SSブログ

fフランスの酷暑と山火事

フランスのニュースチェックをしていることもあって、最近のフランスの気温の高さと山火事の頻発が気になってならない。
酷暑はヨーロッパ全体らしい。ロンドン、夏でも寒いといわれていたが、いまや40度を超えるの超えないのとニュースで報道している。

フランスはもう数年来、夏の暑さが必ず問題になっていた。
もう30年くらい前のことだろうか、パリ(話題の中心になる)をヴァカンスシーズン最中に酷暑がおそった。
高齢者の一人暮らしの人たちで死者が多く出た。
日本でもいわれるように、高齢者は暑さをあまり感じない(らしい)。水分補給をしない、部屋に風をいれない、といったことから、体調を崩し、死にいたったらしい。
孤独死、この言葉がフランスの新聞の見出しになった。
それプラス、フランスらしいのは、子供たち(といっても十分大人の年齢)の反応である。家族で休暇にいっている途中で、親の死を知らされて、バカンスを中断するのはいやだから、葬儀からなんからそちらですませておいて、というケースが頻発したのだとか。

夏暑いというのは日本ではほぼ常識だが、ヨーロッパではそうでもなかった。しかし、今や常識になっている。
スペイン、ポルトガル、イタリア、ギリシャといった国々は緯度も南になるということから、以前から暑い国ではあったが、フランスもそれらに分類されそうだ。

気温が高く、乾燥しているとなると、それは火事が増える原因になる。
20年以上前、南フランスで生活していたとき、夏の山火事がいわば年中行事、夏の風物詩的な現象であることに驚いた。
マルセイユなどもそうだが、地中海沿岸は、そう平坦な土地ではない。すぐに山が迫っていて、隣町にいくにも山越えということもある。
そんな山が火事になる。タバコの吸い殻が原因のこともあるし、キャンプ客の火の不始末の結果ということもある。自然発火ということもあるらしい。

空をぶんぶん飛行機が飛ぶ。Canadaire,キャナデールと呼ぶことを知った。カナダから消火の手助けに来ているのか、そこまで消火が深刻な状態にあるのか、と思っていた。
この飛行機、海水を蓄える槽を装備し、山火事の消火にあたる飛行機で、カナダ国営航空機製造会社(Canadair)から来ているのだそうだ(小学館の辞書による)
別にカナダから派遣されたのではなく、フランスの消防が所有しているのだろうが、やたらキャナデールと言われると、カナダを想像してしまう。
地中海の海水はたっぷりある。それを海上機のように水面すれすれに飛んで、海水をため、山火事の現場にまいて消火する。
地上部隊も出るが、山で足場が悪いから、地上からの消火は能率が悪い。
しかし、キャナデールが登場したからといって、すぐに消火されるというのでもなかった。

マルセイユの人たちは、夏火事に慣れているのか、あら、まただわ、というようにあわてなかった。そして、消火されて間もない道路、まだ周りはくすぶっているようなところも平気で運転していたものだ。
地中海沿岸の山は、松の灌木が多かった。火事があまりに恒例となっているからだろうか、たまには、これで植生の更生ができる、という人もいた。

ところで、今、問題は、大西洋側、ジロンド県である(ボルドーが県庁所在地)。人気のPyla sur MerやLa Teste de Buchなどが燃えているらしい。
ピラには従妹が別荘を持っている。海のそばにあるし、先週メールで様子を聞いたところでは、まだ余裕の返事だった。
しかし、今日のニュースでは、海のそばに別荘を持っているひとたちも避難を要請されている。
まだ来たばかりなのよ、と文句を言っている人もいた。

ピラは砂丘で有名だ。鳥取の砂丘みたいなところである。大西洋に面して、従妹の別荘のサロンからみる夕日はきれいだった。

こらえられないほどの暑さ、旱魃、そして火事、こんなことはこれまで経験しなかった、と、元美女らしい、タンクトップの老女が避難を勧める消防の人に文句つけている。
そうなのだ。これが気象変動、これまでと違った気候になっている。
もう一度、従妹にメールで注意喚起しなければ。
nice!(0)  コメント(0) 

