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単身高齢者の2018年総決算

なんという気持ちのいい日だったことか。朝はマイナス11度だったけれど、太陽はさんさんと降り注ぎ、風は冷たいままだが、ガラス越しの日差しは暖かくなった。

大掃除もしない、おせちも作らない、年末のご挨拶に伺うこともない、お墓詣りなどもしない、ないない尽くしの大晦日だ。

やることないや、と、今年の総決算をする。家計簿の12月を締めてみる。今月は年間の別荘管理費を支払ったし、つれあいの法事もしたから、特別支出も多かった。
そんなことを言っていると、毎月のように特別支出があって、1年分をまとめる気分にはなれない。

さて、次は読書記録だ。なんと184冊、5万6千487ページを読んでいる。暇人なのだなーと自分でも思う。

さて、次はなにをしよう、とつれあいの写真に問うてみる。返事はない。
そう、一人の年越しがスタートだ。

だれとも話さない(電話はかかってきたが)、大晦日とお正月、今年が最初になる。昨年はパリの父の家にいた。

考えると、これからはずっとこのスタイルになるのだ。今年はテストケースと考えよう。テストケースとしてはいいスタートだ。こんなにいいお天気に恵まれて、と思いつつも夕刻になると寂しい。

単身者としての先輩の一人は、ホテルに泊まるという方法をみつけた。

東京にいれば、友人を招いて年越しパーティでもやるだろうか。きっとそれはない。日本では年越しは自宅でするものだ。
都会での孤独は、きっとこの山の中の孤独よりきついだろう。

にぎやかだった年越しを思い出す。
日本では、若いころ、年越しテニスなどやっていた。テニスのあとはフランス人の家で、年越しパーティだ。
南仏にいたときは、モナコで年越しをしたこともある。カジノでギャンブル、オペラ座でギャラコンサート、そしてディナー、カウントダウンだった。
2000年には、アフリカでだった。みんな、世紀が変わる瞬間になにが起きるか、緊張していたけれど、何事もおきなかった。幸い、ゲリラも出なかった。

そんなにぎやかなのは数えるほどで、あとは静かな年越しが多い。つれあいの晩年は、夕食のあと、彼は階下に残り、私は寝室にはやばや引き取り、それぞれにテレビをみたりだ。それでも年がかわる前に彼が寝室にきて、0時にはおめでとうといい、就寝するのが常だった。

これまでとこれからの違い、これからはずっと続く。今年のテストケースが成功例になるか、または別のテストケースをトライするのか、結論は先のことだ。

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あの頃は貧しかった、昭和の歳末

姉がいただきものだけど、と大量の干しシイタケを送ってくれた。
おせちは作らないつもりだったけれど、この干しシイタケを使う最良の料理は、おせちの中でも、筑前煮、私の土地ではがめ煮と呼ばれる煮物が一番だ。

そんなことを考えていると、夢に幼いころの歳末風景がでてきた。
29日なのか、30日なのか、あるいは31日ぎりぎりなのか、はっきりはしないが、年末は大掃除をしていた。時には畳もあげて、大がかりな掃除だったような記憶もある。

母や同居している叔母、長姉などが、日本手ぬぐいを姉さんかぶりにしていた。男手の少ない家で、成人男子は父しかいなかったけれど、兄が帰省したりすると、それは力強いものだった。
それになぜか、知らない男性がきていて、力仕事や汚れ仕事を手伝ってくれた。

叔母に聞くと、昔の番頭さんという。父がサラリーマンになる前は商売をしていたらしい。

忙しく大掃除をしていた間に、母が着物を着換え、足袋を履き替え、外出の支度をしている。
どこへ行くの?何しに行くの?とうるさく聞いても、ちょっとご用事、とそっけない返事がある。弟をつれていくらしい。私もつれてって、といっても、無視される。

床の間に積んであるお歳暮のなかから、ちょっとした、だいたいがお菓子の箱で、お正月になったら開けられる、と楽しみにしているものを、熨斗紙をつけかえて、包んでいる。

母の伯母の家に借金に行っていたのだった。お米だ、おもちだ、石炭だ、とひっきりなしに、小僧さんたちが集金に来ている。そのうち、明日来てね、などと叔母が言っているのを耳にしていた。

