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代父の葬儀に参列して

フランスについて1週間目の今日、父の葬儀が行われた。日本でも、葬儀場が混んでいて、すぐの葬儀が都会では特に無理だと聞いているが、父の場合もそのようだ。
父は、葬儀のやり方について、書いたものを残していたが、火葬を希望していた。その火葬がなかなかすぐにできなかったのだ。

フランスでは一般に土葬というか、火葬にしないで埋葬する。この頃、埋葬する場所がなくなったりで、火葬を希望するケースが増えたらしい。火葬場がそれに伴って増えてはいるのだろうが、相関しているかどうかは確かではない。

娘によると、父の場合も火葬の順番待ちで死亡日から9日先となったそうだ。
滞在を2日延長、フライトの変更、日本での(大したことではないけれど)いろんな予約のキャンセル、いくつかの不都合を処理して、きょうの葬儀に参列した。

教会は、日頃父が通っていたところ、2年前に母の葬儀に参列して、教会での葬儀というものを一応体験済みだ。
しかし、今回はまた違っていた。父がni fleurs, ni couronnesと書き残したため、本当に何もない。
ミサが始まって、お棺が運ばれてきた。火葬だからなのか、母の時より、一段と質素な棺である。なぜか、その棺にフランスの国旗、三色旗が広げられ、その上にクッション上にレジオン ドヌール勲章が飾られている。

この件について、従妹がどう感じているのか、気になった。数年前に彼女のちちおやが亡くなったのだが、彼もレジオン ドヌール勲章を受賞しているにもかかわらず、国旗で棺を覆うことが許されなかったのだそうだ。

式の順序として、甥のピエールが父の経歴について紹介する。学歴、職歴のほか、父の個人的な活動や、趣味、子供や孫のこと、ボランチアの活動で、モロッコ人の子に数学を教え、バカロレアに合格させたことや、私という日本の娘がいることも紹介した。

ピエールのあと、私が短いスピーチをすることになっている。昨夜は、最終原稿で、遅くまで練習、従妹夫妻から、読み方、間合いの取り方、発音、いろいろダメ出しがあって、今朝も出かける間際まで、練習させられたのだ。

そんなにあがりはしなかった。しかし、発音に自信がないので、難しいところで早口になる。
ちょっとユーモアを入れたところでは、笑いも聞こえたし、感動を呼ぶところでは、涙も誘ったようだ。まあまあの出来か、と思うより、自分が感情移入して、ぐすぐすしながら、壇から降りる。
となりに座ったピエールが手を強く握ってくれた。

聖体拝受のところで、従妹がとってもよかった、と囁いてくれた。いとこの連れ合いも、シューペルブと褒めてくれた。彼らはなんでもまずは褒めてくれるから、半分の評価としてもまあ合格点か、と安心する。

葬儀の最後は、棺にお別れだ。神父様が聖水を撒かれたあと、参列者も順番で、棺のまわりをまわり、棺に触れたり、聖水を十字架の形で撒いたりする。しない人もいる。ただ一礼をするだけの人もいる。聖水を撒くのは信者だけだ。
父の孫が一人はモスレムに改宗しているし、もう一人はどんな理由かわからないが、この棺にお別れする行為に参加しなかったのはショックだった。

棺が運び出されて、葬儀は終わる。教会の外では、参列した人たちが、遺族に弔意を示したりしている。

私は、ミサで賛美歌を歌ってくれた人、女性が日本人で、私も日本人というので、話したがっているとのこと。これもご縁とおはなしする。とてもいい声で、ミサ後にお礼を言いたいと
思っていたところだった。

父がやたらと私のことを話していたこと、信者になってから、この教会に共に通ったこと、などから、知人や顔見知りも多い。わざわざ日本からきたのか、と感心してくれる。

スピーチもとても感動したと、ほめてくれた。とても個人的な内容だったけれど、その分、父の人間性を表現できたようだ。
来てよかった。そんな思いで、いっぱいになった。
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夫婦共通の趣味を持つ意義

従妹夫婦を見ていて、二人が一緒にいる時間、つまり行動を共にすることが多いのに気づいた。
二人のメインになっている趣味はブリッジとゴルフだ。どちらも仲間を必要とする。
そして、共通の友人ができるということだ。

