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婚家の墓にははいりません

先だって「夫の墓には入りません」(垣谷美雨著)という本を読んだけれど、今回の大阪では、婚家の墓にははいりません、ということかな?と思えることに出会った。

お訪ねした知人宅、まずはお仏壇にお参りする。そこには25年ほど前に亡くなられたおじさまのご位牌が祭ってある。
私が外国に住んでいる時亡くなられたので、ご葬儀には参列できなかった。もちろん、ずっと以前にすでにお参りはしているのだが。

一昨年か去年か、23回忌もすませられたのだとか。早いものですね、という話で、やはりもう一人の亡くなった孫娘の話になる。私の母と同じ年、1カ月くらいあとに亡くなったのだ。母は89歳だったけれど、孫娘さんは高校生の若さだった。池江選手と同じ病気ではなかったか。

17回忌も済んだころであるが、まだ納骨はしていないのだとか。お母さんになるお嫁さんががんとして納骨を拒否しているのだという。

本来、九州のご出身(おじさまの方)で、大分県にもともとの墓はあるというが、おじさまがなくなられたとき、大阪にお墓を作られた。そのお墓にはおじさまだけがはいっている。

ああ、今は墓というのは、家代々ではなくなっている、と感じる現実があった。

きっとお嫁さんは、この墓にはいりたくないのだ。娘の遺骨をそこに収めると、おのずと、自分もそこにはいることになる。それを避けたいのだろう、と思った。

微妙な問題なので、お墓のことについてはおしゃべりの中にいれなかったが、九州のお墓にしても、そのうち、墓守はいなくなりそうだ(独身の義妹が守っている)。

大阪の墓にしても、もし、長男夫婦が別に墓を作るとすれば、次男が引き継いでくれるのだろうか。

私なども、婚家の墓にははりません、の口ではあるが、どちらかといえば、入れてあげませんと言われているのと同じでもある。
うーん、アマゾンでワニのエサになるのも、一つの方法か、と選択肢にいれるこの頃である。


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今が一番幸せ

先日、大阪へと行った。91歳になる”継母”に会うためである。
継母とは呼ぶものの、継母ではない。知人である。

50年前に知り合った。それ以来、付き合いに濃淡はあっても、ずっとお付き合いが続き、実母以上の配慮をしていただいたりで、ついには継母と呼ぶようになったのだ。

卒寿を迎えられたときに、お祝いに伺ったので、2年ぶりの対面である。

足腰が弱られ、外出もままならない、ということを聞いていたので、こちらも高齢者ではあるが、少しでもお手伝いができれば、という心構えであった。

ところが、何も手をだすことはなかった。
家事もほとんど一人でされる。歩くことが大変なので、ゆっくりゆっくりであるが、食事も全部手作り、食器はものすごい量があるなかから、料理に適したものを選んで、後片付けも、これが運動であり、楽しみでもあるのだから、と私が手を出すことを拒まれた。

2日間、おしゃべり三昧である。
はじめて知ったことも多い。恵まれた生まれ、育ち、そして結婚、と満ち足りた生活を過ごされたと思っていたのだが、多難な生活であることもわかった。
生家の経済状態が悪く、養女に出されたこと、夫がわの親戚の反対を押しての結婚、婚家の破産からずっと経済的助力をしてきたこと、姑、小姑、子どもの教育、そして子供が結婚してからの嫁姑の問題、4回のガン手術という健康問題、もう一通りの女の問題は網羅している。

配偶者は25年前に亡くなった。あっという間の死であったという。
病院に泊まり込みで看病したから、思い残すことはないし、あの時だからそれができたと思っている。

そして今、子どもと同居することもなく一人居だけれど、自分の思うように生活できて、今が一番しあわせ、と言われる。

91歳、もちろん健康問題はある。しかし、それをコントロールしながら、24時間、自分の思うようにすごすことができる。

2人の息子がいるけれど、子は頼らない、という。
いろんな問題があって、そういう結論に達したのだろうとは思う。
そして、もう70年、80年と続けてきた短歌の道を究めようとしている。