6歳児と百人一首

この3連休に、6歳児が遊びに来た。
昨夏までこの地に住んでいたが、首都圏に引っ越して、幼稚園も変わり、今や一年生だ。

久しぶりに会うその子は、身長も伸び、すこし大人びている。都会の学校がそうさせるのだろうか。
1日目、百人一首のかるたで坊主めくりをする。この子が一番好む遊びだ。これは容赦がない。
100枚を引いている最初にお姫様がでて、手持ちの枚数を増やしても、最後にどんでん返しで、最貧の身に陥ることもある。
3人で遊んだが、彼女は3回とも最下位だった。シャッフルの方法を変えても、回す順番を変えても、結局、最後のころに坊主をひいて、全財産を放出、ということになる。
我々(残りの二人)にとって、たかが遊び、勝っても負けてもなんでもないが、彼女にとっては重要なのだろう。その悔しさを抑えるのが大変そうだ。

そしてその翌日、坊主めくりはしなくていいという。
そして、100枚の札をとりあう正規の百人一首をしたい、というのだ。
去年、幼稚園児のときに1,2度したことはある。どうにかひらがなを読めるようになって、ひらがなだけの下の句をとるというのが珍しかったようだ。
100枚全部を取り終わることはなかった。それほどに時間がかかって、遊びの時間では足りなかったのだ。

やりたい、というならやりましょう。挑戦は受ける。
100枚をテーブル一杯に並べる。方向など適当にする彼女に、半分ずつだから、自分の分は自分がみやすいように並べなさいと忠告。
彼女が不在となってから、百人一首を出すのは初めてだ。もう脳のなかに残っていない。
自分の分を並べながら、上の句を思い出そうとするが、出てこない。

最初は6歳児が読む。漢字にはルビがふってあるから読めるのだ。
五七五七七の区切りではない。リズムがとれないので、なかなか下の句まで思い出せない。
七七の最初の言葉を探すのよ、と教える。
そこで気が付いた。自分の姓や名前の最初の文字にたいしては、大きな執念を持っている。これらの札をとってはいけない。
「こゑきくときぞあきはかなしき」など古い字体があると、そのままには読めない。
彼女のハンディキャップを考慮しつつ、適当にとり、とらせていくのはなかなかに苦労だ。

しかし、6歳児にとって、この百人一首、何が面白いのだろう。
絵札を読んで、字だけの札をとる。ほかのカードとはまったく逆である。
歌の意味など、なにもわかっていない。
50枚をきると、スピードもあがったけれど、終了までの時間は相当かかった。

結果は彼女の勝だ。10枚をきったところで、もう全部自分のほうにひきよせ、下の句のさいしょのひらがなを教えると、私の手が伸びてくるのを妨害する。
結局は彼女が60枚の大勝だった。

これも一つのひらがな習得法なのだろうか。もう少し、歌の意味を教えながら遊びたいものだけれど、まだそれは早いようだ。
「わかみよにふるなかめせしまに」、「むかしはものをおもわさりけり」、あと20年もたてば、少しはこれらの歌の心もわかるのだろうか。
nice!(0)  コメント(0) 

名もなき雑草などない

雑草と呼んでいる草にも、すべて名前がついているらしい。学名ももちろんだ。
名もなき雑草などない、ちゃんと名前がある、それを知らないだけだ、というようなことを仰せになったのは昭和天皇である。
吹上御殿のお庭を散歩されていたとき、道端の草に目をとめ、庭の管理をしている人にきかれたらしい。その職員が、名もなき雑草、といった返事をしたときの、天皇の反応がこういった言葉であった、というのは、世代の人間、だいたい知っている。

吹上御殿には名もなき雑草はないかもしれないが、わが庭には、名も知らぬ雑草がたくさんある。
まず、雑草とよんではいけない、野草と呼ぶべきらしいが、私にとっては雑草だ。ひゃっぱひとからげ、に雑草とよぶ。
名前を知らないのは私の無知によるもの、しかし、とても一つ一つの名前を記憶できはしない。