二人の趣味も共通している。美術を愛し、絵画では現代絵画を好んでいる。音楽も好きで、定期的にサル プレイエルやオペラ座(ガルニエやバスティーユ)に出かける。

旅行も大好きで、しょっちゅうあちこちに出かけるし、海外に別荘を持っている友人も多くて、滞在型の旅も頻繁だ。

食事に招いたり、招かれたりしているが、ブリッジやゴルフの友人であったり、別荘地で知り合いになった人も多い。

人と会う、というのが気にならないようだ。知り合いからまた新しい知り合いが生まれていく。勿論古い友人も多いのだが。

この夫婦をみていると、共通の趣味を持つことの重要さがよくわかる。
我が家では、共通の趣味もあるにはあったが、共通の友人を作るまでには至らなかった。だから、あなたの友人はあなたが、私の友人は私が、とそれぞれの専権事項で、不介入をモットーにすると、なんの広がりもうまれない。
連れ合いが亡くなって、つくづくそのことを感じた。プツンと関係が切れてしまったのだ。

人と接するのには、ものすごいエネルギーを必要とする。人と接することが好きな私でも、この頃は週に3人まで、とか自分で制限をして、人に接しない時間を多くとっている。

今更後悔しても仕方のないことだが、まずは連れ合いともっと趣味を合わせるべきだったなーと、従妹夫婦をみて思うのである。
もう遅い!という連れ合いの声が聞こえそうだ。



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パリの街が汚くなった

前回の年末年始、そして今回、とパリに来て、観光客ではない動きをしていると、いろんな面が見えてくる。勿論、短期間の滞在で、住んでいるわけではないし、そんなに注意深くもない。

それでも、あれっと思うことがたくさんある。それの第1は犬の糞だ。
一時期、道路の各所に、糞の回収箱が設置されたり、糞回収の道具(掃除機みたいなヴァキュームのホース)をつけたオートバイが、道路にも乗り込んで、きれいに片付けていた、こともあった。

それがほとんどみられない。そして、舗道のあちこちに茶色の落し物が点在している。それこそ、オートバイが走っていた頃、飼い主も愛犬が排泄をすると、持参の紙でくるみ、ビニール袋などに入れて、回収箱に入れたり、持ち帰っていたり(と思う)していたものだが。

ゴミは減った。透明のビニール袋を付けたゴミ箱がいたるところにあるし、昔ほどのポイ捨てが無くなったような印象だ。
タバコの吸い殻は相変わらずだ。そういえばタバコ1箱、先日1ユーロ値上がりして、8ユーロになったらしい。1箱1000円はすることになる。日本ではいくらなのか、私は嫌煙家だし、まわりも非喫煙者ばかりになったので、ついぞタバコの値段に関心がなくなったのだが、1000円もするとなると、徹底して吸うのか、吸い殻は短い。

道路は穴ぼこがそのまま、大きな工事は各所で行われているが、補修といった身近なところがおろそかにされているのだろうか。

蟻の一穴から堤防も崩れるし、今は小さな穴ぼこでも、だんだん大きくなり、車や歩行者が通行に困難を感じるようになる。

これは政府のせいなのだろうか、地方行政のせいなのだろうか。パリよりヌイイの方がまだしもマシ、となると、地方行政の取り組み方にはなるのだろうが、さて、割ときれいに感じていたのは、サルコジ時代か、オランド時代か、その辺はさだかではない。

犬の糞で滑っては、ブログのタネにはなっても、後始末が無残なことになるから、注意の上にも要注意で歩かねば。
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パリの雪景色

今日は3月19日月曜日です。午前7時、起きてすぐカーテンを開けました。ここは建物の最上階、日本でいうと12階になります。大きなガラス戸で広いベランダに出ることができます。
真正面にエッフェル塔が見える、最高の眺望が臨めます。

寒波の戻りで、3日前から、とても寒い日が続いていました。昨日は昼間も雪がちらついて、気温は上がらず、体の芯がら冷えていきました。外出から早々に帰宅して正解でした。夕方には雪は
ちらつく程度ではすまなくなったのです。

今、カーテンを開けてびっくりです。ベランダに雪が積もっています。寒冷地に住んでいるので、雪景色は珍しくないのですが、やっぱり、パリで雪景色ともなると驚きます。それも3月下旬になろうとしているのに、です。

