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私のまわりの宗教:父と母の場合

父は宗教について、強い思いのない人だった、と思う。
我が家は浄土真宗のお寺が菩提寺になっていて、だからそれでかまわない、ということなのだろう。
祖母がお寺さんの集会に出たり、で、檀家総代になってほしい、と頼まれたこともあった。
しかし、なにかにつけて、寄付を言ってくる、とお金に不自由していた父は、数年で総代もやめたような気がする。
60代で死去したのだが、当然のごとく、菩提寺で葬儀をおこない、すでに数代がはいっている墓に納骨され、子供たちであるわれわれも、それになんの不思議もなくすごしている。

母の場合は変化がある。
父が亡くなるまでは、宗教について特別な考えも動きもみせなかったが、一人暮らしになったのち、クリスチャンになった、と言ってきた。聞いたことのない宗教団体であった。
洗礼も受けたという。
これは困った、きっとキリスト教といってもカルトに違いない、全財産をとられるに違いない、などと、子供はみな離れてすごしていたので、実情を調べることもできず、うろたえるだけだった。

弟が帰宅して、母の話をきいたり、教会(当時は牧師様のお住まいが教会であった)へ行って、牧師様とお会いする、といったことで、実態はわかってきた。
名前は聞いたことがなかったけれど、とてもまじめな、敬虔な集団であった。

月々の献金もその人の収入次第で、自分で決めるようで、母は一人暮らし、自分の年金と子供たちの送金で生活する、ごく質素な生活だった。
それにあわせた献金額で、信徒数がすくなく、牧師様、プロテスタントだからご家庭があり、お子様は小学生であった、の生活があまりに質素でお気の毒、というので、小さな大工仕事をお願いしたり、お子さんたちの学用品をプレゼントしたり、そんなことはしていたようだが、ごく少額のものだった。

信者さんたちもとてもいい方たちで、母は長老みたいな扱いをうけ、もともとが教職だったので、いい気分だったようだ。

我々子供もそれを知って、すっかり安心し、帰郷すると、牧師様やご家族に会い、親しくなっていった。

牧師様は数年ごとに変わられたけれど、どの牧師様とも親しくお付き合いをし、それかといって信者になるわけでもなかった。

母は今、その教会の共同墓所に眠っている。
菩提寺の墓には入らない、とずいぶん前に言われた。お寺さんにははいりたくない、というのだ。
ちょうど、教団の共同墓地が建てられ、その最初の獣人になった。

子供としては、ちょっと複雑だった。墓参に帰省する。菩提寺で父の、そして、母については、ちょっと遠くにある教会の共同墓所に行かねばならない。父と母が別々に眠っている、当時はそれがちょっと奇異に感じられたのだ。

もう母が亡くなって10数年が経過、牧師様たちとの交流も稀になってきた。
姉は名古屋へ、私は沖縄へ、母が親しくしていた牧師様に会いに行ったこともある。

母が心の平安を得て、命を全うできたことを感謝している。
宗教とはそんなものだと思う。
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