一雨、一日光、ごとに、まあ、ほかの花卉類も成長してくれるけれど、雑草たちのたくましいこと。
ほんの先日、庭の管理をお願いしている人が、草刈をしてくださったのだが、もうその名残もない。
もう、庭は隅々まで緑一色になっている。

聖歌にもある。基督は小さな花々にもお恵みをくださる、というような歌だ。
我が家の庭の草草はきっとお恵みを十分に受けているのだろう。

草を抜きながら、世が世なら、天皇陛下のお叱りを受け、獄門か、切腹か、追放か、などと思う。
あなたたちは、吹上御所に生えればよかったのよ、それも昭和の時代にね、今は例話、ここは御所とは違うの、と草草に言い渡す。
これで4日続きの雨、庭にでることもできない。草は遠慮してくれない。小さいからと見過ごしていた草もしっかり自己主張していそうだ。

雑草はなぜ嫌がられるのか。食用のものもあろうに。といってもこれまで人が食べてこなかったものは、苦いとか毒があるとか、それなりの理由があるはずだ。
そのうち、飢饉がおきたら、あなた方の活躍の場もあるかもね。その時はよろしく、だけど、今はバイバイ、とでも声をかけることにしよう。
nice!(0)  コメント(0) 

みんな体温計もってるの?

今、今日(7月15日)の感染者数が発表された、
東京でいえば、16662人、結構な数字である。

これで第7波到来と言われているようだが、最初のとき、数十人でも大騒ぎしていたことを思い出す。
検査もなかなか受けられず、自分が陽性か陰性か、その判断をするのに、最初は体温計、次にパルスオキシメータ、などを使って自分でしてください、というのだった。
それなのに、体温計は品切れ、パルスオキシメータになると、まだ特殊な計測器で、高価でもあり、一般化されていなかった。

体温だけでは普通の風邪やほかの病気との区別ができない、パルスを計測すれば、その酸素の濃度で判明する、と仕切りにそれを持つように勧めていた。

どこまで浸透したのだろう。どこまでの人たちが計測しているのだろう。

我が家には体温計はデジタルが2本(最初は1本のみみつかった)、レトロなものが1本あった。
友人の一人が、どこの薬局にも売っていないというので、アナログの体温計を急遽送ったりした。
(のち、デジタル2本目が見つかったけれど、すでに彼女も購入していた)

毎晩、就寝前に体温とパルスを測り、よしよし、コロナにかかっていない、と安心していたものだった。

その後、血圧計も加え、3種の神器とばかり、朝夕、計測することを習慣にしている。
気安く検査を受けられるような場所に住んでいないので、自分で確認するにはそれしかない。

手指消毒、あるいは待合の場所で、密接に座らない、対面の座り方はしないで、斜めになるようにする、など、いくつもの制約はあるけれど、なにかしら、制約の数や種類の変化を感じる。
初期ではわからなかったこと、後期で判明した対処の仕方、変化があってしかるべきだが、この基本的な自己判断の手段、最初はこれらの機器を無料配布する、と言っていたと思うが、それはなされたのだろうか?

アベノマスク配布より、体温計プラスパルスオキシメータの配布のほうがよほど効果が得られたと思うのだが。

nice!(0)  コメント(0) 

ゾンビ再出現

統一教会がまだ存在した!

安倍元首相の暗殺事件が起き、その犯人として捕らえられた男性は、ある宗教団体に特別の気持ちを持っていて、それが関連した犯行だ、と事件発生直後のニュースコメントであった。
ある宗教団体、というだけで、その名称がはっきりされない。
これは政権の一部を担っている政党の支持団体か、あるいは自民党そのもの支持宗教団体に違いない、と考えていた。

ところが、ところがである。世界平和統一家庭連合という団体なのだそうだ。そして旧統一教会という注がつく。
統一教会というのも、世界基督教統一神霊教会というのが正式名称であったという。

