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奨学金破産

この数日、朝日新聞に奨学金破産という連載記事が載っていた。

奨学金、スカラーシップ、フランス語だとbourse、奨学のためのおかねといえば、聞こえがいいが。日本では今ではローン(借金)と呼ぶべきだ、と連載記事にはある。

私も奨学金をもらった。当時の育英会という組織からで、当時はそれくらいしか奨学金を得る方法がなかった。私の場合、特別奨学金というもので、月額5000円、これを4年間もらったのだから、年6万円、合計24万円となったはずだ。

これを年額8000円、最初は5年くらいの猶予期間があったと思うので、ずいぶんあとまで払い続けたことが記憶にある。

今では年額8000円などたいしたものではないけれど、当時、給料も5万円くらいで、それですべての生活費を出していたので、年1回とはいえ、とても負担だった。

今や、奨学金は育英会(日本学生支援機構)以外にもいろいろあるらしい。それが問題になっていることもある。

数年前、家族問題の相談員のような仕事をしていたとき、両親の離婚問題に、子どもの意見をきくことにもなり、専門学校に通っている娘の話を聞いたことがある。娘は家をでて、自活しているような話だったが、月に10万の奨学金を受けているという。そして親が離婚したら、母のために、もう少し、受け取る奨学金を増やし、母親の生活のたしに渡したいというのだ。

驚いた。学校を卒業するまでに、借りた奨学金の総額は700万くらいになりそうだ、と簡単に言う。奨学金という名称でも、借金なのよ、返済しなければならないのよ、というと、20年ほどかけて返済するつもりだ、と返事してきた。

銀行員でもないので、700万の借金を負い、20年で返済するとき、月々返済額がいくらになるのか、利息がどうなるのかもわからないので、計算などできなかったが、私自身が住宅ローンで借りた金額より多く、どれだけの負担になるか、考えただけでぞっとしたものだった。

私の時代であれば、奨学金を受けるのは、大半が大学進学の場合だった。今ではそうでもないらしい。専門学校でも相当の費用がかかる。そういった学校をカバーする奨学金も存在する。

そして返済義務のある貸与型奨学金が、若い人への負担を重くしているというので、返済の必要のない給付型の奨学金も設定されるということだが、まだスタートしていないらしい。

進学したい人の希望を否定するわけではないが、進学というのがどこまでマストなのだろうか。

私のつれあいは働きながら大学に通ったようだ。私の姉は、高校卒業後、数年間働き、その後英語の学校へ通い、イギリスへ渡った。

昔と現在は高等教育の在り方もずいぶん変化したようなので、現状にうとい身としては何も言えないのだが、身近にも高校、そして大学受験時に奨学金を得る、という若い人がいる。
学費を負担してあげる力はないけれど、ようく考えて決めるように、と助言だけはしたい。


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絵を飾る位置

パリで従妹の家に泊まって、気づいたことがある。それは絵を飾る位置についてだ。

我が家では、そんなに絵があるわけではないが、つれあいが好きで、何枚か油絵もあるし、彼が書いた水彩画、いくつか額にはいったものがある。
それらを壁面が少ないこともあるが、鴨居より高い位置に飾っていた。絵は見上げるものだとおもっていた。

ところが従妹の家では、丁度目の高さに絵が飾ってある。従妹夫婦はコレクターといってもいい。最初は双方の祖父母からのプレゼントの絵からスタートしたらしいのだが、今では、自分たちで購入したものも加わり、相当数が飾ってある。
古典的な絵も少しはあるが、だいたいは近代、現代もので抽象画も多い。

彼らの好みで購入したもので、決して有名な画家のものばかりではないという。それでも、アメリカの展覧会に貸した、とか、日本で催された「ユトリロとその母ヴァラドン展」にはヴァラドンの作品を貸し出していた。その絵は、この展覧会のポスターに使われるなど、中心的存在でもあった。その絵など、彼女らの寝室に無造作、でもないか、に飾ってある。すぐ手で触れるところだ。

トイレの中にも版画などが飾ってあり、こんなところにも飾るか、とびっくりしたものだ。しかし、いたるところにいろんな絵が飾ってあるのは、退屈知らずでいい。抽象画など、なにを描いているのか、画家はなにをいいたいのか、想像するのも楽しかった。