父の給料だけで11人の家族を養っていたのだ。年末、どうしてもお金は足りなかったのだろう。

時には母は、私の貯金もあてにすることがあった。夜遅く、母の義妹、戦争未亡人が訪ねてくると、ちょっとあるだけ貸して、ともう否応いえない強い口調で私の貯金箱を持って行っていた。

おせち料理なんて、いまどきのテレビでみると、豪華絢爛、いろんなものがあるけれど、我が家のおせちは、がめ煮とお雑煮、黒豆、そんなもので、数の子は高価な年はないし、おせちが楽しみとは言えなかった。

結婚したとき、つれあいに実家のおせちはどんなものですか?と聞いたけれど、彼も時代もあってそんなに実家のおせちというこだわりはなく、むしろ、亡くなった先妻の故郷のおせちを食べていたようだった。
どののどんなおせちといわれても、私の料理力ではとても作ることはできないので、九州の我が家おせちもどきを作っていた。

ふしぎなものである。ある年、フレンチレストランの特製おせちをたのんだことがある。それはとてもおいしかった。30種以上のお料理が、すこしずつ盛られている。高価ではあるが、手間はかからず、毎年頼みましょうね、と言ったものの、お正月を迎えた気分にはならなかった。

つれあいが亡くなって3回目のお正月、年末になくなったので、最初のお正月はなにを食べたのかも記憶にない。去年はパリだった。

何も作る気がなかった今度は、姉からの干しシイタケがゆえにがめ煮は作ることにした。

つれあいがいれば、彼の大好きな栗きんとんは作っただろう。黒豆も私がすきで、ただ煮るだけでいいからと作っていたものだ。

何も作らなくても、文句をいう人はいない。年末に借金にでかけなくてもすんでいる。
母の写真に、こんな年末、お正月、いい時代よ、と話しかけている。そばにはつれあいの写真が、ぶぜんとした表情になっている。

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パジャマかネグリジェか、寝間着の誤算

クリスマスの夜、新しい寝間着を着ることにした。
寝間着という表現、なんとも古めかしいが、パジャマではないし、といってもネグリジェから想像する薄手のものでもない。

それは9月にギリシャの友人からプレゼントされたものだ。ピンクのふくらはぎまでの着丈で、ガウンもついている。
木綿で少し厚めだったことと、そうだ、クリスマスプレゼントということにしよう、と思いついて、そのまましまっていた。

クリスマスイヴ、ツリーはおいていないけれど、クリスマスデコレーションをしているコーナーにおいて、プレゼントらしくしておいた。

さて、お風呂のあと、着てみる。木綿の肌触りは少しひやっとしている。今年はフリースのものを買って、それを着ているせいだ。フリースを着始めたころ、なんともその感触になれなくて、落ち着かなかったけれど、1カ月も着ていると、それが普通になってしまったようだ。

木綿のそれは、首まわりもあいている。フリースのは首にモフモフ、マフラーのようにかぶっているので、余計に首回りの開き具合が気になる。
しかし、フリースの場合、首回りに汗がでて困っていたので、その分すっきりするかも、と思う。

ところがである。夜、そろそろ本格的に寝ようとしたら、首が寒い。これでは風邪をひきそうだ。
友人が風邪をひいて、何週にもわたって苦しんでいる。こんな寒いところで、風邪をひいては大変だ、と首をタオルやショールで巻くのだが、なんだか落ち着かない。

もう仕方がない。折角、プレゼントをクリスマスの夜までがまんしていたけれど、これでは元も子もない、とフリースに着替えた。

この土地では、冬にはネグリジェスタイルは合わない。しっかり暖かいものにしなければ、布団のなかでもスース―、風がとおりそうだ。

ギリシャの友人にはお礼を書いたけれど、これは来春(それも晩春)までお預けだ。
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テレビが映らない!

先日、東京1泊から帰ってくると、サロンのテレビが映らなくなっていた。
B-casカードをきちんと入れてください、みたいな表示が出ている。

何なのよ、これ、と不機嫌になる。寒い時期になると、このテレビはストライキをする。

つれあいが亡くなったあともそうだった。ある日突然映らなくなって、村の電気屋さんにきてもらった。テレビを買ったお店でもある。
アンテナが雪で凍っているのかもしれない、などという。また電流が足りなくて、どうのこうの、という。アンテナが原因なら、2階の寝室のテレビはちゃんと映るのはなぜなのか、というと、アンテナに近いから、なんて説明する。さっぱりわからない。
電流が足りないという分は、テレビの下につけたヴィデオ装置を使用しないことで、どうにか映るようになった。