統一教会と関係があるとは思いもしなかった。
若いころ、当時のアイドル歌手が、統一教会が主催する結婚をし、引退したのは大きな話題で、その歌手のファンでなくても、なんでそんな結婚をするの?と思っていた。
その歌手は、ほんの一例で、団体での結婚式、それも結婚式場で初対面みたいなやりかたに、信じられない思いを抱いた。
文鮮明、という韓国人が始めたこの宗教、基督教という名称がはいり、統一、神霊という何を意味するのか、いっぱい言葉が連なって、どんな宗教なのやら、疑問だらけだけど、我が身には関係ない、と思っていた。

それより、そのあとだったろうか、オウムが出現したことのほうが、まだショッキングだった。
当時、働いていた広尾の周辺で、オウムの信者たちが、麻原ショウコウと叫びながら、お面をつけた突飛な服装で、歩き回っているさまをみて、これも宗教か?と驚いた。
その驚きより、サリン事件や、その基地の捜査、教祖や幹部の逮捕といったドラマ、そしてオウムは解散したものの、別の形で存続していることに、宗教のしぶとさを感じていた。

そして前世紀末、アフリカにすんだときのことである。
政変などが多発して、邦人が少ない土地だった。
そこに、統一教会の信者がいる、つまり、その国の人と結婚して、家庭を持っている女性が数人いる、ということを聞いた。

日本からアフリカ、なんだか地の果て、という思いにもかられる距離感のこの地にも、統一教会結婚をした人がいるなんて、と本当に驚いた。
どんな生活をしているのか、無事に、幸せな生活ならいいけれど、と思った。
少ない邦人、知り合いになりたい、と思っても、交通手段がない、連絡方法がない、と悪条件がたくさんあって、とうとう会うことはなかった。

カトリックの日本人シスターが、たまに訪問することがある(年に1,2回)という、本当に隔絶した世界の住人とも思える環境だった。

統一教会結婚がこんなにワールドワイドで行われているなんて、信じられなかったけれど、家族を形成し、お子さんたちも誕生しているとすれば、お幸せなのかも、と思っても、やっぱり、不自然な結婚が幸せなはずはない、生活自体もこの国では困難なことが多々あるはずだ、と心配したものだ。

この統一教会のメディアへの再登場、彼女らのその後に思いを寄せた。
政変がおきたとき、国外退去を勧告して、たしか、彼女らは子供を伴い国外へ逃げられた、という話は聞いた。

もう20年以上も前のこと、まだアフリカの地で暮らしているのか、日本に帰国されたか、まだ統一教会を信じているのか、いないのか。

それにしても統一教会のみならず、宗教の影響力を知らされている。

なぜ襲撃者は、安倍元首相と統一教会を結び付けていたのだろう、これも疑問だ。
nice!(0)  コメント(0) 

できていない危機管理

昨夜はさんざんだった。
停電、通電とおもうと、また停電、が結局10回ほど続いたのだ。
さっとテレビが消える。テレビだけではない、すべての電気が消えてしまうのだ。
まだ5時頃、しかし照明もつけているし、テレビもなにもかもが消える。
村の広報の機械だけが、電池に切り替わりましたと音声でいう。
ほかのものも蓄電池につないでおけばそうなるのだろうが、我が家に蓄電池はない。

7,8回の停電(ほんの数分間ずつ)が解決したのか、次の停電がないので、急いで台所にたつ。
ごはんをたき、ほかの副菜を用意して、いそぎ食べる、

埼玉県の大雨は報道で知っているけれど、群馬県にはそんな警報も出ていない。まして停電の原因になる雷は音も稲妻もない。
停電になる理由がわからないのだ。
近所の友人に電話するが、通じない。先方もかけていたらしい。電気が通じると、すぐに電話が鳴る。

どのくらい広範囲なのか、なにもわからない。通じたからもう安心ね、ということで電話を切る。

九州の弟から電話がある。どういう情報を得たのか、わからないが、心配しての電話だ。
もう停電は終わったから大丈夫よ、というと、姉さんちは危機管理ができてるんだよね、という。

アフリカから帰国したあと、かの地で頻発する停電に悩まされた。
その停電は数日、あるいは1週間を超えるものもあり、どうやってそれをしのいだのか、もう記憶がないけれど、停電、断水、各種の危機に遭遇したので、日本に帰ったら、日本だってどんな危機があるかしれないから、しっかり準備をする、などと大言壮語したらしい。

