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宗教って何?

旧統一教会のことが起きてから、とりわけ、宗教とは何か、という疑問が、これはずっと抱いてきた問題だけれど、特に胸の奥でうづいている。

小さいとき(幼稚園から小学校時代)、家の中には年寄が数人いて、毎日、お仏壇の前でご先祖様を拝むというのが習わしだった。
ご先祖様と仏様の区別もつかず、祖母のいう「なんまいだ、なんまいだ」をお金を数えているのか?と思い、「南無阿弥陀仏」の略した形とは思いもつかなかった。
信じる、信じないにかかわらず、お彼岸やお盆という際、お坊さんがきて、お経をあげてくれる、家族はそのとき、全員、後ろに控えて最後の南無阿弥陀仏を唱える、そんな行事は堅苦しいけれど、日常に変化をもたらすものだった。

中学生になったころ、同居の叔母と就職した長姉がルーテル教会に通い始め、日々というか、日曜日に変化が出たし、クリスマスというビッグなイヴェントがついてきた。
当時の生活からいけば、4月8日のお釈迦様の誕生日に甘茶をいただくより、12月24日にクリスマスキャロルをきいて、イヴのごちそうを食べるほうが、よほど、楽しく、精神が救済された。

ルーテル教会の牧師様がカナダ人で、ご夫妻で英語教室をしてくださる、というお誘いに、日曜日に朝起きをして、教会に通うのもいとわない、と、信仰とは別の目的で、教会通いが始まった。
当時、英語だってそう学んだわけではなかったけれど、教会のお説教で、キリスト教とはなんぞや、と知りえたことは何も残っていない。

カナダ人牧師様が離任されたり、高校生となって、学校生活が忙しくなったりで、にわかの、偽信者たることもあり、教会からは遠ざかった。
叔母や長姉もそんなものだったと思う。長姉は極めて伝統的な意識をもつ家の長男と縁談が調い、そこのお姑さんが、「耶蘇教の信者さんは。。。。。」といったとか言わないとか、そんなことで、教会にはいかなくなっていたし、そんな話を聞いた私も、旧家の長男に嫁ぐのだから、信仰なんて、捨てても当然でしょ、と思っていた。
信仰の自由など、たとえ憲法にあっても、田舎にはそんな条項はないに等しかった。

考えてみれば、幼稚園はなんとかマリア幼稚園という名前のついた、カトリック系の幼稚園であったけれど、そこで、なんらかの信仰の種をまかれたという記憶がない。
きっとクリスマスなどには、マリア様、ヨセフ様、そして東方の3博士、村人などが登場するキリスト生誕の劇などもやったのであろうが、まったく記憶にない。

信仰ということばも知らないような生活だった。
それに気づかされたのは、やはり、外国へ行ってからのことだ。
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