その電気屋さんは、春になる前に亡くなられてしまい、アンテナを調整する、という作業はとうとうしないままである。

去年の12月、1月はいなかったから、それらの月にテレビがどういう気分でいたか、というのはわからない。おそらく2月には映ったような記憶だ。

2年前の記憶から、これは寒い季節特有の現象なのだろう、と予想する。テレビをそのままの状態にしていると、あるとき、突然映りだした。やっぱりテレビが冷えているからだ、と自分で納得する。

その証拠に、外出するとき、テレビも暖房も消して出かけるのだが、帰宅したとき、テレビはまた映らない。オンにしたままにして、数時間たつと、突然映りだしたりする。

友人に、そんな次第をメイルすると、メカに弱い人は、変に納得してくれる。

ところが今日はひどかった。朝、階下に降りてテレビをつけると映らない。画面にはB-casカードを入れなおしてください、などと出ている。
これまでもこの表示が出ていたのだが、ずっと無視していた。テレビが温まれば映る、と思っていたし、実際そうなったからだ。

しかし、今日はテレビはオンのままで、昼になっても映らない。お昼のニュースも見られない。

さすがに取り扱い説明書を出してみる。しかし、どこのページに載っているか、見つけるもの大変だ。
古風ややり方を試みる。軽くたたいたり、いろんなところをなでてみたりするのだ。

ずっとつれあいの係りであったテレビ、私がいじるのはテレコマンドのオン・オフとチャンネルと、音量、それに言語の選択くらいなものだ。
今年、友人がタイマーの使い方を教えてくれて、ようやく、就寝時にタイマー操作をするようになった。

テレビの後ろにそのカードがある、と友人の一人がメイルで教えてくれる。どこにあるのか、メガネもかけて、じっくりみてみるが、それらしいものはない。

さて、どこに電話すればいいのか、考えながらもう一度、テレビをさわりまくる。わがテレビの場合は後ろではなく、前にあった。

カードを出して、またきちんと入れなおす。画面が出た。

寒いせいではなかったのか。でもこの現象、かならず冬の間に起きる。暖房をつけたり消したりで、テレビの中が変化するのか?

この謎をとけば、イグノーベル賞の対象にもなるのかも、と思いながら、説明書をしまいこんだ。
つれあい不在は不便なものだ。

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ブラック・クリスマス

クリスマスをメリーと呼べるひとたち、どのくらいいるのだろう。
メディアはクリスマスの形容詞に必ずメリーをつけるけれど、楽しい、幸せなクリスマスを迎える人は人口の半分もいないのではないだろうか。

今日のスーパーなどでは、チキンとケーキの売り場が込み合っていたという。デパートの地下食料品売り場ももっと混んでいたのだろう。

クリスマスイヴの今日、天皇誕生日の振り替え休日になった。
ホームクリスマスの絶好の日取りである。

ということは、単身者にとっては、けっこうつらい日になっている場合が多い。

まだ独身の時代、クリスマスイヴ、つまり24日が平日であれば、日中は仕事で時間がすぎるけれど、休日になると、朝から1日中、一人の時間となって、もてあましたものだ。
理想的なクリスマスイヴは、素敵な男性から、高級なフレンチレストランに招待され、シャンペンか年代物のワインなどを飲みながら、ロマンチックな時をすごす、というものだ。

そんな機会には恵まれるはずもなく、ブルークリスマスをすごしていた。

今ではそれもなつかしい。

というのも、今はもっとひどいクリスマスとなっている。

2年前、22日夜につれあいは亡くなった。そのまま自宅へと遺体を運び、安置した。
23、24日、2日間、彼は自分の部屋で目覚めない眠りをむさぼっていた。

テレビもつけず、ただ葬儀などの手配に追われていた私は、クリスマスであることを忘れていた。
降誕とは真逆の死という場面、その当事者となって、混乱の極みにあった。

今年は、いくつか、クリスマスの飾りらしいものをしている。しかし、どうしても、今日、明日は私にとっては、ダークなものだ。

イリュミネーション華やかな都会と違い、ここではサイレント・ナイトであることが救われる。

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2年前の今日、逝ったあなたへ

2年の月日が経ちました。
あなたは12月22日、夜、息をひきとりました。

2年が経ちました。今日は3回忌を菩提寺で執り行いました。
私は施主でした。

3回忌ってなんの意味があるのでしょうか。
あなたは菩提寺に葬られることを望んだし、仏教の習慣だから、1周忌、そして3回忌、ちゃんとしました。でも何の意味があるのやら、私にはわかりません。

