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宗教って何(7):献金

旧統一教会の問題の一つに、多額の献金がある。

私はキリスト教のプロテスタント、ルーテル派からスタートしたのだが、今、記憶をたぐっても、多額の献金などは記憶にない。
まず、毎日曜日、教会でのお祈りに行くのはいいのだが、その中で回ってくる献金袋にお金をいれるのが苦になって、教会に通うことをやめたような気がする。
いくらお小遣いをもらっていたか、記憶にないが、10円くらいを献金袋にいれるのが惜しくなった。母親は特に、教会いきについて、賛成でも反対でもなく、自由だったから、献金しなければならないことは知っていただろうが、それ用にお金を渡されることはなかった。

子供のこともあり、当時、教会は日曜日の献金で存在していたと思っていた。それ以外に維持献金というのか、月ぎめの献金やら寄付やら、それらがあったのかどうかすら知らなかった。

次にきちんと教会にいったのは、マルセイユでのことだ。
この時は、できれば洗礼を受けたいという思いもあって、真面目に通ったけれど、それも日曜日のミサだけで、その当時もミサの間にまわってくる献金袋にコインではなく、お札をいれる(ちょっと高額になる)くらいのことであった。
受洗の希望を神父様に伝えたときにも、献金やその他の寄付を言われたことはない。

アフリカでも、修道院のチャペルでのミサにあずかっていたが、献金袋がまわってきて、それに少額をいれるだけだったような、そんな記憶しかない。

日本に帰ってきて、所属の教会では、月ぎめの献金もあったので、それは自分で納得した金額を決めればよかった。
献金というものはそんなものなのだと思っていた。

もし、特別なことをした、というのであれば、マルセイユを離れる前に、教会の横の広場で、マルシェというのか、そんなものが開かれる、という機会があった。そのマルシェの主催者がだれであったかは記憶にないが、神父様に話し、私も参加させてもらった。
もう、転勤も視野にはいっていたので、日本から持参した、陶器や漆器、織物、お膳、書画、ガラクタも含め、もういらないだろうと思うものを売った。たくさん売れた。

買ってくれた人のなかには、マルセイユで友人になった人たちも大勢いたが、教会の信徒たち、地元新聞でこのマルシェを知ったひとたち、私一人が外国からのものを扱っていて、それは彼らにとっても意外性もあって、購買欲を刺激したようだった。

その売り上げを全額、神父様にお渡しした。
神父様はそれは義務ではない、と言われたが、マルシェに参加したときから、そのつもりだった。
私が教会に捧げたのは、それが最大、そして、今のところ、唯一の献金である。

多額の献金を強要されて、それをしなければ信仰が成立しない、と言われたとき、信仰そのものを疑う気持ちにならないのだろうか?
カトリックの信者になりたい、と思うきっかけとなったフランスの代父の言葉に、無償の愛、がある。
まだその深みまではわかっていないけれど、無償であること、これを大切に生きたい。



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