さて、我が家、壁面のなさに困っている。東京住まいのときには、マンションの部屋にピクチャーレールもつけたりしたのだが、この田舎家にはなにもない。
従妹の家にならって、鴨居より上に飾っていたものも、目線の位置におきたい。

亡くなった父からの遺品、2枚の女性を描いた版画、これをどこに飾るかで気づいた問題である。

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「まだ生きていたのか」、本についてあれこれ

昨日、サンデー毎日4月8日号をみていて、今週の新刊の欄にこんなショッキングな文章をみつけた。岡崎武志という書評家の言である。
まだ生きていたのか、といわれた作家はマーガレット・ドラブル、イギリスの作家だ。

この表現、まさに私も感じたもので、やっぱりそう思う人もいたのか、と同感者の出現にうれしくなった。
マーガレット・ドラブルの著書「碾臼」は1970年代に翻訳されたのだとか、「未婚の母の行方をヒリヒリするような感覚で描く傑作だった」(岡崎氏)のは私も感じて、それ以来、この作家の名を探したりしていた。

ところが、今回、出版広告か、案内で、この作家の新作が出たことを知ったのだ。「昏い水」という作品、「碾臼」がシングルマザーがヒロインであれば、今回は70歳女性という、年齢にあった主役になっている。

原田マハという作家の「たゆたえど沈まず」という本にも、なんだか個人的なことだけれども、因縁みたいなものを感じることがあった。この「たゆたえど沈まず」というのは、FLUCTUAT NEC MERGITUR(flotte, mais ne coule pas)というパリの標語である。
この語がなぜタイトルに?という疑問で読み始めたのだが、これはパリに在住した林忠正という日本人を主役に、ゴッホ兄弟などをからませていた。原田氏が書かれているように、これは創作だ、というのだから、もちろん、史実そのものではないのだと思うが、私にしてみると、つれあいの知人にゴッホの研究家がいらして、ゴッホについていろいろ教えていただいたこと、また南仏や終焉の地、オーヴェール・シュール・オワーズなど、ゴッホゆかりの地を訪問して、感銘をうけたこと、などもあって、興味深く読んだ。

私はゴッホという画家に興味があって読んだのだが、つれあいの知人から、林忠正関連の情報が寄せられた。彼女の知人が、林忠正の親戚筋にあたり、林忠正の直系親族が絶えた今、私家版で資料なりを集めていらっしゃるのだというのだ。

原田氏の本は、図書館で借りたので、今すぐ読み返しができないのだが、あれあれ、いろんなところから話題は生まれるものだ、と思った。

昨年末、亡くなられた葉室麟氏は、高校の後輩だ。
また、このところ、評判になっている「守教」の帚木蓬生氏も同様に高校の後輩だ。

そこにもう一つ、そうかまだ生きていたのか、というのは失礼なのだが、久しぶりに新聞でその名みた。25日日曜日の朝日新聞書籍蘭の習慣ベスト10第2位に「それまでの明日」という本があった。作者は原尞氏である。親戚筋にあたる。
久しく消息を耳に、目にしていなかったのだ。ああ、活躍しているのだ、とうれしくなった。

曰く因縁があるわけではないけれど、こうもなにか気になる関係のある本が出ていると、せっかく季節がよくなったのに、庭仕事より、読書をせかされるようで、なかなか大変だ。



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佐川氏答弁を聞いて

さあ、佐川さん、どうするのかな?しょぼんとでてくるのかな?腹をくくってすべて暴露するのかな?などと興味をもってテレビをみていた。

なんのなんの。元高級官僚、仕立てのいいスーツで格好よく表れた。表情も引き締まっている。いやあ、やる気だな、と思う。

でも発言をきいていて、官僚用語というのか、よく知らないが、この頃、官僚の答弁時によく聞く語法が頻発して、がっかりだった。

それは思ってございます、考えてございます、申し上げてございます、とございますがつく言い方だ。

こういう場合、私が教わった日本語では、思っております、考えております、申し上げております、とおりますを使うところなのに。

いつ頃からだったか、国会でよく聞くようになった。でもこの言い方は官僚に多いと思う。官僚独特の表現なのだろうか。

ございますを使うなら、思いがございます、考えがございます、申し上げたことがございます、というふうにすべきだろうに。

させていただく、と一緒で、耳になじまない表現である。

しかし、佐川氏、動揺をみせず、しっかり逃げ切った感がある。国会の証人として呼ばれることは、本当に緊張を強いられることらしい。もちろん、私にその経験はないのだが。つれあいが一度証人となったことがあった。