そんな覚悟、私にはできるだろうか。今でも、くれない病にかかっている。人が訪ねてきてくれない、電話をかけてくれない、手紙をくれない、自分から能動的にやらず、やたら受け身に何もしてくれない、とぼやいてばかりだ。
これからの人生がいつまで続くかわからないけれど、道を究める、というようなものもない。

かといって、今更、何かを求めるのも難しい。範とはしつつ、別のやりかたで、今が一番幸せ、と言える人生をすごしていかなければ。

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こんにちは平成の新聞

このところ、紙類の整理に余念がない。つれあいの残したもの、そして自分自身のもの、際限なく紙はでてくる。

元職場の使用済み封筒があった。外側も汚いし、使用済みの封筒であることから、あまり重要なものではなかろう、が、一応チェック、と中身を出してみると、黄色に変色した新聞である。

1989年(昭和64年)1月7日(土曜日)の夕刊だ。
大きく白抜きで、天皇陛下 崩御と横書きだ。そして新元号「平成」これは縦書きである。

天皇陛下の崩御は、午前6時33分であったため、号外は別として、新聞としては夕刊が一番早い報道となったわけだ。

なんでこの新聞をとっておいたのだろう。当時、自宅で新聞をとっていただろうか、職場で6紙を読んでいたので、自宅では購読していなかったように思うのだが。
もしかしたら、土曜日でもあるし、わざわざ販売店に買いにいったのかもしれない。

こうしてみると、その時のことをよく思い出す。
土曜日だから仕事は休み、しかし、ずっとテレビをみていたように記憶する。
ご病気が長引いていた間、自粛とかなんとか、飲食業は閑古鳥が鳴く状態であったはずだ。

折角残っていた新聞、変色しているだけなのに、手が汚れるような気がして、こわごわページをめくる。
活字の小さいこと、そうか、新聞活字が大きくなったのは、平成になってのことなのか、とここで平成前、平成後の違いを発見する。

数日後には新しい元号が発表される。今回はご退位より1カ月前の発表なので、この時のようなドラマ性はない。
4月1日に発表ということは、新聞は4月2日付となるだろう。
さて、今回は新聞を記念に保存するかどうか。


この新聞は30年前になる。まだ記憶があるから懐かしいという感情もわいてくる。
しかし、新元号の新聞をとっておいて、何年後にみるやら、それはわからない。
はたして、見て、理解できるのか。

この新聞を明日、東京で友人たちにみせるつもりだ。友人たちの反応をみてみたい。



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この春、初蝶をみました

陽気にさそわれて、散歩に出かけました。コースは決まっていて、家があまりたっていない、木立の道です。
土の道は、轍が深く、枯れ葉がかさかさ音をたてます。

ひらりと舞うものがありました。黄色です。いまどき、黄色で舞うといえば、それは蝶です。
いつも初蝶に出会うのは、庭仕事をしているときですが、今年は散歩中ということになりました。
黄色の蝶、キモンシロチョウでしょうか。

春の気配が多くなりました。庭には、あちこちに水仙の芽がでて、毎日、その芽が伸びているのがわかります。
チューリップの芽も出始めましたが、これは要注意です。というのは、黒いっぽい色なので、メガネをかけてよくみないとわからないのです。
うっかりすると、靴でふみそうになります。

雪がとけたあとには、緑のものが、だいたいが雑草です。
枯れ枝の集合体だったユキヤナギ、なにかほんわか緑っぽい空気があります。芽吹き始めたのかも。

毎朝、雨戸をあけると、エサを待っていたヤマガラがこなくなりました。名前もつけて、すっかりなついていると思っていたのに、見限られたのでしょうか。
朝はあまり鳥がこなくなりました。春になって、どこで遊んでいるのでしょうか。

