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インレー湖に思う

ミャンマーの地方の旅、3つ目の目的地はインレー湖だ。
初めて、ミャンマー族以外の民族、ここではシャン族の地に入る。

到着した空港は、1100メートルの高度があるという。爽やかな風が吹いている。風の感じが、我が家あたりに似ている。インレー湖は900メートルというから、1000mの高度にある我が家の環境そのものだ。

ニャウンシュエという、インレー湖畔の町から船に乗ります、との説明。勝手に芦ノ湖風を想像していた。
大ハズレだ。フネにも船と舟がある。ガイドさんにその区別はついていなかった。
舟であった。
長い、モーター付きのボートである。渡し船と思えばいい。

湖も日本人の感覚で言えば、水深があり、水は透明度が高い、というところだが、この湖、乾季には2mほど、雨季で6m程度なのだそうだ。
面積は、南北22km、東西12km(雨季) 大きいことは大きいのだが、ススキやホタテアオイなどが我が物顔に繁っている。

結局、このみずうみの売りは、水上都市である。
湖の中には、島と浮島が存在する。浮島といえば、不安定だし、頼り無いこと、おびただしいのだが、そんなこと知ったものか、とやたら家も多い。
高床式であることは勿論、竹を多用した建物は、柔軟性には富んでいそうだ。しかし、密閉型ではない。風はよく通るだろう。しかし、高度900mもある土地、昼と夜の寒暖差は大きい。
今でも、夜は10度くらいだ。

人口20万もがこの湖で暮らしていると言うけれど、水はどうしているのだろう。水のうえで生活していて、水はどうしているのか?というのもおかしいが、湖水は飲料にはできない。
湖底の地下水を組み上げているらしいが、行政でやっているのではなく、個人的なものらしい。

飲料水はボトルかこの井戸水をタンクに溜めたもの、それ以外は湖水そのものを使うのだ。
実際、食器を洗う場面、洗濯、水浴、目にした。

水上生活は、ベトナムでも見たし、mediaでも、世界各地に存在する。

浮島を広げ、面積広げることは、住環境整備につながるかもしれないが、果たして、湖にとっていいことなのか、ホテイアオイの繁殖状況をみていると、いつか、湖消滅もありうるかも、と危惧の念を抱いたのである。
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ミャンマーの仏教のあり方

毎日、いくつもの寺院を見物している。見物と言っては罰が当たりそうだ。それかといって、仏教徒でもなく、好奇心と信仰心、どちらが強いと言われると、それは好奇心である。

小乗仏教と大乗仏教の違いなのか、仏像の形は随分違う。

大きなパゴダを外から見上げながら、舎利殿だから入れない、などと聞くと、スペースがもったいないな、と俗っぽい考え方をしたり、最貧国と言う割には、金箔きらきらのパゴダがやたらとある。

ガイドさんに無知ゆえの疑問を投げてみる。
1)ミャンマーの仏教に宗派はないのか?
答えは、ありませんということだ。僧侶はパゴダには住まない。宿舎というのか、修業をしたり、寝起きしたり、教育を授受するところは、別なのです、という。
金キラの飾りの僧衣もない。皆、同じ濃い葡萄色の木綿の衣をまとっている。食事も皆同じもの。
何という民主的な世界だろう。
2)人が死んだら、土葬ですか?火葬ですか?
ほとんどが火葬です。
3)お墓はどうなっていますか?
お墓はありません。火葬したら、そのままです。お骨は引き取りません。火葬の3日後くらいに、家族があつまって、偲ぶ会みたいなことをします。あと7日後とかにも。
お墓はないから、お墓まいりもないし、祈りたい時は、パゴダなどに行って、仏像の前で祈ります。

なんとシンプルなことだろう。輪廻を信じる人で、土葬にしたり、墓を作る人もいるにはいるが、ごく少数という。
これなら、日本のような墓問題は出てこない。

それに、バガンの遺跡でも、あれだけの数の仏塔は、仏籍を収めるものだってりで、お墓というのは一基もない。

貧しい中でも寄進をおそろかにしない信仰心、また、混乱の時代にも、黄金のパゴダは生き残っている。

裸足にならなければならないことも、むきだしの服装ではいけないことも、靴でズカズカ入り込む、という無礼をさせないし、慎みをもってお参りする、という気持ちを生む。

功利主義にどっぷり浸かっている日々を見直すいい機会になっている。
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サンセット鑑賞、2度ならず

