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代父の人柄

葬儀に参列するためパリにきたものの、葬儀の日が遅くに設定されたので、無為に過ごしている。

ヌイイの家で、思い出に浸りたい気持ちはあるのだが、もう娘の領分になって、自由に足をはこべない。片付けの手伝いも不要のようだ。

この40年の付き合いがしきりに回顧される。

善意の人であったのだが、その善意がこちらの期待と食い違って、笑い話も多かった。
女性にやたら親切で、そも親切さを体に触れることで表現してきた。若い頃はそれが嫌で、となりに座らない、と離れるようにしていたが、彼は常にとなりに座るのだった。
もしかしていやらしい人?と思ったりもしたが、そばにいる母も平気な様子だし、観察すると、フランス人の女性は別になんとも思っていないようだ。
それでも、皮膚の接触になれない日本人として、彼の愛情表現に慣れるには随分時間がかかったものだ。

大阪の叔母がヌイイに泊めて貰った時のことだ。バスタブにお湯、それも日本人は熱いお湯が好きだから、と相当熱めのお湯を張って、どうぞどうぞと入浴を勧める。どうにか浴槽に体を沈めていると、ドアの外から、なにかお手伝いしましょうか、と日本語で聞いてきたのだそうだ。
「あなた、私は裸なのよ、何かお手伝いしましょうか、と言われてもね」と、叔母は私に話したものだ。
彼はもう親切一途に、申し出たのだろうが、人を困惑させた例は枚挙に限りなく、彼ったらね、の笑い話のタネになっていた。

頭脳明晰な人で、難関校をトップで卒業、官界、経済界で重要な地位を占めていた。日本に滞在していた時、首相から電話がかかってきて、隣国ベルギーの会社が経営危機に陥ったのを、彼の力が必要だ、とのことで、急遽帰国となり、空港まで、私の小型車で送ったことがある。
そんなに偉い人なんだ、と認識をあらたにしたものだった。

日本が大好きで、独学で日本語の勉強をしていたが、私への手紙を日本語で書いてきて、訂正をいれて送り返せ、というのには困った。意味はわかるのだが、文章として、テニオハ全てを直すと、赤ばかりになってしまう。といって訂正をしないと、かれはそれで正しいと思ってしまうのだ。
負けず嫌いの人だったから、赤が多いのが悔しくてたまらなかった。他の人が、日本語で書くだけでも立派、と賞賛しても、彼は不満だった。

彼は自分への要求レベルが高かったので、他人にもそれを要求することがあった。結局、こちらがそのレベルではない、とはっきりさせると、要求を引っ込めるのだが、彼が養子達とうまくいかなかったのは、そんなところにもあったのだろう。

一度大口論をしたことがある。当時、私は独身でだったのだが、女性は結婚して子供をもたないといけない、と彼が言ったのだ。私は怒った。独身で、子供がなくても、きちんと働いて、社会に貢献している。自負もあったけれど、結婚していないことに引け目もあった。だから怒ったのだ。
フランス語での議論にはハンディキャップがあって、結局、私のヒステリーで終わったのだが、彼の保守性には驚いた。母の不妊で、子供が出来ず、40歳で養子を迎えたのだが、何かしら、母がとても可哀想に思えて、父にがっかりした。

しかし父も変わった。世の中の動きに順応もして、多様性にも寛容になっていた。marriage pour tous という運動、つまり異性間だけではなく、同性の結婚も認めようと言う運動のデモがあった時、彼はそのうんどうに反対するデモに参加し、孫は賛成のでもに参加したのだが、孫を叱ったり、論破しようとはしなかった。
40年、毎年1回は私がフランスに来ることで交流していたのだが、彼らの生き方に影響されて、受洗もした。
不思議なご縁だ。友人の紹介で知り合って、日本のムスメ、と言われるほどの親しさが生まれた。

