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まるで日本にいるみたい、自動車事情

はじめ、外国に来た気になれなかった、というのはちょっと言い過ぎだが。
日本車が多いと言うだけではない。中古車が日本で走っていた状態のまま、道路を走っている。

ある日は、わかば幼稚園と書かれ、かわいい絵もついたミニバスが、観光を共にした。私が乗るくるまもトヨタである。トラックにも、ミニバンにも、工務店、製作所、何だかんだ、日本の事業所の名称が付いたままだ。

日本の中古車は評判がいいのだそうだ。故障が少ない、と信頼されている。
日本では私もトヨタよ、というと、車種を運転手が聞いてくる。ポルテ、というと知らない。輸入されていないのか。10万キロ走ったからの、買い換える、というと、自分に売って下さい、と言う。
輸出の手続きの面倒さえなければ、進呈でもいいのだが。

こちらのナンバープレートの規則も聞いた。普通車は黒、赤は営業車、青は観光用、白が外交団、黄色は僧侶、と区別されている。
プレートの上の部分には地名がアルファベットの略号で記載されている。ヤンゴンならygn だ。確かマンダレーはmdy だったように記憶する。mlyだったかも。
そのあと下が数字、まず1桁の数字が1から始まり9まで。その後にアルファベットが大文字でAからZまで。ハイフォンかスペースがあって、数字が1から9999まで続く。だから1Aで9999となると、2Aとなっていくわけだ。極めてわかりやすい。しかし、このやり方で、もう余裕がなくなり始めたのだとか。でもまだ9Zのナンバーは見かけたことがない。

利用した国内線の飛行機で、40周年記念の抽選をやっていた。ヤンゴンーバガンーマンダレーーインレー湖ーヤンゴンと4便利用した。
毎回、応募する。ガイドさんのためだ。最高商品は車、当たればすごい!
応募しなければ当たらない。というので、私も応募、当たったらガイドさんにあげる約束だ。4月
末発表、当たったら、受け取りにミャンマー再訪となる。楽しみだ!
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ミャンマーの言葉と文字

今回の旅行、申し訳ないことだが、ほとんど予習をしなかった。
ミャンマー語で、こんにちは、も、ありがとうも言えない。とても失礼なことだ、と思っている。

難しい。文字はまるで絵文字だ。丸っこい形で、フニャフニャしている。じっと見つめていると、形の原則でもわかるか、とショッピングセンターや商店名を観察するが、不可能だ。

幸い、随分アルファベット表記が進んでいて、ちょっと見にはわかりやすい。
しかしそこにも落とし穴がある。ミャンマー語をアルファベットに直した場合、表音の形が違い、すんなり発音できない。子音がいくつも続いて、どう発音すべきかわからない。

ガイドブックに書いてある名所旧跡の名称も、ガイドさんの発音で聴くと別物になる。ガイドさんの発音を日本語的にカタカナ表記にするのは不可能だ。

数字もアラビア数字とは違うけれど、これはほとんどアラビア数字に変更されている。例えば、車の番号はアルファベットとアラビア数字の併記だからわかりやすい。

これは日本でも取り入れるべきだ。日本では、自分がわかるから、なんとも思わなかったけれど、品川、練馬、杉並、など漢字を読めない、形を理解しない外国人にしてみれば、視覚の上でも疲れるものだ。

友人の中には、数年で赴任先を変わるたびに、現地の言葉を、読み書きまでマスターする才能を持つ人もいたけれど、私はもう努力をしない。
覚えた言葉はただ一つ、お会計をというのが、シメ、といえば良い。日本語の締め、と通じるからだ。
しかし、発音は、sime ではなく、shime ですよ、とガイドさんに注意された。
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ミャンマー、お金の話(3)

ミャンマーーでどのくらいカードが流通しているのだろう。
ガイドさんに聞いてみた。以下、ほとんどがガイドさん情報である。

カードを持つというのは、決済のための銀行口座を持たなければならない。当然だ。銀行に口座を持つには、一定金額以上の預金がなければならない。これも当然だ。と、そこで多くのミャンマー人はつまずく。
歴史的な経緯もあって、銀行に預金することを嫌がる人もいる、これはおそらく少額しか持っていない人だろう。預けるに足る金額を持たない人も多い。
解る。私が初めてカードを作った時、いろんな制約があって、それをパスするのに、大変苦労したものだ。

銀行は何行くらいありますか?と聞くと、30行くらいありますとのこと。KBZ Bank, AYA Bank, CB Bank などが最大手とのこと。預金の利率は8%くらいだという。オー、なんと素晴らしい!日本のゼロに等しい低金利になれた身には、奇跡にも思える金利だ。思わず、ここに口座を開きたいと叫んだ。

ガイドさんは借りる時の利息が高いこともぼやく。預ける利子より、借りる時の利息が高いのは当然でしょう、と理性で応対するが、自分が住まい購入時に決まった利率を考えると、彼女の繰り言も理解できる。

ミャンマーの人たちの収入はまだとても低い。最貧国の一つでもある。だから、金融、という言葉を使うほどのことのない生活なのだ。

ガイドブックには、日本円の10分の1でチャットを計算すれば良い、とあったけれど、実際のところ、チャットの価値はもっと下がっている。

ヤンゴンから郊外に出た時、街道沿いにスイカやメロン、ザボンなど沢山の果物が売っている。ガイドさんのおススメで、ザボンを買った。1個2000チャットのザボンを奮発した。
ヤンゴンの友人にも食べてもらおうと1個買った。