あまり気が強いひとではないので、緊張のあまり倒れはしないかと、テレビでみていたが、どうにか乗り切った。こういう場は、質問者が自分の聞きたいことを、事実を無視して聞いてきたり、それに対して返事をしても、その返事を無視したかたちで発言しておしまい、というようなことで進み、証人としては不消化なのだそうだ。
また、メディアは証人、すなわち問責される立場と扱って、正当な評価をしてくれない、と悔しがっていた。

つれあいとは別のケースになるけれど、財務省の官僚はさすがに国会の場になれているものだ、と感心する。

1年前くらいに、「変な日本語」みたいな本を読んだけれど、この思ってございます、も是非加えていただきたい表現である。
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コットーノモノの行方

ヌイイの父が亡くなって、そのあとのことがきにかかっている。ヌイイのアパートは、娘と息子がもう売却と決めている。二人ともパリに住んでいないし、こんな大きい、経費のかかるアパートをもちこたえられるわけはない。売却、やむを得ずだ。

その中にあるものがどうなるのか、きにかかっている。家の中には、父と母が集めた、父のことばではコットーノモノ、がたくさんある。

私への遺品として、版画2枚を贈られたし、それ以上のものを望んではいけないことはわかっている。娘の話では、いろんなものに、贈る人の名前が書いてあったという。

もうすべて渡されたあとなのかどうか、わからないが、火葬が終わって、ヌイイの家に戻り、本当に親しいひとたちで、日本でいるお斎に似た時間をもった。

その時、私はつい娘に頼んだ。つまり、昨年末にダウンを送ったとき、亡くなったつれあいのマフラーも添えた。紺色のダウンにぴったりの紺とグレーが表裏になったカシミアのマフラーだ。何もいわなければ、どう処分されるかわからない。だれかが使ってくれるならいいけれど、そのだれかがわからないのもいやだ。

もう何点か、母もこの家にきていたころ、やたらとおみやげに持参したものがある。母の好みで、けっこう骨董的なものが多かった。その中でも、食堂に飾ってある漆の大きな盆、これは3枚組のものだったが、一枚を我が家、2枚目を父の家、そして3枚目は代母の妹の家、と分割したのだ。
いつも食堂に飾ってあるのはうれしかった。しかし、これも評価してもらっていってくれる人がいるなら、だけど、どうなるものやら、と気になる。

マフラーと漆の皿、これは娘もすんなりと理解してくれて、引き取ることができた。

もうそれ以上のことは言えない。そこまで、と自分でストップをかけた。娘は、なんでもほしいものがあったら言って、というけれど、そういうわけにはいかない。

帰国して、やっぱりもらってくるべきだったかな?と思うものもある。コットーノモノは価値もわからない私がもらっても、猫に小判だが、私の好きなものがあったのだ。
それは玄関ホールの棚に飾ってある鉱石コレクションだ。父も母も石が好きだったらしく、いろんな鉱石が飾ってあった。私も好きなので、だれも貰い手がいないときは、私にくださいと、父に頼んでいて、OKはもらっていたのだが、それを父の亡き今、言ったとして知っている人はいない。

鉱石はそう価値もないし、だれも異を唱えないだろうが、あの人はなにもかも欲しがったといわれるのも困る。
それに鉱石のコレクション、持ち帰るには重すぎる。

いろんなことを考えて、言い出さなかったのだけれども、ああ、あの石たち、どうなったのかな?と思いは残っている。
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初転び

何年振りのころやら、前回転んだことなど、記憶にもないのだが、今日、転んでしまった。
状況は庭、伐採した木の後処理をしていた。小さく枝を切って、まとめて庭の端っこにまとめていた。

なにかにつまずいたのは感じたのだが、うつぶせスタイルで、まったく寝た状態になった。花壇の縁石、火山の石でごわごわしている。角がたったものもある。そしてすぐ近くに、ベランダからの階段の角もある。そして手には剪定ばさみを握っていた。

もう少しで、花のかんばせが傷つくところだった。などと思いながら、両手と両足にショックは感じたが、幸い、厚手のボトムというのか、をはいていたので、擦り傷もない。手もすりむいていない。