これも神のみ技、なのだろうか。

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代父の人柄

葬儀に参列するためパリにきたものの、葬儀の日が遅くに設定されたので、無為に過ごしている。

ヌイイの家で、思い出に浸りたい気持ちはあるのだが、もう娘の領分になって、自由に足をはこべない。片付けの手伝いも不要のようだ。

この40年の付き合いがしきりに回顧される。

善意の人であったのだが、その善意がこちらの期待と食い違って、笑い話も多かった。
女性にやたら親切で、そも親切さを体に触れることで表現してきた。若い頃はそれが嫌で、となりに座らない、と離れるようにしていたが、彼は常にとなりに座るのだった。
もしかしていやらしい人?と思ったりもしたが、そばにいる母も平気な様子だし、観察すると、フランス人の女性は別になんとも思っていないようだ。
それでも、皮膚の接触になれない日本人として、彼の愛情表現に慣れるには随分時間がかかったものだ。

大阪の叔母がヌイイに泊めて貰った時のことだ。バスタブにお湯、それも日本人は熱いお湯が好きだから、と相当熱めのお湯を張って、どうぞどうぞと入浴を勧める。どうにか浴槽に体を沈めていると、ドアの外から、なにかお手伝いしましょうか、と日本語で聞いてきたのだそうだ。
「あなた、私は裸なのよ、何かお手伝いしましょうか、と言われてもね」と、叔母は私に話したものだ。
彼はもう親切一途に、申し出たのだろうが、人を困惑させた例は枚挙に限りなく、彼ったらね、の笑い話のタネになっていた。

頭脳明晰な人で、難関校をトップで卒業、官界、経済界で重要な地位を占めていた。日本に滞在していた時、首相から電話がかかってきて、隣国ベルギーの会社が経営危機に陥ったのを、彼の力が必要だ、とのことで、急遽帰国となり、空港まで、私の小型車で送ったことがある。
そんなに偉い人なんだ、と認識をあらたにしたものだった。

日本が大好きで、独学で日本語の勉強をしていたが、私への手紙を日本語で書いてきて、訂正をいれて送り返せ、というのには困った。意味はわかるのだが、文章として、テニオハ全てを直すと、赤ばかりになってしまう。といって訂正をしないと、かれはそれで正しいと思ってしまうのだ。
負けず嫌いの人だったから、赤が多いのが悔しくてたまらなかった。他の人が、日本語で書くだけでも立派、と賞賛しても、彼は不満だった。

彼は自分への要求レベルが高かったので、他人にもそれを要求することがあった。結局、こちらがそのレベルではない、とはっきりさせると、要求を引っ込めるのだが、彼が養子達とうまくいかなかったのは、そんなところにもあったのだろう。

一度大口論をしたことがある。当時、私は独身でだったのだが、女性は結婚して子供をもたないといけない、と彼が言ったのだ。私は怒った。独身で、子供がなくても、きちんと働いて、社会に貢献している。自負もあったけれど、結婚していないことに引け目もあった。だから怒ったのだ。
フランス語での議論にはハンディキャップがあって、結局、私のヒステリーで終わったのだが、彼の保守性には驚いた。母の不妊で、子供が出来ず、40歳で養子を迎えたのだが、何かしら、母がとても可哀想に思えて、父にがっかりした。

しかし父も変わった。世の中の動きに順応もして、多様性にも寛容になっていた。marriage pour tous という運動、つまり異性間だけではなく、同性の結婚も認めようと言う運動のデモがあった時、彼はそのうんどうに反対するデモに参加し、孫は賛成のでもに参加したのだが、孫を叱ったり、論破しようとはしなかった。
40年、毎年1回は私がフランスに来ることで交流していたのだが、彼らの生き方に影響されて、受洗もした。
不思議なご縁だ。友人の紹介で知り合って、日本のムスメ、と言われるほどの親しさが生まれた。

これも神のみ技、なのだろうか。

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心の花束

カトリックだけなのか、他の宗教のことは知らないのだが、心のはなたば、という言葉がある。誰かのために、お花やものを差し上げるのではなく、お祈りをとなえ、何回唱えました、というメモを届けるのだ。