私がそれを高いザボン、と称したら、安いよ、日本円の実際価格なら150円もしないよ、と言う。

実際、そうなのだが、10日の滞在で、ミャンマーの金銭感覚に馴染むと、いや、高い。最高級の価格だったのだから、と抗弁した。

ヤンゴンには沢山のATM の端末を見受けるけれど、どれだけの人が利用できるのだろう。
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ミャンマー、お金の話(その2)

古い日付のドル札が受け取り拒否に会うという話をまたした。
日本食の店で、そこの女将さん、と言ってもミャンマー女性であるが、と旅の印象を話している時のことである。
お店はドル建ての価格表記もしてあるので、お客さんから、いろんなドル札を受け取ることもあるらしい。それを銀行に持ち込んでも、受け取ってもらえないエピソードも出てくる。
私のケースも、同情を持って、良く理解された。

そこで、また別の注意事項が出てきた。ドルのお札、高額か、そうでないかによって、レートが違うというのだ。
つまり、100ドル札で交換する時、15万2000チャットになるとすれば、1ドル札100枚、あるいは5ドル札20枚持参では、受け取れるチャットに差ができるという。
どのくらい?と聞くと、うーん、1000チャットくらいかな、とのこと。
たいした違いじゃないじゃない、と言うと、でもミャンマー人には大きいよ、とのこと。
それはそうかもしれない。自分の尺度では言えないことだ。

このおかみさんだって、支払いは小銭、数ドル単位で入って来たり、お釣りなどで少額紙幣も必要とする。こんな矛盾に常々向かい合っているのだろう。

今回、一度もクレジットカードを利用しなかった。どのくらい利用できるか、わからなかったこともあるし、一抹不安もあった。
地方でも、ホテルや大きなお土産やさんでは、VISA と大きな看板が出ているところを見かけた。visaカードが使える、ということらしい。試しに使ってみようか、という気持ちになったが、カードで支払うような高額な出費、ホテル代などは、もう旅行代理店に支払い済みだ。
高額な買い物、例えば宝石や金製品は買う気もないし、まずはカードを地方には持って行かなかった。だから、どのくらい利用できるかの現地チェックはできなかった。
(続く)
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日本人墓地で「ふるさと」を歌う

ヤンゴン郊外の日本人墓地へ行った。
これは観光プランになかったのだが、ガイドさんとの会話の中で、付け加えたのだ。

「ビルマの竪琴」という小説、著者は竹山道雄だったと思う、への特別の思い、これは姉や私だけの特別なものではないと思う。同じ年代の人には共通する思いではないだろうか。

東南アジアだけではない、第二次大戦の激戦地は他にもあるし、それぞれに悲しい思い出は残っている。
しかし、ビルマの竪琴に書かれた「ふるさと」の効果はまた別のものなのだ。

この小説、脚色された部分はあるとのことだが、水島上等兵がビルマの竪琴で弾くふるさとの切ないこと、常に涙が出てくる。

それがなくても、19万人が戦死したというビルマ、現在のミャンマーに来て、できれば慰霊をしたい、との思いがかなった。
小さな「日本人墓地」の看板がかかっている。

ここは死者の慰霊の地なのか、すぐ近くにヤンゴンの火葬場がある。そして、日本人墓地の隣は回教徒のぼちとなっている。

訪れている人は誰もいない。我々の車だけだ。入り口のそばには管理人の家があるけれど、人はいない。
ガイドさんが以前来たことがある、と先に進むと、すぐのところにわりと新しい石碑が2つある。
その一つに、水島上等兵のモデルとなった中村一雄さんの記載がある。
2008年12月17日、93歳、とある。

小さい時に本を読み、映画をみたためか、水島上等兵は、戦後すぐに亡くなられたような気がしていた。10年前までご生存だったのだ。どこで亡くなられたかの記載はない。
お隣の墓碑は、同じく90歳以上で亡くなられた方のものだ。
思うに、ミャンマーの地で亡くなられたのだろう。

あの時は水島上等兵は、袈裟姿であったけれど、あるいは還俗され、家庭を持たれたのか、と考えたりだ。
手前にある花瓶に水は入っておらず、持参の花を手向けるため、水のある場所を探す。奥にあると思います、というガイドさんに、突き当たりを見ると、全ての戦死者のための慰霊碑がある。そこに人の姿、管理人の方らしい。
まずはそちらにお参りを、と行くと、菊の花がたくさん活けられている。

この墓地は、この管理人さんが、とても手厚く管理してくださっている、とガイドブックの説明だ。
管理人さんからお線香をいただき、手を合わせる。その間に、持参のお花を、管理人さんの娘さんらしい女性が、中村氏の墓の花瓶にあった大きさに整えてくださる。

彼女ら以外、誰もいない。いただいたお線香を、中村氏の前に供える。ほかの方々には申し訳ないけれど、水島上等兵は特別な存在なのだ。

さあ、歌いましょう、とガイドさんに合図する。ふたりで故郷を歌い出す。聞く人もなく、音は狂っていても構わない。
しかし、ガイドさんは、この数日のうちに、自分で特訓したらしく、音も狂うことなく、3番までをきちんと歌いきった。
二人して、涙がポロポロ落ちている。

中村氏だけではない。ほかに19万人の死者、ガイドさんによると、多くの家族が、いまだ慰霊に訪れているのだという。

園内を歩くと、人名のない暮石がいくつも並んでいる。県別に納められた遺骨もあるようだが、死者の数にしてはさっぱりした墓地である。

来てよかった、また来ます、と車に乗り込むと、管理人さんの孫なのか、幼い子供が手を振ってくれた。
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