ただ、うつぶせからしばらく起き上がれなかった。少しずつ、階段へと体を移し、階段に手をついて、体を起こした。

なんで転んだのだろう。理由分析を試みる。
1)時差ぼけで睡眠がとれていない。頭痛が絶え間ないし、体がふらついている。

2)脳内で、なにか変化が起きているのか。

3)瞬間的に天変でも起きたのか

4)神のお怒りか、今日は枝の主日という重要な日なのに、時差ぼけ理由でミサにいかなかった。それをお咎めになっているのだろうか。

などと考える。だれかに話したいけれど、けがもないし、それでどうした、気をつけなさい、と言われるだけだ。

こういうとき、つれあいが亡くなったことが残念で仕方ない。でもちゃんと聞いてくれるだろうか。彼はやたらところぶ人だった。その都度、ダメじゃない、もっと気を付けて、というだけで、大丈夫?ケガはない?もっと気を付けてね、とやさしく聞いてやっていたか、聞いてやっていなかったような気がする。
あれはきっと、なにかの体内異変の前兆だったのだろうに。

と思うと、私の場合も前兆のような気がしてくるのだ。結構注意深くしている。高齢者は転ぶというのが何かの始まりだから、ということは承知している。

転んだことだけではなかった。雨戸を閉めているとき、あまり勢いよく閉めすぎて、雨戸と網戸の間に手をはさんでしまった。

やっぱり神様かしら、と今日のさぼり、それにこの数日の行動などを反省する。

転ぶことが2度、3度、続けば、やっぱり病院で検査、かな?
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AFとJAL

今回のフランス行きは、日曜日にメイルで父の死を知り、その夜、ネットでチケット予約を試みるも、できず、月曜日の朝に予約完了、午後には成田へと出かけ、火曜日の午前中の便で出発と、きわめてあわただしいスケジュールだった。

いつもなら、2か月くらい前に、ネットでチケットの手配をする。もう何年も(10年以上)、JAL便に決めている。

例外は、2年前、母死去のとき、やはり急だったので、成田からのKLM便を利用したときだ。今回も一応、JAL便をみてみたのだが、あまりの高さにびっくり仰天、2年前の例にならって、KLMをチェックした。しかし、前回、アムステルダム経由で、乗換がつらかったので、今回、同じグループのAFでチェックしてみた。

チェックなんて格好いいものではなく、たまたま出てきたAFをフォローしてみたのだ。若いころはAFに乗るのは憧れで、飛行機に乗ったとたん、フランス気分が味わえるというので、なるべくAFに乗れるようにしたものだ。それがいつしか乗るならJALという年齢にもなってしまった。

KLMのときに感じたのだが、日本とアムスを結ぶフライトの飛行機が最新機ではない。設備が古い。費用の問題で、JALのときはプリミアムエコノミーで、KLMの場合はエコノミーだったこともあったのかもしれないが、サービスもあまりいいとはいえなかった。

今回はそれに凝りて、往復をプリミアムエコノミーにした。(結局、帰りは予定変更したため、エコノミーにクラスダウンとなったのだが)

まず、がっかりしたのは、搭乗前にラウンジが使えないことだった。一人旅の場合、トイレへ行ったり、なにかと荷物すべてをもって移動というのが大変だ。ラウンジが使えると、そういうことも楽だし、ゆっくり時間が使えるというメリットもある。そのためのプリミアム選択なのだが、AFでは使えない。

座席の広さはまあまあだったが、トイレが問題だ。年齢とともに、トイレへいく回数が増え、トイレがきれいかどうか、というのが気になる。
ところが、AFの飛行機は、機種がなんだったか、今、思い出さないのだが、プリミアムのトイレはエコノミーを使用することになっている。そのエコノミーがずっと後ろにしかトイレがない。ちなみに、JALの最新機だけかもしれないが、トイレはシャワー設備がついている。

12時間のフライトの間に2回、食事が出される。そのたびに歯磨きをするのだが、AFのトイレの水は飲料水ではないため、うがいができない。コップも供えられていない。一応、プリミアムの場合は、キットが配られ、その中に歯ブラシも入っているのだが、歯磨きができる体制にない。
食事ももう一つ魅力に欠いていた。

AFとJALの価格差をチェックしていなかったのだが、クラスで比較すると、JALがずっと先行している。

そうそう今回のような突然ということはないだろうが、次回以降、やっぱりJALになるのかな。

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納骨(納灰)式に参列して

葬儀の翌日が納骨だ。フランスの場合は骨ではなく、灰になるのだから、納灰式というのかもしれない。特別なことばは今のところないのか、enterrementが使われているようだけれど。