特にヤマガラがきません。夕方になると、遊び疲れたのか、エサ欲しさに、鳥たちが集まってきます。五十雀、四十雀、十二雀たちで、ヤマガラもときにいるのですが、いつものお馴染みさんではないらしく、私が手にエサをのせていても、近づきもしません。

うるさいほど、エサをねだりにきていた、あのヤマガラ、どこにいったのでしょう。
季節に従って、野鳥はねぐらを変えるのかもしれませんが、あまりにつれない仕打ちと、すこしめげているところです。

福寿草は丈がのびてきました。クロッカスも一番手は盛りをすぎつつあります。別の場所で芽がでてきました。
ウグイスの初音がいつなのか、毎日、耳をすませています。
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Apres moi le deluge!(あとは野となれ山となれ)

Apres moi le deluge!は、ルイ14世が口にしたという話もある。自分が死んだあとは、洪水でもなんでも起きていい、あとは野となれ山となれ、と無責任主義あからさまな表現だ。

私もそんな心境になっていた。地球温暖化、マイクロプラスティック汚染、中国からのPM2汚染、いろんな環境問題があるけれど、私はそのうち死んでいく、生きている間に死に至るほどの深刻化はないだろう、と外野席にいる気分だった。

しかし、金曜日、欧州で行われた高校生のデモをみて、そうだ、他人事にしてはいけないのだ、と思い直した。

子もなく、孫もいない私には、子孫にきれいな地球を、という思いがなかった。それを高校生が、自分たちにも安全な地球を残せ、と叫んでいるのだ、とその叫びが聞こえた。

一応の環境を守ろうという行動はとっている。マイクロプラスティック問題から、プラスティック製品を多用しない、レジ袋などの制限、というようなことが言われれば、自分なりにそれを実行する。
買い物には買い物用のバッグを持参、なるべくレジ袋はもらわない。

しかし、プラスティック製品は生活の隅々に浸透している。今、使っていて罪悪感を感じるのは、歯ブラシや歯間ブラシ、歯間用のフロストだ。昔は歯ブラシなど、1年に1本を使っていたような気がする。今では、1本1カ月が最大限度で、歯の隙間も強引に磨こうとするので、ブラシがすぐにダメになる。
歯間ブラシなど、ブラシの部分、フロストは先がとがっている。

これらのものが、もし、川や海で、魚の口にはいったら、あるいは、海辺、川べりの動物が口にしたら、内臓を傷つけることは間違いない。

今年、分かった事実として、東日本大災害の大津波、真っ黒だったのは、海底のヘドロや沈殿物を底さらいで持ち込んだのだという。

そこまで汚染は進んでいる。

高校生の危機感も当然だ。たしかスウェーデンの女子高校生が、金曜日の学校を休んでデモをしたのが始まりという。欧州全体に広がっているようだ。

でも、日本では高校生は行動にでない。日本の若者はどう思っているのだろう。

68年などは、高校生も行動に移ったと聞いている。日本ではいつしか、高校生は政治にかかわらないようになっている。
といって、私がその当時、行動したわけでもないし、その後も傍観者でしかなかったことは自慢にもならない。恥な部分である。

あとは野となれとは思わないことを行動にするには、どんなことができるのか、毎日考えているところだ。
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建て替えは断捨離チャンス

身近なところで、2件の建て替え話が進行している。
1つは友人宅、別荘の友人だが、東京23区内にある自宅を建て替えする。
もう1件は、東京近郊にすむ長姉で、具体化しつつあるのだそうだ。

どちらの話も、何十年も済んだ家を壊してのことだから、モノを捨てるというのが、避けられない。
そして共通するのが、世代交代である。

友人のほうは、夫婦2人で住んでいたが、娘の家族との同居になること。2世帯住宅になるのだが、4人家族の娘に対し、2人だけの老夫婦は分が悪い。夫婦に割り当てられる面積は激減、したがって、断捨離は必須のことになる。