昨日はバガン、今夕はマンダレー、2日続けて夕日鑑賞はならなかった。

世界各地で夕日は見てきた。有名なものでは、ルクソールの王家の谷に沈む太陽、最近ではタイのプーケットの海岸では海に沈んでいく陽、ラオスのメコン川の夕日、毎日見飽きなかったのは、フランスのピラという大西洋側の別荘地にある従妹の家のサロンから見た夕日がある。

ミャンマーに来るまで、こちらにも夕日スポットがあるとは知らなかった。
まず、バガンでは、Ayeya川沿い、遺跡を手前ににして、川の向こうに沈む夕日を見るための丘があるという。1日の見物スケジュールの最後は、その丘から見る夕日だ。

昨日、夕方5時半ごろ、その丘へと登る。もう沢山の人が集まっている。最前列は入り込む隙がない。ガイドさんが遅かったですね、と私のためにどうにかならないか、探し回るけれど、無駄な努力だ。
人の間から見えるからいいわよ、と労う。
そうして待つこと30分、太陽は対岸の山ではなく、沈む直前、雲に隠れてしまった。夕日に輝く遺跡を見たいと、立ちっぱなしを我慢したのが、無駄な努力となった。

そして今日、舞台はマンダレーに移った。今日のプログラム、やはりサンセット鑑賞が入っている。
ガイドさんは、昨日の雪辱とばかりに、張り切っている。
マンダレーの小さな山から見るのだという。頂上まで車でいけるし、最後はケーブルがあるから、とのこと。
ケーブルではなく、エスカレーターだったが、トップまで登れば、そこはお寺、その外側に広いテラスがあって、夕日スポットになっている。

美空ひばりの歌ではないが、今日は真っ赤に燃える太陽だから、と言いたいほど赤くて大きい。期待感は高まる。あなたの思いが通じているみたい、とガイドさんにお礼をいう。
判断は早まった。あと少しというところで、雲が待ち構えていた。
雲の中に沈む太陽、つまらない。

ガイドさんが申し訳なさそうな表情を見せる。仏様のお膝元から見てもダメなものはダメなのよ、あきらめましょう、と慰める。

ミャンマーへの旅の記憶に、夕日は残らないかもしれないが、このガイドさんの親切さはしっかり残る。
明日は郊外へ出かける予定だが、3度目の正直を狙うのか、まだ聞いていない。
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仏教遺跡の地、バガンへ行く

ヤンゴンで1日を過ごし、もう地方探訪だ。
ミャンマーは南北に長く伸びた国だが、ヤンゴンから北へと足を延ばす。
プログラムは、ヤンゴン在住20年にmなる友人に一任、と言えば聞こえがいいけれど、実際は丸投げ状態で、プログラムを立ててもらった。

いろいろあって、ひとり旅、最後の1日を除いて、ガイドさんが専任で付いて下さるという、贅沢なたびになった。
明日、7時のにお迎えに参ります、といわれ、どこへ行くんでしたっけ、という、不真面目な客である。
バガンです、という返事に、ああ、バガンですね、と返事しても、ピンときているわけではない。

でも、現地主義、空港に到着してわかった。仏教遺跡の地である。
カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロドール遺跡、それにこのバガンが3大遺跡と言われているのだ。
11世紀、12世紀の遺跡が今なお残っている。大小のパゴダが4000近くあったものが、今では3000弱に減ったとはいうものの、あっちこっちに散在しているのは壮観だ。

空港に着くや、パゴダ巡りである。緑の中にニョキっと塔が見える。
金箔の貼られた金ピカパゴダ、ヤンゴンのパゴダには金の量では負けるかもしれないが、いやいや、キラキラ光っている。

日本のお寺と違い、パゴダは僧侶が常駐していない。仏像が存在し、祈りの場所ではあるが、誰に属するものではない。

小乗仏教だからなのか、仏陀のお顔も袈裟も、印の結び方も随分違うように思える。
参拝の人々の拝み方も異なる。

東南アジアは仏教が根付いているのは承知しているが、ああ、こんなにまで、と、感動だ。

裸足での参拝だから、各所で、裸足になっては足裏を吹き、また、同じことを別のパゴダでする。今日は結局、6回、その動作をした。ドップリ浸ったバガンの1日だった。
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ミャンマー第1日目

日本との時差は2時間半、無視できそうな、出来なさそうな、微妙な時間である。
昨夜は日本なら、もう就寝時間なのに、まだこんな早い時間、となかなか就寝に至らない。

何度か目が覚め、暑いのか寒いのか、もう起きる時間なのか、まだ寝ていてもいいものか、体がためらっているうちに、頼んでおいたモーニングコールがなった。

さあ、ミャンマー第1日目、張り切っていこう!