昨日の火葬の場も、日本とは違っていた。父のために集まった人、30人くらいだっただろうか。ごく近しい人たちばかりだ。親族ではない人というのは、メインのお手伝いさんkらいだったろうか。

棺が安置された部屋に集まり、画面に写されるヴィデオを見る。これは孫たちが写真を集めてつかったものらしい。

父の若いころからの写真もある。まるで違う人のような、若いころはけっこうハンサムだったのだな、と思う。
母との幸せな生活、そして40歳になって、ようやく養子縁組ができるようになり、娘と息子を養子として迎えたあとの家庭。

ブルターニュの別荘でのリラックスした日々、1枚は父がお馬さんになって、母が父の背にまたがっていて、全員が笑ってしまった。

私が映っている写真もあった。父とワイングラスを傾けている。いつ、どこでとられたものかは知らないが、二人とも楽し気にしている。

ヴィデオをみたあと、待合室に戻る。小部屋へ案内される。そこで、棺が炉にいれられるところをカメラを通してみられるというのだ。

それをみたいという希望者は少ない。息子は見ないという。娘、孫、私、あと数人だ。

日本人の私は1年前には喪主として、つれあいの棺が火葬になる(荼毘に付されるというべきか)ところに立ち会ったし、悲しさがあふれけれど、それをみることを拒否はしない。
しかし、従妹などはとんでもない、いやだという。従妹のつれあいはこの火葬の施設に来ることすらいやがった。

日本と違うのは、骨ではなく灰にするためには、より高温で、より時間がかかることだ。骨あげといったことはそれこそしないようで、もうそれぞれお引き取りをといわれる。灰になったところで、おしらせがあるらしい。自宅で待てというのだ。どうも次の家族が集まるようで、場所がないらしい。

そんな経緯を経て、今日は葬儀屋さんの車に、棺にくらべればとても小さい骨壺ならぬ灰壺が鎮座していた。

その車がゆっくりお墓へと移動する。われわれはそのあとを行進する。
お墓の場所は、2年前、母の埋葬で知っている。母のときと同じように、平べったいお墓のふたがはずされている。
墓の中をのぞいてみると、もう母の棺は形がみえない。コンクリートの板でおおわれている。
その上に灰壺が置かれた。灰壺は鈍い光を放つ石でできている。つれあいの骨壺より小ぶりだ。


娘が聖書の1節、そして甥の一人が思いでのスピーチをし、「主の祈り」を全員で唱える。
白いバラの花を1輪ずつ、順番に投げ入れる。本当にみんな無造作に投げ入れるものだ。

それが終わると、業者のひとがクレーンで蓋をかぶせる。そんな光景をみながら、列席者が立ったまま、なんとなく会話をかわしている。

まだ父の名前は墓石に刻まれてはいない。勲章受章のことなども書き加えられるのだろう。

別にそれでどうしたということもなく、散会することになった。私は空港へいくことになっているし、従妹たちはこのあと私をパリ市内のタクシーステーションまで送ったあと、別のランデヴーがある。

ほかのひとたちも同様だ。墓地の入り口でさようならのハグをする。もう会わない、会えないひとたちなのかもしれない。
1周忌だ、3周忌だという儀式もない。もしあるとしても、そこまでくるかどうかはわからない。

La page est tourneeだ。新しいページになるのだから、感傷にふけっているわけにはいかないのかも。フライトの時間もあるので、そうそうにお別れの挨拶をして従妹の車に乗り込んだ。
あまりに儀式ばる日本のやりかたも好きではないが、こうも簡単、簡素もしっくりこない。

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固定電話のない不便さ

今回、滞在は短いものの、いろんな連絡もあろうか、と、空港でプリペイドのシムというデスクをみつけ、アイフォンに入れることにした。どれだけの容量で40ユーロだという。この容量で、1週間の滞在が賄えるか、わからないのだが、それで試してみようと思った。

ところが、私の携帯は、なにかがブロックされていて、入れられないのだという。なぜ?、どうすればいいの?と疑問を特には疲れすぎて面倒。すぐにあきらめた。
従妹の家には無料のWifi があるにちがいないから、それで済ませようと思ったのだ。