姉の場合は、すでに息子夫婦と同居していたのだが、築40年をこえる家は、建築当初と現在の家族の状況の乖離があまりにも出すぎて、建て替えの話となったらしい。

しかし、これまでは、亡くなった義兄が建てた家だから、そのあとを相続した姉にとっては、しっかり所有権というのか、居住の権利があるけれど、新築となると、どこまで姉のスペースを確保できるのか、その権利関係はどうなるのか、きちんと聞いてはいない。

それより、転勤家族ではあったけれど、昔ながらのものがあふれた家だった。これまでにどれほどのものを処分してきたのか知らないけれど、きっと崖から飛び降りるほどの覚悟が必要な断捨離になるのだろう。

建て替えの話をちらりと姉から聞いたとき、「当然でしょうね」と言った私に、「ずいぶんあっさり言うものね」と姉は不満げであった。姉にしてみれば、それは当然のことだろう。

割と合理的にものごとを考える姉ではあるが、モノに囲まれての生活だったものが、どんな新居に、どれだけのスペースを与えられるやら、断捨離にとりかかった今と、新居になってからと、みてみたいものだ。

さて、我が家は建て替えはしないけれど、断捨離は続けている。
15年以上前に亡くなった母の遺品整理をスタートさせた。
母が亡くなったとき、姉と弟、それに私の3人で分けたものだ。といっても金目のものではなく、私がもらったものは、母の書きものだ。俳句や日記、手紙の類を私がもらった。

今になって、俳句の作品やそのメモなどを整理して、遺句集として形にしてやればよかった、とも思うけれど、亡くなってするならともかく、15年も過ぎてしまうと、句集をもらってくれる人もいなくなっている。

つれあいの分はだいぶ整理がすんだけれど、なかなか完全にとはいかない。なにかといろんなところから出てくる彼の手跡、すぐに捨てるには心が重すぎる。

建て替え、あるいは転居といった大きな契機が、断捨離チャンスであることは自明だ。
私も、友人や姉にならって、思い切って、と毎日思っている。結果はでない。

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イギリスはどうやってexiteするのだろう

他人事、というかよその国のことながら、イギリスが気になって仕方がない。
テレサがかわいそうにもなる。
テレサ・メイ、イギリスの女性首相である。

EU離脱を問う国民投票のとき、離脱(exite)にはどんな益があり、どんな不利益があるか、当然、議論は尽くされただろうと思うのだが、今更に、迷路のように隘路があって、どの道を選んでも、出口はみえない。

外国企業が逃げ出し、雇用が失われる。しかし、外国人の流入が阻止されて、固有の雇用はイギリス人のために残されるのでは?と国民投票の折の議論を蒸し返したい。
役に立たないEU予算への割り当てもなくなれば、イギリス人のために使えるお金が増える、という論理は、いまや誰も口にしていないのだろうか。

そして今、これなら残留を、という声が大きいようだが、イギリスだけの意思でそれが可能なわけはない。
いろんな条件を再検討というけれど、相手あってのことだし、相手のEUは、そっちが言い出したことでしょう、と突っ放している。変に物分かりよく振舞えば、次から次に離脱を求める国もでてきそうな気配もあるのだから。
イギリスが苦労すればするほど、離脱の難しさ、あるいは離脱したあとの悲惨な状態が示されるだけに、好都合?ともいえる。

シェンゲン条約にはいらず、ユーロも使わず、独自の道を歩んでいたみたいだけれど、やっぱりEUにはいっていたメリットを持っていたのだな。
3月29日、あっという間に離脱予定日はきそうだ。

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プレイバック2011・3・11

今日は1日、とても重い気分だった。
朝からフランスの教会で求めたキャンドルをともしていた。火事になってはこわいので、いつもはつけて数分後には消すのだが、今日は午後2時46分を待つ意味でも、つけたままにしていた。

