SSブログ

今年初の庭仕事

昨日、今日とあまりのお天気についその気になってしまった。庭のひだまりに、フクジュソウが2輪、でていたのが、1輪は少し開き始め、黄色の花びらがみえる。そして、今朝はまた白のクロッカスがほんの1輪だけ咲いた。

こうなると、むずむずしてくる。庭の80%はまだ真っ白、雪に覆われているのだが、陽だまりになった部分が少しだけ、土をみせている。
南の庭より、北側の庭の雪解けが早いのはどうしてだろう。北側は家のかげになって、日あたりも南の庭よりよくないと思うのに。地温が違うのだろうか。

まだ土が見えるといっても、凍っている。庭仕事といっても、することはないのだ。
そこで、雪の中、木を切ることにした。隣との境に植えたイチイの木が、10年で大きくなりすぎた。境界としてはいいのだが、このまま大きくなって、大風のとき、隣家に倒れたりしたら大変だ。

冬の間に切ってくださいと、お願いした人もいるのだが、そもそも苗木をくださった人なので、切ることをよしとしていないのか、いい返事はもらえなかった。

のこぎりを手に、1本を選んで切ってみる。大変だった。枝を切り落とすのと、木の幹を切るのは違う。休み、休み、一こぎ、二こぎ、なかなか進まない。堪え性もなくなって、途中でやめたくなった。

のこぎりでは無理なのだ。チェーンソーで切れば簡単なのに。でも、この苦労が木への敬意と、がんばった。

まだ10本以上残っている。今日切ったところは、隣家のお風呂の窓を隠していた。切ってよかったのやら。

昨年とうとうやれなかった枯山水の掃除も今年は課題になっている。本格的な春が待たれる。
nice!(0)  コメント(0) 

ルアンプラバンの托鉢

古都ルアンプラバンの売り物といっては語弊があるけれど、早朝の僧侶の托鉢が有名だ。
この町を紹介する映像には必ずでてくる。

村上春樹の「ラオスにいったい何があるというんですか?」にも、この托鉢が紹介されており、かつ高い評価をされていた。

さて、老女2人、もう相当、人生の悪業も重ねて、後世についての望みももちかねている。友人は簡単に最初に言った。昨年、ミャンマーで托鉢への寄進はしたから、もうここではいいです、と。

私はミャンマー旅行に行っていない。ルアンプラバンに来る前、ヴィエンチャンに滞在中、そこの友人が、当地でも托鉢はされていますから、もしご覧になるとか、寄進をされたいのでしたら、カオ・ニャオ(もち米)をご用意いたします、と親切に言ってくれた。怠け者の老女は、ここではいいです。ルアンプラバンで3泊ありますから、そこで参加することにしますと。

なんせ早起きをしなければいけないというのが大のネックなのだ。まず第一夜があけて、その朝、早朝に騒音が聞こえる。まだ早い!とベッドのなかで文句をつけている。
ああ、そうだった、お坊さんの托鉢があったのだ、と気づいて、その昼、ホテルのフロントで何時に起きればいいのかきいてみる。5時半で大丈夫ですよ、とのこと。

5時半、睡眠障害で、朝方に眠っている身にはちょっと辛い時間だ。よし、明日がだめなら明後日、2日あればどうにかなるだろう、もし2日ともダメでもいいじゃないの、と老女はこだわらない。

ところが、翌朝、4時すぎにがたがた物音がし始めるのに気づくと、もう寝ていられない。5時には表に出た。ホテルの前も托鉢僧は通るという。
道の真ん中には屋台の車があって、寄進のためのカオ・ニャオ(もち米)やなにが包まれているか知らないが粽になったもの、カップにはいったもの、と3種の籠が用意され、ワンセット5万キープだという。

まわりは観光客だけだ。本来、正座して僧侶を迎え、けっして彼らより目線が上になってはいけないらしいが、観光客には小さな椅子が用意されている。正座ができない私は当然のように座って待つ。

村上春樹は、「僧侶たちにもち米ごはんを「差し上げ」てみた。まあ、ほんの真似事のようなものなのだけど、それでも実際にやってみると、そこにある土着の力みたいなものを、その本物さを、不思議なくらい強く肌身に感じることになった」と書いている。

私は土着に人のなかにいなかったせいなのか、その力なるものを感じなかった。とても形骸化したものと思った。かれらの托鉢をする道具は、アルミのふたがかぶせられるようになっている。こちらのお供えがうまくタイミングがあわないと、その蓋を閉じている。

こんなに形式化したなかで、ほんの一握りのごはん、それは量的には集合して大変なものになるのだろうが、そうなったらそうなったところで、消費できるのだろうか。
人の手で、小さくまとめられたもち米ごはんは、はたして食べる気になるのだろうか。

私の隣に座った人は、もしかしたら土地の人だったのかもしれない。お米のかわりに小さい袋菓子用意していて、それを托鉢の容器にいれていた。

私はごはんのほかの粽やカップにはいったものを、若い僧たちに主としていれていたけれど、さて、最終的に自分のものは自分のもの、となるのだろうか、それは疑問である。

毎朝、こうして托鉢をするというのは、修行としてはいいのだろう。しかし、こうも観光化し、形骸化しているとなれば、修行の一端と言えるのだろうか。

昔、実家には禅宗のお寺から、若い僧が時折托鉢に寄っていた。玄関に鈴の音がして、扉を開けると、黒装束の、裸足の僧が杖を鳴らしている。奥にいる祖母に「お坊さんがきた」というと、茶菓子やお米、そしていくばくかのお金を差し出していた。そのお菓子は私が食べたかったのに、と思うこともしばしばだったが、祖母はかならず寄進していた。

あのシンプルな托鉢のほうが、私には納得できる。ルアンプラバンのオレンジ色の衣が派手というのではない。団体で托鉢をするとき、その表情に倦んだ気配を感じただけなのだ。
nice!(0)  コメント(0)