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ギグ・エコノミー

ヤフーで検索した。
それによると、「ギグ・エコノミー」とは、インターネットを通じて単発の仕事を請け負う働き方のこと。
ギグとは英語のスラングで、ライブハウスでの短いセッションや、クラブでの一度限りの演奏のことを言います。という。

現在、買い物、修理、運送、など、単発での仕事を請け負う形で一般化してきているという。
顕著な例が、UberEATやタクシーの変わりに重宝されている、あれは正式にはなんというのだろう、フランスではウーベールとだけ言っているけれど。

これもすべて情報化が進んだゆえに発生した労働形態なのだろう。
需要と供給、人を雇うほどの仕事量ではないが、人手は必要、というサイドが、そういった内容をインターネットにアップ、それに応じられる人がそれを請け負うという形で、仕事が成立だ。

いわゆるニッチな部分を、これまでは人づてや電話などで交渉して行っていたものを、今では端末でタイムラグなく実行できる便利なやり方だ。

だが、それにのれない者はネガティフな部分を探してしまう。
この頃取り上げられているUberEATで配達する人達の、事故でも保障がない、とか、競争激化で期待ほどの収入があげられない、といった問題もある。

パリで利用したウーベールは、すべて友人が手配してくれたのだったが、それはとても便利だった。タクシーよりきれいな車で、時間にはぴったり、支払いもすでに手配時に済んでいるので、現金のやりとりもしなくていい。
しかし、そういう操作をできない私としては、不便そのものでもある。タクシーの数は減り、流しというのがないので、タクシー乗り場を探さなければならない。

それに、何の仕事にしても、ある程度責任を要する仕事には、ライセンスを与えるという公共のしばりみたいなものがあるはずだ。それを考慮にいれなくて、簡単に頼んでいいものだろうか。

それに、こういった仕事が成立するのは都市部でのこと、田舎では需要も供給も、エコノミーと言えるほどには存在しない。

今、友人が来てくれるのを待っている。パソコンのメイルの部分に障害がある。もう10日も不便を忍びつつ、ようやく友人が来てくれることになった。
東京にいれば、こういうこともギグワーカーに頼めるのだろう。

便利になっているのはわかるけれど、なんだか???がまた増えた。
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Theyが単数でも使われることを知らなかった

先日の新聞で”驚愕”の記事を発見した。それは英語のtheyが単数でも使われるという事実を紹介した記事だった。

アメリカの辞書出版社メリアム・ウェブスターは年末に「今年の言葉」を選ぶのだが、今年は「they」を選んだというのである。
これだけなら、代名詞でふつうに使われるのに、なんで選ばれるの?と思うのだが、その理由が、”男女に関係ない中立的な言葉として、近年よく使われるようになったという。

つまり、男性の彼"he"や彼女"she"では表現できない性的少数者、nonbinaryの人のためにtheyが使われるようになったそうだ。
この場合、混乱するのは、一人であってもtheyであるが、動詞はareなど複数形のままという。

たとえばyouは単数でも複数でも使って、be動詞などareを使うわけだから、その例にならっていると思えばいいのだが、they=複数と思い込まされてきたロートルにとっては、なかなかついていけない表現だ。

これからの出版物などでは、theyとあったとき、その文脈を読み取って、単なる複数の表現なのか、ノンバイナリーの人が単数で表現されているのかを、判断しなければならない。

我が家の辞書はとても古い。50年以上前のものである。だから、theyをみても、この用法は載っていない。

そういえば、議長を著すチェアマンがチェアパーソンとなったり、いくつもの表現の変化があった。今はマンパワーはヒューマンリソースとなったり、マンホールも呼び方が変わるとか。

今は仕事としてはいないけれど、言葉にかかわった仕事をしてきた身には、こういった変化についていけないのがくやしい。
新語がでたり、表現がかわったり、チェック能力が劣っただけに、ついていくのが大変だ。
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便利=不便

AI音痴というのだろうか。機械音痴というのだろうか。あるいは携帯音痴というのだろうか。
日本国内でも端末を使いこなせず、毎日があたふたしている。

ショートメールという存在もなかなか使えなかった。今も返信のみで使っている。
いろんなアプリがはいっているらしいが、ほとんど使っていない。なんとかのアプリをダウンロードして、などと教えられても、ダウンロードがどうすればいいのかわからず、結局はなにもしない。