贅沢にも一人にガイドさんと運転手が付いている。
日本語の話せるガイドさん、しっかりした、頼りになりそうな女性だ。

今日のコースを説明してくれる。メインは、シュエダゴォン パヤー(黄金のパゴダ)、チャウゥタージー パヤー(寝仏のパゴダ)、アウン サン マーケットで、ほかに
朝市場とダウンタウンの散策を入れます、とのこと。勿論いれてもらう。

黄金のパゴダは予想以上に素晴らしかった。黄金の輝きの威力だけではない。その規模の大きさ、これだけのものを、時代を経て、維持していることの価値、この国における仏教の位置、信仰の厚さ、映像でみるのとは違う現実感、圧倒された。

黄金のパゴダ本体は、金箔を張り替えたばかりで、まだ足場が残っている。常に金箔は必要とされており、今日も金箔を献納する人たちが詰めかけている。丁度、大きな金箔を寄付する人が連続して、ケーブルカーに乗せる前に、記念撮影をしている。
金箔は30センチもありそうだ。ガイドさんが、30万はするでしょう、という。円なのか、チャット(ミャンマーの貨幣)なのか、確認しそこなったが、金箔をみただけで、その気っぷのほどがみて取れる。

土曜日ということもあって、若い人も多い。ガイドさんによると、家族や友人と、このパゴダにお参りし、祈りの時間を過ごし、午後は、映画に行くなどの過ごし方がとても一般的なのだそうだ。

曜日の守護神もいて、ミャンマーでは、7曜日ではなく、8曜日だそうだが、それも水曜日を午前と午後に分けるので、8曜日とするのだとか。
いつの時代から曜日の意識が出たのやら、なんだか、胡散臭い気もするのだけど、彼女は金曜日、私のも調べましょうか、と言ってくれる。でももし水曜日だったりすると、生まれてきた時間など記憶にないし、クリスチャンとして、ブッダの守護をお願いするのも恐縮だ。ご辞退した。

この曜日の御守り仏陀は次に訪れた寝仏のパゴダにもあった。各所にあるらしい。

これだけの仏様に接すると、もしかしたら、私も護られるかもしれない、という気持ちになる。

ミャンマーは、政治の面ではマイナスの要素ばかりが報道されるが、一般国民の生活は別物である現実を見た、そんな印象の第1日目だった。



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ビルマの竪琴

ミャンマーへ行こうと思っている。
そのことを姉と弟に話した。弟は、ミャンマーってどこにあるんだっけ、であり、姉は「ビルマの竪琴」を思い出す、という反応だった。
弟は、1989年に国名がビルマからミャンマーと変わったことを知らないようだ。首都はラングーンだっけ、と昔の知識そのままに話す。

その感覚、わからないわけではない。私にしても、ビルマという国名はしっかり残っているのだが、ミャンマーと別の国と考えてしまうのだ。
こんな弟は、ミャンマーの首都は、ヤンゴンではなく、ネーピードーだ、と言っても、そりゃなんじゃ、と言いかねない。

中東ではあるが、外国での生活の長い姉は、さすがにミャンマーでも通じるのだが、すぐにビルマと置き換えるのは、年配者のゆえんでもある。

「ビルマの竪琴」の舞台に行くんだ、あの最後のシーン、思い出すね、「オーイ、ミズシマ」とインコだかオウムだかが叫んだり、あの楽器の名前はわからないけれど、小さな竪琴で、「ふるさと」を奏でるシーン、涙がでてとまらなかったよ、という。

そうなのだ。我々の世代は、この「ビルマの竪琴」が強く残っている。夏休みの指定図書にもなっていたような思いでがあるし、日本への帰還が決まった部隊への復帰より、そこで亡くなった戦友の菩提を弔うためにビルマ僧として残ったミズシマ上等兵、あの時以来、ふるさとの歌は、たとえウサギを追わなくても、故郷を思う歌になった。

あれは創作なのよ、ビルマの僧侶は、音楽など演奏しないで、静かに修行するのだそうよ、と姉に告げる。姉は、創作であろうとなかろうと、ビルマといえば竪琴、と答えるんだから、ともうしっかりインプットされたままだ。

世代の違う友人に「ビルマの竪琴」を知っている?と問うと、私は中井貴一で見たんです、という。そういえば、リメイクされたのだった。姉や私がみたのは、安井昌二が主演だった。

