印、と粋がって、避難の荷物にいれなかった。
あとから避難したつれあいは、そういうケースに慣れているのか、自分のパソコンはしっかりもってきていた。
結局、避難生活は1年ちかくに及び、パソコンのない生活に不便はないのだが、新しいパソコンを買い求めた気がする。

だんだん性能がよくなって、プリンターもパーソナルになり、機能の面でもエクセルだ、検索機能だ、写真をいれる、なんだかんだと画面に印が増えていくけれど、私には関係ない、と学ぶことがなかった。

エクセルで家計簿つけましょう、と言われても、ノートにつけているからいいです、と言い返し、ウイキペディアには、昨日みつけたデータがでてこない、と癇癪をおこすことしきり、どうしてもレトロな紙の資料だよりの旧人類から脱却できなかった。

南仏やアフリカで入力していたデータ、いまさら役にたたないのだろうが、パソコン、当時はフロッピーに移し替えたものが今も残っている。
つれあいが、なにかの形で、次のパソコンに移してあげるからと言っていたけれど、果たしてそうしたのだろうか。
そしてその次のパソコンももう残ってはいない。

こういう形での進歩というのは、はたしていいのだろうか?
ついていけない人間には、うっとうしいことだ。

アフリカにいたとき、地元のラジオ・テレビは数時間の放送しかなく、それも同じ音、同じ画面がずっと続くといったメディアとはいえないものだった。
旧宗主国やアメリカの放送が頼りで、パソコンにyahooやほかのニュースが表れていたのだろうか。

マスメディアにも信を置ききれずにいる人間にとって、パソコンに現れるニュースなど、うたたかのあぶくニュースだとしか思えない。

パソコンをフルに利用している友人たち、現役もいれば引退者もいるが、たいしたものだ。

今日は郵便配達、あるだろうか?メールより郵便の手紙が待たれるロートルである。
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最後のパソコン入手

ようやく新しいパソコンを入手した。
昨年来、以前のパソコンの起動は時間がかかり、転換ミスだけならともかく、転換もしてくれなくなって、イライラが募り、それかといって、パソコンにむかって悪口雑言で文句を言っても、なんの反応もなく、かえって問題が増えていくだけ。
開く気にもなれず、それかといって、月に1回は開く用事があって、食卓や出窓、連れ合いが使っていたデスクの上、と居場所定まらず、邪魔者扱いだった。

新規購入は考えても、その種の情報にうといこと、どこのお店でどんな製品を買えばいいのか、買ったあとで何をどうするのか、まったくのノーアイディア、成り行きにまかせて、パソコン不使用の日々を送っていた。

それでも、マイクロソフトのサービスが終わります、などとテレビで報じられれば気になる。
友人の一人がこの種のアドヴァイザーをしてくれている。さっそく彼に連絡をとる。
なんのことはない、その停止されるというサービスはすでにわがパソコンからは彼が除外し、そのかわりになるというエッジというソフトがいれてあるから心配しないでいい、と言ってくれた。

それより、もう買い替えませんか?と唐突に言われる。
それは考えているけど、そのあとをどうすればいいのか?というと、全部面倒を見てくれるという。
つまり購入に立ち合い、機種選定、そして前のパソコンからのデータ移転、新機種の使い方の説明、一切を面倒みてくれるという。
それなら思い立ったが吉日、とその翌日、お店で合流することになったのだ。

これまで使っていたパソコンは、まだつれあいが存命のとき、東京で買ったものだ。
たしかソフト入力には業者に来てもらったような記憶がある。そしてその後は、つれあいが参考書と首っききで、いろいろセットしてくれたような記憶がある。

このアドヴァイザーの君は、それが職業ではないけれど、やけにパソコンに強い。
何年か前に、パソコンが重いと愚痴ったら、みてあげましょうと、東京から来てくれたのだ。

私がいかにパソコン痴ほう症かは十分の承知の上の申し出だ。こんなに楽な買い替えはない。

機種の選定も、電気店のスタッフとのやりとり、我が家の住宅事情も知っての上で、ケーブルの心配もしてくれる。
お店の人もやりやすかっただろう。パソコンに無知な老女に説明する時間が省けるのだ。

10万円を超す金額だから、彼もこれでいいですね、と念をおす。
旧いパソコンは10年以上使ったように思うけど、これも10年は使えるかしらね、というと、10年使うと十分元はとれるし、まあ、これが最後と思えば、高くはないですよね、と言われる。

そうか、10年後、もしこの購入しようとしているパソコンが機能不全になって買い替えなんてことになって、買い替えの気力があるかどうか、お金は別として、それが一番問題だけれど、10年先、まずは生きているかどうかね、生きていてもパソコンいじれるかどうか、もありますよ、と彼は辛らつだ。
今だってあやしいから、2,3年後に、使えない、いーらない、というかもね、と言いながらも、やっぱり新しい機械を手にすると、ちょっと脳細胞がリフレッシュする。

自宅に戻り、いろんなデータをいれてくれる。
そもそも始動するときの暗号?を今はピンというのだとまず教えてくれた。
旧パソコンは長いパスワードで、いちいち私がいれなければならなかったが、ピンは数字だけでいいのだという。
それからしばらくは、なにがなんだかわからないけれど、なんとかかんとか、パスワード、旧PCから違うのにしましょう、とそれを決めるのに混乱する。