教会で長く奉仕された神父様が、母国で亡くなられた時、教会で、心の花束届けましょう、といわれた。

さて、父の葬儀のお花はいらない、と言われて困惑している。感謝の気持ち、愛情の証として、お花を贈るというのは、一番贈る側に都合がいい。

父の指定した団体への寄付も、花の代わりになる。しかし、父のこれまでの人生を顧みたとき、今だけではない、もっと長期に出来ることをかんがえた。

父と母は、とても質素な生活をしていた。40年以上のお付き合いの中で、最初の頃は、なんてケチな人たちだろう、と思ったものだ。
パンは決して捨てない、固くなったバゲットをかじるのだ。実母は、固くて食べられない、と困っていた。コーヒーの粉は2度使う。1度目は漉して、2度目は煮出す、2度目のコーヒーはまずい、なんでこんなまずいコーヒーを飲ませるの、と、あきれたものだった。
母のストッキングは破れた所を繕っていたし、服も質はいいけれど、古いもので、周囲の女性が歳をとってもファッショナブルな環境だったので、お金がないわけじゃないだろうに、と思っていた。

ケチぶりはまだまだあるけれど、彼らは、その一方で、人への援助をしていたのだ。
ヌイイのマンションには1階に使用人のための部屋があった。パリの市内なら、屋根裏部屋というのが定番だが。その部屋を外国からの留学生に無償で提供していた。マダガスカル、チュニジア、他にもいたらしいが、特にチュニジアの人は、その後も交際が続き、私も顔を合わせたことがある。彼女は、大臣にも任命されるなど、能力のある人だった。

また、父は退職後、勉強についていけない高校生の数学をみてやっていた。モロッコ人の男の子は私の滞在中、よく顔をあわせた。バカロレアにもいい点を取れた、と、モロッコから来たお祖父さんが白い長い民族服でお礼にきた、と父も喜んでいた。

私の知らないところでは、もっともっと善行を重ねていることだろう。無償の愛、という言葉も父が私に教えてくれた。

お祈りの言葉もきちんと覚えていない、ふつつかな信者であるし、心の花束が作れるか、自信はない。
また、父や母のように、あんなに質素にして暮らすのは、わたしには出来そうにない。コーヒーは、豆も選ぶし、1度だけで捨てる。
しかし、葬儀の日を待ちながら、父の心に沿う、私なりの報恩を考えてみたい。
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美術館巡りの日々

火曜日に着いて、たった3日しか経っていないのに、結局毎日美術館と博物館を巡っている。と言っても、1日に何カ所もまわる体力はないので、1日1館である。

結局のところ、従妹夫妻が毎日忙しく、相手をしてもらえないので、どこかへ出かけるのだが、観光スポットというのも、もう行かなくていいや、というので、美術館になる。

来るたびに訪れるマルモッタン美術館には、最初の日に行った。ヌイイからは面倒なところだったのだが、従妹の家からは、歩いて5分ほどだ。驚きの近さだった。
今、コロー展を開催中。常設の展示物も、毎回見飽きないのだが、この特別展も楽しみだ。

いとこにとても良かった、と言うと、ジャックマール アンドレ美術館でマリー カサット(Mary Cassatt)展をやっている、と情報をくれる。初めて聞いた名前だった。あまり絵画の趣味がないので、その方面に詳しい従妹たちからの情報は嬉しい。
アメリカ人女性で、フランスにながく住んで、印象派の絵を描いた、しかしそれらの作品は殆どがアメリカのコレクターの手に渡っていて、フランスではあまり知られていないのだそうだ。

ジャックマール アンドレ美術館も、ほとんど毎回訪れる。マリー カサット展は発見の展覧会だった。印象派と言うと、風景画が先行するけれど、カサットは、女性、特に母親と子供をモデルにしている。優しさと穏やかなタッチが、心を和ませる。
人は多かった。チケットを買うにも行列、室内も混雑、ガイドフォンを利用する人が多いので、動かない。

今日はガラリと雰囲気を変え、Museum de l’histoire naturelleの剥製動物が展示されている館に行った。本来、理科系は苦手で、植物ならともかく、動物は、、、と言うところだが、友人のリクエストもあって、一度は、と行ったのだ。
前回に、自然歴史館には来たのだが、剥製ではなく、骨の方に行ってしまった。

父が亡くなり、実家に行く、という口実も、気安く泊まれるところもなくなって、さて、また来れるだろうか、疑問だ。
それなら、ルーブルやオルセーといった大きい美術館を再訪しておくべきかもしれない。
しかしあのスケールを思うと、足が向かない。

何度か足を運んだことはあるし、ミロのヴィーナスも、モナリザもみたことがあるから、いいとするか、など、美しい物に鈍感なところがもろに出てくる。
今回の目的は、なにしろ葬儀に列席することだから。
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