実際、3.11の大地震では、計画停電など、しっかり群馬県もその対象になったし、ガソリンがない、などの問題もあった。
その当時は、発電機をつけるとか、電源を複数化する、などと、張り切っていたけれど、だんだん、面倒くさくなった。
たとえば、発電機用のガソリンなどをきちんと準備できるのか、それを使う機会がなくて、機材の保守はどうすればいいのか、太陽熱の機器にしても、その劣化が起きた場合、どう処分すればいいのか、考えれば考えるほど、面倒になってしまった。

これではいけない、と常に思っている。危機はいつでも、どこでも、発生するし、それが短期間で終わるという保証はないし、それが全国的であれば、群馬県の山の中、助の手がくるかどうかわからない。

それにしても、ほんの数分間であっても、予告や告知があるわけでない。もう照明もつける時間となると、電気がないとどうしようもない。
まだ真っ暗ではないけれど、一応、照明がわりにろうそくをともす。ほんのお飾り程度のローソク、これでなにか仕事をしよう、とはならない。懐中電灯にしてもおなじことだ。

本当になにもできない。もうお手上げだ。それかといって、寝てしまおう、という時間でもない。冬でないのがせめてもの救いだ。

とうにか、回復して、さあ、お風呂にはいってさっさと寝ましょう、と、お湯をためる。
そして入浴したとたん、また停電。なんなのよ、これ、と文句を言いたくても、どうしようもない。
もう明かりがないと暗くて、手元、足元もおぼつかない。
せめて月あかりでも、星あかりでもあれば、すこしは救われるのだが、外は雨がふりそうな黒い空だ。

結局、暗いなかで最低の入浴儀式をすませる。そこは長く住んでいるだけに問題はない。しかし、こういう時に事故はおきる。そこに連絡の手段はない。すべったらおしまい、つまづいたらおしまい、ゆっくり、確実に、と唱えながら、どうに入浴をすませた。

節電ならします。でも停電はごめんだ、と叫びたいけれど、どこに叫べばいいのやら。
ほどなく回復した電気にほっとしながら、このまま電気が通じていますように、とテレビを見ていた。
安心・安全、そんなことを保障したいと政治家は言っているけれど、こんなことでも不安は生じる。
この程度であたふたする我が家、もう少し、きちんと危機管理を考えなければ。
nice!(0)  コメント(0) 

いけいけどんどんになっていくのか?

安倍元総理が凶弾に倒れ、いま、追悼の大波がおしよせている。
外国の反応にはすごいものがある。
国連でも追悼の黙祷、インドでは1日の追悼の日、エリザベス女王も天皇陛下へ追悼を寄せられたとか。
世界各国からのd追悼をみていると、日本でその一色になってしまうのもむべなるかな、とも思う。

しかし、彼の政治を思い出しながら、常に思い出していたことば、
「君死に給うことなかれ」を思い出す。
与謝野晶子のこの詩は、戦場へ送られる弟に、死ぬなよ、と強く呼びかけている。
この時は大君だったけれど、私はその部分に安倍さんの名前をいれていた。

世界の情勢をみていると、日本だけが戦争放棄できるのか、と思う。
しかし、安倍さんの場合、日本も戦地へうってでなければ、という気持ちがあったと思う。

そういう必要もでてくるのかもしれない。
しかし、どうしても、彼の場合、自分は戦地へでることはない、という意識がそこにあるのではないか?とうかがわせるものがあった。

アベノミクスで経済がよくなった、といわれても実感しない階層にいると、これからの世の中が、いけいけどんどん、となりはしないか、こわくなっている。

nice!(0)  コメント(0) 

