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宗教って何?(5)お盆

ようやく、8月のお盆が終わった。
といっても、何かしたわけではなく、7月の東京盆も、8月のお盆も、何もしない。

お盆というと、なんでこんなに故郷や家族のことが話題になるのだろう。
メディアでいろいろ取り上げるのを見ていると、居心地が悪い。

故郷といえば、自分の生まれた土地や、実家のあるところを言うのだろうか。
とうに親はなくなり、どちらかといえば、もし、子供でもいるのなら、私自身が住んでいるところが故郷(擬似)と言われるようなものなのだが、実子はいないし、住むところに墓もなく、ないない尽くしであれば、来る人もいない。

日本での宗教のあいまいさを実感するときでもある。
お盆に祖先が帰ってくる、これは土着の信仰なのだろうか、仏教の教義にあるのだろうか?

私は、その祖先の行き所にはなりきれない、ということで、亡くなった連れ合いの祭祀をしないと決めた。
つれあいもきっと困っているだろう、と思うが、彼は7月の東京盆に、東京にあるお墓、あるいは彼の長女か次女のところにある、お仏壇(彼と彼の先妻、先妻の先祖の位牌あり)に帰ってきているのかな?と思い、8月には、彼の実家のほうに挨拶に帰っているのだろうか?と考える。

基督教の信者として、どうもこの2つの盆の時期は、気持ちが落ち着かない。
きっと彼ひとり、ちょっと立ち寄るわけにはいかないだろうし、迎え火もなく、盆の支度もされてない、かえってきてもいいものか?と居場所のなさを感じるのだろうか?

お正月の時期によるべきところがない人は多い。きっとお盆の時期も同じだろうと思うが、なぜか、メディアは3年ぶりに会う家族のことばかりだ。

アメリカの復活祭や感謝祭の帰郷騒ぎと同じことだと思えばいいのだが、どちらが宗教色がより強いのだろう。

田舎(この表現もおかしいけれど)では、まだ昔のようなお盆が執り行われているのだろうか。

ウン十年前、お盆は夏休みのハイライトであった。
仏壇のまわりは飾り立てられていた、金の糸で詩集された飾り布が敷かれ、仏具は磨かれていて、周囲には盆提灯がいくつもともされている。
新盆のうちだと、親戚や知人たちが、かならずお参りに来てくださる。
また13日から16日の間に、菩提寺の住職様が、お経をあげに来てくださるのだが、そのときは、家族一同、かしこまってお経をきく。
とても小さな体だった祖母が、元気いっぱい、このお盆のときはリーダーとなって、万事を取り仕切る。
お供えの果物、お菓子、いらしてくださった方たちに供するお料理の残り、盆の終わりにそんな余得にあずかれるのが楽しみだった。

そこには宗教とかをいう前に、家族の行事であり、家のしきたりだった。

亡くなった連れ合い、先妻、その先祖という存在を背負いきれなくて、そして、仏教とキリスト教の信仰の在り方の違いを乗り越えきれなくて、それに後悔はないけれど、やっぱりお盆の時期は、心が重い。


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