従妹はneige nulle と言っていました。12階の高さで数センチ、外はどうなっているのか、これから見てみます。
一昨日からの寒さのせいでしょう。喉の具合がおかしくなりました。腫れて痛いのです。明日は、葬儀の時、短いスピーチをする予定で、今日は従妹に原稿をみてもらい、練習をするのですが、のどがこんなでは、美声がでません。

さあ、今日は雪ごもりの1日になるのでしょうか。
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疲れ知らずの初老夫婦

従妹は今年70歳になった。しかし何という忙しさだろう。1日として、予定のない日はない。
先週の火曜日、私が到着した日は、自宅でデイネをした。一度、代父の死去でキャンセルしたものの、葬儀が次週になったので、再度復活させたのだそうだ。

次の水曜日はランチの約束があって、ランチでも帰りは夕方だ。

木曜と金曜は、ブリッジのトーナメント。2日ともブリッジに浸りきりで、夕方遅くに疲れ切って帰ってきていた。金曜日は夜、友人宅のディネに招かれており、深夜の帰宅である。

土曜日は私を連れて、両親の墓参り、250キロの距離を運転して、日帰りだ。

日曜日はゴルフのトーナメント、まあよくこんなに毎日出かけて、疲れないものだ。
いや、疲れるのよ、とは言う。でも、体力のあるうちに動いておきたいの、と言う。

彼らの友人達からのも同じ考えなのだろう。やたらと電話がかかってきて、ランチだ、ディネだと約束している。それに美術館巡り、特別展などは決して見逃さない。音楽会も定期の会員になっているし、
どういう関係なのかは知らないがしょっちゅう招待もされている。

人と交わること、常に刺激があること、頭と手と足を使うこと、これが老化を防ぐコツであるが、彼女らは、ゴルフとブリッジに重点をおいて、常に上昇しようと努力している。

私のように、1日どころか、1週間、生の会話がない、という生活とは大違いだ。別にどちらが長生きの路か、と思うわけでもなく、長生きにしても、年齢だけの問題ではないので、彼らのような刺激的な生活が好ましいのか、私のような、自然の中で孤独に暮らすのがいいのか、決めることもない。

たまに外国にきて、慣れない外国語で緊張するのもいいかもしれないし、慣れ親しんだ自宅で、のんびり、リラックスの日々もいい。

今日は午前に教会へ行き、午後、リュクサンブール美術館の特別展へ行ってみたが、80%は初老、中老、そしてそれ以上のひとたちであった。私もそのひとりだが。
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地方都市の荒廃

昨日はひどい天気だった。寒波が戻って、雪の予報もでていた。風も強く、とても出かける気分になれない空模様である。

従妹の連れ合いは、週に1回は、ノルマンディーに住む自分の両親、100歳近い、を訪問することになっている。従妹は、私が来ていて、彼女の両親の墓参りをしたい、というリクエストに応じてくれることになった。2月は彼女の父親が亡くなった月で、墓参りを今年は仕損なったので、ちょうどいい、という。

前日の夜、彼女らはディナーに招かれて遅くに帰宅、疲れたのか、9時近くに起きてくる。
お墓のあるところは、両親が最後まで住んでいた田舎、250キロは離れていて、片道2時間半はゆうにかかる、という。
この天気、それに、やたらと電話をかけたりして、時間をかけているから、今日の遠出はなかろう、と思っていたのに、11時頃、行くわよ、と言う。

A5を使って、まずトロワに行き、そこで昼食、それからFontaine les Gresという両親の町へと行くことにした。
日本でも道路の保守管理が行き届いていない、と問題になっているが、オートルートなのに、穴ボコがたきさんできている。雨がたまって、濁流化しているところもある。

トロワの街には2時半過ぎに到着した。駅の近くに何かあるはずだ、と車をとめて、冷たい雨がの中、彼女の小さな折りたたみ傘に二人で体を寄せあって歩く。
とろわのウナギ、って食べたことがあるか?と聞いてくる。一度、昔に代父夫妻と来た時、食べた記憶があるけれど、もう味やどんな料理だったか、忘れた、と言うと、じゃあ、それを食べよう、とたべるものは決まった。