山椒を摘む

庭の端っこにある山椒にたくさん実がついていた。
今日はたまたま庭の隅まで行って気が付いた。

緑の葉に緑の実、そばに行かないと気がつかない。
木は老木、もう樹齢では何歳になるのか、ここに家を建てたとき、隣家の方が下さったものだ。

葉を料理のあしらいに使うこともなく、実については考えもしなかった。
ところが年齢を重ねると、山椒の香りが気持ちよくなった。それをあしらわれた料理を食べる機会も増えた。あら、これなら家の庭にあるわ、とだんだん、自家製欲が出てきた。

せんだってはユスラウメ酒、山椒の酒は聞いたことがない。お醤油につけて山椒醤油、あるいは佃煮、魚を煮るときに臭みけしに使う、というところだろうか。

山椒という木にはとげがある。バラのとげに似ている。泥棒除けになるわよ、と隣家の婦人は言われたが、庭の片隅、そんなところから泥棒ははいらない。

たくさんなっていた。この頃、自然の恵みに敏感になっている、といえば耳にいいが、なんのことはない、けちになってきたのだ。
あるだけ利用しなければ、と摘んだものの、これが大変だ。

へた、と呼ぶのだろうか、小さな実が3,4個ずつ固まってまた一塊になっているのだが、それを除いて実だけにする必要がある。
辛抱のいる仕事だ。それに集中力もいる。このごろ、この二つ、いや、小さなものを見る眼力もいるが、これらのものがなくなった。

気が遠くなる。しかし、手伝いはいない。いっそ木に戻したい。それは不可能だ。とった私自身が悪い。
鳥のさえずりを聞きながら、ベランダで山椒のヘタとり、鳥はいいけれど、詩的でも美的でもないな、と自嘲気味だ。

市販の品ではなく、こうして、自家にあるものを利用するというのは、聞こえはいいけれど、なかなか大変なのだ。

この古木から苗木をとって、成長させた山椒の木がまた別のところにある。もうこれは実がついているかどうか、みないことにしよう。
この山椒、粉にして、ウナギに散らすのもいいかも。だれかウナギ持参でこないかな。
nice!(0)  コメント(0) 

東京の一日

今日は東京へ日帰りで行った。
先月末、1泊で行ったけれど、やりたいことのすべてが終わらず、もう一度、東京へいくことにしたのだ。

泊まれば夕食も食べられるし、時間はたくさんできる。しかし、日帰りもいいものだ。荷物がない。
女は泊まるとなると、化粧品だ、着替えだ、と荷物が増えて、移動が大変になる。
今日はハンドバッグだけですんだ。

今日の目的は、三菱一号館で開催されているガブリエル・シャネル展を鑑賞すること、そして昼ご飯を明治記念館でいただくこと、の二つである。

まずは一号館。東京駅すぐのところにあるのでとても便利だ。
友人と待ち合わせをして、10時半ごろ入館する。10時からの会館だから、まだそう人出はないだろう、と予想していたが、なんのその。もう入館する人が次から次だ。
以前に比べ、人数制限はしていない。予約もしていなかったがすぐに入れた。

ガブリエル・シャネル、つまりココ・シャネルのことだ。名前がガブリエルというのは初めて知った。
ココという愛称があったから、Cが付くのかと思っていた。たとえばCecileとか。
フランス語のタイトルがManifeste de mode、彼女の作品が時代別に展示してある。

シャネルはとうとう買えなかった。
化粧品、バッグ、そういう付属品は買ったけれど、ドレスだけは買えなかった。
そんな思いを抱きながら、しかし、こういうドレスを買って、身に着けて、そんなTPOに付き合ってくれる同伴者は現れなかったし、とその体形にも程遠い自分を顧みる。
そして、これらはお洗濯、だれに頼めばいいのだろう、こういう高級品をたのむクリーニング店は高いのだろうな、など、いささか、下賤の身はいじましい着想だ。

1970年代からの作品は、日本でもモデルがでていたし、雑誌などでも目にしたり、なにか親しみのある庶民性もある。

女性客が多いのはもちろんだが、男性(若い)がしっかり鑑賞している。

そんなに歩き回る美術館ではないけれど、鑑賞にもエネルギーはいる。
お待ちかねの昼ご飯、一号館周辺にいろんなお店があるけれど、今回は明治記念館と決まっている。

明治記念館は信濃町にある。ホテルではない。
風格のある建物の中の、庭に面したラウンジで食事をする、今日のテーマだ。
同伴したのは、友人の友人、先日お母さまをなくしたばかりだ。
看護というのか介護というのか、16年、ほとんど自宅にこもっての看護生活だったという。
一号館も一緒したのだが、16年の社会生活ブランク、すべてが珍しい、という。