旧パソコンからのデータを移すのに、変なものが飛び出してくる。すっかり忘れていたけれど、亡夫が入れてくれていたデータだ。
フランスにいる、私のだた一人の名づけ子が、赤ん坊のとき、日本の教会で洗礼を受けるために来日した時の写真もある。
これはどうしますか?と聞かれ、彼のために取っておくべきか、考える。
この子は、頭もよく、楽器もよくこなす。もしかしたら、将来、ひとかどの人物になって、その写真が貴重なものになるかもしれない。日本で受洗した記念の写真、歴史資料になるかも?と考えたが、返事は消去、とした。

私が死亡すれば、なにもかもが無用になる可能性が高い。そこに名づけ子の写真があっても、どうしましょう?と困るだけのこと。

一切がこの方式で、ほとんどは消去してもらうことにした。
彼はなんとかとなんとかはUSBに保存してありますから、などというが、ほとんど理解していない。

もし専門家を派遣してもらったとき、こんなにお任せにできただろうか?
私の周囲の事情も知り、私の理解度も、痴ほう度も、なにもかもを承知の上で、処置がすんだのは、5時間後であった。

パソコン、つまりコンピューターなのに、なぜかワープロ程度の機能しか使わない私にとって、必要不可欠なものかどうか、時々疑問に思うのだが、これが最後と思えば、もうちょっと使途範囲を広めようかな?という気分になっている。
それにこんなに懇切丁寧なアドヴァイザーがついているのだから、がんばらなくっちゃ!
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ブログに復帰

ようやくブログに復帰できました。
前回、最後のブログは2019年9月、長いブランクです。
数人の顔がわかる読者からは、ブログ止めたの?と直接問い合わせをされ、パソコン不調により、と言い訳していました。

この言い訳は本当のことで、前のパソコン、古すぎて、起動が遅い、転換ミスがひっきりなし、というので、パソコンを使っての作業をほとんどすべてやめていたのです。
買い替えなければ、と言いつつ、結局、3年近くのブランクができてしまいました。

再開後の初ブログは、いかにデジタル化に乗り切れない一人の高齢者の問題点を書くつもりでしたが、新しいパソコンに変えたときのハプニング、購入時の話題、ボケとパソコン、いろいろ出てきて、そんなこと、あんなことを書こうと思っていたのに、あまりにありすぎて、文章はまとまらず、とりあえずは再開のご挨拶までです。

この3年間に我が身の老化を痛感することが多くありました。
ブログももっと正直に、正論より私論優先で、どうせ、といえば自虐的ですが、読者も限定、なんだか社会の動きやマスメディアについていけないところを書いていこうと思っています。

外はセミが鳴きわめいています。
思い出しました。セミのことで一つ。

南仏ではセミは幸福を運んでくるといって、セミの飾りなどをよく使います。
外壁にセミの姿の飾りをつけたり、セミの図柄の食器、あるいは、プロヴァンスプリントの柄にはセミが多いです。
それでいて、フランス人は日本ほど、セミについての言葉がないようで、いろんな言語に通じているフランス人に、せみ時雨に相当するフランス語を聞いたとき、セミはうるさいもので、せみ時雨といった風情ある表現はない、と言われました。
また、源氏物語の空蝉という名前には、いたく感激して、なんと詩的な名前なんだ、と感激していました。
セミが脱皮して、この時雨に相当するうるさい鳴き声を聞かせるのも7日間、といいますが、これは実証されているのでしょうか?
そういう意味で、「八日目の蝉」というようなタイトルの小説をみたとき、そうか、九日目、十日目の蝉ではありえないのか、と思いました。

先日、玄関先を掃除していたとき、小さなセミが肩にとまりました。盛夏の蝉だと、とても大きくて、つかむことはためらうのですが、あまりに小さく、かわいいのでついつかんだのです。
小さいとき、セミとりはしたし、こわいとは思いませんが、大きいのはグロテスクにみえて敬遠します。
シーズン終わりのツクツクボウシのような大きさでした。
あなた、この世にきて何日目?あと何日寿命はあるの?と聞いても返事はありません。

写真にとって、小学1年生の子に送りました、夏休みに行くから、それまで飼っておいてね、と言ってきましたが、セミの命は短くて、と返事をする前に、消え去りました。

そういえば、アフリカではセミがいたかどうか、覚えてないな、いたかしら?となくなったつれあいの写真に問いかけましたが、返事はありません。
政治情勢が厳しくて、とても自然には目も耳もむけなかったつれあいは、セミ?知らん、と返事しそうです。

入梅前からセミが鳴いている今年、気候変動のせいなのか、これまでも例年こんなものだったのか、
蝉にきいてもわからない、です。セミにききたいことはまだあります、雨の日は鳴きません。どこで何をしているのか、知りたいのです。

玄関を飾るセミのおかげか、あるいは我が家にたくさんあるセミグッズのおかげか、我が家は平均的に平和にすごしています。そういうことから、セミの鳴き声をきくと、なんだか心が安らぎます。

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