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表現のこだわり

フィガロ紙に出た父の葬儀に関するお知らせについて、従妹が怒っている。
表現が素っ気なさ過ぎると言うのだ。愛情が無さ過ぎるとも言う。

わたしにはフランス語のニュアンスがわからない。どこが素っ気ないのか、と聞くと、最初の書き出しからだという。
Les familles Xxxxx, Yyyyyy, Zzzzzzと3家族名が書かれている。最初は父の苗字、これは、息子に甥の家族が相当する。2番目は娘の結婚後の姓、3番目は亡き母の結婚前の姓である。
この3家族名で、父の死と葬儀について、お知らせします、という文章だ。

従妹は、この出だしがいけない、と言う。ちゃんと名前をだし、ses enfants, ses petits enfants、死者の子供達、孫達、としなければならないというのだ。
ほかのお知らせを見ると、そうなっているものが多い。

そのほかにも、娘が一度も父と母のことを、パパ、ママと呼ばなかったことにも腹をたてている。le papy、la mamieと呼んでいたとか。この定冠詞をつけて呼ぶのは、一種軽蔑したようなニュアンスがあるのだとか。
そうしてみると、呼び方一つでも難しいものだ。私もそれで苦しんだことがある。連れ合いの娘達が、私に連れ合いのことを言う時、「父」と表現するのが、つまりは私を他人と見ている証拠か、と見て取ったのだ。

従妹は娘の言葉の使い方に、これまでの親子関係の難しさを見るのだが、生後すぐの養子縁組でもらわれた娘、息子と、養父母の、特に子供の側からの気持ちを理解するのは困難だ。

従妹にしてみれば、何不自由なく、愛情たっぷりの家庭で育ててもらって、何の不満があるのか、とも言うが、愛情は形のあるものではないから、親と子の立場で、なんとも言えない。

喪主になって初めてわかったことでもあるが、外野からあまり文句を言ってはならない、と思うのだ。
これまでのやり方とは違うかもしれない、私ならこうする、こうしたい、と思っても、喪主のやり方を受け入れなければ。

と言いつつ、わざわざ日本から来た私への態度のそっけなさ、フランス在住の友人が電話してきても、私が何処にいるかも、連絡先も知らない、と返事した、ということに、いささか、ムッときているところだ。



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死去および葬儀のお知らせ

3月11日に亡くなった父の葬儀の知らせが、今日のフィガロ紙に出た。Le carnet du jourというページがあって、いろんなお知らせが出るのだが、まずはこのページは死亡広告で利用される。

死亡については、deuilsの項目になるが、いつ、どこで亡くなった、葬儀はどこで、何日何時におこなわれ、埋葬はどこ、といったことが、家族、親族名でだされる。

ごく親しい人には電話で知らせていくのだが、一般的にこのフィガロ紙のお知らせ欄はよく見られていた。

亡くなった母は、フィガロのこの欄を見ては、夫に誰それが亡くなったけど葬儀に行く?と聞いていたものだ。この頃は新聞を取らない人、フランスでは例外はあるものの、新聞の宅配がないから、必ずしも毎日読むわけでもない。

そんなこんなで、フィガロ紙の効果は減少傾向にあるが、流石に社会的地位もあった父だから、お知らせを出した。

この頃の傾向は、ni flours ni couronnes、つまりご供花はご辞退します、と書かれていることが多い。

父の場合は、彼の意思で、ご供花は辞退し、この団体に寄付してください、とある。これは、2004年に、葬儀について彼自身が書いていた。

東京の、彼を知る友人達からお花を贈ってね、とお金を預かってきたが、娘は亡き父の遺志だと言うし、父の意思を書いた手紙も見たし、預かったお金は指定された団体へ寄付することにするつもりだ。

我がつれあい死去の時は、新聞にも出さず、電話連絡もせず、お花もお供えもご辞退としていたが、あとで死去を知られた方々からのお花、お供え、ーお香典、随分届いたものだ。
お花とお供えは、つれあいの写真に供えたけれど、お香典は、父のように、ある団体へ全額寄付をした。

父の葬儀がどのように進行するのか、特に火葬でもあり、親族の抵抗感も強い。
保守の代表だと思い込んでいたが、簡素な葬儀を望んでいたことに、改めて尊敬の念を覚えている。
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