ところが、駅周辺はすべてのたてものが工事中、ホテルもレストランも何もない。少し歩いてみたけれど、何も見つからない。
これはいかん、と街の中心、カテドラル近くに車を移動。雨は降っているけれど、土曜日、もうちょっと人出があってもいいのに、と思うほど閑散、そして、レストランと呼べる店が1軒もない。
こっちにあったはず、と彼女の記憶で歩き回るが、見事に何もない。

ハンバーガーやスナックていどの店は1、2軒あるが、うーんとためらう。結局、ポールというパン屋さんでサンドイッチでも食べようということになった。
ポールというパン屋さんは、パリにもあるし、恐らく全国にチェーン店を展開しているはずだ。パン屋としては定評があるから、と安心していたのだが、ちょっと期待はずれだった。ボトルの水につけてくれたコップは縁が欠けているし、日本ならCSでうるさく言われそうだ。

トロワの街は歴史も古く、カテドラルも立派だし、昔ながらのの建物もたくさん残っていて、観光にも力を入れている。もうちょっと何かあってもいいのにね、と車を出すと、あたり一帯、ジャンダルムの人たちがたくさんいる。なんのおとがめもないので安心していると、出口がブロックされている。
どうすりゃいいのよ、と従妹はちょっとイラつく。

少しバックして、出口がないものか探ったりしているうちに、近くの県庁の庭から、黒い煙が立ち上ってくる。砲弾というほどではないが、ズドンという音も。Manif des agriculteurs農民のデモよ、と従妹がいう。

程なく、後ろからきた車が我々の車を避けて先にいくから、どう抜けだすのかみてみよう、とみていると、1本先の一方通行の道を逆走だ。そうか、それしかないね、とわれわれもあとに続く。一方通行の道も、入り口をブロックしているのだから、入ってくるクルマはない、そうか、と中心の道路に出ると、道の中央には、ガレキが積まれている。家畜の糞でなくてよかったね、と言いつつ、瓦礫をよけて運転だ。

Fontaine の町はもっと閑散、人はいないし、車も少ない。花屋がある、というので、墓前に供える花を買うことにする。まだ、マイナス気温になるときがあるので、寒さに強い花を、と言っても、そう種類はない。
この町の墓地に、両親というのか、実家の墓がある。どういう構造になっているか知らないが、祖父母の代から埋葬されているのだとか。暮石にそえられた印は、勲章だという。彼女の父も、祖父も、レジオン ドヌールを受勲している。父は第二次世界大戦のヒーローでもあったので、戦時功労賞、戦後は地方経済の振興、文化事業への貢献と、いろんな活動をして、いくつもの勲章を貰っている。


彼女の父が現役で働いていた時代、この街は祖父が創業した繊維産業で栄えていた。有名なブランドに育て上げたのだが、、いかんせん、時代の波にのれず、彼女の姉婿が継いだあと、イタリアの資本に買収され、工場は残す、雇用は維持する、と約束を得ていたが、その後すぐに工場へいさ、生産はイタリアで、となったらしい。

両親の住んでいた家は、イタリア資本の撤退時に、町の所有となり、3年前、父の死去とともに、町に返却、そのごどうなったのやら、彼女は新聞を売っているお店で情報をえてきた。つい最近、だれかが購入したのだそうだ。

彼女の実家は、町のために、いろんなところで貢献した。教会を建てているし、スタッド(運動場)にも家族の名前が付いている。
もう親族はだれも住んでおらず、お墓だけが残っている。

このあとはどうなるの、と聞くと、知らない、自分の子供、孫達をもっと連れてきて、家系、祖先というものに関心をもたせなきゃね、という。

帰りは田園地帯をすっ飛ばした。県道というのは、最近、90キロから80キロに最高速度を落とされて、不評タラタラだが、そんなことしっちゃいない、とばかりに、また車の往来がないのをいいことに、猛スピードだ。

農村地帯であるが、家々はとてもきちんとしたものが多く、日本の限界集落とはちょっと違う。
携帯のナヴィをしても、右に曲がる、というのに、左に勝手に曲がっていく従妹の運転、果たしてパリにたどり着けるか、心配したが、無事、8時ちょっと前に到着。
15分程度の墓参りに、7時間いじょうかけた1日だった。