3月11日のことも思い出すが、たられば、でフクシマ原発の爆発さえなければ、これほどの悲劇にならなかったのでは、と思わずにいられない。

3月11日、被害にあわれた人たちは、自分たちがどんな状況にあるか、自分の周囲のことだけしか、わかっていなかったのだ、という事実をあとで知ったけれど、津波にのみこまれそうな人に、テレビのこっち側から、津波よ、気を付けて、とか、もっと上に逃げて、などと叫んでいたことを思い出す。それだけでも、悲劇中の悲劇だったのに。

フクシマの爆発、地震と津波の1日あとか2日あとだったか、前橋の仕事を終えて、帰宅している車の中で聞いたような気がする。
水素爆発、それがどういう意味なのか、ちっとも分からなかった。
危険度は3とか、チェルノブイリ原発事故の時ほど深刻ではない、などというラジオの声に、ならよかった、そこまでいってなければ、どうにかなる、と一人安心したりしていた。

フランス電力の資料を翻訳したことがあって、そのとき、原子力発電所のところで、日本語の技術用語がわからなかったのだが、建屋とか、いろんな簡単な言葉でも、現場で使っている用語を新聞で簡単にみつけることができて、用語集を作れる、などと無責任に思っていた。

無責任といえば、当時の官房長官であったか、枝野氏を思い出す。彼の発言、危険はありません、的な表現に、すっかり安心していた。弁護士でもあるという彼の発言だから、信用していいだろう、と何の根拠もなく思い込んでいた。

彼にしても、原子力発電所の事故など想定外で、東電情報に従って発表していたのかな、と思ったりするけれど、やっぱり無責任だったな、と今では思わざるを得ない。

フクシマから200キロ離れていれば安心だ、など、それも結局はどこまで信をおいてよかったのやら、我が家は安心圏だ、とすっかり思い込んでいたけれど、あとではそうでもなかったことがわかったり。

汚染水のタンクが敷地全体を占め、もう余地がないところまできているらしいのに、原子力発電を危険視しない人たちがいる。
安定した電力が得られる?そんなはずはない。最も安価?フクシマの後始末の費用も考えず?

もう復興税は終わったのだろうか。

安倍首相は、復興は着実にすすんでいる、といった。
秋篠宮はいまだ被災地あるいは避難の地で苦しんでいる人たち、と決して復興が着実ではないことを述べられている。

8年前、東日本と分断されて、いかに日本のライフラインが脆弱であるか、思い知らされたけれど、今では話題にもならない。

明日は、この東日本大震災に隠れてしまっているけれど、長野県栄村で地震が起きた日だ。

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2年目の3月11日

明日は東日本大震災から8年目の3月11日。昨日のようにその日を思い出す、と言いたいけれど、だいぶ忘れてしまった。
当日、つれあいとこたつにはいって、テレビの国会中継をみていた2時46分、大きく揺れた。国会ももっと揺れていた。

どこが震源地で、どれだけの地震だったのか、その情報がでるのは、時間がたってからで、それまで、繰り返す情報に、うんざりしながらもしがみついていた。

それから、計画停電もあり、なかなか灯油やガソリンが入手できない状態で、つれあいと、災害地ではないから、と励ましあって暮らしたものだ。
あの黒い津波の光景は、忘れられない。

そして去年、3月11日は、私にとって、大きな日になった。
パリの代父が亡くなったのだ。8時間の時差があるけれど、父は11日になってすぐに息をひきとったらしい。その日泊まっていた看護婦が気づいて、すぐに連絡を娘にいれたりで、私に連絡があったのは、11日の午後であった。

この頃、在宅で最期を迎える、という番組がNHKで放送されたものをみた。
父も家で最期を迎えたいと望んでいた。その望み通りの最期だったけれど、それはぎりぎりのことだった。というのも前日まで入院していたのだが、在宅看護の準備が整ったというので、10日午後退院し、戻ってきて、その夜の死であったのだ。