今、外国での使用に困っている。私の携帯のシムカードは外国で使用できないらしい。
あるとき、パリの空港でシムカードの交換スタンドをみつけ、フランス国内用のものに取り換えてもらおうとしたのだが、仕様がちがうのか、あちらのシムがはいらず、フランス仕様にはできなかった。

海外にしょっちゅう出かける友人によると、羽田なり成田で海外仕様の携帯を借りていくという方法をとっているらしい。
あるいは、パリならパリの空港で、フランス仕様の携帯を借りるという方法もあるという。

しかし、ビジネスで行くならともかく、プライヴェートで、必需品でもないのに、費用もかかるし、と今まで使ったことはない。

しかし、一度、パリに来た時であったか、はたまたギリシャに行ったときのことであったか、宿泊先のWIFIを使わせてもらったにもかかわらず、帰国後の請求書がすごい金額であった経験があって、それも避けたい。

昔はよかった。泊めてもらう家の固定電話を使わせてもらって、外部との連絡がとれたのだ。
そして外出中の連絡も、その固定電話で受けてもらって、伝言という形で交信はできた。

今、固定電話を持っている家庭は少ない。いろんな連絡は、その対象となる人の番号にかけることになる。
別の友人は言う。外国に行ったとき、家を出る時は電源オフ、そうしないと使わなくてもお金がかかるからね、と。それが本当かどうか、ギリシャでは、こちらからは何も使わなかったのに、日本からのメイルや受信があって、その結果が高い請求書になったことを思えば、友人の言う通り、電源オフにすべきなのかもしれない。
しかし、外で会う約束をしていたときとか、何かの不都合が起きた場合の連絡を取るとき、電源を切ったままというわけにもいかない。

こんなことでくだくだ考えるのも、この新しい機器を使いきれない音痴のせいである。

便利なものというのは、使えてこその便利さ。使えないものにとっては、不便そのものだ。
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相次ぐ訃報

12月にはいって、まだ1週間もたたないうちに2つの訃報に接した。
一つはフランスから、もう一つは東京からだ。

それでなくても、毎日の郵便のなかに、喪中欠礼のお知らせがあって、沈んだ気持ちになる中での訃報なのだ。

それに12月はつれあいが亡くなった月、毎日、気持ちのレベルが下がっていくのに、訃報というのはつらい。

フランスからの訃報は、つれあいと私が南仏にいたころの知人で、退官後の生活を南仏の田舎で過ごしていた方である。
夫人の連絡先(携帯の番号)は知っていたが、直接にお電話はしなかった。

どんな弔意の示し方がいいのだろう。迷いはある。お電話、lettre de condoleance、お花を贈る、考えるのだが、3年前の自分の立場で考える。
お電話で弔意を示され、残されたものへの励まし、とてもありがたいけれど、応対するのがつらかった。弔電、あるいは送られてくる供花、香典、弔問、しっかり応対せねば、と思いながら、一人にしておいて、という気持ちが強かった。

とてもとても内輪ですませた葬儀、家族葬は亡き夫も希望したことであったけれど、年を経れば、そして他の方たちのそれなりのご葬儀などを見聞きすると、亡き夫が本当はそんな葬儀をしてほしかったのではなかろうか、と後悔の念もでてくる。

フランスの知人は、外国在住のお子さんたちも列席し、村の人々も大勢参列してのご葬儀であったとか。

どんな葬儀をしようと、亡くなった当人は知りようがない。近しい人が心をこめればそれでいい、

昨年3月に亡くなったパリの父の葬儀を思い出す。彼は生きている間に、自分の葬儀について、花束などは必要ない、そのお金は慈善団体に寄付してほしい、と書き残していた。
その書付を、執行する立場の娘はきっちりと守った。
亡き父は、レジオンドヌール勲章も受賞した、経済界でも重きを置く人だったから、それなりの葬儀をしようとすれば大勢の参列者、たくさんの花に囲まれた葬儀となったはずだ。

しかし、いつも行く教会で、その教会での友人、学校時代の旧友、親族だけの、そして娘から固く言われて、花もなく、質素でひそやかな式だった。
参列した従妹や私は、せめて我々からの花くらいは、と文句を言ったものだが、娘はにべもなかった。
今にして、父の遺志を守った娘はえらかったとも思う。

フランスの葬儀には行かなかったし、東京にも行かない。

ある一定年齢になると、どういう葬儀にしてもらおうか、とそれを考えるようになる。つれあいのそれより以上にひそやかに、と思っている。


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