帰ったら、連れ合いのお墓にも行くべきかな?
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代父の人柄

葬儀に参列するためパリにきたものの、葬儀の日が遅くに設定されたので、無為に過ごしている。

ヌイイの家で、思い出に浸りたい気持ちはあるのだが、もう娘の領分になって、自由に足をはこべない。片付けの手伝いも不要のようだ。

この40年の付き合いがしきりに回顧される。

善意の人であったのだが、その善意がこちらの期待と食い違って、笑い話も多かった。
女性にやたら親切で、そも親切さを体に触れることで表現してきた。若い頃はそれが嫌で、となりに座らない、と離れるようにしていたが、彼は常にとなりに座るのだった。
もしかしていやらしい人?と思ったりもしたが、そばにいる母も平気な様子だし、観察すると、フランス人の女性は別になんとも思っていないようだ。
それでも、皮膚の接触になれない日本人として、彼の愛情表現に慣れるには随分時間がかかったものだ。

大阪の叔母がヌイイに泊めて貰った時のことだ。バスタブにお湯、それも日本人は熱いお湯が好きだから、と相当熱めのお湯を張って、どうぞどうぞと入浴を勧める。どうにか浴槽に体を沈めていると、ドアの外から、なにかお手伝いしましょうか、と日本語で聞いてきたのだそうだ。
「あなた、私は裸なのよ、何かお手伝いしましょうか、と言われてもね」と、叔母は私に話したものだ。
彼はもう親切一途に、申し出たのだろうが、人を困惑させた例は枚挙に限りなく、彼ったらね、の笑い話のタネになっていた。

頭脳明晰な人で、難関校をトップで卒業、官界、経済界で重要な地位を占めていた。日本に滞在していた時、首相から電話がかかってきて、隣国ベルギーの会社が経営危機に陥ったのを、彼の力が必要だ、とのことで、急遽帰国となり、空港まで、私の小型車で送ったことがある。
そんなに偉い人なんだ、と認識をあらたにしたものだった。

日本が大好きで、独学で日本語の勉強をしていたが、私への手紙を日本語で書いてきて、訂正をいれて送り返せ、というのには困った。意味はわかるのだが、文章として、テニオハ全てを直すと、赤ばかりになってしまう。といって訂正をしないと、かれはそれで正しいと思ってしまうのだ。
負けず嫌いの人だったから、赤が多いのが悔しくてたまらなかった。他の人が、日本語で書くだけでも立派、と賞賛しても、彼は不満だった。

彼は自分への要求レベルが高かったので、他人にもそれを要求することがあった。結局、こちらがそのレベルではない、とはっきりさせると、要求を引っ込めるのだが、彼が養子達とうまくいかなかったのは、そんなところにもあったのだろう。

一度大口論をしたことがある。当時、私は独身でだったのだが、女性は結婚して子供をもたないといけない、と彼が言ったのだ。私は怒った。独身で、子供がなくても、きちんと働いて、社会に貢献している。自負もあったけれど、結婚していないことに引け目もあった。だから怒ったのだ。
フランス語での議論にはハンディキャップがあって、結局、私のヒステリーで終わったのだが、彼の保守性には驚いた。母の不妊で、子供が出来ず、40歳で養子を迎えたのだが、何かしら、母がとても可哀想に思えて、父にがっかりした。

しかし父も変わった。世の中の動きに順応もして、多様性にも寛容になっていた。marriage pour tous という運動、つまり異性間だけではなく、同性の結婚も認めようと言う運動のデモがあった時、彼はそのうんどうに反対するデモに参加し、孫は賛成のでもに参加したのだが、孫を叱ったり、論破しようとはしなかった。
40年、毎年1回は私がフランスに来ることで交流していたのだが、彼らの生き方に影響されて、受洗もした。
不思議なご縁だ。友人の紹介で知り合って、日本のムスメ、と言われるほどの親しさが生まれた。

