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あの頃は貧しかった、昭和の歳末

姉がいただきものだけど、と大量の干しシイタケを送ってくれた。
おせちは作らないつもりだったけれど、この干しシイタケを使う最良の料理は、おせちの中でも、筑前煮、私の土地ではがめ煮と呼ばれる煮物が一番だ。

そんなことを考えていると、夢に幼いころの歳末風景がでてきた。
29日なのか、30日なのか、あるいは31日ぎりぎりなのか、はっきりはしないが、年末は大掃除をしていた。時には畳もあげて、大がかりな掃除だったような記憶もある。

母や同居している叔母、長姉などが、日本手ぬぐいを姉さんかぶりにしていた。男手の少ない家で、成人男子は父しかいなかったけれど、兄が帰省したりすると、それは力強いものだった。
それになぜか、知らない男性がきていて、力仕事や汚れ仕事を手伝ってくれた。

叔母に聞くと、昔の番頭さんという。父がサラリーマンになる前は商売をしていたらしい。

忙しく大掃除をしていた間に、母が着物を着換え、足袋を履き替え、外出の支度をしている。
どこへ行くの?何しに行くの?とうるさく聞いても、ちょっとご用事、とそっけない返事がある。弟をつれていくらしい。私もつれてって、といっても、無視される。

床の間に積んであるお歳暮のなかから、ちょっとした、だいたいがお菓子の箱で、お正月になったら開けられる、と楽しみにしているものを、熨斗紙をつけかえて、包んでいる。

母の伯母の家に借金に行っていたのだった。お米だ、おもちだ、石炭だ、とひっきりなしに、小僧さんたちが集金に来ている。そのうち、明日来てね、などと叔母が言っているのを耳にしていた。

父の給料だけで11人の家族を養っていたのだ。年末、どうしてもお金は足りなかったのだろう。

時には母は、私の貯金もあてにすることがあった。夜遅く、母の義妹、戦争未亡人が訪ねてくると、ちょっとあるだけ貸して、ともう否応いえない強い口調で私の貯金箱を持って行っていた。

おせち料理なんて、いまどきのテレビでみると、豪華絢爛、いろんなものがあるけれど、我が家のおせちは、がめ煮とお雑煮、黒豆、そんなもので、数の子は高価な年はないし、おせちが楽しみとは言えなかった。

結婚したとき、つれあいに実家のおせちはどんなものですか?と聞いたけれど、彼も時代もあってそんなに実家のおせちというこだわりはなく、むしろ、亡くなった先妻の故郷のおせちを食べていたようだった。
どののどんなおせちといわれても、私の料理力ではとても作ることはできないので、九州の我が家おせちもどきを作っていた。

ふしぎなものである。ある年、フレンチレストランの特製おせちをたのんだことがある。それはとてもおいしかった。30種以上のお料理が、すこしずつ盛られている。高価ではあるが、手間はかからず、毎年頼みましょうね、と言ったものの、お正月を迎えた気分にはならなかった。

つれあいが亡くなって3回目のお正月、年末になくなったので、最初のお正月はなにを食べたのかも記憶にない。去年はパリだった。

何も作る気がなかった今度は、姉からの干しシイタケがゆえにがめ煮は作ることにした。

つれあいがいれば、彼の大好きな栗きんとんは作っただろう。黒豆も私がすきで、ただ煮るだけでいいからと作っていたものだ。

何も作らなくても、文句をいう人はいない。年末に借金にでかけなくてもすんでいる。
母の写真に、こんな年末、お正月、いい時代よ、と話しかけている。そばにはつれあいの写真が、ぶぜんとした表情になっている。

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