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ヒマワリの花の運命

我が家の庭に、今、ヒマワリが咲いている。
種をまいて咲かせたわけではない。野鳥への餌として、ヒマワリの種を置いているのだが、冬から春へと、たくさんの野鳥がきて(主として雀(カラ)類だが)、一粒ずつ加えて去る。
カラを割って、中の実を食べるのだが、必ずしも成功せず、下に落ちてしまうことが多いようだ。
どうも贅沢な育ちをしているのか、下に落ちるともう食べない(ようだ)。

そして春から夏にむかうと、そのこぼれ種が芽を出す(必ずではない)
家のまわりのいろんな場所に芽がでてくる。多いのはガレージの下だが、ここは草刈のとき、刈られてしまった。
ここにも、あっちにも、と双芽が出ると、それがヒマワリであることはすぐにわかる。

草刈の人が刈り取ってしまうこともあるが、私自身は雑草扱いはしない。ただ成長を見守っていく。
しかし、種が落ちた、落とされたというべきか、その場所によって、ヒマワリの運命は決まってしまう。
渡辺和子さんの言われた「置かれた場所で咲きなさい」ではないが、だんだん成長するにしたがって、その種、つまりはヒマワリの運命が見えている。

双葉あたりまではあまり差はできないが、そのあとだ。
花が咲き始めて、その格差がはっきりした。
一番の好位置なのは、バラの根本に出たヒマワリだ。バラには特別肥沃な土を与えている。その恩恵に浴して、伸びる、伸びる、2メーターほどになった。
次に恵まれているのは、花壇として土にも一応気を使っている場所に落ちた種である。

最悪な種は、芽もだせなかっただろう。芽を出しても、双葉で終わることもあるし、伸びてもひょろひょろ、途中で挫折する芽もある。
道路から玄関への12段の階段は、石を組み立てたものだが、その隙間から出た芽もあった。いじらしくて、上り下りをするたびに、頑張ってね、と声をかける。
花は可憐なものだったが、咲いた。横に倒れたまま、花は上を向いている。

「置かれた場所で咲きなさい」、それはそうだが、なんだかかわいそうになる。
渡辺和子氏は、人間のことを言っているのだが、それをヒマワリにあてて考える。
鳥に食べられず、土の上に落ちたのは、生き残りのチャンスを与えられたと考えられるけれど、硬い土の上では芽吹かない。それかといって種に土を選ぶことはできない。

ああ、人間もそうなんだ。置かれた場所とはいうけれど、必ず避ける場所にいるとはかぎらないのですが、と渡辺氏に言いたい気分だ。

ヒマワリは昔から好きだった。小さいとき、庭にヒマワリが咲いていた。丈は私より高く、花は私の顔より大きかった。ヒマワリの花と私自身を比べたような写真を、家族がとってくれて、それが長く残っていた。

先日はウクライナのヒマワリ畑が写っていた。一面のヒマワリ、これは偶然の産物ではなく、種をまかれ、農産物として利用されるためのヒマワリだ。
ソフィア・ローレンが主演した映画「ひまわり」、背の高かった彼女より、もっと高いひまわりの中を愛する人に裏切られた悲しみの中で、ひたすら歩く彼女。

太陽を象徴するような明るい花のはずだが、この映画ではそうではなかった。

ヒマワリも花の盛りはきれいだが、枯れると醜い。
南仏で、ヒマワリ畑をみたときがそうであった。南仏、ひまわり、とくればゴッホと答えが返ってきそうだが、そんな風景を期待してアルル近くをドライブしていたが、もうすでに枯れていた。
ヒマワリ油をとるために、花のさかりで刈り取ることはない。ヒマワリの気持ちに反するかもしれないが、とことん枯れるまで残されているのだろう。

我が家はそうしない。好位置に咲いたヒマワリであろうと、枯れ始めたらきっと切ってしまう。
油の取り方を知っていて、その油を利用できるのなら、頑張ってやってみるのだが。

刈り取られて、そこでヒマワリは平等になる。
来年はみんないい場所で出られるといいわね、と思うが、それは鳥次第だ。
夏場、鳥はこない。鳥がきはじめるとそれは秋の到来だ。

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