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亡き代父の思い出

年末ともなると、過ぎ越し月日への思いが押し寄せてくる。

今年は3月にパリの父が亡くなった。
昨年12月から今年の1月にかけて、40日ほどパリの家に滞在した。そこで、父の衰え方をみて、覚悟が必要とは思ったけれど、3月11日、それは先に亡くなった母の誕生日、その前日に病院から戻り、自宅での療養を始めようとした、その夜中に亡くなったのだ。

35年の付き合いがあった。
洗礼を受けるときの代父、代母になってもらい、本当に親と思える心遣いをいただいた。

父は勤労者の家に育った。貧しくはあったけれど、父の母というひとは教育者で、子どもの教育には労を惜しまなかったようだ。
よく、ブーローニュの森で行われた最初の航空機飛行実験に、母親に連れて行ってもらった、という話をしていた。

頭脳明晰な父は、グランゼコールの一つ、ポリテクニックを首席で卒業、官界、実業界で成功していった。

とは聞いていたが、その家庭内にはいると、なんとも、倹約というのかケチというのか、質実そのものだった。

朝のコーヒーは、チコリというコーヒーに似たものを煮だしたもの、洗濯は週1回、洗濯機がまわればいいほう、シーツは2週間に1回しか替えない、夏、汗をかいたポロシャツもそのまま干して、もう一度着ていた。

消費に慣れた私には、どうしてこんなに生活を締めるの?お金がないわけないのに、と、あきれたものだった。

普段の恰好は、身を飾らない、の実践で、粗末な古いものをかまわず身に着けていた。

そんな彼が、貧者への援助は惜しまない人だと、あとになって知った。
身内では、ただ一人の甥(兄の一人息子)に対し、その父親が亡くなって以後、学費を負担していたのだという。

そのほか、チュニジア、マダガスカル、その他の国々からきた留学生を自宅に泊め、援助していたという。チュニジアからの女性は、のちに大臣になった。

宗教団体への援助も惜しまない。そして金銭的な援助だけでなく、第一線から退いたあと、週に2,3回実務にも携わっていたようだ。
Noblesse oblige、自分は貴族ではないけれど、一応エスタブリッシュメントとなったからには、それなりの義務を負っている、それをきちんと遂行しなければならない、と私にいつも話していた。

私は自分はエスタブリッシュメントではないから、というと、それは意識の問題だ、と言われてしまった。

父の精神を受け継げる自信はないけれど、こうして父の薫陶を受けたことは多としているのだから、なにか実行していかねば、と思う年の終わりだ。



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