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文明の利器とはいうけれど

アフリカの資料を整理していたら、当時、宣教でいらしていた日本人のシスターからいただいたアフリカの讃美歌をいれたカセットテープがでてきた。
毎日曜日、住まいから10分ほど歩いたところにある女子修道会のお御堂でのミサにあずかっていた。
もともと、そんなに讃美歌を覚えていなかったけれど、そこでは半分がアフリカの音楽だったように記憶している。
シスターがご自分でまとめられたのか、カセットをくださったのだ。

なつかしい、聞きたいな、と思ったが、もうカセットを聞くための機器がない。
ああ、カセットとCDを両方聞ける携帯ラジオがあったはずなのに、それも2台、と思ったが、もうとうに処分している。
現在使っているラジオは、FM, AM、AUX, USB, PC, Network、CD, BLUETOOTHと変えられるようになっているが、カセットを聞ける機能はない。これで聞いているのはFMだけである。

テレビはカセットとディスクの両方を見られる付属機器をつけたけれど、結局、カセットは1,2度見たか見ないかである。

多機能の機材を買っても利用しない我々を、若い人たちは軽蔑したものだ。

ラジオ、テレビだでけはない。このパソコンもしかり、スマホもしかり。

でも生きている。どんなに機能がついていても、人間の使える時間は限られている。テレビでは与えられたプログラムの中から気に入っている番組だけを見るし、そんな番組がない時間は消している。
ラジオもそうだ。クラシック音楽の時間にはラジオをつける。もし好きではない音楽であれば消す。
無音の時間もいいものだ。

そんな私のために、友人がiPadなる機能をいれてくれた。好きな音楽を好きな時に、好きなだけ聞けますよ、と言われた。それは便利ね、と言い、姉がいつもそれで音楽を流しているのは知っている。
しかし、結局、スマホでそれを聞いたことはない。

友人はとても歯がゆい、という。高いお金を出して、多機能の機器を持っているのに、それを利用しないのは、そんな機器を軽視することだと。

しかし、そんなに多機能を24時間使っていたら、目や耳を休ませる時間はないし、好きなものだけに囲まれることになる。一種の自発的囲い込みだ。
ラジオでクラシックの番組から、好きな音楽が流れれば、ああ、今日は幸せ、と思い、テレビの映画で、昔懐かしの映画、それも思い出深いものが放送されると、そんな時代もあったっけ、と郷愁に浸れる。浸りっぱなしよりはたまにのほうがいい。
新しい発見もあったりする。同じ曲でも演奏家の違い、オーケストラの違い、映画も最近もものもみられることがあるし、そんな程度の満足度で十分だ。

先日、90歳を超えた知人の女性が、古い手紙を送ってくださった。私が初めて海外旅行、それも6か月、お金がなくなるまで、とヨーロッパを放浪したとき、パリから出した航空書簡という定額の手紙である。「もうお金がなくなったので、帰ることにしました。この航空書簡が最後の手紙です」と書いている。
今も航空書簡というのはあるのだろうか?
この頃は、もう外国からも手紙は出さない。スマホで、無料の通信も可能なのだから。
レトロな手紙、カセット、当時はそれでも先端だったのだ。
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