これも神のみ技、なのだろうか。

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代父の人柄

葬儀に参列するためパリにきたものの、葬儀の日が遅くに設定されたので、無為に過ごしている。

ヌイイの家で、思い出に浸りたい気持ちはあるのだが、もう娘の領分になって、自由に足をはこべない。片付けの手伝いも不要のようだ。

この40年の付き合いがしきりに回顧される。

善意の人であったのだが、その善意がこちらの期待と食い違って、笑い話も多かった。
女性にやたら親切で、そも親切さを体に触れることで表現してきた。若い頃はそれが嫌で、となりに座らない、と離れるようにしていたが、彼は常にとなりに座るのだった。
もしかしていやらしい人?と思ったりもしたが、そばにいる母も平気な様子だし、観察すると、フランス人の女性は別になんとも思っていないようだ。
それでも、皮膚の接触になれない日本人として、彼の愛情表現に慣れるには随分時間がかかったものだ。

大阪の叔母がヌイイに泊めて貰った時のことだ。バスタブにお湯、それも日本人は熱いお湯が好きだから、と相当熱めのお湯を張って、どうぞどうぞと入浴を勧める。どうにか浴槽に体を沈めていると、ドアの外から、なにかお手伝いしましょうか、と日本語で聞いてきたのだそうだ。
「あなた、私は裸なのよ、何かお手伝いしましょうか、と言われてもね」と、叔母は私に話したものだ。
彼はもう親切一途に、申し出たのだろうが、人を困惑させた例は枚挙に限りなく、彼ったらね、の笑い話のタネになっていた。

頭脳明晰な人で、難関校をトップで卒業、官界、経済界で重要な地位を占めていた。日本に滞在していた時、首相から電話がかかってきて、隣国ベルギーの会社が経営危機に陥ったのを、彼の力が必要だ、とのことで、急遽帰国となり、空港まで、私の小型車で送ったことがある。
そんなに偉い人なんだ、と認識をあらたにしたものだった。

日本が大好きで、独学で日本語の勉強をしていたが、私への手紙を日本語で書いてきて、訂正をいれて送り返せ、というのには困った。意味はわかるのだが、文章として、テニオハ全てを直すと、赤ばかりになってしまう。といって訂正をしないと、かれはそれで正しいと思ってしまうのだ。
負けず嫌いの人だったから、赤が多いのが悔しくてたまらなかった。他の人が、日本語で書くだけでも立派、と賞賛しても、彼は不満だった。

彼は自分への要求レベルが高かったので、他人にもそれを要求することがあった。結局、こちらがそのレベルではない、とはっきりさせると、要求を引っ込めるのだが、彼が養子達とうまくいかなかったのは、そんなところにもあったのだろう。

一度大口論をしたことがある。当時、私は独身でだったのだが、女性は結婚して子供をもたないといけない、と彼が言ったのだ。私は怒った。独身で、子供がなくても、きちんと働いて、社会に貢献している。自負もあったけれど、結婚していないことに引け目もあった。だから怒ったのだ。
フランス語での議論にはハンディキャップがあって、結局、私のヒステリーで終わったのだが、彼の保守性には驚いた。母の不妊で、子供が出来ず、40歳で養子を迎えたのだが、何かしら、母がとても可哀想に思えて、父にがっかりした。

しかし父も変わった。世の中の動きに順応もして、多様性にも寛容になっていた。marriage pour tous という運動、つまり異性間だけではなく、同性の結婚も認めようと言う運動のデモがあった時、彼はそのうんどうに反対するデモに参加し、孫は賛成のでもに参加したのだが、孫を叱ったり、論破しようとはしなかった。
40年、毎年1回は私がフランスに来ることで交流していたのだが、彼らの生き方に影響されて、受洗もした。
不思議なご縁だ。友人の紹介で知り合って、日本のムスメ、と言われるほどの親しさが生まれた。

これも神のみ技、なのだろうか。

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心の花束

カトリックだけなのか、他の宗教のことは知らないのだが、心のはなたば、という言葉がある。誰かのために、お花やものを差し上げるのではなく、お祈りをとなえ、何回唱えました、というメモを届けるのだ。

教会で長く奉仕された神父様が、母国で亡くなられた時、教会で、心の花束届けましょう、といわれた。

さて、父の葬儀のお花はいらない、と言われて困惑している。感謝の気持ち、愛情の証として、お花を贈るというのは、一番贈る側に都合がいい。

父の指定した団体への寄付も、花の代わりになる。しかし、父のこれまでの人生を顧みたとき、今だけではない、もっと長期に出来ることをかんがえた。

父と母は、とても質素な生活をしていた。40年以上のお付き合いの中で、最初の頃は、なんてケチな人たちだろう、と思ったものだ。
パンは決して捨てない、固くなったバゲットをかじるのだ。実母は、固くて食べられない、と困っていた。コーヒーの粉は2度使う。1度目は漉して、2度目は煮出す、2度目のコーヒーはまずい、なんでこんなまずいコーヒーを飲ませるの、と、あきれたものだった。
母のストッキングは破れた所を繕っていたし、服も質はいいけれど、古いもので、周囲の女性が歳をとってもファッショナブルな環境だったので、お金がないわけじゃないだろうに、と思っていた。