お経を聞きながら、手をあわせていれば、あなたが姿を現すのか、そんなことはありませんよね。

2年前のあの日を常に思い出します。2年の月日で薄れた記憶もあるけれど、あきらめの境地にもなったけれど、でも、今日はだめなのです。

この2年の間に、同じ思いをしている人は、身近にも数人います。先輩となって、悲しみの克服法みたいなことも口にします。
私自身、年齢のこと、難病だったこと、いろんな要素をあげては、あなたの死というものを、必然としようとしました。必然であっても、じゃあ、納得というわけではありません。

同じころに配偶者を亡くした曽野綾子氏の書も読みましたし、没一と名付けた記事なども読みました。
共感する部分はあっても、全面的に同意ではありません。

あの世とやらにいるあなたはどうですか?2年もそっちにいると、落ち着きましたか?

さようなら、また会いましょう、お元気で、とはいえないお別れでした。
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エレベーターの乗り方

先日から、東京でのエスカレーターの乗り方について、解説的な報道が頻繁にみえる。

まず立ち止まってから乗る、エレベーターではどちら側であれ、歩かない。2列になって静止した状態で乗っている、ということで、啓もうに勤めるのだそうだ。

大変いいことだ、と思う年齢になった。この頃、東京駅はエスカレーターが少ないけれど、あちこちで乗るとき、大変怖い思いをしている。もともと、エレベーターに乗るのがこわいほうで、永田町などの長いものには、特に降りはこわくて最初の一歩が出ない。

左側に体を寄せても、荷物をもっていると、はみ出るのか、いつも邪魔だ、と言われることもある。浜松町は空港への乗り換えでよく使うけれど、ここはほとんどの人が荷物をもっているのに、それに対する配慮のない乗り方をする人が多い。

若い時代は、エスカレーターでも走って乗降ができた。それがかっこいい、と思ってもいた。
今では、常識どおり、エスカレーターは走ったり、歩いたりするものではない、と認識している。

でもはたしてそうなのだろうか。空港などでみられる動く歩道、これは歩く人がほとんどだ。
たまに歩かないで、ベルトに体を預けてじっとしている人をみると、このゆっくりした動きによく我慢できるものだ、と思ってしまう。

でもこの運動が始まって、右側を歩いて昇る人に、本来はじっとしているものよ、と目力でいうこともできるようになった。

そうなのだ、歩きたい人、走って登る人、は階段を利用するべきなのだ。

明日、東京に行く、順法精神にあふれた私は、誇り高く、エスカレーターの左側でじっとしていよう。
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亡き代父の思い出

年末ともなると、過ぎ越し月日への思いが押し寄せてくる。

今年は3月にパリの父が亡くなった。
昨年12月から今年の1月にかけて、40日ほどパリの家に滞在した。そこで、父の衰え方をみて、覚悟が必要とは思ったけれど、3月11日、それは先に亡くなった母の誕生日、その前日に病院から戻り、自宅での療養を始めようとした、その夜中に亡くなったのだ。

35年の付き合いがあった。
洗礼を受けるときの代父、代母になってもらい、本当に親と思える心遣いをいただいた。

父は勤労者の家に育った。貧しくはあったけれど、父の母というひとは教育者で、子どもの教育には労を惜しまなかったようだ。
よく、ブーローニュの森で行われた最初の航空機飛行実験に、母親に連れて行ってもらった、という話をしていた。

頭脳明晰な父は、グランゼコールの一つ、ポリテクニックを首席で卒業、官界、実業界で成功していった。

とは聞いていたが、その家庭内にはいると、なんとも、倹約というのかケチというのか、質実そのものだった。

朝のコーヒーは、チコリというコーヒーに似たものを煮だしたもの、洗濯は週1回、洗濯機がまわればいいほう、シーツは2週間に1回しか替えない、夏、汗をかいたポロシャツもそのまま干して、もう一度着ていた。

消費に慣れた私には、どうしてこんなに生活を締めるの?お金がないわけないのに、と、あきれたものだった。

普段の恰好は、身を飾らない、の実践で、粗末な古いものをかまわず身に着けていた。

そんな彼が、貧者への援助は惜しまない人だと、あとになって知った。
身内では、ただ一人の甥(兄の一人息子)に対し、その父親が亡くなって以後、学費を負担していたのだという。