1月20日までその家で暮らしたあと、また5月に来るから、と別れて、2か月たたないうちの別れとなった。

昔かたぎのカトリック信者としてはめずらしく、火葬を希望していた。
火葬はまだフランスでは少数派、火葬のできる施設が少なくて、順番待ちがあって、1週間以上待つことになった。翌々日にはパリに駆けつけたけれど、無為に待つことになった。

教会でのミサはもちろんあったけれど、供花はいらない、そのかわりに寄付を、という本人の遺言であった。
私のつれあいの葬儀も、お花もいらない、香典もご辞退、としたけれど、喪主はともかく、親族でも友人でも、弔意を示したいのに、示すことができない、というジレンマを感じたものだ。

3年前に亡くなった代母、それに代父、この二人の人柄に惹かれての35年だった。

明日は2重に追悼の日である。

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新車を買う

新車を買うことに決めた。今、乗っている車の走行距離が10万キロを超えたこと、今年の10月には消費税が10%になること、などを考えた結果である。

今、乗っている車、10万キロを超えたというものの、定期点検は怠りなくやっているし、丁度油がのりきった状態というのか、とても調子がいいので、これを乗りつぶすのもいいいのかも、と考えたりもしたのだが。

パリに住む、従妹の友人の言葉を思い出す。彼女は私より4歳は若いけれど、もっと早くに夫を亡くしている。従妹の学校友達でもあり、よくオペラを一緒に鑑賞する友人でもある。
私がパリに行くと、従妹がオペラに誘ってくれる。そして帰りは、その友人が私と同じ通りに住んでいることから、彼女の車に同乗して帰ることになっていた。

最初はやたら小さい車で、そのなかにチャイルドシートがでんと置いてあり、同じ方向に帰る人を全部収容するのが苦労だった。
次には、赤と白のツートンカラーのスポーツカーになっていた。年取ったらね、乗りたい車に乗るものよ、一度乗ってみたかったんだ、とシャンゼリゼ通りで、ギアダウンすると、爆音をたてて凱旋門につっこんだ(はないけれど)。

彼女はとても示唆にとんだことを言う。つれあいを亡くした孤独感や悲しみを忘れたいなら、旅行が一番、誘われたら、即のって、旅行に出かける。これが私のモットーよ。

彼女の名言は頭に残っているのだが、乗りたい車を選べるかどうか、それはこちらの懐事情にもよる。
いくつかのチョイスを自分で出してみたけれど、年齢からいえば、今まで乗っていた車と同型が無難だ。

しかし、同型の車は、将来的(近く)生産中止になる可能性があるという。
そもそも、ガソリン車の将来は暗い。ヨーロッパでは2040年には生産中止になるという。
それかといって、ハイブリッドにするのも、寒冷地で完全に可能かどうか、今一つ不安である。

実際、私がこれから何年運転できるのか、それはわからない。
ご近所に90歳の女性が住んでいるが、去年、運転免許を更新したばかりだ。私も90歳まで運転できるなら、ハイブリッド車、電気自動車、水素自動車、と選択の範囲を広げなければならないけれど、まあ10年を限度と考えれば、まだガソリン車で十分だ。

結局、現在の車からワングレード落とした車種としたけれど、申込書を書いたところで、これが最後の車となるのなら、ワングレード上げた車にすべきだったのでは?と思いなおしたりする。
まあ、こちらの懐具合の問題があって、それは不可能なのだが。

つれあいが亡くなったとき、家屋も車も、名義が私であることに、税理士さんが驚いた。
車については、運転するのはほとんど私でしたから、私が購入していました、とこちらとしては当然のことと思っていたのだが、結構例外的なことだと悟った。

だから、こうして一人で購入するのにも、別に不便はないのだが、やっぱり、異存がないかどうかをつれあいの写真に向かって問うている。

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