どちらがより感激するか、なんてことは各自の問題だが、古いほうが、より時代的に近かったこともある。

ビルマとミャンマー、名前が変わったように、国情も変わったのか、初めて行く私にはわからないが、仏教への信仰篤い国だということは変わらないという。

もちろん、軍部の圧政もあったし、民政化の進み具合、ロヒンギャ族の問題、いろんな問題をかかえていることはわかっている。

初めて訪れる国、もうミズシマ上等兵が生きていることはないけれど、どこかで「オーイ、ミズシマ」と叫んでみたい。


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10万キロを超えました

とうとうわが愛車の走行距離が10万キロを超えました。
丁度モデルが変わるときに買いなおして、それからひたすら乗り続けました。

定期点検も怠らず、少し車が重く感じるようにはなりましたが、まだ十分走れます。

でも車の買い替えは検討しています。というのも、あと数年、運転は続けるつもりですが、さて、あと何年くらい、運転ができるかはわかりません。

もし、買い替えるとすれば、ラストチャンスです。
パリの従姉の友人(女性、単身)は、とても派手なスポーツタイプの車に乗っています。以前はごく普通の車だったのに、突然、ツートンカラーの車高の低い車に乗って現れたので、びっくりしたのですが、彼女曰く、冒険しなくちゃ、というのです。

ある人は、同じような冒険をすすめます。最後の車でしょう、そりゃ、スポーツカーよ、と。

しかし、日常に乗る、それも山道の運転、車高が低ければ、底をこすります。買い物が主たる目的だから、荷物も載せます。
それに、座席が低い車は、乗り降りに腰に負担がかかります。

別の車好きの友人は、いろんな会社の、いろんなタイプの車を試乗するんですよ、とアドヴァイスしてくれました。
面倒くさがりや、そして車への好奇心も少ない私は、いろんな自動車販売店を訪問して、車の試乗をするのも負担に感じます。

アクセルとブレーキを踏み間違えるという高齢者の事故をよく耳にします。
となると、同じタイプの車を購入するのがいいのかもしれません。
大金を出すのに、つまんない、と年若な友人は言いますが、若い人とは違います。

次に買う車には、自動ブレーキ装置など、先端技術が組み込まれたものになるでしょう。ということは価格も高くなるのは必定です。

軽自動車という考えもあります。
姉は、義兄が亡くなると、丁度車検の時でもあったので、普通乗用車から軽自動車に買い替えました。それで十分用を足していると言います。

10月には消費税アップ、やっぱりそれまでには買い替えです。
半分のお金と、それなりの意見を言ってくれたつれあいはもういません。

メーターの数字をみながら、また一つ、自分で決めなければならないことがきました。

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善光寺へ行きました

昨日、1月15日は小正月、友人に誘われて長野の善光寺へと行きました。
私はクリスチャン、友人は無宗教っぽい、こんな二人が善光寺詣りというのもおかしいのですが、一度、行ってみたいという私の希望を実行したのです。

お天気もまあまあで、冬場の厳しい道路条件を考えると、お出かけ日和とも言えます。

善光寺ってどこにあるのか、知っていますか?と友人が聞いてきました。長野県ということは知っているけど、善光寺町なんていうのがあるんだっけ、と常識のない私。
長野市にあるんですよ、というので、そんな遠いところへ行くの?びっくりする私。

長野市は遠くありませんよ、と言われる。鳥居峠、菅平を経由して、須坂へと降り、それからすぐに長野市へとはいれるらしい。
善光寺は山の中にあるのかと思えば、長野市の中心地にある。駅から2キロほどのところにある。

参道が魅力的だ。古い町並みを残している。蔵造りの建物がたくさん残っているし、メインの道路があまり広くもなく狭くるしくもない。

坂道になっている参道を上ると、そこに善光寺の山門がある。
そこを入ると、すぐのところでどんと焼をしている。そうか、今日は15日なんだ、と二人、SNS用の写真をとる。焼いているものをみると、だるまさんだ。赤、白、黒と色も違うし、大きさもいろいろだ。こういう場合、お焚きあげというらしい。
だるまさんを焼くのは、高崎の少林山達磨寺だけかと思っていた、と友人も私も無知そのものだ。

善光寺でもだるまを売っている。そのへんの因果関係は知らないが、まあ、こういう大掛かりなたき火の熱い事。冷え切ったからだが、汗ばんでくる。
周囲には最初に積み上げきれなかっただるまが残っており、幼稚園児がそれぞれに投げ込んでいる。これだけの願いをかなえてくださったとすれば、やっぱり霊験あらたかと言えるのかも。