一号館へ行ったのも初めて、明治記念館も初めて、と東京の住人ながら、すべてがめずらしいという。
バスや地下鉄にパスモやスイカを使うのも、なかなか慣れないようだ。
明治記念館で食事をするのは、その庭園わきで食事ができるというぜいたくさにある。
東京はなんでもある、とつくづく思う。
でもその”なんでも”を享受できるわけではない。

高島屋へ寄った。ネスカフェのカプセルがなくなり、それを買って帰るためだ。
地下の食品街にはない。7階の家庭用品の売り場にあるという。簡単にたどり着けない人が多いのか、
すぐにわかりましたか?と聞いてくる。迷いました、と正直に答える。
今日は時間があったので、迷ったことも楽しかった。

そして、東京駅に向かいつつ、お天気を含め、豊かさを享受した一日に感謝だった。
nice!(0)  コメント(0) 

懐かしのウインブルドン

今朝3時過ぎ目が覚めた。ずっと睡眠状態がよくなから、時々そんな時間に目がさめるのだが、時間をみるためにテレビをつける。
画面に出たのは、おおなつかしい!ウインブルドンではないか。
男子シングルスが試合中だ。

うーん、これは見るべきか、見たら眠れないのがもっと眠れなくなる。3時というのが微妙だ。5時ならそのまま目を覚ましたままいることも可能だが、3時、4時というのはそうはいかない。

ちょっとつけたままにした。試合はジョコヴィッチと誰か。この頃、選手名が覚えられない。昔ならランキング20位くらいまではちゃんと覚えていたのに。
なんと、ジョコヴィッチが2セット先行されている。
3セット目で勝負が決まるかな?ちょっとみてみよう、と思ったのがよくなかった。

画面がなつかしい。選手の着ているものは全部白、これがウインブルドンの決まりだ。
昔はボールも白だったが、黄色のほうが見やすいというので、ある時から黄色のボール(今やこれしかないけれど)になったのだ。
芝生のコートといっても、芝はもう擦り切れている。

ウインブルドンの大会は、3-4回観戦したことがある。相当昔の話だ。
いずれの回も、どうやって行き、どうやって帰ったか、記憶にない。
センターコートの、招待者席のチケットを入手していた。
午後2時から始まる。なぜ?と不思議でならなかった。午後2時から、日没まで、となると、終わりの時間は9時くらいになる。そんな時間まで明るいから、時間の感覚で、帰宅がこわいということはない。

試合の運び方、現場のスタッフ、例えば案内係やボードの点数を変えるとか、そんな仕事が全部ヴォランチアであること。警察や軍人などのヴォランチアは制服姿で、実に大勢のスタッフをそんな人たちで執行されていた。
センターコート、No 1コートは指定席、そのほかのコートは早い順、指定席券を持っている人が、もう見ない、帰るというときは、スタッフの人にチケットを渡す。そうすると、そのチケットは再度売りに出されて、もう一度価値を生むことになる。

私はそのやり方がとっても素敵とは思ったけれど、試合は最後の最後まで見ていくぞ、と寛容な人にはなれずにいた。
日本人女性としては身長があり、まだ若かったからだろう。そしてその時、トレーナーを着て、いかにも選手っぽい服装をしていた。
交通機関を待っていると、ラッキーな日だった?と声がかかる。選手と間違えているのだ。
おう、そんな雰囲気あるのかな?とうれしくなったけれど、肩をすくめると、またチャンスがあるわよ、と言ってくれる。