済ませられたけれど、誰にも連絡できなかった。フランス在住の友人が、ブログを読んで、父の死亡と私がフランスに来ていることを知って、ヌイイの家に電話してくれたのだが、私の連絡先など知らない、と素っ気なくあしらわれてしまったそうだ。

従妹夫妻はもう固定電話を持っていない。それぞれが携帯をもって、まあ、絶え間なく使っている。ちょっと貸して、とも言えない。

とうとう、誰にも、連絡することなく終わった。ヌイイの家では、固定電話しかなかったが、それなりに勝手に使い、外からも私宛にたくさんかかってきた。

今や、外国へ出かけるときも、外国仕様の携帯を持つのが潮流ではあるのだが、日本国内でも、携帯がまだ身についていない私としては、このくらいの不便さは耐えるべき範囲なのだ。

葬儀の席で、多くの人からon se telephone と言われたが、なんともしようがない。

でもIT時代、帰国後、メイルでの返事であれば、費用は気にならない。いいところもあれば、不便極まりないこともある。
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葬儀についての雑感

従妹は電話などで、父の葬儀を話すとき、enterrement と言っている。私が解釈すると、埋葬となって、葬儀とは違うような気もする。

昨日の教会でのミサは、教会ではそれなりの連絡網があるだろうし、親戚、知人には娘や身内の人間が電話やメールで知らせたのだろう。私には従妹からだった。
今回はフィガロ紙にもお知らせをだしたためか、結構人は多いように感じた。年配者が多いのは、父が95歳ということもあるが、甥や姪の世代、意外と若い人も見かけたので、どういう関係なのか、聞いてみたかった。

今回は火葬にするということで、他のことも簡素化されたのか、母の時つくられた式次第をかいた印刷物がない。数枚持ち帰って、父をご存知の方々に、お送りしようと思っていたのだが。

前回(母の時)、3人の名ずけ娘でしたpriere universelle というお祈りは孫の一人がした。
聖書の一節は娘が担当した。ミサの最後に娘がなにかをいう、というので、父の思い出や、皆さんとの交流のあれこれか、と思っていると、事務連絡のようなことだけだ。
そして、火葬にするのは、故人の遺志で、何年に書き残していた、と自分がそうしたわけではないことを言い訳している。まあ、これは言っておきたいだろう。火葬は初めてだ、という人が多く、いとこのつれあいも火葬場に行くのを拒否している。

なにもかもがとてもセックsecで、私のスピーチが涙を誘う唯一のものだったようだ。

火葬場い集まったのは親族のみ。それもとても近しい人たちだ。棺がおかれた部屋で、孫達が編集した思い出写真のヴィデオをみる。30分ほどだ。若々しい父、別人のようだ。
娘と息子を養子にした後の写真はまるで「幸せ家族」そのものだ。

私の写真もあって、家族の一員に入れてくれたのかな、と嬉しかった。従妹は帰った後で、現実から乖離したヴィデオだった、と言っていた。

そのあと、待合室に戻っていると、棺を炉に入れるところをご覧になりたい方はどうぞ、と小さな部屋に案内された。ほんの少数だ。これもカメラで写しているのを見る。

フランスのやりかたは、遺骨にするのではなく遺灰とするので、より高温で、長時間かかるとのこと。
どうぞお引き取りを、ということになる。
遺灰になったところで、だれかが受け取りにいくのだとか。

我々はヌイイの家に戻った。ここで軽食が振舞われる。御斎とでもいうのだろうか。シャンペンはないが、ワイン、ソフトドリンク、おつまみ、プティフール、などが供される。

親族の同窓会みたいなもので、消息を披露しあっている。娘がだいぶかたずけたようだが、何しろ父の年齢分、ものがたまっているから、まだまだたくさんの品々だ。
連れ合いのカシミアのマフラーを形見で父にプレゼントしていたのだが、それは返して貰っていいかしら?と娘に尋ねると、どうぞどうぞ、という。
さらに、母がお土産で持参した大きな塗りの皿も、食堂に飾ってあるのだが、持ち帰りたい、と頼む。

大きなものは裏に誰々に、と書いてあったようで、残りは適当にと、らしい。欲しいものはたくさんあったが、ここで欲を出すとあとでみっともないことになりそうだ。
変な処分をされるのはしのびない、と我が家の由来のものだけにした。
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