善光寺は、「牛にひかれて」という枕詞もあるが、天台宗のお寺で、一度お参りすれば極楽往生できるのだそうだ。
われわれのがお参りといえるかどうかは知らないが、私は極楽へは行かないだろうし、友人もうーんと行先についてはまだ決めていないみたいだ。

16日の朝の国際報道では、インドのヒンズー教のクンブメラという宗教行事について報道していた。ガンジス河で沐浴をすると、一生の罪が消え去る、という教徒にとっては、とても大事な宗教行事なのだという。

一生の罪、といってもこれまでの罪なの、これから先の罪も消え去るの、と理屈屋は面倒だ。
これで消えるものなら、罪は犯し放題じゃない、そんな勝手な、と懐疑的になる。
それを言うなら、カトリックだって、告解をすれば許されるんでしょう?と友人は言う。

宗教施設で目立つのは、無病息災をかなえるという神仏の存在だ。
この年齢で、無病はあり得ない、息災も現代では無理だ、となんとも懐疑的な冷めた、盛り上がらない女たちである。

でも雰囲気のいいお寺だった。宿坊もすてきな建物だ。
季節をかえてまたきましょうね、と友人と話が決まる。次はお蕎麦とぜんざいをたべましょう、とあくまで即物的な二人であった。

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嫦娥、月のことだったの

もう1カ月くらい前になるだろうか。中国の探査機が、月の裏側に到達したというニュースが話題をよんでいた。

その探査機の名前が「嫦娥」という。中国の名前だから、きっと何かの意味があるのだろう、と思ったのだが、この到着のニュースは報じられても、その名前の由来は説明されない。

女偏に常、と我、だから読み方は「じょうが」でいいのだろう、と思うのだが、女偏である由来やら、意味がテレビでも新聞でも解説がない。

どこかで解説されたのかもしれないが、見損なったのか、それとも、説明がいらないほど、常識なのか、私はめげた。
気楽にきけるつれあいはもういない。人に聞くのは面倒だし、インターネットで検索というのも苦手なのだ。

頼りの広辞苑、辞書のあるところでは嫦娥を書いたメモを忘れ、思い出したときには、辞書が手元にない。

ようやく調べた。やっぱり中国の伝説、説明をここに書くには、難しい漢字を出さなければならないし、それは調べてもらうことにして、結論は月の異称とある。
そうか、それで中国は月の探査機に嫦娥と名付けたのだ、と納得した。

嫦娥ということば、常識なのだろうか。知らないことが多すぎる。

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マケドニア共和国から北マケドニア共和国へ

1月11日、マケドニア共和国の国会では、国名変更のための憲法改正案を可決した。
現在の国名、マケドニア共和国から北マケドニア共和国へと変更するというのだ。

なぜそうせざるを得ないのか。それはギリシャの反対による。ギリシャは、マケドニアというのは、ギリシャの地名であるというのだそうだ。

マケドニア共和国は、旧ユーゴスラヴィアから1991年に独立した。それ以来、この国名問題で隣国ギリシャとごたごたし、ギリシャの反対で、NATOにもEUにも加盟できずにいる。

去年9月末、ギリシャへ旅行した。北東部にあるコザニという地方都市に住む友人を訪ねてのことだった。
その友人が、北部の国境地帯にある観光地へと案内してくれたのだが、アルバニアやマケドニアといった隣国について、けっこう厳しい表現をしていた。貧しい、文化的に劣る、教育程度が低い、などと評価が厳しい。

ユーゴが分裂する、というソ連の分裂にも相当するような歴史的事件の記憶はもう薄れてしまったけれど、旧共産圏の国だったのだから、いろんな面で締め付けられた結果なのに、と私は同情していたのだけれど、詳しい事情はわからないので、彼女の言葉を聞いていた。

ギリシャから日本へ帰国前、トルコに近いテッサロニキというギリシャ第二の都市に行ったときのことである。
港に面した中心地の広場でデモが行われていた。ギリシャ語ではなにもわからない。何のデモかと友人にきくと、マケドニアの名を隣国マケドニア共和国に使わせてはならない、というデモだという。

ギリシャ人にはギリシャ人の理屈があるのだろう。地続きの国にはそれなりの問題がでてくる。

ギリシャと(北)マケドニア共和国の民族が同じなのか、宗教は?言語は?文字は?何も知らない。

マケドニア共和国側では国名変更の決定をしたが、これをギリシャが承認して、ようやく発効するのだとか。

国際問題はややこしい。

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