そのほか、チュニジア、マダガスカル、その他の国々からきた留学生を自宅に泊め、援助していたという。チュニジアからの女性は、のちに大臣になった。

宗教団体への援助も惜しまない。そして金銭的な援助だけでなく、第一線から退いたあと、週に2,3回実務にも携わっていたようだ。
Noblesse oblige、自分は貴族ではないけれど、一応エスタブリッシュメントとなったからには、それなりの義務を負っている、それをきちんと遂行しなければならない、と私にいつも話していた。

私は自分はエスタブリッシュメントではないから、というと、それは意識の問題だ、と言われてしまった。

父の精神を受け継げる自信はないけれど、こうして父の薫陶を受けたことは多としているのだから、なにか実行していかねば、と思う年の終わりだ。



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お金の扱い方

日曜日の午後6時、BS1でのクールジャパンという番組が面白い。

いろんな国の人、だいたいが若い外国人なのだが、日本に住んで、クール、つまりかっこいいと思うことを話し合うのだ。

先日は、いくつかのこと、行列をする、とか、職場でスリッパに履き替えている、ということに加え、日本人が小銭をもつことに、とても気をつかう、ということがあげられた。

小銭をあまりもちたがらない、そのために、端数のある価格の場合、小銭入れにある小銭を増やさず、減らす方向で支払うのだが、その計算がすばやく巧だと、感心している。

827円という価格を設定して、財布に1000円札といくつかの百円玉、3個の10円玉、1円貨もある。
それを日本人は1000円札だけを出して、173円のおつりをもらうという人は一人としていない。
持っている小銭を駆使して、なるべくコインを少なくしようとする。

かたや、外国人は、そんなことはしない。どう払うかというときに、カードをだす人もいた。まず、現金を持ち歩かないというのだ。キャッシュレスが普及しているらしい。

また1円の単位はもうない、という人もいる。5円が最低の単位だと。
切り上げて、価格を決めれば、そんな極小単位の価格づけはしなくていい、という。それも理屈だ。

日本人のこういう場合の計算の速さ、正確さ、尊敬ものだという。

そういえば、昔、フランスとの違いに、かの国ではおつりは足し算だというのが挙げられていた。
何かを買う。その価格が157フラン、今であればユーロというべきだろうが、とする。200フランを出せば、店員は、まず3フランをだし、品物の上におく。そして160フランといい、次に10フラン札を1枚おき、170フラン、次の10フランで180フラン、次に10フランで190フラン、そして最後の10フランをだして、これで200フランになった、と宣言する。

こっちは先におつりは43フランと計算ができている。だから、10フラン札4枚と1フランコインを3個だせばいいのに、と思ってまっているのだが、逆にやられると、それでいいかどうか、あやしくなってします。

こんな経験をしょっちゅうして、脳の構造が違う、と思ったものだ。

キャッシュレスになれば、こういう問題も起きないかもしれないが、文化の違いというものが体験できなるのかもしれない。

数字の切り方、欧米は3ケタずつ、こちらでは万、億などなら4ケタでの区切り、間違いもでてくる。それでも文化の違いはみえたほうが面白い、と思う。
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ふるさと納税は広告するものなのか

このところ、テレビをみていると、夕方のニュース番組のなかでのコマーシャルに、ふるさと納税に関するものが多い。

ふるさと納税をお忘れなく、というものではない。ふるさと納税をするとついてくる景品を簡単に選ぶ方法についてのコマーシャルだ。

年内に納税すると、来年2-3月の確定申告に控除ができるのだろう。それで納税を喚起しているのだとは思うのだが、テレビでその景品を宣伝する、というのは納得できない。

そもそも、である。私にとって、ふるさと納税なら、出身地あるいは、学校へいった土地、仕事で住んだ町、というような縁のある市町村を選ぶから、こんなテレビの宣伝はいらない。

ふるさとへの感謝の気持ちの表れではなく、お返しに何をくれるか、それを納税に先行させている。

コマーシャルの意図、これはどこかの市町村がスポンサーになっているのではなく、つまりはお礼の品を選ぶとき、どの媒体がより選びやすい、あるいは選択の範囲が大きい、ということらしい。
ふるさと納税の趣旨が完全に無視されてのこういうコマーシャル、それに出演した人の品格も疑ってしまう。

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