結局、このウインブルドンの切符が入手できるときは、勤め先の休暇をこれにあわせた。7月初めだ。
2回目か、3回目の時だ。ちょうど、パリの知人の娘の結婚式と重なることになった。
母も結婚式に招待されていた。母に、結婚式のあと、一人で日本に帰れる?と聞くと、あなたはどうするの?と聞いてくる。正直にロンドンに渡って、ウインブルドンを見る、というと、お母さんも行きたい、という。
チケット入手の難しさなどちっとも気にしていない。
チケット入手を依頼している人に無理を言わなければ仕方ない、と母も同行することになった。

その時は、もっと大変になった。孫娘、私にとっては姪になるが、ちょうどイギリスのどこかに夫の転勤で住んでいた。おばあ様がロンドンにいらっしゃるのなら、会いにいきます、という。その姪はテニスを大学でもしていて、いわば私以上にテニス狂。どうにかしなければ、と3枚目を嘆願することになった。
試合はオープニングから2日目で、センターコートの第一試合は、昨年の女性優勝者、ナヴラチロヴァであった。まだ人が少なく、第二セットからコートサイドに席を移して、しっかり近くで観戦する、という、当時ののんびりした雰囲気に、母は大感激だった。

最終回の観戦は、姉とだった。姉はクウェートに、私は南仏に住んでいた。チケット2枚を入手できる、と言われたとき、日本から友人にきてもらうのも大変、クウェートの姉なら、やっぱりテニスをしていたし、子供たちは寄宿舎にいれているし、これるかもしれない、と声をかけると即、のってくる。
ロンドンで待ち合わせだ。チケットは雨天中止を警戒して、2日連続でとれた。
なんという幸運。試合はちょうど、シュテフィ・グラフと伊達公子の準決勝戦の日となり、1日目は雨で試合が後にのび、順延となった。その日、伊達公子のリードで終わっていたので、日没順延で、会場から出ると、出口近くで、日本のメディアがインタヴュー相手を探している。

翌日、試合の再開を待ちながら、公衆電話で九州に住む母にかける。姉が「今、どこからかけてるかわかる?」と問うと、あっさり「ウインブルドンでしょう」と答えている。
もう日本のテレビでインタヴューが放送されていたのだ。姉の友人がそれに気が付き、ヴィデオにとって、母のもとへ知らせてくれたのだとか。
伊達公子は結局、敗退したのだが、当時女子ナンバーワンだったグラフに、一時はリードしたという実績をあげ、日本人ここにあり、みたいな気持ちをもった。
外国にいると、やっぱり日本人の活躍がうれしいのだった。

当時、試合中に上空をコンコルドが飛ぶこともあった。
だいたい、第一週のチケットだったので、貴賓席に王族が表れることはなかった。

試合の合間に、グッズを買いにいったり、ウインブルドンがはしりであるという、ストロベリー&クリーム(日本と季節感が違う)を食べたり、コート外の見物も楽しかった。
センターコートすら露天で、しょっちゅう驟雨があって、そのたびにボールボーイたちが息をあわせて、コートにカバーをかけ、また雨があがってしばらくすると、審判などがあらわれ、ボーイ(ボーイだけに限らず、ガールもいたが)、カヴァーをしまう、そのきびきびした動作を見るのも楽しみだった。

なにもかもが今は昔、でも、今でもナイスプレイには拍手を、というのは変わらないようだ。しかし、ブーイングも多くなったような気がする。
テニスから縁が遠くなってから、関心も薄く、今や、選手にはどんな人がいるのか知らない。選手をしらないと、テニスも興を感じない。グランドスラムといっても、フランス、イギリス、アメリカともなると、時差の関係でうまく見られない。

一度同行した姪がいう。今や、ウインブルドンのチケットはプラチナを超えています、と。
あの時が一生の思い出です、ともいう。
母もよく自慢していた。あたかも自分の力で行ったように。
私も、僥倖ともいうべき、友人の力でチケットを入手していたが、いまや宇宙との距離も同様の遠さだ。
それをなつかしんで、ジョコヴィッチが2セットダウン、そして3セット取り返して逆転勝利、を見ているたら、今日は一日、ふらふら、よろよろ、明日からは、新聞テレビの結果報道だけで満足せねば。

nice!(0)  コメント(0)