ケチぶりはまだまだあるけれど、彼らは、その一方で、人への援助をしていたのだ。
ヌイイのマンションには1階に使用人のための部屋があった。パリの市内なら、屋根裏部屋というのが定番だが。その部屋を外国からの留学生に無償で提供していた。マダガスカル、チュニジア、他にもいたらしいが、特にチュニジアの人は、その後も交際が続き、私も顔を合わせたことがある。彼女は、大臣にも任命されるなど、能力のある人だった。

また、父は退職後、勉強についていけない高校生の数学をみてやっていた。モロッコ人の男の子は私の滞在中、よく顔をあわせた。バカロレアにもいい点を取れた、と、モロッコから来たお祖父さんが白い長い民族服でお礼にきた、と父も喜んでいた。

私の知らないところでは、もっともっと善行を重ねていることだろう。無償の愛、という言葉も父が私に教えてくれた。

お祈りの言葉もきちんと覚えていない、ふつつかな信者であるし、心の花束が作れるか、自信はない。
また、父や母のように、あんなに質素にして暮らすのは、わたしには出来そうにない。コーヒーは、豆も選ぶし、1度だけで捨てる。
しかし、葬儀の日を待ちながら、父の心に沿う、私なりの報恩を考えてみたい。
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美術館巡りの日々

火曜日に着いて、たった3日しか経っていないのに、結局毎日美術館と博物館を巡っている。と言っても、1日に何カ所もまわる体力はないので、1日1館である。

結局のところ、従妹夫妻が毎日忙しく、相手をしてもらえないので、どこかへ出かけるのだが、観光スポットというのも、もう行かなくていいや、というので、美術館になる。

来るたびに訪れるマルモッタン美術館には、最初の日に行った。ヌイイからは面倒なところだったのだが、従妹の家からは、歩いて5分ほどだ。驚きの近さだった。
今、コロー展を開催中。常設の展示物も、毎回見飽きないのだが、この特別展も楽しみだ。

いとこにとても良かった、と言うと、ジャックマール アンドレ美術館でマリー カサット(Mary Cassatt)展をやっている、と情報をくれる。初めて聞いた名前だった。あまり絵画の趣味がないので、その方面に詳しい従妹たちからの情報は嬉しい。
アメリカ人女性で、フランスにながく住んで、印象派の絵を描いた、しかしそれらの作品は殆どがアメリカのコレクターの手に渡っていて、フランスではあまり知られていないのだそうだ。

ジャックマール アンドレ美術館も、ほとんど毎回訪れる。マリー カサット展は発見の展覧会だった。印象派と言うと、風景画が先行するけれど、カサットは、女性、特に母親と子供をモデルにしている。優しさと穏やかなタッチが、心を和ませる。
人は多かった。チケットを買うにも行列、室内も混雑、ガイドフォンを利用する人が多いので、動かない。

今日はガラリと雰囲気を変え、Museum de l’histoire naturelleの剥製動物が展示されている館に行った。本来、理科系は苦手で、植物ならともかく、動物は、、、と言うところだが、友人のリクエストもあって、一度は、と行ったのだ。
前回に、自然歴史館には来たのだが、剥製ではなく、骨の方に行ってしまった。

父が亡くなり、実家に行く、という口実も、気安く泊まれるところもなくなって、さて、また来れるだろうか、疑問だ。
それなら、ルーブルやオルセーといった大きい美術館を再訪しておくべきかもしれない。
しかしあのスケールを思うと、足が向かない。

何度か足を運んだことはあるし、ミロのヴィーナスも、モナリザもみたことがあるから、いいとするか、など、美しい物に鈍感なところがもろに出てくる。
今回の目的は、なにしろ葬儀に列席することだから。
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